第19話: 扉のそばから、一歩
裁きの場というのは、采寸の台に似ている。
台に乗せられた人は、動いてはいけない。腕を上げろと言われれば上げて、下ろせと言われれば下ろす。測る側だけが、好きなように見て、好きなように数を書く。
その朝、リネットは測られる側の、いちばん端に立っていた。
四日目の朝である。王城の大広間に、諸侯が集まってくる。この国でいちばん大きな、二十六の家の当主たちだ。
四日前の晩、戴冠式の前の晩に、王弟ジョス殿下が刺し殺された。衣装を届けに上がったのがリネットだったから、刺したのもリネットにされた。今日まで、三日の猶予をもらってきた。
今日、その帳が閉じる。城の正式な書きつけが閉じて、刺した者が決まる。決まった者は、庭に組まれたあの白い板の台へ上がる。
立たされたのは、扉のすぐそばの床だった。
きのうと同じ場所だ。上座に王太后アデルハイト陛下の椅子。その斜め前の卓に、宰相オットマール閣下。諸侯の椅子は左右に二列で、真ん中の床だけが空けてある。
咎人は、列の外の端に立つ。みんなに見えるところに立たせるのだと、ニコが教えてくれた。
そのニコは、今朝は医師の部屋で寝かされている。顎から下を布で巻かれて、声が出ない。クルトさんは目を開けたけれど、まだ喋らない。
扉の脇には、さっき「行け」と言った年かさの衛兵が立っていた。クルトさんの代わりに付いた人で、名前はまだ伺えていない。
「あの、衛兵さま」
「なんだ」
「わたくし、ここに立っていればよろしいのでしょうか」
「呼ばれるまでな」
「呼ばれなかったら」
「呼ばれる」衛兵は前を向いたまま言った。「呼ばれなかった咎人を、俺は見たことがない」
「呼ばれたら、どうすればよろしいのでしょう」
「返事をしろ。それだけだ」
慰めてくれたのか、脅されたのか、よく分からなかった。
「衛兵さまは、こういう朝に何度も立っておいでですの」
「十二年だ」
「十二年も」
「呼ばれた咎人がそのあと何を言ったかは、ひとつも覚えておらん」衛兵は言った。「覚えていたら、この仕事は続かん」
リネットは、自分の靴の先を見た。
覚えていてほしいとも、忘れてほしいとも思わなかった。ただ、この人は今日のことも忘れるのだろうと思った。
当主たちが、一人ずつ入ってくる。
黒い喪の衣が、二列ぶん並んでいった。
リネットの目は、勝手に裾へ行った。人の着ているものを見ると、目が先に縫い目へ行く。こんな朝でも、それは止まらなかった。
どの裾も、止めの糸が三度返してあった。ふつうは二度だ。針目が、どれもわずかに右へ傾いている。左手で布を送る人の癖だ。
二十六着ぶん、同じ手だった。
「見ないでちょうだい」
隣で、低い声がした。
「マルゴさん」
いつのまにか、マルゴが扉の側の壁ぎわに立っていた。主席の仕立て師は、こういう場では端に控える。当主の誰かの縫い目がほつれたら、その場で直すためだ。
目の下が、ゆうべより黒かった。指には布が巻いてある。
「……ぜんぶ、マルゴさんの針でございますのね」
「数えたの」
「数えてはおりません。裾が、みんな三度返してありましたので」
「同じことよ」マルゴは前を向いたまま言った。「それで。ゆうべ言った袖付けは、ほどいたの」
「ほどきました」
「よろしい」
「……ぜんぶ、ほどきました」
マルゴの顔が、ゆっくりこちらを向いた。
「ぜんぶ」
「脇も割りました。春の数に、裁ち直しました」
「春の」
「半年さきの寸法でございます。……塔のあの方の、肩が戻ったときの」
今日の寸法のまま渡せば、あれは棺に入れる一着になる。半年さきに引き直してしまえば、今日の体には、もう入らない。
マルゴは、しばらく何も言わなかった。
口が一度開いて、閉じた。頭のいい人が、言うことを三つくらい思いついて、ぜんぶ捨てた顔だった。
「……間に合わない仕事は、仕事とは言わないのよ」
「存じております」
「存じているなら、なぜ」
答える前に、リネットのお腹が鳴った。
小さな音ではなかった。いちばん近い列の当主が一人、振り向いた。
「台へ上がる朝に腹を鳴らす咎人とは、珍しいな」
「も、申し訳ございません。四日、ろくに食べておりませんので」
当主は鼻で笑って、前へ向き直った。
リネットは両手でお腹を押さえた。
「朝は」
