第18話: 半年さきの寸法
「四半刻だ」
戸の外で、年かさの衛兵が言った。クルトの代わりに付いた人で、名前はまだ伺えていない。
四日目の明け方である。日が高くなれば大広間が開いて、名乗り合った二人のうちの片方が、そこで嘘つきに決まる。そのあいだの四半刻を、リネットは一日ぶりの職人街に使うことを許された。
仕立て場は、置いていったときのままだった。
「リネット様。水瓶、からっぽだよ」
ドリスが竈のほうから言った。右腕を胸に抱えたままなので、覗き込むだけで手は出さない。
「昨日は、いっぱいでございました」
「ふうん」
リネットは戸のところへ戻って、掛け金に指をかけた。
昨日の明け方、自分で掛けずに出た金具だった。そのままの形で下がっている。指の腹に、朝の鉄の冷たさがそのまま乗った。
動かした人がいない。
その冷たさが指から抜けるまでに、少しかかった。
竈のわきの薪は、高さがひとつも減っていなかった。ボタンの皿には、パンの端がひとつ残っている。上等な小魚は、もう入っていなかった。
誰も来なかったのだ。
来ていた人は、いま塔にいる。
その一日ぶんの差は、床の埃よりよほどはっきり見えた。
「日が出るまでには戻る。分かったな」
「はい。助かります」
「礼で済む仕事じゃない」
「あの」
「今朝は、誰ひとり外へは出さん」衛兵は言った。「上のご指図に、まだ取り消しがない。それだけだ」
その言い方は、聞いた覚えがあった。ここ三日、同じような断り方をする人ばかりに会った。
「あの、衛兵さま」
「なんだ」
「クルトさんは、いかがでしょう」
「目を開けた」
リネットは戸の枠に手をついた。
「まだ喋らん。医師が、水を飲めたから今日は死なんと言った」
「……よかった」
「よかったかどうかは、あいつが決めることだ」
衛兵は戸の外に立って、中へ入ってこなかった。
リネットは灯をひとつ卓に置いて、ドリスを椅子に座らせた。
「腕を上げないで、そのままでいてくださいまし」
「切るの」
「裂けたところの糸を切ります。あなたの腕は切りません」
「よかった」
ドリスの右の袖は、二の腕のところで斜めに裂けていた。板ごしに刺されてできた線だ。近づくと、医師の塗った膏薬の匂いがした。
侍女の局には黒しかない。喪服の染めをやる部屋だから、生成りの麻など一枚も置いていないのだ。だからここへ来た。
裂け目の両側を指で寄せてみて、リネットはそっと指を離した。
布が薄い。何度も洗った麻だ。ここへ丈夫な糸を入れて引けば、負けるのは糸のほうではない。
「当て布を入れます。上から縫って、切り口は下に伏せます」
「ふせる」
「当て布の下に隠すのです。そうすれば、洗っても裂け目が育ちません」
「育つの、これ」
「育ちます。放っておけば必ず」
「へえ」ドリスは自分の腕を覗きこんだ。「腕みたいだね」
リネットは針を通した。指がまだ言うことを聞かないので、玉結びを二度作り直した。
「リネット様」
「はい」
「今日、帰ってくる」
針が布の途中で止まった。
嘘は下手なほうだった。目がすぐ泳ぐし、声も高くなる。
それでも、この三年でずいぶん上手になった一種類がある。相手を安心させるためだけにつく嘘だ。
その一種類を、ドリスにはまだ一度も使っていない。
「……分かりません」
「ふうん」
「ごめんなさい」
「謝んなくていいよ」ドリスは天井を見た。「じゃあ、お祖母さまのとこは行く」
「参りません」
自分の返事が、思ったより短くなった。
「なんで」
「行けば、嘘をつかなければなりませんもの」
リネットは針を刺した。刺してから、少し息を継いだ。
「お仕事が長引いておりますと申し上げれば、あの方は信じてくださいます。三年、そうしてまいりました」
「うん」
「けれど今日は、たぶんうまくつけません」
ドリスは何も言わなかった。
リネットは当て布の角を落として、丸く始末した。角のあるものを二の腕に入れると、動かすたびに引っかかる。
「ドリス。ひとつ、頼まれてくださいますか」
「なに」
「今日の昼のあいだ、おばあさまの枕もとで何か縫っていてくださいまし」
ドリスが顔を上げた。
「縫うって、なにを」
「なんでもよろしいのです。当て布でも、繕いでも。……あの方は、針の音で分かるのですって」
