第20話: 誰が、誰のために
城には帳がある。仕立て師には帖面がある。
帳には、宰相閣下が書き取れと命じたことだけが入る。帖面には、誰にも頼まれなかったことが入る。袖の継ぎの位置や、裾を下ろした回数や、誰がどこをなぜ直したか。
四日目の朝、リネットはその帖面を、二十六家の前で開くことになった。
開くつもりで来たのではない。ほかに持っているものが、何もなかっただけだ。
王太后アデルハイト陛下の「前へ」で一歩出た足を、リネットはそのまま運んだ。
列の外の端から、大広間の真ん中まで。二十六家の当主が並ぶ椅子のあいだを、まっすぐに歩いた。黒い喪の衣が左右に二列、動かずにこちらを見ていた。
帳にある名は二つ。咎人の仕立て師リネットと、自分が刺したと名乗り出た名のない男だ。正午の鐘までにどちらかに決まり、決まったほうが庭の白い台へ上がる。台の布は、もう外されている。
名乗り出たあの人のほうは、真でも偽りでも助からない。二十六家の前で刺したと申した者は、生きては帰れないのだ。
真ん中に、その人が立っていた。
袖の余った借り着のままだった。リネットは三歩手前で止まった。それより近くへは、足が出なかった。
「申せ」
宰相オットマールが言った。
それから、書記のほうへ顎を引いた。
「書き取れ。一言一句、違えるな」
羽根ペンが、紙の上に下りた。
リネットの舌が、上顎に張りついた。
牢から初めて引き出されたあの昼、この方はリネットの言葉を一つも書き取らせなかった。次の朝ベルントさまが一言一句と言ったとき、自分の言葉は同じ扱いですらないのだと、冷たい床を見ながら思った。
その筆が、いま自分の口を待っている。
「あの……わたくし」
声は出た。出たあとが続かなかった。
あの晩のことを、順に申し上げなければならない。分かっているのに、頭の中で順がばらばらになる。衣装の箱と暗い廊下と肩掛けと、羊の匂いと塔の蝋燭が、ぜんぶ同じ高さに並んでしまう。
今ごろ職人街では、ドリスがおばあさまの枕もとで下手な針の音を立てているはずだった。その音を思ったら、少しだけ息が吸えた。
「ごめんなさい。口で申しますと、前と後ろが入れ替わります」
向かいの列で、誰かが笑った。
「では、何を申しに出た」
「……書いたものなら、ございます」
リネットは懐に手を入れた。
革の表紙が、体温でぬるくなっていた。綴じ紐はもう二度替わっている。お師匠さまが四十年、リネットが三年書いてきた采寸帖だった。
「それは、帳ではない」
オットマールが言った。
「はい。……帳に入らなかったものを書いた帖面でございます」
「針子の手習い帳か」
向かいの列の若い当主だった。さっき、針子でしょうと言った人だ。
「片や名のない男、片や針子。今度は帖面の朗読ですか。正午が来てしまいますよ」
「読ませればよかろう」
白い髭の老当主が、杖を鳴らした。
「聞いたことを無かったことにすれば、我らの罪だ。昨日も申した」
「……読みなさい」
上座から、王太后陛下の声が落ちてきた。
リネットは帖面を開いた。
開いたところに、数が並んでいた。
「桶屋のヨナスさん。胸まわり三尺二寸。袖丈が――」
読んでから、口が止まった。
広間のあちこちで、咳払いのような笑いが起きた。
「……ごめんなさい。ちがいました。ここは数の欄でございます」
耳まで熱くなった。数の欄は、いまでも間違える。この朝くらいは間違えなくてもいいのに、と思った。
「桶屋の胸まわりか」老当主が髭を撫でた。「それも、帳には入らぬな」
「はい。……入りません」
リネットは頁を繰った。
いちばん幅の広い欄まで来て、指を止めた。
「ここは、繕いの癖の欄でございます」
声が、少しだけ落ち着いた。説明なら、口が覚えている。
「誰がどこを、なぜ直したかを書いておくところです。この三日、わたくしは人の服ばかり見ておりました。見たものを、ここに書きました。……布と体のことだけでございます」
「名は」
オットマールが訊いた。
「この欄には、書いておりません」
「なぜだ」
「書けば、誰かが死にますので」
宰相閣下の左手が、右の袖口へ行った。夜明け前にリネットが当て布を入れた、あの袖口だった。
口はその場で人を殺す。書いたものは、開かねば殺さぬ。夜明け前のあの小部屋で、この方はそうおっしゃった。
「ですから、読むのは一行だけにいたします」
リネットは、帖面の上で指を一行ぶん滑らせた。
「書いてくださいと、頼まれた行だけ」
リネットは読んだ。
「六つの子の黒い上着。襟の裏を、太い糸で急いで折り返してあった」
広間は静かだった。羽根ペンの音だけがついてきた。
「縫った方は、下手だったと書いてくれとおっしゃった」
そこで息を継いだ。
「針目は、まっすぐでございました。急いだ手で、そこまでまっすぐには縫えません」
読み終えた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……それだけか」
若い当主が言った。
「襟の話か。それが王弟殿下の一件と、何の――」
「わたしでございます」