「四日前のパンを、半分」
「呆れた」
マルゴは、また前を向いた。
「あとで、何か口に入れなさい。わたくしの縫った黒の前で倒れられたら、見苦しいわ」
「……はい」
それきり、袖付けのことは訊かなかった。
大広間の扉が開くたびに、マルゴの目はそちらへ行った。入ってくるのが当主だと分かると、すぐに戻った。二度目も、三度目も同じだった。
工房の奥の間は、ゆうべの時点でまだ空だった。腰の立たないマルゴさんのお母さまが、帰ってくるはずの部屋だ。ただ待っているだけの人間よ、とマルゴさんは言っていた。
リネットは、自分の指を握った。
上座にいちばん近い椅子は、今日も空いていた。
座る人が来ていない。誰も、そのことを口にしない。
壁ぎわの、証人の並ぶあたりにロザさまがいた。前掛けの前で右手だけを置いて、左手はかくしの中に入れている。殿下は今朝、王太后陛下のお部屋に預けられたと聞いた。
そのあとで、横の小さな戸から衛兵が二人入ってきた。
「離せ。自分で歩ける」
あいだに挟まれているのは、ベルントさまだった。
二日前の御前で、偽りを申したと帳から外され、身柄を預かられた方だ。髭が伸びて、頬がこけている。上着の肩が、やはり余っていた。ご自分の寸法ではない上着だ。
「黙って立っておられよ。今日は、申し立てる側ではございません」
衛兵の一人が言って、ベルントさまは壁ぎわに立たされた。
立たされてすぐ、その目が上座のほうへ行った。空いている椅子のあたりだった。
それから、床へ落ちた。
リネットは、目をそらした。人の目の行き先ばかり拾ってしまうのも、この三日でついた癖だった。
鐘が鳴った。
書記が紙を広げて、オットマールが立った。
右の袖口に、黒い当て布が一枚入っている。ゆうべ、リネットが入れたものだ。卓に手をついても、そこは引きつれなかった。
「王弟ジョス殿下の一件の帳を、本日閉じる」
宰相の声は、昨日と同じに低かった。
「まず、帳にあるものを読む」
書記が、紙を目の高さに上げた。
「一つ。戴冠の前の晩、お抱え仕立て師リネット・カルヴェが衣装を届けに殿下のお部屋の前まで上がったこと」
その声は、少しも揺れなかった。
「一つ。辺境伯家の嫡子の申し立て。偽りの疑いをもって、帳から除いたこと」
壁ぎわで、ベルントさまの肩が小さく跳ねた。
「一つ。殿下付きの侍女の申し立て。あの晩、北の回廊の奥の灯は落ちていたこと」
ロザさまは、目を伏せなかった。
「一つ。主席仕立て師より、書付が一通」
隣で、マルゴの指が布の上で止まった。
読まれるのは、言葉だけだった。
泣いていた人も、子どもを抱えて走った人も、ひと晩で二十六着を縫った人も、帳には一行も入らない。
読む声は、最後の段に来た。
「昨日この場にて、名のない者が申し出た。王弟殿下を刺したのは自分であると。申し立ては、帳に入った」
書記が紙を置いた。
オットマールが、言葉を継いだ。
「帳には、刺した者が二人ある。咎人、仕立て師リネット・カルヴェ。それから、名のない者」
二十六の顔が、いっせいに扉のそばへ向いた。
「二つは並ばぬ。どちらかが偽りである。本日、この場でそれを決める。刺した者と決まった者は、庭の台へ上がる」
リネットは、床の目地を見た。
「マルゴさん」声が勝手に、隣へ向いた。「……どちらに決まっても、あの方は」
「台へ行くわ」
マルゴは、唇をほとんど動かさずに言った。
「昨日、宰相閣下がこの場で申したでしょう。二十六家の前で刺したと申した者は、真でも偽りでも生きては帰れないって」
「では、今日は何を決めるのですか」
「あなたの首のほうよ」
リネットの口が、開いたまま閉じなくなった。
「あの男の首は、昨日のうちに卓へ乗ったの」マルゴは言った。「今日決めるのは、その隣にあなたの首も並べるかどうか。それだけよ」
「……そんな決め方って、ございますかしら」
「あるのよ。わたくしたちが縫っているのは、そういう方々の服なの」
あの人が本当に刺したのなら、庭の台へ行く。刺していないのなら、御前で偽りを申した者として、やはり行く。
どちらに決まっても、あの人は助からない。
決まらないのは、わたくしのほうだけだ。
「名のない者を、これへ」
「連れてまいりました」
扉の外で声がして、扉が開いた。
