第17話: 白いままの一行
灯は、一本きりだった。
王城の東の階のいちばん奥の小部屋で、宰相オットマールが自分の手で筆を持っていた。猶予三日目の未明である。
ふだんは布を積んでおく部屋だ。卓のかわりに櫃を二つ並べて、その上に紙を広げている。吐いた息が白く残って、灯の火が一度だけ傾いた。指の節はかじかんで、筆をにぎる形にするのにひと呼吸かかった。
書記は呼ばなかった。人を起こせば、起こしたぶんだけ今夜のことを知る者が増える。
城で人が刺された晩、いちばん最後まで起きているのは書く人だ。起きたことを紙に残すまで、その晩は終わらない。
書けることは、もう書いた。
北の階に頭巾の者が二名。塔の戸口にもう一名。塔に詰めていた衛兵一名が倒れ、閂は抜かれていた。侍女の局で衛兵一名が刺された。市の男一名が顔から下を切られた。下働きの娘が右腕に傷を受けた。二名は窓から庭へ落ちて、追った槍三本はまだ戻らない。
次の一行が、書けない。
誰の手の者か。
オットマールは筆を置いた。
書けば調べが始まる。調べは家へ届く。届けば諸侯は二つに分かれて、十一と、その半分もない数が向かい合う。四十七年前に一度そうなって、麦が三年焼けた。
書かなければ、朝の大広間はただ開いて、ただ閉じる。
どちらにしても、庭の白い台は使われる。
戸のところで下役が咳をした。
「閣下。お医師さまから報せでございます」
「言え」
「衛兵のクルトは、朝までは分からぬそうで」
「市の男は」
「目を開けました。ただ、声が出ぬと」
オットマールは頷いた。
頷いてから、自分の右の袖口を見た。同じところに継ぎが四枚重なっている袖だ。いちばん上の一枚が、乾いて黒く固まっていた。洗って落ちるものではない。
「仕立て師を呼べ」
「……夜中でございますが」
「起きている」
呼ばれたとき、リネットは待ち針を三本くわえていた。
慌てて針山へ移して、袖で頬をこすった。局の卓には仮縫いを広げたままだ。十七本のうち、四本抜いたところだった。
「仕立て師」
「はい、宰相閣下」
「今夜あの部屋で見たものを、順に申せ」
リネットは戸口で足を止めた。
この方はこの三日、まるで反対のことを言い続けてきた。余計なものまで見ぬことだ。見ないでくれ。明日は申すな。
「あの……申してよろしいのですか」
「今のうちに申せ」
「書記さまは、いらっしゃいませんけれど」
「呼ばぬ。私が書く」
リネットの息が、いっぺんに浅くなった。
牢から引き出されたあの昼、この方の前で申し上げたことは一行も残らなかった。次の朝にベルントさまが一言一句書き取らせろと言ったとき、自分の言葉は同じ扱いですらないのだと、冷たい床を見ながら思った。
三日たった未明に、この方が自分の手で筆を構えている。
「……こわい、です」
「知っている」
「では、申します」
リネットは、順を追った。
六つの子の上着を届けに上がったこと。回廊のいちばん奥の灯が入っていなかったこと。戸の外で肉を打つ音がして、黒い布の向こうに頭巾が二つ立っていたこと。ドリスが子どもを抱えて洗い場へ走ったこと。ロザさまが前掛けから左手を出して、その手で子どもを抱いたこと。
自分は立っていただけで、それも三歩で終わったこと。
筆の音が、そこだけ少し長く続いた。
「男の外套のことを申せ」
「……胸に、糸の跡がございました」
「跡」
「縫い留めていたものを外した跡です。四角に並んだ針の穴が、四つ」
「ほかには」
「羊の脂の匂いがいたしました。洗う前の羊毛の匂いです。羊のいる土地から来た方の匂いでございます」
筆が止まった。
「その男は、どこの家の者だ」
リネットの舌が、上顎に張りついた。
言えるのは六つの言葉だけだった。北の、大きな。それから先は、塔の部屋で止められている。言えばお前が今夜のうちに死ぬと言われた。
けれど、止まった理由はそれではなかった。
言えば、二つの申し立てが噛み合う。噛み合ったものは帳に入る。入れば調べが始まって、掘られるのはあの方の素性だ。その先には、六つの子がいる。
二日目の夕方に、この方から教わったことだった。
「……分かりません」
「そうか」
「ごめんなさい」
「謝らずともよい」
宰相は、それ以上訊かなかった。
リネットは、自分の口が閉じた形を、はじめて外から見たような気がした。
筆を置いて、宰相は櫃の上の紙束から四枚を抜いた。