「音」
「わたくしがそばにいるかどうかを、あの音で決めておいでですの」
ドリスの返事が、そこだけ遅れた。
それから左手で自分の腿を一度叩いた。
「あたし、下手だよ」
「下手でよろしいのです。音は同じですもの」
「……ずるいこと言うね、リネット様」
「ごめんなさい」
「謝んないでってば」
当て布を伏せ終えて、リネットは糸を止めた。それから糸巻きを持ち替えて、当て布の裏側にもうひと針だけ入れた。色が半分ずれた糸だった。
ドリスは気づかなかった。気づかれないところに入れるものだった。
台の下の籠には、三日ぶんの預かり物が入っていた。
持ち主が取りに来ても返せないので、札をつけて置いてある。ここへ城の人は来ない。来るのは同じ通りの人ばかりだ。
リネットは籠を出して、一枚ずつ台に並べた。
染め屋のヘルタさんの前掛け。腰のところが薄くなって、指を通せば向こうが見える。
桶屋のヨナスさんの上着。脇の下が二枚とも抜けている。片方の腕でばかり桶を回す人の抜け方だった。
それから、まだ着る人のいない産着が一枚。夏に生まれる子のぶんだ。
「ヘルタさんね、催促に来たよ」ドリスが言った。「三日前」
「三日、遅れております」
「あたし、言っちゃった。リネット様は牢に入れられてるって」
「ドリス」
「言わないほうが変じゃない。もう、みんな知ってるもん」
リネットは前掛けの腰を裏返した。
「……なんとおっしゃっていました」
「『針の遅れは待つ』って」ドリスは言った。「それだけ。あとは何も訊かなかった」
言われたことを飲みこむのに、少しかかった。
飲みこめたとき、指の先が急に熱くなった。
三日、名前で呼んでくれる人はほとんどいなかった。針子。そこの者。明日消える一行。ここの通りの人たちは、ただ順番が来るのを待っている。
「ヨナスさんは」
「来てないよ。あの人、脇が抜けたまま着てる」
「いけません」
「言ったよ。そしたら笑ってた。『夏は風が入ってちょうどいい』って」
「……あの方は、いつもそうでございます」
ドリスが椅子を鳴らして、こちらを向いた。
「リネット様。おなか鳴った」
「鳴っておりません」
「鳴ったよ、いま」
「……鳴りました」
ドリスは棚のほうへ行って、布巾をめくった。
「あった。硬いけど」
「三日前のでございましょう」
「四日前かも」
「では、いただきます」
「そこで迷わないんだね」
二つに割って、片方をドリスに渡した。噛むと粉の味しかしなかった。それでも顎が動いているあいだは、ほかのことを考えずに済んだ。
「ドリス。おいしいですか」
「べつに」
「……正直でよろしいこと」
リネットは炭を削った。粉が指の腹について、拭くと台の木目の溝に溜まった。四十年ぶん人の手が触れてきた台で、溝だけがいつも黒い。
札を書き直した。
ヘルタ。腰。当て布二枚。ヨナス。脇、両方。産着。裾の縫い代を三分下ろす。
返す先の名前は、こんなに簡単に書ける。
書きながら、指が止まった。
夜明け前、同じ手で采寸帖に書いた。外套の胸の針の穴のこと。羊の脂の匂い。詰まった背と袖付け。広げ直されていない襟。擦れていた血。
名前のところだけを、ぜんぶ空けた。
こちらは書ける。あちらは書けない。同じ炭で、同じ指で書いているのに。
台の上に、札が三枚並んだ。
朝のいちばん薄い灯の下に、名前が三つある。
リネットは、その三枚をしばらく見ていた。
昼になれば、二人のうちの片方が嘘つきに決まる。決まったほうが、庭の台へ回される。
そのあと、帳が閉じる。
帳に入らなかったものは、初めから起きなかったことになる。
ロザさまは、昨日の未明にあの襟のことを書いてくれと言った。太い糸で急いで折り返しただけの襟だ。下手だったと書いてほしいと、あの方は言った。
あの襟は、帳のどこにもない。
ドリスの二の腕の線も、どこにもない。名前も身分も知らない子を抱えて、暗い洗い場を走った腕だ。
帳が閉じれば、そのぜんぶが無かったことになる。
二十年いないことにされてきた人が、今日もう一度、いなかったことにされる。
リネットの指が、札の縁を折った。
「ドリス」
「なあに」
「わたくしなんかにできること、ないのかもしれません」