壁ぎわから声がした。
証人の並ぶあたりで、ロザさまが前へ出ていた。
出てきながら、前掛けのかくしから左手を抜いた。
この三日、その手が出たのを、リネットは一度しか見ていない。ゆうべ、頭巾の男たちが侍女の局へ踏み込んできたときだ。あのとき出た手は、まっすぐ六つの子を抱いた。
その手が、いま二度目に出た。
「その襟を縫ったのは、わたしでございます」ロザさまは言った。「下手だと書いてくださいと、申しましたのに」
「……申し訳ございません」
「謝らないでくださいまし」
ロザさまは真ん中まで来て、リネットの隣で膝をついた。
「宰相さま。申し立てを、改めます」
「改めれば、帳に入るぞ」
「入れてくださいまし」
ロザさまの声は、少しも落ちていなかった。三日前、局で聞いた声とは違った。あのときは、声を落とすことばかり考えている声だった。
「あの晩、わたしはお部屋の前に控えてはおりませんでした」
広間の音が、いっぺんに止まった。
「宵の口に殿下がお呼びになる声を聞いたと申しました。聞いておりません。……殿下はもう、声を張れるお喉ではございませんでした。お手もとに銀の鈴を置いて、それで人をお呼びでした」
喉を痛めた方の広げ直した襟と、蜂蜜の湯と、握り込まれて柄の曇った鈴。三日前に局で見たものが、リネットの目の奥で一つずつ並んだ。
「ですから、あの廊下を通ったのが針子ひとりだったかどうかは存じません」
「偽りを申したと、自ら申すか」
オットマールの声は低かった。
「はい」ロザさまは顔を上げた。「訊かれたことしか申しませんと、二日前に、この仕立て師さんへ申しました。今日は、訊かれる前に申します」
「では、そなたは誰を庇った」
若い当主が、身を乗り出した。
「侍女が偽りまで申して、消したい者がいたのだろう。誰だ」
ロザさまは答えなかった。
答えないまま、上座を見た。
王太后陛下が、扇を閉じていた。
「訊きません」
陛下は言った。
「……その者の襟は、もう当たらぬのでしょう」
「はい」ロザさまの肩が、そこで一度だけ揺れた。「やわらかい布が、一枚入っております」
二十六家は、何の話か分からない顔をしていた。
リネットには分かった。あの布を入れたのは自分だった。局の床に座って、首の柔らかいところに当たる場所にだけ、余った黒を一枚。
ロザさまの左手は、膝の上に出たままだった。前掛けのかくしへは、もう戻らなかった。
「侍女が翻した」
若い当主が、膝を打った。
「ならば、その帖面の続きを読め。ほかの申し立ても、どうせ同じだろう」
リネットは、帖面を胸に引き寄せた。
「……読めません」
「なぜだ」
「名前の出る行が、ございます」
「名は書いていないと申したぞ」
「書いておりません。でも、読めば分かってしまう方がいらっしゃいます」
若い当主は、鼻で笑った。
「では、何のために出てきた。針子ひとりで、帳を閉じる場を乱しに来たのか」
答えられなかった。
そのとおりだったからだ。何のためなのか、自分にもまだ分からない。分からないまま、足が一歩出てしまっただけだった。
「読めない行のひとつは、わたくしの行でございます」
すぐ脇の壁ぎわから声がした。
マルゴさんだった。壁ぎわを離れて、黒い裾を引いて歩いてくる。指に巻いた布が、灯の下で白かった。
「主席仕立て師が、何を」
「書記どの」
マルゴさんは、若い当主のほうを見もしなかった。
「さきほど名だけ読まれた、わたくしの書付。中の終いの一行が、空いておりましょう」
書記が、紙をめくった。
「……空いております」
「わたくしが空けました」
「なぜだ」
オットマールが訊いた。訊きながら、答えはもう知っている顔だった。
「母が、まだ帰ってまいりませんので」
広間が、ざわりとした。
「母がどうした」
老当主が言った。
「預かると言われました。三日たったら返すと」マルゴさんは、ほとんど抑揚のない声で言った。「その三日目は、昨日でございました」
「誰が、そのようなことを」
「申しません。申せば、母は帰りません」
「では、そなたは何を申しに出てきた」
「わたくしは、この娘に死んでほしいのです」
リネットの膝が、勝手に揺れた。
「この娘が台へ上がれば、母が帰ってくるそうですので」
黒い列の中で、誰も口を開かなかった。
何人かの目が、上座のほうへ動いた。上座にいちばん近い椅子だった。今日も空いたままの椅子だ。
誰も、それを口にしなかった。目だけがそこへ集まって、またばらばらに散った。
「二十六家が、いま聞きました」
マルゴさんは言った。
「これで母が帰ってこなければ、どなたかがお困りになるでしょう。……わたくしは頭で考えますの。いつもそう」
「……聞いた」
老当主が、杖の先を床に据えた。
「母御の行方は、この場が済みしだい、我らが質す」
マルゴさんは、そちらへ小さく頭を下げた。指に巻いた布の端を、親指で一度だけ押さえた。
リネットは、その横顔を見た。
手柄を渡した朝のことを思い出した。手間賃はそこに置いておくと言って、この方はひとことだけ付け足した。
――足りる?
