第21話: 空けておく一行
ほんとうのことは、嘘より声が小さい。
嘘は、口にするたびに声が育つ。あの人はこの三日で、同じ嘘を六度言った。六度目は、広間の端まで届く声だった。
リネットのほんとうのことは、まだ一度も声になったことがなかった。
正午の鐘は、まだ鳴っていた。
一つ目の音が高い窓を抜けて、次の音が追いかけてくる。書記の羽根ペンは、紙の上で浮いたままだった。どちらの声を書けばいいのか、誰も言ってくれない。
宰相オットマールは、鐘までに決めると言った。その鐘が、いま鳴っている。
リネットは、閉じた帖面を胸に押しつけていた。大広間の真ん中に立つあの人とは、三歩離れている。すぐ隣では、ロザさまがまだ膝をついていた。
鐘が、鳴り終わった。
「宰相」
上座から、王太后アデルハイト陛下の声がした。
「鐘が鳴りました。閉じますか」
オットマールは、すぐには答えなかった。
右の袖口を、左手で押さえた。押さえたまま、書記のほうを見た。
「……書け」
「は。どちらを」
「どちらもだ」
書記の手が止まった。
「仕立て師の分から書け。言いかけたところからでいい」
広間がざわめいた。
「宰相閣下」
真ん中で、あの人が言った。
「その娘の言うことは――」
「名のない者は、黙っておれ」
オットマールの声は低かった。
「そなたの申し立ては六度聞いた。帳にも入っておる」
あの人の口が閉じた。閉じたまま、こちらを向いた。
見ないでください、とリネットは思った。見られたら、続けられなくなる。
「続けよ、仕立て師」
オットマールが言った。二十六家の前で、この方がリネットの言葉を止めずに続けさせたのは、初めてだった。
リネットは、帖面の角を掌に食いこませた。
「あの晩」
声は、やっぱり小さかった。
「衣装の箱を抱えて、殿下のお部屋の前まで上がりました。中には殿下と、もうお一人がいらっしゃいました」
羽根ペンが動きだした。
「その方は床に座って、殿下を抱き起こしておいででした。お召し物の胸も腕も、血で濡れておりました。廊下の向こうから、足音が近づいてまいりました」
「わたくしは、その方を逃がしました」
「逃がした」
白い髭の老当主が、杖を握り直した。
「はい。肩掛けをお掛けして、背中を押しました。それから、わたくしだけがその場に残りました」
「……なぜだ」
「分かりません」
本当に、分からなかった。四日考えても、分からないままだった。
「刺した人には、見えませんでしたの。……殿下を落とさないように、抱いておいででしたから」
広間の誰も、何も言わなかった。
「御前で、あの晩は誰も見なかったと申しました。あれが、わたくしのいちばん大きな嘘でございます」
言ってしまった。
言ったあとで、足から力が抜けそうになった。隣で、ロザさまの左手がリネットの裾をつかんだ。
真ん中で、あの人は動かなかった。左の腕だけを、体のほうへもう少し寄せた。
「その者とは」
向かいの列から、若い当主が身を乗り出した。
「いま真ん中に立っている、その男か」
「……はい」
「何者だ。なぜ王弟殿下の部屋にいた」
リネットは、口を閉じた。
名前なら知っている。知っているから、言えなかった。
この人の名前を言えば、そのうしろに、もっと大きな名前がついてくる。上座のお二人が二十年かけて伏せてきた名前だ。六つの子が冠をかぶる前に、その名前がこの国を二つに割ってしまう。
「申しません」
「なに」
「この方のお名前は、申しません」
声が震えた。震えたまま、もう一度言った。
「わたくしにとっては、春に上着を頼みにいらした名前のないお客さまでございます」
「名を伏せる者の申し立てを、信じろと申すか」
「信じていただけなくても、申しません」
若い当主が、呆れたように笑いかけた。
上座で、扇の骨が鳴った。
「その者の素性は、私が預かります」
陛下の声は、少しも高くなかった。
「この場で問うことは許しません」
若い当主は、笑いかけた口のまま黙った。
リネットは、上座を見なかった。見たら、礼を言ってしまいそうだった。
「では、こういうことになる」
若い当主が、膝を打った。
「名のない男が殿下の部屋にいて、血まみれだった。針子がそれを逃がして、偽りを申した。……二人とも台へ上げれば、帳はきれいに閉じる」
黒い列のあちこちで、うなずく気配がした。
リネットの喉が鳴った。