「……うん」
「頭もよくありませんし、口では勝てません。三日、一度も勝てませんでした」
リネットは折った札の角を、指でもう一度伸ばした。
「でも……このまま、みなさまの繕いが踏みにじられるのは、いや」
言ってしまってから、自分の声に驚いた。
いや、と言ったのは、これで三度目だった。
一度目は塔の部屋で、二度目は暗い局の戸口だった。どちらも、考えて言ったのではない。口のほうが先に出た。
三度目も、同じだった。
「リネット様」
「……ごめんなさい。おかしなことを申しました」
「おかしくないよ」ドリスは言った。「でもさ、それ、御前で言うの」
「言えません」
「なんで」
「言えば、名前が出ます。名前が出れば、誰かが死にます」
「誰が」
「……そこも、分からないのです」
「分かんないのに、死ぬの」
「死にます。三日、そういうものばかり見てまいりました」
「じゃあ、どうするの」
「……分かりません」
分からないまま、台の端に手をついた。
「ドリス」
「うん」
「繕いというのは、破れたところを直すことでございます」
「知ってるよ、それくらい」
「みなさま、そうしておいででした」リネットは言った。「ご自分の破れたところではなく、よその方の破れたところを黙って直しておいででしたの」
「……ふうん」
「わたくしに見えたのは、それだけでございます。三日かけて、それだけ」
分からないことばかりだった。それでも、ひとつだけ分かることがある。
今日、誰も何も言わなければ、みんなの繕いは無かったことになる。それは、いやだ。
「あたし、覚えとく」
ドリスが言った。
「え」
「リネット様が言えないんならさ。あたしが覚えとく」ドリスは左手で自分の胸を叩いた。「忘れっぽくないの、知ってるでしょ」
「……ドリス」
「ヘルタさんの腰と、ヨナスさんの脇と。それから、あんたの言ったやつ全部」
「……ドリス。それは、帳には入りません」
「帳って、なに」
「城の台帳でございます。宰相さまが書き取れとおっしゃったものだけが入ります。入らなかったものは、無かったことになりますの」
「じゃあ、あたしが覚えてるのは何になるの」
「……分かりません」
「じゃあ、あたしのでいいじゃん」ドリスは言った。「城の帳になくても、あたしの頭にはあるもん」
リネットは、うなずくだけにした。
声を出せば、たぶん泣いた。
灯を台の端へ寄せて、リネットは荷から上着を出した。
ゆうべ、局で縫い上げたばかりの一着だった。地味な色の羊毛でできている。目立たない、ふつうの上着を、と春の終わりに頼まれて買った布だ。あの方は仕立て代の相場をまるでご存じなくて、値を言うこちらのほうが難儀した。
昨日の明け方に裁って、夜に仮縫いをして、ゆうべ縫い上げた。裏の縫い代には、色の違う糸で一針だけ結んである。
台に広げると、肩の形がきれいに出た。
いまの、あの方の肩の形だ。
「リネット様。できてるじゃん」
「できております」
「じゃあ、持ってけばいいのに」
「……はい」
リネットは肩の線に手を当てた。四分落ちた肩。三分足りない後ろ丈。細くなった腕の付け根。昨夜、塔で測ったとおりの数でできている。
いま持っていけば、今日の昼にあの方の体に合う。
庭の白い台まで、ちょうど合う。
リネットは手を離した。
二十年前、五つの子の丈で仕立てた小さな上着が、着る人の体ではなく棺に入った。丈と身幅だけがあって、名前も代金も空いたままの一行になって、帖面に残った。
今日の寸法で仕上げて渡せば、この一着も、いつか同じ行になる。
「ドリス」
「うん」
「これは、いけません」
「え」
リネットは鋏を出した。刃の背に、朝の色がひとすじ乗った。
「ちょ、ちょっと。なんで鋏出すの」
「脇をほどきます」
「せっかく縫ったのに」
「ほどくだけなら、戻せます」リネットは言った。「糸を抜けば、また糸になりますでしょう」
ドリスが鋏の先を目で追った。
「戻せないのは、布のほうです」
言いながら、板の脇の籠を引き寄せた。
昨日の明け方に裁ったときの裁ち屑が、落としたままになっていた。片づける者がいなかったからだ。いちばん大きいので、掌を二つ並べたくらいある。