「マルゴさん」
マルゴさんは、もう壁ぎわへ戻りかけていた。足は止めずに、肩ごしにこちらを見た。
「あの朝のぶんよ。……足りる?」
「でたらめだ」
壁ぎわで、声が裏返った。
ベルントさまだった。衛兵に挟まれたまま、身を乗り出していた。
「主席の母親など、知るものか。父上は……父上は、今朝は病で」
「誰も、そなたの父上の話はしておらぬ」
老当主が、静かに言った。
ベルントさまの口が、開いたまま止まった。
関わりがあるとはまだ誰も、と王太后陛下に言われたあの朝も、この方の返事はずいぶん早かった。
ベルントさまは何か言いかけて、やめた。
それから空いている手で、借り着の肩を引っぱった。一度、二度。合わない上着を、体のほうへ合わせようとするように。
御前で初めて見た朝も、この方の上着は肩が余っていた。仕立てはよかった。ただ、もっと肩幅のある人の型で、そのまま裁ってあった。
ベルントさまの目が、空いた椅子のほうを探した。見つける前に、床へ落ちた。
肩を引っぱる手だけが、まだ止まらなかった。
リネットは、目をそらさなかった。そらすのは失礼だと思った。
「宰相」
若い当主の声が、今度は卓のほうへ向いた。
「侍女は翻した。主席仕立て師は、母を預けられたと申す。嫡子の申し立ては、とうに外れている。……それでもなお、正午に閉じるおつもりか」
「閉じる」
オットマールは即答した。
広間が、どよめいた。
「この期に及んで」
「伏せたものは、ある」
宰相閣下は、どよめきの上から言った。声を張ったのではなかった。それでも端まで届いた。
「伏せたのは私だ。私の一存で伏せた」
「なぜだ」
老当主が訊いた。
「六つの子に、割れた国は持てぬ」
黒い列の中で、何人かが身じろぎした。
火の入っていない執務室で、数を隠さずに聞かせてくれた言葉だった。今日はその数の上に座っている人たちの前で、同じことを言った。
「割れる前に閉じる。それが私の役目だ」
「では、この針子を台に上げてか」
「そうだ」
宰相閣下は、こちらを見なかった。
リネットは帖面を胸に抱えたまま、その横顔を見ていた。
「宰相閣下は」
口が、勝手に開いた。
「三日のあいだ、わたくしに灯のある側を歩かせてくださいました」
何人かの当主が、怪訝な顔をした。
宰相閣下の左手が、右の袖口を押さえた。三十年、同じところに継ぎを当ててきた袖だ。
「……余計なことを申すな」
低い声だった。三日前の朝、余計なものまで見ぬことだとおっしゃったときと、同じ高さの声だった。
袖口を押さえた指は、言い終えても離れなかった。
上座で、扇の骨が鳴った。
「仕立て師」
王太后陛下だった。
「そなたに猶予をやった日のことを、覚えていますか」
「……はい」
「なぜ三日ももらえたのか分からぬ。そういう顔をしていました」
「……はい」
「その翌朝、私はそなたのためではないと申しました」
「伺いました」
「そのとおりです」
陛下は、閉じた扇を膝の上に置いた。
「あの日の夜明け前に、刺したのは自分だと名乗り出た者がおりました。片方の首を先に落とせば、もう片方は取り返しがつかぬ」
広間がまた、ざわめいた。
「三日は、そちらのためでした」
リネットは、帖面を持つ指に力を入れた。
石の牢で、何度も考えた。なぜ三日も、と。
「私は一度、間に合わなかったことがあります」
陛下は、誰に言うともなく言った。
「二度目は、間に合わせたかったのです」
二十六家は、また何の話か分からない顔をしていた。
リネットは、あの私室のことを思い出していた。書記も帳もない部屋で、この方は火のほうを見ながら言った。二十年前に、あの子を死んだことにしました。決めたのは私です、と。
陛下の目が、真ん中へ動いた。
昨日この広間で、二十六家はみんなあの人の顔を見た。いちばん上のお二人だけが、一度も見なかった。
その一人が、いま、まっすぐあの人を見ていた。
あの人は、目を伏せなかった。伏せないまま、左の腕を体のほうへ寄せた。塔で切られた腕だった。