ほんとうのことを言えば、あの人を助けられると思っていたわけではない。それでも二人ともと言われると、目の前が白くなった。
「閉じませんわ」
扉の側の壁ぎわで、声がした。
マルゴさんだった。朝から足もとに置いていた道具箱の蓋を開けている。当主の誰かの縫い目がほつれたら、その場で直すための箱だ。
「主席仕立て師が、また何を」
「さきほど、母がまだ帰らないと申しました」
マルゴさんは、箱の底から布の包みを取り出した。
「母のことは、こちらの方々が質してくださると伺いました。ですから、出します」
包みがほどかれた。
深い青の上着だった。胸のところに、暗く固まった色が広がっている。
何人かの当主が、腰を浮かせた。
「あの晩、殿下がお召しだった上着でございます」
マルゴさんは、それを両手で広げてみせた。指に巻いた布が、青の上で白かった。
「縫ったのは、わたくしです。前の日の昼に、布と寸法書きが届きました。一晩で縫え、と」
「それが、何だ」
「背と袖付けを、二寸詰めろと申しつけられました」
マルゴさんは上着の背を返して、縫い目を指でなぞった。
「二寸は、指三本ほどの幅です。これだけ詰めますと、腕が肩より上へ上がりません。……刃が来ても、顔を庇えない上着でございます」
誰も、口を開かなかった。
「縫い終えたら焼けと言われました。焼いておりません」
「なぜ焼かなかった」
老当主が訊いた。
マルゴさんは、ちらりとリネットを見た。すぐに、老当主へ目を戻した。
「理由は、いまだに分かりませんの。頭で考えても出てこないことが、わたくしにもあるようです」
それから、上着を畳みはじめた。手つきはいつもと同じに速かった。
「盗みに入った針子が、前の日の昼にこれを頼めますかしら。……あの晩の朝には、もう縫い上がっておりましたのよ」
「では、誰が頼んだ」
若い当主の声が、さっきより細くなっていた。
「お使いの方です。頭巾をかぶって、外套の胸に縫い取りを外した跡がございました」
「どこの家の」
マルゴさんの指が、畳みかけた上着の上で止まった。
「……それは、まだ申せません」
お母さまは、まだ帰っていない。言えば、帰らないかもしれない。リネットには、その指の止まり方が分かった。
「私が申す」
卓のそばで、オットマールが立ち上がっていた。
陛下は、扇を閉じたまま何も言わなかった。
「一昨日、私はこの娘に申した。名を言えば、申した者から先に死ぬと」
オットマールは、広間を端から端まで見た。
「だから、私が申す」
声を張ったのではなかった。それでも、いちばん奥の席まで届いた。
「王弟殿下を刺させたのは、北のフォルカー辺境伯だ」
広間が、割れるようにざわめいた。
何人もの目が、上座にいちばん近い空いた椅子へ飛んだ。今度は、誰もその目を戻さなかった。
「宰相。それを申せば、北の十一家が――」
「割れぬ」
オットマールは、相手が言い終える前に言った。
「ゆうべ、侍女の局に刃が入った。六つの殿下がおいでになった局だ」
ロザさまの左手が、リネットの裾を強く握った。
「子に刃を向けた家に、ついていく家はない。……私は三日、十一の家を数えておった。ゆうべで、数が変わった」
黒い列の中で、何人かの肩が動いた。動いたまま、誰も口を開かなかった。
「辺境伯は」
上座で、陛下が言った。
「朝から、東の控えの間においでです」
広間の声が、ぴたりと止んだ。
「病で広間には出られぬと、使いを寄越しました。控えの間までなら、出られるようです。……鐘が鳴って、帳が閉じるのを待っておいでなのでしょう」
陛下は、扇の先で扉を指した。
「これへ」
辺境伯は、すぐには来なかった。
待つあいだ、広間では誰も喋らなかった。壁ぎわで、ベルントさまが借り着の肩を引っぱっていた。衛兵に挟まれたまま、何度も、何度も。
扉が開いた。
大きな人だった。肩の幅が、戸口の半分ほどもある。黒い喪の衣の上に、厚い羊毛の外套を重ねていた。
その人が一歩入ってきたとき、リネットの膝がひとりでに震えた。
匂いだった。洗う前の羊毛の、脂の匂い。ゆうべ侍女の局に踏み込んできた男たちの外套と、同じ匂いだった。
ロザさまが裾を握ったまま、少しだけ身を寄せてきた。
「陛下」
辺境伯は、上座へ形ばかりの礼をした。
「病の身を押してまいりました。鐘が鳴りましたので、帳が閉じたものかと」
「閉じておりません」