並べてから、卓の隅にある一枚も、その横へ移した。それから灯を近くへ寄せた。
「ここに、五枚ある」
「……はい」
「四枚は申し立てだ。どれも、終いの一行が同じだ」
「同じ、とおっしゃいますのは」
「書いておらぬ」
リネットは、卓の縁に手をかけた。
この三日で、リネットは同じことを二度数えた。回廊を歩きながら三人だと思って、その日の夕方に一人増えた。みなさま、名前のすぐ手前で口が止まるのだ。
その四人ぶんが、いま紙になって並んでいる。
「五枚目が、これだ」
オットマールは、いま横へ移した紙を指で押した。
二つに折られた紙だった。折り目が毛羽立っている。墨は薄く、封蝋を剥がした赤が端に残っていた。
リネットは、その紙を知っていた。二日目の夕方、この部屋でこの方の左手がずっと乗せていた紙だ。
「これは一度目だ」
折り目は、開かなかった。
「自分が刺したと申し出た者の、一度目の写しだ。帳には入れておらぬ」
「……はい」
「なぜ刺したかは書かれておらぬ。なぜあの針子を庇うのかもだ」宰相は言った。「三度とも、そこが白い」
リネットは、うつむいた。
塔の部屋であの方は、雇われた男のことも、追って庭で見失ったことも話してくれた。北のほうに大きな家があるとまで言った。それでも、なぜ自分の首を出すのかだけは、紙の上でついに書かなかったのだ。
「五枚とも、書けば名が出るところで止まっている」
宰相は、櫃の上の紙へ目を落とした。
「六枚目は、いま私が書いているこれだ。……同じところが、白いままだ」
部屋の音が、灯の芯だけになった。
リネットは、並んだ五枚を上から見た。
字は読まなかった。読むまいと思って目を細めたので、かえって白いところの位置ばかりが目に入った。
「あの……宰相閣下」
「言え」
「白いところが、みなさま同じあたりにございます」
「そう言った」
「……はい。あの、その」
舌がうまく回らなかった。言いたいことは頭より先に指のほうにあって、指は勝手に紙の端を撫でていた。
「型紙みたいだと、思ってしまって」
「型紙」
「型紙は、布を裁つときに下へ敷く紙のことでございます」リネットは早口になった。「前と後ろと袖を別々に取りますので、一枚では何の形だか分かりません。印のところには、小さな穴を開けておきます」
言ってから、うつむいた。
人の申し立てを型紙などと言うのは、たいへん無作法だったかもしれない。
「……ごめんなさい。わたくし、仕立てのことしか思いつかないのです。お忘れになってくださいまし」
オットマールは、忘れなかった。
五枚を重ねて、端を指で叩いてそろえた。それから、灯のほうへ持ち上げた。
薄い紙が五枚重なって、灯の火が裏から透けた。墨のあるところは暗く、字のないところだけが明るく残った。
明るいところは、一箇所だった。
リネットは息を吸うのを忘れた。吸い直したとき、その音が自分にも聞こえた。
「……そうか」
色のない声だった。
宰相は紙を灯から下ろして、自分の右の袖口へ目を落とした。
「三十年、同じところに継ぎを当ててきた」
「……はい」
「布が弱いからではない。そこに私の腕があるからだ」
オットマールは、五枚を卓へ戻した。二つ折りの一枚だけを抜いて、もとの隅へ返した。折り目をもとのとおりに合わせて置いた。
「白いのは、書くものがないからではない。そこに人がいるからだ」
リネットの口は、少し開いたきりだった。
自分が言いたかったのはそれだったのか、それとも違うことだったのか、もう分からなかった。分かったのは、この方が自分よりずっと先まで見てしまったということだけだった。
「宰相閣下は、ご存じなのですか」
「知らぬ」オットマールは言った。「私が持っているのは数だけだ。十一と、その半分もない数と、四十七年前の三年ぶんの麦だ」
「では」
「知らぬまま、私はもう選んだ。それだけの話だ」
リネットは、口の中で親指の腹を数えるように押した。
この方はやはり嘘をついていないのだと思った。三日前からずっと、嘘をつかないまま見ないと決めているだけだ。
「あの……六枚目のことを、申してもよろしいでしょうか」
「申せ」
「……わたくしの白いところも、そこでございます。さきほど、申せませんでした」
オットマールは、否とも言わなかった。
「宰相閣下。ゆうべ、覚えておけとおっしゃいました」
「言った」
「同じ息で、明日は申すなとも」
「言った」