「では、残る名は一つですな」
若い当主が言った。
「侍女の申し立ても、主席の書付も、嫡子の申し立ても外れた。針子を台へ上げる理由は、もう帳に残っておりますまい」
リネットの息が止まった。
「名のない者」
老当主が、真ん中を見た。
「聞いておったな。そなたは、それでも刺したと申すか」
「申します」
六度目だった。
声は、少しも揺れていなかった。
「刺したのは私です。あの娘は、関わりありません」
その人の口の端が、ほんの少し動いた。
今朝、扉から入ってきたときと同じ動き方だった。あのときは、笑ったのかどうか分からなかった。
それから、余った袖の中で、腕の力がひとつ抜けた。
リネットの指が、帖面の綴じ紐をつかんだ。
「仕立て師」
老当主が、こちらを向いた。
「そなたは結局、刺した者の名を申しに出てきたのではないのか」
広間じゅうの目が来た。
羽根ペンが、紙の上で止まって待っていた。
リネットは、首を横に振った。
「わたくし、犯人を捜していたのではありませんの」
声が震えた。震えたまま、出た。
「……誰が誰をこんなにも庇ったのかを、辿っていただけですわ」
広間は、しんとしていた。
高い窓から落ちる光が、床の目地を一本ぶん進んでいた。
「この三日、わたくしの家には、数えきれないものが置いてございました」
リネットは言った。帖面は開かなかった。そこには書いていないことだった。
「数えたものは、もう、ご本人に申し上げました。ここでは申しません」
真ん中の人の肩が、動いた。
「どなたが置いてくださったのか、わたくしは申しません」
リネットは、その人を見なかった。見たら、続けられなくなる。
「申せば、その方がお困りになりますので」
老当主が、真ん中の男を見た。
それから、もう一度リネットを見た。
「名を名乗らぬ者が、この件にはもう一人おるようだな」
誰も、答えなかった。
あの人も、答えなかった。
答えない人の背中が、こちらへ少しだけ寄っていた。
采寸をしていると、そういう向きは分かってしまう。
春の終わりの仕事場で、布を合わせようと背に手を回したら、この人の体は一度こわばった。痛く、ありませんでしたかと訊いた。気づくんだな、そういうのに、と言われた。
ゆうべ北の塔でも、同じところでこわばった。同じことを訊いた。お前はそれを毎回訊くのか、と言われた。
人に触られ慣れていない背は、手が来るたびに、そこで一度止まる。
いま、この背には誰の手も回っていなかった。
それなのに、こちらへ寄っていた。
リネットの指が、帖面の上で動きかけた。痛くありませんか、と訊きたくなった。
訊かなかった。
今日の背は、こわばっていなかった。
リネットは、帖面を閉じた。
これまでについてきた嘘は、どれも同じところから出ていた。あの晩、血に濡れた手に自分の手を重ねて、肩掛けをかけて、背中を押した。あの夜のところからだ。
「宰相閣下」
「……申せ」
「申し立てたいことが、もうひとつございます」
声が、さっきよりずっと小さくなった。
「……あの晩のことで、いちばん大きな嘘をついたのは、わたくしでございます」
オットマールが、顔を上げた。
真ん中で、あの人がこちらを向いた。
「言うな」
はっきりと、声だった。
リネットは、その目を見た。
あの晩、松明の光の手前で見た目だった。ここで捕まればすべてが終わると分かっていて、それでも動かなかった目だ。
今度は、口を開く。
閉じた帖面の角が、掌に食いこんだ。
「あの晩、わたくしは――」
「刺したのは、私だ」
あの人が、声を張った。
はじめて聞く大きさの声だった。わたくしの言葉の上に、自分の言葉をかぶせようとする声だった。
二つの声が、同じ息で広間に落ちた。
どちらも、相手の言葉を消そうとしていた。
二十六の顔が、真ん中の二人を見比べた。書記の羽根ペンが、どちらを追えばいいのか分からずに、紙の上で止まった。
高い窓の外で、正午の鐘がひとつ鳴った。