リネットは顔を上げた。上げた拍子に、首の骨が小さく鳴った。
名のない者、と帳には書かれている。リネットにとっては、春の終わりに目立たない上着を頼みに来た、あの人だ。
最初に見えたのは、やはり肩だった。
借り着の黒い上着のままだった。袖の丈が長くて、指の先が半分しか出ていない。
借り着で立ちたくない、と塔であの人は言った。ちゃんと縫え、と。縫った一着は、いま仕立て場の台の上で、脇を割られたまま広がっている。
左の腕だけを、体のほうへ寄せて動かさない。塔で切られた腕だ。頬は昨日よりこけて、顎の線が硬くなっている。
衛兵に挟まれて真ん中まで歩くあいだ、その人の目が横へ動いた。
リネットの手のあたりだった。
何も持っていない手だ。持ってくるはずだった上着を、持たずに来た手だった。
目はすぐに前へ戻った。戻る前に、口の端がほんの少しだけ動いた気がした。
笑ったのかどうかは、分からなかった。分からないまま、胸のどこかが痛くなった。
夕方に縫いに参ります。あの伝言は、届いたのだと思った。
男が真ん中で足を止めた。膝はつかなかった。
「申し立てを、改めるか」
オットマールが訊いた。
「改めません」
声を張らないのに、端まで届いた。
「王弟殿下を刺したのは、私です。あの娘は関わりありません」
五度目だった。
列のどこかで、誰かが鼻で笑った。
「また同じことを」
「名も申さぬ。理由も申さぬ」
二列目で、白い髭の老当主が杖を鳴らした。昨日、聞こえてしまったと言った人だった。
「名は、今日も申さぬのか」
「ございません」
「では今日こそ、なぜ刺したか申されよ」
「申し上げられません」
「なぜ、あの針子を庇う」
「庇っておりません。知らない娘です」
嘘だった。
昨日と、ひとつも違わない嘘だった。
向かいの列で、若い当主が肩をすくめた。
「どちらでもよいではありませんか」声が、よく通った。「片や名のない男、片や針子でしょう。どちらを台に上げても、家が一つ傾くわけでもない。さっさと決めて、戴冠のほうを急がれるがよい」
笑い声が、二つ三つ上がった。
リネットは、その当主の膝を見た。
黒の裾が、膝の上で少しだけたるんでいた。座ったとき楽なように、マルゴさんがゆとりを入れたのだ。ひと晩で二十六着ぶん、座る人の膝のことまで考えて縫った。
その膝の持ち主が、針子でしょうと言っている。
隣の壁ぎわで、マルゴは顔色ひとつ変えなかった。指に巻いた布だけが、少しきつく握られていた。
「聞き捨てならんな」
白い髭の老当主が、向かいの列を振り返った。
「首に、軽い重いがあるものかね」
「ございますよ。家の名のついた首と、そうでない首とでは」
「では、そなたの首には何の名がついておる」
「……なんですと」
「よさぬか」
別の列から声がかかった。老当主は鼻を鳴らして、杖を膝のあいだへ戻した。
「決めるのは陛下だ。我らではない」
それきり、二人とも口をつぐんだ。
戸口で、下役が咳をした。
「閣下」
オットマールが顎を引いた。下役は卓のそばまで寄って、低い声で言った。低かったけれど、扉のそばまでは届いた。
「庭の台の布を、外しました」
部屋の音が、そこで薄くなった。
オットマールは、すぐには答えなかった。右の袖口を、左手で押さえた。
「……よい。下がれ」
それから、上座を見ずに言った。
「正午の鐘までに、決めます」
「宰相」
上座から、アデルハイトの声が落ちてきた。
「急ぎますか」
「急ぎます」オットマールは言った。「戴冠を待たせております。喪が明ければ、殿下には冠が要ります」
「……分かりました」
アデルハイトは扇を開いた。開いたまま、それ以上は何も言わなかった。
リネットは、高い窓のほうを見た。庭は見えない。見えるのは白い空だけだ。
さっき通ってきた庭の台には、まだ布がかかっていた。雨で木が傷むから、かけてあるのだと聞いた。
その布が、もうない。
「衛兵さま」リネットは、声を落とした。「布を外すのは、いつもこの刻限なのですか」
「いつもは、決まってから外す」
「では、今日は」
「決まる前に外すのは、十二年で初めて見た」
衛兵は、前を向いたままだった。
正午の鐘まで、もうそれほど間はなかった。
「仕立て師」
宰相の声が、こちらへ来た。
「はい」