「わたくしには、どちらもできる気がいたしません」
オットマールは筆を持ち直した。
持ち直してから、書かずに置いた。
「口は、その場で人を殺す」
「……はい」
「書いたものは、開かねば殺さぬ」
リネットは顔を上げた。
この方が言ったのは、それだけだった。それだけなのに、聞いた覚えのある形をしていた。
十一の冬、寸法の数を四度目に間違えた娘に、お師匠さまは帖面を閉じさせて別の欄をひらかせた。数は一生覚えないだろうから、そっちを書けと言われた。書いておけば忘れたぶんも残るのだ、と。
あの人は仕立て師で、この方は宰相だ。同じことを言うはずのない二人だった。
「仕立て師」
「はい、宰相閣下」
「今夜のこれは、帳へ入れぬ」
リネットは瞬いた。
「では、なぜ書き取ってくださったのですか」
「覚えておけと言ったのは私だ」
オットマールは、書き終えた紙に砂をかけた。
砂を払って、二つに折った。折り目をきちんと合わせて、それを紙の山へ戻さなかった。
卓の隅の、古い一枚の隣へ置いた。
リネットは、そこから目を離せなくなった。
この三日、焼かない人ばかりに会ってきた。マルゴさんは焼けと言われた一着を焼かなかった。この方は握り潰した紙を焼かず、封じ直しもしなかった。
その方が、いま、もう一枚増やしたのだ。
「宰相閣下。ひとつ、よろしいでしょうか」
「言え」
「……その袖口を、直させてくださいまし」
宰相は、その袖を見もしなかった。
「血は落ちません」リネットは早口になった。「落ちませんけれど、継ぎは当てられます。糸を替えて、当て布を一枚入れれば、あと三年は持ちます。……あ、ごめんなさい。今夜は、そういう場合ではございませんでした」
部屋が静かになった。灰の落ちる音が二度した。
それから宰相は、筆を左手へ持ち替えた。
右の腕だけを、卓の上へ出した。言葉はなかった。
リネットは針箱を開けた。
麻糸ではなく、細い羊毛の糸を通した。この袖に麻を使えば、洗うたびに布のほうが痩せていく。三十年ぶん痩せさせてきた継ぎだった。
当て布は、局から持ってきた黒の切れ端を使った。血のところは触らずに、そのまわりだけを留めた。
縫っているあいだ、宰相は左手で書きものを続けていた。字は、少しも荒れていなかった。
「終わりました」
「……そうか」
「引いても、もう抜けません」
オットマールは袖口を一度だけ返して見た。
それから、下役を呼んだ。
「仕立て師を局へ送れ。灯のある側を通れ」
医師の詰めている部屋は、廊下のいちばん手前だった。
戸が開いていた。中に寝台が二つ並んでいて、そのあいだに湯桶と、丸めた布が積んである。
手前の寝台にクルトがいた。
目は閉じていた。脇に厚く布が当てられていて、胸だけが浅く上がっている。壁に槍が立てかけてあった。持ち主が握らない槍は、ただの棒に見えた。
次に灯が消えていたら自分が引き返すと、この人は決めたのだ。決めた人が、まだ目を開けない。
リネットは、裂けた上着の脇を指で持ち上げた。
「……あとで、縫います」
奥の寝台で、何かが動いた。
「ニコさん」
ニコは目を開けていた。顎から下に厚い布が巻かれて、その上から紐で留めてある。口が動いた。音は出なかった。
リネットは寝台のわきに座って、その唇を見た。
人の体を見る癖は、こんなときにも勝手に働く。
唇が「あ」の形をした。それから舌の先が上の歯へついた。
「あ、し」
リネットは、もう一度見た。
「足、でございますか」
ニコの片目が細くなった。笑ったのだと分かった。
「……ええ。足は、動きますわ」
リネットは、その手を両手で包んだ。
「二日前に、教えていただきました。こわいままでも歩けるのだと。……ニコさんに教わったことは、それだけです」
ニコの唇が、また動いた。
こんどは長かった。三度見て、やっと形が取れた。
「わ、る、く、な、い」
「……何が、でございますか」
ニコは目だけを天井へ向けた。それから、包んだ手のほうを一度だけ握った。
声を売って生きてきた人が、声を置いてきた。その人が、悪くないと言っている。
リネットは何も言えなくなって、しばらくその手を離せなかった。
廊下へ出ると、下の階から荷を運ぶ音がしていた。
城の下役が二人、黒い布の山を担いで階を上がってくる。
その後ろから、女がひとり上がってきた。
「あなた」
「マルゴさん」
目の下が黒い。襟が片方だけよじれている。手には、たたんだ黒が三枚ぶん抱えられていた。