「ドリス。その裁ち屑を、こちらへ」
「これ、いるの」
「継ぎに使います」
「つぎ」
「継ぎ足すのです。脇を割って、あいだにこれを入れます。そうすれば、身幅が出ます」
ドリスが、上着の胴のあたりを手でなぞった。
「そう、そこでございます。肩の付け根まで継ぎを回せば、腕の通りも広がります。丈は、裾の縫い代を下ろします」
ドリスは、裁ち屑のほうへ目を落とした。
「広くしたら、あの人に合わなくなるじゃん」
リネットはうなずいた。
「……え」
「いまの寸法では、袖が通らなくなります。きっちり合っていたものが、緩んで落ちます」
ドリスの口が、半分開いたままになった。
「……リネット様」
「なんでしょう」
「もし、あの人が今日死んだら」
リネットは白墨を置いた。置いてから、拾い上げなかった。
「それ、なんにもならないよ」
「……ええ」
「上着でも、布でもなくなるんでしょ」
答えなかった。答えたら、手が止まる気がした。
「なのに裁つの」
「裁ちます」
ドリスは、それ以上は訊かなかった。
リネットは裁ち板を壁から下ろした。板が思ったより重くて、膝で受けた。受けた重みが腕の付け根まで上がってきて、そこでしばらく抜けなかった。
白墨を出して、印をつけていく。肩の線。袖の通り。背中の丈。
昨夜の数ではない。春の数だ。
ちゃんと召し上がってちゃんと眠れば、半年であの肩は春の数のほうへ戻る。塔でそう申し上げた。申し上げたのはこちらなのに、その数で印を引くのは、思ったより息が苦しかった。
「リネット様。それ、半年さきの寸法でしょ」
「……はい」
「半年さき、あるの」
「分かりません」
白墨を持ち直した。指が震えて、線が一度うわずった。
消して、引き直した。
「裁つ前には、必ず二度測ります」
「二度」
「一度で済ませると、お師匠さまがいちばんお怒りになりました」
「怒られたことあるんだ」
「一度だけございます」リネットは笑おうとして、うまくいかなかった。「そのときの布は、袖が片方だけ短くなりました」
「ドリス。端を押さえていてくださいまし。手が」
「うん」
ドリスが左手を上着の脇に置いた。体重をかけるのに、椅子から半分立った。
二度目を測り終えて、リネットは鋏を握った。
握った指が白くなった。三日前から、この手は自分の言うことを聞かない。糸は通らないし、玉結びも二度に一度は失敗する。
それでも刃は、まっすぐ入った。
厚い羊毛が、ざくりと開いた。刃を通した震えが柄から手首まで来て、そこで止まった。繊維の切れていく手ごたえが、指の骨のあたりに残った。
音は思ったより大きかった。
脇を割って、継ぎの入る形に裁っていく。小さくなった裁ち屑が板の脇に落ちて、ボタンがそれを追いかけた。
この三日、リネットはほどいてばかりいた。人の縫ったものに鋏の先を入れて、糸を抜いて、掌に溜めた。ほどく手つきだけが上手になっていった。
自分の縫ったものに鋏を入れたのは、はじめてだった。
ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。お師匠さまは、そう書き残した。
裁つことについては、何もおっしゃらなかった。
リネットは鋏を置いた。置いた手を、もう一方の手で押さえた。
「リネット様。それ、間に合うの」
「間に合いません」
「え」
「いまから縫っても、昼までには仕上がりません」
ドリスが黙った。
「では、なぜ裁ったのかとお訊きになりますでしょう」
「……訊かないよ」
「訊いてくださいまし」リネットは言った。「わたくしも、いま知りたいのです」
ドリスは、少し笑った。それから真面目な顔に戻って、割れた脇のほうへ目を落とした。しばらく、そこから目を動かさなかった。
「あの人が着るの」
「……はい」
「半年さきに」
「はい」
「じゃあ、いいじゃん」
それだけだった。
この子はいつも、いちばん短いところで話を終わらせる。
脇を割った上着を、リネットは台の上に広げたままにした。
たたまなかった。籠にも入れなかった。白墨の印がついたままの上着が、台のいちばん明るいところに広がっている。
片づけたら、それは終わった仕事の置き方になる。
