第22話: 余った袖
帳に入った言葉は、消せない。
消せないから、あとで改めるときは、下に書き足すしかない。前の言葉はそのまま残る。誰が読んでも、その人が一度は嘘をついたことが分かる。
だから帳を改める人は、ほとんどいない。
あの人は、六度ぶんの嘘の下に、一行を書き足そうとしていた。
「改める、と申したか」
白い髭の老当主が、杖の先を床から上げた。
「はい」
あの人は、片膝をついたまま答えた。左の腕は、まだ体のほうへ寄せていた。
書記が、羽根ペンを持ち直した。今朝からいちばん慎重な持ち方だった。
「申しなさい」
上座から、王太后陛下が言った。
あの人は、少しだけ顔を上げた。
「王弟殿下を刺したのは、私ではありません」
広間が、低くざわめいた。六度聞いた声が、今度は逆のことを言っている。
「あの晩、物音を聞いて殿下のお部屋へ参りました。刺した者は庭へ逃げました。追いましたが、見失いました」
声は平らだった。広間の端まで届くように張ってもいなかった。
「戻ったときには、殿下はもう息をしておられませんでした。床に置いたままにはできず、抱き起こしました。胸の血は、そのときのものです」
リネットは、自分の手を見ていた。
あの晩、その胸の血の上に、肩掛けをかけたのはこの手だ。
「そこへ、この仕立て師が衣装を届けに参りました」
「それで」
「逃がされました」
あの人は、それだけ言った。
「あとは、この者がさきほど申したとおりです」
老当主は、しばらく黙っていた。それから、杖をついて少し身を乗り出した。
「では、なぜ刺したと申した」
「この者が、台へ上げられると聞きました」
「それだけか」
「それだけです」
「見ず知らずの針子のために、首を差し出したと申すか」
あの人は、すぐには答えなかった。
リネットは、隣を見ないようにしていた。見たら、何かが崩れてしまう気がした。
「見ず知らずでは、ありません」
あの人が言った。
「春に、上着を頼みました」
少し間があった。
「……まだ、受け取っておりません」
老当主の白い眉が、ゆっくり持ち上がった。
その目が、あの人からリネットへ移った。
「仕立て師。そなたも、さきほど同じことを申したな」
「……はい」
「春に上着を頼みに来た、名前のない客だと」
「はい」
顔が熱くなった。耳の先まで熱かった。二十六家の前で同じことを言い合っていたなんて、言われるまで気づかなかった。
「では、こういうことか」
老当主は、杖を両手で握り直した。
「この男は、娘を台へ上げぬために刺したと申した。娘は、この男を逃がしたのを伏せるために誰も見なかったと申した」
広間は静かだった。
「互いに相手を台から降ろそうとして、別々の嘘をついておった。……三日もか」
誰も、答えなかった。
黒い列のどこかで、誰かが長く息を吐いた。
リネットは、帖面を胸に押しつけた。
三日のあいだ、牢の暗いところで何度も思った。わたくしのために嘘をついてくれる人なんて、いるはずがない、と。
いた。
しかもその人は、わたくしと同じ形の嘘を、反対側からついていた。
「口を合わせておるのではないか」
向かいの列の、さっきの若い当主とは別の誰かが言った。
「二人で示し合わせて、いまさら筋を作っておるのかもしれぬ」
「示し合わせる二人なら」
扉の側の壁ぎわで、マルゴさんが言った。
「三日も、ばらばらの嘘はつきませんわ」
畳みかけの青い上着を腕にかけたまま、マルゴさんは顎を上げていた。
「片方は、刺したの一点張り。片方は、見なかったの一点張り。どちらも、相手が助かる側の嘘ばかりです。……口を合わせるなら、もう少しうまくやります」
言った当主は、口を開いて、閉じた。
ロザさまが、リネットの後ろで小さく鼻をすすった。
上座で、扇の骨が鳴った。
「書記」
「は」
「今の申し立てを、帳に入れなさい」
陛下は閉じた扇を膝に置いたまま、書記を見た。
「この場で偽りを申した者は、二人。それは消しません」
「は」
「その下に、何のために偽ったかも書きなさい。いま、この場で申したとおりに」
書記の羽根ペンが、少し止まった。
「……名は、いかがいたしましょう」
「名のない者、と」
陛下の目が、一度だけ真ん中のあの人に落ちた。
「今は、そう書きなさい」
羽根ペンが動きだした。紙の上を走る音が、さっきより長く続いた。
リネットはその音を聞きながら、書き足される一行のことを考えた。六度の嘘の下に、一行。わたくしの一度の嘘の下にも、一行。
どちらの下にも、相手の名前は書かれない。それなのに、読めば誰のための嘘かは分かる。
「それから」
陛下は、扉のほうへ目をやった。