「……なぜ、こんな時刻に」
「二十六着よ」マルゴは顎で下役のほうを示した。「朝までに大広間の控えへ納めるの。諸侯が黒を着ないで座るわけにいかないでしょう」
「おひとりで、二十六着」
「弟子は帰したままよ」
リネットは、その指を見た。関節が赤く腫れて、爪のわきが切れていた。
「マルゴさん。お手が」
「あなたに言われる筋合いはないわ」
マルゴは階の踊り場で荷を下ろして、そこにしゃがんだ。
「その一枚は、なに」
リネットは、腕にかけた仮縫いを持ち上げた。
「朝までに仕上げる一着でございます」
「どなたの」
「……大広間に立つ方の」
マルゴは布を受け取って、灯へかざした。肩の縫い目に指を入れて、袖の付け根を裏から押した。
「肩を四分上げたわね」
「……四分で、よろしかったでしょうか」
「わたくしに訊かないでちょうだい。もう縫ってあるでしょう」
「背丈を三分。腕の付け根を細く詰めたわね」
「はい」
「三日で四分落ちる体を測ったのね」マルゴは布を返した。「あなた、こんな仕事をこんな晩にするの」
「ほかに、できることがございませんので」
「その言い方、二日前も聞いたわ」
マルゴは立ち上がって、襟のよじれを直した。直したところが、また同じほうへよじれた。
「マルゴさん。奥のお部屋は」
マルゴの手が、襟で止まった。
「空よ」
「……三日は、過ぎました」
「今日で四日目ね」マルゴは言った。「わたくしは、期日を守る側の人間じゃないの。守らせる側でもないの。ただ待っているだけの人間よ」
リネットは、階の石を見た。
言葉が、一つも思いつかなかった。こういうときに何か言える人でありたいと思ったのは、この三日で二度目だ。
「昨日、閣下に書付を上げたわ」
「……伺いました」
「終いの一行は、書かなかった」マルゴは言った。「どこの家の使いだったか、というところ。あの一行だけ空けて出したの」
「マルゴさん」
「頭で考えるのが、わたくしのやり方よ。空けて出せば、閣下は必ずそこを読む。読んでも書けないことも分かっていたわ」
マルゴは、下役のほうへ顎を向けた。
「行くわ。二十六着よ」
「あの」
「なに」
「……その一行を、空けてくださって」
リネットは、うまく続けられなかった。
「礼を言う相手を間違えているわ」マルゴは階を上がりはじめた。「わたくしは、あなたに死んでほしいままよ。そこは一つも変わっていないの」
「はい」
「はい、で済ませないでちょうだい」
三段上がったところで、マルゴが振り向かずに言った。
「その袖付け、糸を引きすぎているわ。朝までに一度ほどきなさい」
「……ほどきます」
「腕が落ちたわね」
黒い布の山が、階の上の暗がりへ消えていった。
局に戻ると、竿の黒はもう乾きかけていた。
卓の端でドリスが起きていた。右腕を胸に抱えたままで、左手に椀を持っている。
「リネット様。粥、まだあったよ」
「あなたがお召し上がりなさい」
「二杯食べた」
「二杯」
「だって、あたし持てるうちは持つって言ったから」ドリスは椀を差し出した。「持つには食べないとだめでしょ」
理屈が通っているのかどうか、リネットには判じかねた。判じかねたまま椀を受け取って、冷えた粥を三口だけ飲んだ。
塩が入っていた。
「……おいしいことにいたします」
「入ってないの、塩」
「入っております」
壁ぎわではロザが座って壁に背をつけていた。その腕の中でユリアンが眠っている。夜着の上に喪服を着たままで、胸の釦のところを掌で押さえていた。
四度巻いた釦だ。引いても取れない。
「殿下は、お眠りになりましたのね」
「二度、目を覚まされました」ロザは低く言った。「二度とも、姉さまはいるかとお訊きになりました」
「……ごめんなさい」
「お謝りになることではございません」
リネットは卓に仮縫いを広げた。
袖付けをほどいた。マルゴさんの言ったとおりで、糸を引きすぎていた。引きすぎた縫い目は、腕を上げたときに肩で鳴る。
ほどいて、待ち針を打ち直した。
残っていた待ち針を、一本ずつ抜きながら縫っていく。十三本。九本。五本。指はもう痛みを通り越して、ただ言うことを聞いていた。
最後の三本を抜いたとき、東の高い窓が黒から灰色に変わりかけていた。
糸を止めて、縫い代の奥で色の違う糸に替えた。一針だけ結んだ。
それから、リネットは針箱の底から采寸帖を出した。
「それは、なんの帖面ですか」