それから竈のわきへ寄って、火桶に炭を足せるだけ足した。灰をかぶせて、上から軽く押さえた。こうしておけば、夕方まで火が残る。
出かける人は、火を落としていく。
「リネット様。火」
「置いていきます」
「消さないの」
リネットは灰を掌で軽く押さえた。
「なんで」
「夕方に、あれを縫いますので」
「昼に、決まるんでしょ」
「決まります」
「決まったら」
「決まっても、縫います」
「……じゃあ、縫えたら見せてよ」
「お見せします」
ドリスは、そこで訊くのをやめた。やめて、戸のところで灯を持って待っていた。
ボタンが裁ち屑の上に座っていた。座るところではない場所を、この子はいつも選ぶ。
「そこは、座るところではございませんの」
猫は動かなかった。
リネットは皿に水を足した。一杯だけにした。二日ぶんは入れなかった。
パンの端は、そのまま残しておいた。
「ボタン。夕方に、お魚を」
言いかけて、やめた。
約束できることと、できないことがある。この三日で、それだけはずいぶん覚えた。
かわりに、猫の背を二度撫でた。
戸を出ると、東の空はもう白かった。
職人街は、城より早く起きる。染め工房の桶から湯気が上がって、革屋の前を桶屋の小僧が走っていった。誰も立ち止まらなかった。
リネットは足の下の窪みを踏んで歩いた。この通りだけは、目をつぶっても歩ける。
橋の上で、一度だけ振り返った。
仕立て場の窓に、色がひとつ残っている。灯ではない。火桶の色だ。
「行こう、リネット様」
「まいります」
城の門をくぐったとき、鐘が鳴った。
四日目の朝が、そこで正式に始まった。
庭を通った。白い台には、まだ布がかかっていた。かけたままにしておくのは、雨で木が傷むからだと聞いている。
リネットは目を伏せずに、その前を歩いた。伏せたら、たぶん膝が止まる。
塔の下で、リネットは足を止めた。
渡すものが、今朝はなかった。荷にあるのは針箱と、名前を書いていない帖面だけだ。
紐を握り直した。軽い。この三日で、いちばん軽い荷だった。
息をひとつ落としてから、口を開いた。
「あの。伝えていただきたいことが、ひとつだけございます」
「短く言え」
「上着は、まだ仕上がっておりません」
「……それで」
「夕方に、縫いに参りますと」
衛兵は、すぐには頷かなかった。
眉のあいだが寄って、口が半分開いて、それから閉じた。言葉を探している顔ではなかった。聞き違えたのかどうかを、確かめている顔だった。
「……針子」
リネットは足を止めた。
「その伝言は、俺が聞いてよかったのか」
「どなたが聞いても、かまいません」
衛兵は、しばらく黙っていた。
「……伝える」
それだけ言って、衛兵は塔の戸を開けた。
妙な顔をされるのは慣れている。この三日で、いちばん多く見た顔がそれだった。
「ドリス。行ってくださいまし。おばあさまのところへ」
「うん」
「針の音を」
「わかってる。二回言った」
「……ごめんなさい」
「三回目は、帰ってきてから言って」
ドリスは灯を吹き消して、庭のほうへ駆けていった。右腕を胸に抱えたままの、妙な走り方だった。
大広間の側の廊下には、もう人が集まりはじめていた。
黒が並んでいる。二十六着ぶんの黒だ。ゆうべ、たった一人であれを納めた人がいる。
リネットは列の外の、扉のいちばんそばに立たされた。
立たされてから、膝が笑いはじめた。
こわいのは、少しも変わっていなかった。三日前からずっと同じで、慣れる気配もない。
わたくしなんかにできることは、たぶん、ない。
御前で口を開けば、順が入れ替わって、途中でこの舌は止まる。それも三日で分かっている。
それでも、と思った。
仕立て場の台には、脇を割ったままの上着が広がっている。印は春の数で引いてある。あれを縫い上げたところで、今日のあの方には入らない。
入る体になっていただくより、ほかにない。
扉の向こうで、椅子を引く音が二十六ぶん鳴りはじめた。
膝はまだ笑っていた。喉が渇いて、唾を飲むのに二度かかった。
「針子」
扉の脇から、衛兵が低く呼んだ。
「はい」
「四半刻は、とうに過ぎてる」
リネットは、うつむいた。
「今朝のことは、俺は何も見ていない」
顔を上げると、その人はもう前を向いていた。
「行け」