「申し立てることは、ないな」
昨日と、ほとんど同じ問いだった。
昨日は「あるか」と訊かれた。今日は「ないな」だった。答えは、もう向こうで決めてある。
ございません、と言えば済む。
昨日は、それで済んだ。済ませたあとで体のどこかが冷たくなったけれど、それでも済んだ。
口を開けた。
声が出なかった。
廊下で震えだした膝が、もう隠せないほどになった。胸の奥が熱くなって、目の縁が勝手に濡れてくる。
泣いている場合ではない、と思った。思うほど、濡れた。
ございません、と言えば、わたくしはたぶん助かる。
助かったわたくしは、正午の鐘をどこで聞くのだろう。
――あれは、春の終わりの仕事場でのことだった。
采寸の台に立ったあの人は、ずっとこちらの手もとを見ていた。それから、荒れた指を見て言った。
「その手は、いい手だ。大事になさい」
――二日目の晩、仕立て場の戸の前で。
戸の掛け金の釘は、内側から打ってあった。中にいる人が、生きて帰ってくる夜のために打つ向きだった。
――今朝、ドリスは左手で自分の胸を叩いた。
「あたしが覚えとく。城の帳になくても、あたしの頭にはあるもん」
――ニコさんは、腫れた口の端を押さえて言った。
「こわいままでも、足は動くんだよ」
――それから、塔の部屋。蝋燭の芯が、じじ、と鳴った晩。
「言われたら、生きるしかないだろう」
あの方は、そう言った。
言ったのは、わたくしだった。あの晩、血まみれで座りこんでいた人に生きていていいと言ったのは、わたくしのほうだった。
言った者が、ここで黙っていていいはずがない。
握りしめた手が、まだ震えていた。いい手だと言われた手だ。大事にしろと言われた手が、いま、自分の言うことを少しも聞かない。
それでも、手は手だった。
真ん中で、あの人がこちらを向いていた。
御前でまっすぐ顔を見られたのは、はじめてだった。昨日は一度もこちらを見なかった人が、首だけ回してこちらを見ていた。
唇が動いた。音は出なかった。
ゆうべ、医師の部屋で、声の出ないニコさんの唇を読んだ。人の体を見る癖は、こんなときにも勝手に働く。
唇が「や」の形になった。それから一度閉じて、開いて「め」。最後に、舌の先が上の歯の裏に触れた。
や、め、ろ。
リネットは、首を横に振った。
小さく、一度だけ。
あの人の目が、大きくなった。
あの晩から、この人の言うことにはほとんど逆らえなかった。逆らったのは、塔で帰れと言われて居座った一度きりだ。知らないと言われれば、知らないと言った。黙っていろという顔をされれば、黙った。
今日は、聞かない。
リネットは、右の足を前へ出した。
列の外から、床の上へ。たった一歩ぶんだった。
「……ございます」
声が、思ったより大きく出た。
大広間の音が、いっぺんに止まった。
書記の羽根ペンが、紙の途中で止まった。オットマールが顔を上げた。若い当主の口が、笑いかけた形のまま固まった。
真ん中で、あの人の唇が開いていた。こんどは、何の形にもなっていなかった。
「針子が、何を」
どこかで言いかけた声が、途中で消えた。
「仕立て師」
オットマールの声は、さっきより低かった。
「昨日そなたは、ないと申した」
「……申しました」
「今日は、あると申すか」
「ございます」
「申せば、帳に入る」宰相は言った。「入ったものは、二度と引っこめられぬ」
「……はい。宰相閣下に、教わりました」
オットマールは、それきり黙った。黙ったまま、右の袖口を左手で押さえた。
上座で、アデルハイトが扇を閉じた。骨が鳴った。閉じた扇の向こうで、王太后の目がこちらの顔を見ていた。
隣の壁ぎわで、マルゴが小さく息を吐いた。
「……馬鹿ね。間に合わない仕事ばかりして」
ほとんど聞こえない声だった。呆れられたのか、そうでないのかは分からなかった。
リネットは、手の甲で目の縁を拭った。拭っても、また濡れた。
令嬢らしい言い方を探して、見つからなかった。見つからないまま、口が先に開いた。
「こわい、です」
膝は、まだ震えていた。
「……でも、申し上げます」
上座で、閉じた扇が椅子の肘を打った。
「前へ」
アデルハイトの声だった。昨日も、この広間で聞いた言葉だった。
動いてはいけない台の上で、測られる側の娘がもう一歩前へ出た。