ロザが訊いた。
「寸法の帖面です」リネットは表紙を撫でた。「お師匠さまが四十年ぶん書いたものです。綴じ紐は、もう二度替わっております」
「あなたが継いだのですね」
「はい。……数の欄は、いまでも間違えます」
リネットは、頁を繰った。
数の欄。仕立て代の欄。それから、いちばん幅の広い欄がある。お師匠さまが繕いの癖と呼んでいた欄だ。誰がどこをどう直したか、なぜそう直したかを書いておくところだった。
三年、リネットはその欄だけを空けたことがない。
「ロザさま」
「はい」
「今夜のことを、ここへ書いてもよろしいでしょうか」
ロザが、こちらを見た。
「宰相さまが、書き取っておいででしたでしょう」
「あれは、帳に入らないものでございます」リネットは表紙の角をそろえた。「入らないものは、いつか捨てられます。捨てられたら、もうどこにもありません」
「あなたが書けば」
「わたくしが死んでも、帖面は残ります。継ぐ人がいなくなったら帖面も死ぬのだと、お師匠さまはおっしゃっておりましたけれど」
リネットは、そこで少し笑った。うまく笑えなかった。
「……そのときは、マルゴさんが継いでくださると思います」
ロザは、それには答えなかった。
腕の中でユリアンが小さく身じろぎして、寝息の調子がひとつ変わった。ロザの掌が、背をゆっくり二度叩いた。
リネットは炭を削って、繕いの癖の欄に書きはじめた。
外套の胸に、四角に並んだ針の穴が四つあったこと。縫い留めていたものを外した跡だということ。羊毛を洗う前の脂の匂いがしたこと。
深い青の一着の背と袖付けが二寸詰まっていて、腕が肩より上に上がらなかったこと。その一着の襟だけが広げ直されておらず、当て布も入っていなかったこと。
北の回廊のいちばん奥の灯が、あの晩と今夜の二度、入っていなかったこと。
胸についていた血が飛んだ形ではなく、擦れていたこと。
どれも、布と体のことだった。
名前は、どこにも書かなかった。
「……名前は、書かないのですか」
ロザが訊いた。
「書きません」
「なぜ」
「書けば、誰かが死にますもの」
リネットは炭の先を布巾で拭いた。
「わたくし、頭はよくないのですけど。今夜のことを御前でうまく申し上げることも、たぶんできません。申し上げれば、順が前後して、途中で何を言っているのか自分でも分からなくなります」
「……はい」
「でも、書くだけならできるのです」リネットは炭の先を見た。「書いておけば、いつか誰かが読みます。読んだ人が字を足せば、そのぶんだけ形になります。……型紙と同じでございますの。一枚では何の形だか分かりませんけれど」
ロザは、しばらく口をきかなかった。
それから、前掛けの上で右手だけを動かした。左手は、まだかくしの中に入ったままだった。
「お書きなさい」
「はい」
「わたしのことも、書いてくださいますか」
リネットは炭を止めた。
「ロザさまの、どこを」
「わたしが縫った襟のことを」ロザは言った。「あの子の首に当たる襟です。太い糸で、急いで折り返しただけの襟です。……下手だったと、書いておいてくださいまし」
「下手ではございませんでした」
「書いてください」
「……針目は、まっすぐでございました。急いだ手でそこまでまっすぐには縫えません」リネットは炭を持ち直した。「そう書いておきます」
ロザは目を閉じた。
子どもを抱えた腕が、少しだけ緩んだ。
東の窓が、灰色から薄い青になりかけていた。
鐘が鳴った。四日目だった。
戸のところで衛兵が交代の音を立てて、廊下の先で医師が桶を替える音がした。
リネットは帖面を閉じて、紐を巻いた。
朝、大広間へ持っていけるものを数えた。
縫い上がった上着が一枚。針箱が一つ。名前を書いていない帖面が一冊。
どれも、人の命を助けるものではない。
三日のあいだ、リネットは自分の命を助ける道をいくつも持たされた。どれを引いても、必ず誰かの服がほどけた。糸の端はいつも指のすぐそこにあって、引く力ならこの指にあった。
この三つだけが、誰の服もほどかなかった。
持てたのは、それだけだ。
リネットは上着をたたんで、帖面をそのあいだへ挟んだ。
日が高くなれば、大広間が開く。立つのは二人で、庭の台へ行くのは一人だ。
どちらが行くのかを決める場で、この三つは何の役にも立たない。
それでも、抱えていく。抱えていけるものが、ほかに一つもなかった。