「庭の台に、布を掛け直させなさい」
扉の脇で、年かさの衛兵が背を伸ばした。今朝、リネットをここまで連れてきた人だ。
「は」
「裁きは、喪が明けてから改めます。それまで二人とも、私が預かります」
年かさの衛兵は、礼をして扉を出ていった。
十二年、こういう朝に何度も立ってきた人だった。決まる前に台の布が外されたのは初めてだと、今朝言っていた。
その人が、布を掛け直しに行く。
リネットは、帖面を抱えた腕から、少しだけ力を抜いた。
扉が、もう一度開いた。
さっき北の門へ走っていった衛兵の一人だった。息が上がっていて、すぐには声が出なかった。
「主席どのの、母御は」
老当主が訊いた。
「おいでになりました。厩の二階に」
衛兵は、一つ息を飲んだ。
「生きておいでです。腰が立たぬので、戸板でお運びしております」
マルゴさんは、何も言わなかった。
腕にかけていた青い上着を、両手で持ち直した。持ち直して、胸の前で抱えた。畳みかけのまま、もう畳もうとはしなかった。
「……そう」
それだけ言った。
しばらくしてから、もう一言だけ言った。
「冷めたものしか、出せなかったと言っていたわね」
「マルゴさん」
「帰ったら、何か温かいものを作らなきゃ」
誰に言ったのでもない声だった。リネットは、うなずいた。うなずいたのを、マルゴさんは見ていなかった。
壁ぎわでは、ベルントさまが衛兵に肩を押されて、扉のほうへ歩きだしていた。
通りすぎるとき、ベルントさまはマルゴさんの前で足を止めかけた。止めかけて、止まらなかった。父親につかまれた肩のまま、扉の向こうへ連れていかれた。
「名のない者」
陛下が言った。
「立てますか」
あの人は、右の手を床についた。
立ち上がろうとして、途中で止まった。借り着の左の袖の先から、赤いものが一筋、床に落ちた。
リネットの喉が鳴った。
膝をついたときに、塔で切られた傷が開いたのだ。今朝から、ずっと腕を体に寄せていた。寄せていなければならないほど、痛かったのだ。
「医師に見せなさい」
陛下は、リネットのほうを向いた。
「仕立て師。ついていきなさい」
「……わたくしが、でございますか」
「その袖」
陛下は、扇の先で、あの人の手もとに垂れた袖を指した。
「指の先まで余っています。見ていて、落ち着きません」
リネットは、ぽかんと口を開けた。
上座の方がそんなことをおっしゃるとは思わなかった。それから、あわてて頭を下げた。
「直します。……ちゃんと、直します」
医師の部屋は、廊下のいちばん手前にあった。
手前の寝台では、クルトさんが目を開けて天井を見ていた。奥の寝台には、顎から下を布で巻かれたニコさんが座っていた。
ニコさんは、入ってきたあの人を見るなり、片方の眉を上げた。それから、あの人の袖から落ちる赤いものを見て、眉を下げた。
医師は、あの人を真ん中の長椅子に座らせた。
借り着の上着を脱がせて、左腕の布をほどいた。新しい布を当てて、きつく巻き直した。そのあいだ、あの人は一度も声を出さなかった。額にだけ、汗が浮いていた。
「しばらく、腕を上げぬこと」
医師は言った。
「肩より上には、決して」
リネットは、思わず口を開いた。
「上がりませんわ。……その袖では」
医師が、怪訝な顔でリネットを見た。それから、長椅子にかけてある借り着の上着と、あの人の腕を見比べた。袖のほうが長く、指の先が半分しか出ていなかった。
「……なるほど」
医師は湯桶を抱えて、廊下へ出ていった。
日が傾いていた。医師の置いていった灯が、卓の上で一本だけ燃えていた。
リネットは、長椅子の端に腰を下ろした。
借り着の上着を膝に広げる。袖口を裏返すと、内側に、前に着ていた誰かの名札が縫いつけてあった。字がかすれて読めない。
道具箱は持ってきていない。けれど、針と糸なら、帯のあいだにいつも挟んである。
「……左を、伸ばしていただけますか。上げずに、前へ」
あの人は、黙って腕を前に出した。巻いたばかりの布の上から、手首のところを測る。
手首の骨のところで、指を止めた。
「ここまでです」
「何が」
「袖の長さです。あなたの」
手首から袖口まで、手のひらと、指の半分ぶんあった。
リネットは、折り返す位置に針を打った。左から始めた。傷のある側を先に軽くしたかった。
「……上着は」
あの人が言った。
「はい」
「今朝、着るはずだった」
リネットの針が、一瞬止まった。
塔で、ちゃんと縫えと言われた。借り着で立ちたくないと言われた。言われたのに、今朝あの人は借り着のまま大広間に立っていた。
「間に合いませんでした」
「そうか」
「……間に合わせませんでした。そちらが本当です」