「それは、なぜです」
「そなたの名が、いま出たからです」
辺境伯は、ゆっくり顔を上げた。
その目が、卓のオットマールを見た。次に、真ん中のリネットを見た。最後に、マルゴさんの手の上の青い上着を見た。
「針子と、女の仕立て師と、宰相の気の迷い」
辺境伯は笑った。
「それで、辺境伯家を裁かれますか。古着一枚で」
「古着ではございません」
マルゴさんが言った。
「誰に向かって口をきいている」
大きな声だった。広間の高い天井で、その声が一度跳ね返った。
「倅も申したそうですな」
辺境伯は、壁ぎわを見もせずに言った。
「父上がそう申せと、と。あれは昔から、言われたことをそのまま口にする。何を吹きこまれたか知りませんが、家は関わりございません」
壁ぎわで、ベルントさまの手が止まった。
家は、関わりございません。三日前の御前で、ベルントさまが早口で言った言葉と同じだった。
「……父上」
ベルントさまの声は、かすれていた。
「父上が、申せと」
「黙っておれ」
「灯を落とせと申したのも、父上です。北の回廊で待てと。針子が出てきたら、それを申せと」
「ベルント」
「私は、そのとおりにいたしました」
ベルントさまの目から、涙がこぼれた。
「そのとおりにしたのに、なぜ関わりないとおっしゃるのですか」
辺境伯は、息子を見なかった。
見ないまま、上座へ向き直った。
「倅は乱心しております。下がらせても――」
「主席どの」
ベルントさまが、急にマルゴさんのほうを向いた。
「知るものかと申したのは、嘘だ。母御は、北の門の外だ。うちの厩の、二階にいる」
マルゴさんの手から、畳みかけた上着の袖が一度すべり落ちた。
「……飯は、出させていた。冷めたものしか、出せなかったが」
「人をやれ」
老当主が、杖で床を打った。
壁ぎわの衛兵が二人、扉の外へ走っていった。
マルゴさんは、すべり落ちた袖を拾った。拾って、また畳んだ。さっきより、ずっと遅い手だった。
辺境伯の顔から、色が引いた。
大股で一歩、壁ぎわへ踏み出した。息子の肩をつかもうとした手を、衛兵の槍の柄が止めた。止められた指が、ベルントさまの上着の肩をつかんだ。
余っていた布が、その手の中でぴんと張った。
リネットは、その張り方を見てしまった。
ベルントさまの上着は、もっと肩幅のある人の型で裁ってあった。御前で初めて見た朝から、誰の型なのだろうと思っていた。
いま、その型の持ち主が、布の端をつかんでいた。
「辺境伯を、預かりなさい」
陛下が言った。
衛兵が、辺境伯の両腕を取った。
「北が黙っておらぬぞ」
辺境伯は、腕を取られたまま列を振り返った。
「十一家だ。十一家が――」
誰も立たなかった。
黒い列のどこかで、椅子がきしんだ。それきりだった。立ちかけた人も、座り直した。
向かいの列の若い当主は、膝の上で両手を握り合わせていた。顔が、紙のように白かった。
「どうなされた」
老当主が、そちらを見た。
「家の名のついた首と、そうでない首がある。そう申しておったな」
若い当主は答えなかった。唇だけが動いて、声にはならなかった。
「今日どちらの首が落ちるか、よく見ておかれよ」
若い当主は、目を伏せた。伏せた先に、自分の膝を包む黒の裾があった。今朝この広間で、針子でしょうと言って笑った人が着ている黒だった。縫ったのは、主席の仕立て師だ。
辺境伯が、引きずられていく。
扉の手前で一度だけ足を踏ん張って、振り返った。上座にいちばん近い、空いた椅子のほうだった。座るつもりで、朝から空けさせていたのかもしれない。
誰も、その椅子を見なかった。
扉が閉まった。
リネットは、自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。吐いたら、膝が折れた。床に両手をついた。ロザさまが、その手の上から自分の左手を重ねてくれた。
溜飲が下がる、という言葉を、おばあさまから聞いたことがある。
下がらなかった。
壁ぎわで、ベルントさまが衛兵に挟まれたまま立っていた。父親につかまれたところが、皺になって残っている。ベルントさまはそれを伸ばそうとして、やめた。
あの皺なら、霧を吹いて当て布をすれば取れる。
こんなときにそう思ってしまう自分が、少し情けなかった。
卓のほうで、小さな音がした。
オットマールが、宰相の印を帳の上に置いた音だった。
「書記」