あの人が、こちらを見た気配がした。
「ほどいてしまいましたの。袖付けも、脇も。春の数に、裁ち直しました」
「春の」
「ちゃんと召し上がってちゃんと眠っていただいたら、肩が戻ります。そのときの寸法です」
「いつだ」
「半年ほど、さきかしら」
あの人は、しばらく黙っていた。
「……半年、待たせる気か」
「はい」
「今の俺には、入らないんだな」
「入りません。今のあなたに合わせて縫ったら、あれは……」
言いかけて、やめた。
棺に入れる一着になる、とは言えなかった。今朝までは、そういう一着を縫っていたのだ。
「とにかく、入りませんの」
リネットは針を進めた。
「ですから、召し上がってください。毎日、三度。粥でも、なんでも」
「注文のうるさい仕立て屋だな」
「仕立て屋は、みんなうるさいものですわ」
奥の寝台で、何かがきしんだ。ニコさんが、布で巻かれた顎のまま、声の代わりに肩を揺らしていた。
左の袖が仕上がった。
糸を切って、右の袖を手に取る。窓の外が、少しずつ橙色になっていく。
「わたくし」
針を動かしながら、リネットは言った。
「台へ上がるつもりでしたのよ。……本当に」
「知ってる」
「あなたが膝をおつきにならなかったら、今ごろは庭に」
「知ってる」
あの人の声は、低かった。
「だから、ついた」
リネットは、顔を上げられなかった。
広間の真ん中で、一度も膝をつかなかった人だった。六度、刺したと申すあいだも、立っていた。その人が、わたくしが台へ上がると言ったら、膝をついた。
「……あの晩、お前が言ったやつ」
あの人が言った。
針が、布の上で止まった。
「あれ」
あの人は、少しだけ言葉を探すように黙った。
「そっくり、お前に返す」
それから、もっと低い声で言った。
「……生きていて、いい。お前も」
リネットは、動けなかった。
あの晩、血に濡れた手の上で、自分の口から出た言葉だった。塔で一字も違えずに言われた言葉だった。
それが、今度は自分のほうへ来た。
今朝、台へ上がると申し出たとき、死んでいいと思っていたわけではない。それでも、生きていていいとも思っていなかったのかもしれない。
そう思ったとたん、手もとがぼやけた。
布の上に、ぽたりと一つ落ちた。
「……針目が、曲がります」
「なら、泣くな」
「泣いても、糸は結べますもの」
リネットは、鼻をすすって針を進めようとした。
その手の上に、あの人の手が重なった。
「結べてない」
あの人が言った。
「針が、布に入ってない。指に入る」
見ると、針の先が、布をそれて自分の人差し指のほうを向いていた。
あの人の手は、大きくて、乾いていた。指の節に、小さな古い傷があった。血は、どこにもついていなかった。
あの晩とは、上と下が逆だった。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「では、なんと申し上げれば」
あの人は、少し考えた。
「縫え」
それだけ言って、手を離した。
リネットは、泣きながら笑ってしまった。笑ったら、また一つ、布に落ちた。
右の袖が仕上がるころ、灯の芯が一度じじ、と鳴った。
手前の寝台で、クルトさんが咳をした。
一度。それから、もう一度。
リネットは顔を上げた。
クルトさんは、天井を見たままだった。けれど、口の端がわずかに動いていた。塔の戸口で、次の鐘が近いと知らせるときの咳だった。寝たきりの人が、律儀に二度。
奥の寝台では、ニコさんが毛布を頭からかぶって、肩だけ震わせていた。
「……あいつら」
あの人が、低く言った。
リネットは、最後の糸を歯で切った。
「立っていただけますか。少しだけ」
あの人は、右手で長椅子の背をつかんで立った。リネットは借り着の上着を広げて、右の腕から通させた。左は、傷にさわらないよう、袖口を手でたぐって通した。
両手を下ろしてもらう。
袖口は、ちょうど手首の骨のところで止まった。
指の先は、もう隠れていなかった。
「……どうですか」
あの人は、自分の手を見た。手首を、ゆっくり返した。それから、ぎこちなく指を握って、開いた。
「軽い」
「袖を詰めただけですわ」
「そうか」
あの人は、もう一度、手首を返した。
「半年さきのは」
「職人街の、仕立て場の台に。広げたままです」
「なら」
あの人は、袖口を見たまま言った。
「取りに行く」
廊下の先で、衛兵が槍を持ち替える音がした。
リネットは針を帯のあいだに戻した。切った糸の端が、膝の上に二本残っていた。指の先ほどの、短い黒い糸だった。
それを拾って、手のひらに握った。
あの人の手首では、詰めたばかりの袖口が、ちょうどいいところで止まっていた。