「は」
「これも入れろ」
懐から、紙が二枚出てきた。どちらも二つに折ってある。一枚は、折り目が毛羽立っていた。
「私が帳に入れなかった申し立てだ。三度ぶん、握り潰した」
書記の手が震えた。
「伏せたのは私だ。この娘を台へ上げようとしたのも、私だ」
オットマールは、帳の上の印から手を離した。
「私の名を書け。宰相、オットマール・レーヴェ」
「宰相」
陛下が言った。それから少し間を置いて、言い直した。
「……オットマール。そなたの身柄は、私が預かります」
「御意」
それだけだった。
衛兵の一人が腕を取ろうとして、途中で手を止めた。オットマールは、自分の足で卓を離れた。
真ん中を通って、扉へ向かってくる。
リネットのそばで、足が止まった。
床に手をついたままのリネットの目の高さに、右の袖口があった。夜明け前にリネットが入れた黒い当て布が、引きつれずにそこにあった。
「仕立て師」
「……はい」
「これは、まだ持つか」
オットマールは、袖口を少しだけ上げてみせた。
リネットは、見上げた。
「持ちます」
声が詰まった。
「あと十年は、持たせます。……ほつれたら、わたくしが直しに参ります。どちらにいらしても」
オットマールは、何も言わなかった。
袖口を下ろした。下ろした左手が右の袖口を押さえかけて、押さえずに離れた。
「閣下」
リネットは言った。
「あの一行は、空けたままにしておきます」
オットマールの目が、少しだけ動いた。
お師匠さまの采寸帖の、名前も代金もない一行のことだった。二十年前、この方が担いだ棺に入っていた、五つの子の上着の寸法だ。焼けと言われて、焼かなかった。名前を書こうとして、書けなかった。
これからも、書かない。
「閣下が守ろうとなさったものは」
リネットは、息を吸った。
「わたくしが、結び直します」
オットマールは、しばらくリネットを見下ろしていた。
「……針子が、大きく出たな」
口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのだと、リネットが気づいたときには、もう扉のほうへ歩いていた。
扉が開いて、閉じた。
リネットは、床から膝を起こした。それから、閉じた扉に向かって、深く頭を下げた。
喪の礼だった。三年前、お師匠さまの棺を送った朝に下げたのと、同じ深さの礼だ。
黒い列の中で、誰かが身じろぎした。
生きている人に下げる礼ではない。分かっていた。それでも、ほかの下げ方が分からなかった。
顔を上げると、陛下がこちらを見ていた。
「仕立て師」
「……はい」
「帳には、まだ二つが残っています」
陛下は、閉じた扇を膝に置いた。
「この場で偽りを申した者が、二人。……宰相は昨日、二十六家の前で刺したと申した者は真でも偽りでも生きては帰れぬと申しました」
老当主が、杖の先に目を落とした。誰も、何も言わなかった。
辺境伯が連れていかれても、宰相閣下が出ていかれても、それだけは残っている。あの人は六度、刺したと申した。リネットは一度、誰も見なかったと申した。
リネットは、立ち上がった。
三歩ぶん、前へ出た。あの人のすぐ横だった。今朝からずっと、足が出なかった場所だ。
「陛下」
声が、また小さくなった。
「あの方の嘘は、わたくしの嘘から出たものでございます」
隣で、あの人がこちらを向いた気配がした。
「わたくしがあの晩のことを黙っていなければ、あの方は名乗り出ずに済みました」
「ですから、台へはわたくしが上がります」
「おい」
すぐ横で、あの人が言った。
リネットは、そちらを見なかった。
「あの方は、生かしてくださいまし。お名前は、ないままで構いません」
「おい、やめろ」
「こわいです」
リネットは、陛下を見たまま言った。
「こわくて、さっきからずっと足が震えております。……でも、決めました」
広間は静かだった。書記の羽根ペンが、リネットの言葉を追いかけてくる音だけがした。
陛下は、何も言わなかった。リネットを見て、それから、隣のあの人を見た。
衣ずれの音がした。
隣で、あの人が膝をついていた。
真ん中に立たされてから、一度も膝をつかなかった人だった。切られた左の腕をかばいながら、ゆっくりと床に片膝を下ろした。余った袖の先が、リネットの靴のそばに落ちた。
「陛下」
あの人は、顔を上げた。
「申し立てを、改めます」




