第16.5話: お師匠さまの、最後の一針
仕立てを教わるとき、はじめに習うのは糸のことだ。縒りの向きと、玉結びのしかた。布を裁つのは、ずいぶん先になる。
お師匠さまは、その順番で教えなかった。
そのことを思い出したのは、猶予三日目の深夜、侍女の局で、ほどきかけた袖を手に持ったときだった。次の鐘が鳴れば未明になる。
卓の端でドリスが寝ている。右腕を胸に抱えたままの寝方だった。壁ぎわではロザが六つの子を抱えて眠っていて、戸のところに衛兵が二人いる。廊下の先では、医師がまだ動いている音がした。クルトは息をしているだけだと、さっき言われた。
リネットは袖の縫い目に鋏の先を入れた。
直すには、まずほどかなければならない。人の縫ったものをほどくのは、何年やっても気が引ける。
(……ほどく、というのは)
お師匠さまの遺した一行が、こういうときにだけ出てくる。
――ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ。
三年考えて、一度も分かったことがない。
お師匠さまに引き取られて、二年目の冬だった。リネットは十一になっていた。
その冬まで、リネットは寸法の数を覚えるほうをやらされていた。紙に書いてあるのを読んで、訊かれたら答える。それだけの話が、できなかった。
「袖の通りは、二尺と三分」
「……二尺と、五分」
「三分だよ」
「……三分」
「じゃあ着丈は」
「……四尺、一寸」
「それはさっき言った肩幅だ」
三度言われたことを、四度目に間違える。自分でも呆れるほどだった。
お師匠さまは帖面を閉じて、預かり物の山から一枚引き出した。
「これを見な」
渡されたのは、知らない人の上着だった。羊毛の地味な一枚だ。
「……あの。寸法を測るのですか」
「見るんだよ。布は、着た人を覚えてるからね」
言い方の意味は分からなかった。リネットは上着を台に広げて、そのまま黙りこんだ。
「……あの」
「なんだい」
「襟の内側と袖口だけ、糸の色をそろえて繕ってございます」
「うん」
「背中は、太い糸でざっと寄せてあります」
お師匠さまは針を動かしながら聞いていた。
「……この方、見えるところだけ直しておいでなのだと思います」
「なんでそうする」
「見られたくないのだと思います」リネットは小さく言った。「お金のないのを」
針の音が止まった。
リネットは、自分の言ったことに気づいて慌てて上着を畳んだ。
「あ……ごめんなさい。いまのは余計でした」
「なんで謝るんだい」
「前にお客さまの繕いのことを申し上げて、余計を言うなと叱られましたので」
「……そうかい」
お師匠さまは針を置いて、リネットの頭を軽く小突いた。痛くない力だった。
「あんた、数は一生覚えないよ」
「……はい」
「けどね。今のは覚えたんじゃない。見たんだ」
「見た、のですか」
「見えちまったんだろ」お師匠さまは言った。「なんで、そんなところが見えるんだろうねえ」
リネットは、すぐには答えられなかった。答えたら、また叱られる気がした。
「言ってごらん」
「……わたくし、いつも自分がどこか間違っているのではないかと思っておりまして」
「うん」
「それで人のお顔ばかり見ておりますの。……そのついでに、ほかのところまで見てしまうのだと思います」
お師匠さまは、長いあいだ何も言わなかった。
やがて椅子を鳴らして立ち上がり、竈の鍋の蓋を取った。
「豆を煮たよ。食べな」
「あの、寸法は」
「今日はもういい」
椀に山ほど盛られた。リネットは一度だけ遠慮したふりをして、二杯食べた。
食べているあいだ、お師匠さまは帖面をもう一度開いて何か書いていた。
「あの。何を書いていらっしゃるのですか」
「今のを書いた」
「今の」
「見えるところだけ直す人だ、ってさ」お師匠さまは言った。「数だけの帖面なら、そこらの店にもあるんだよ」
「……はい」
「あんたは数を覚えられない。だからそっちを書きな。書いておけば、忘れたぶんも残る」
その日から、リネットは帖面に人のことを書くようになった。数の欄はよく間違えたが、繕いの癖の欄だけは空けなかった。
厄介なものを拾ったねえ、とお師匠さまはときどき言った。
言われるたびに、リネットは少し嬉しかった。厄介でもいいから拾ったと言ってくれた人は、それまで一人もいなかった。
お師匠さまが起きられなくなったのは、それから六年たった冬だった。転んで腰を痛めて、春になっても起きなかった。
三年前の春の、あの晩のことは順番までよく覚えている。粥を持っていくと、三口だけ食べて椀を返した。
「帖面を出しな」
棚から革表紙の帖面を下ろして、寝床のわきに置いた。四十年ぶんで、綴じ紐はもう二度替わっている。
「あんたが継ぎな」
「……何を、でございますか」
「それだよ」
リネットは両手を布巾で拭いた。拭いてから、拭くところではないと気づいた。
「わたくし、頭がよくありません」
「知ってるよ」
「数も、いまだに間違えます」
「知ってる」
「……では、なぜ」
「帖面は数を読むもんじゃない」お師匠さまは天井を見たままだった。「書き足す人がいなくなったら、あれは死ぬんだ。あんたが書けば生きてる」
「……こわいです」
「こわいだろうね」
リネットは、帖面の角をそろえた。
「そこの針刺しを貸してごらん」
針箱から出して渡した。十一の冬にもらった針刺しだ。針を刺しておくための、布でくるんだ小さな玉で、底の縫い目がもう擦り切れていた。
お師匠さまは痩せた手で針を持って、三針か四針かけた。手が震えて、目がひとつぶんずれた。ずれたまま結んだ。
「……お師匠さま。わたくしがいたします」
「うるさいね」
「お手が、震えていらっしゃいます」
「震えたって、布は縫えるんだよ」
リネットは黙って、その手を見ていた。四十年ぶん針を握った手が、布を押さえるだけで白くなっていた。
縫い終えると、お師匠さまは針刺しを胸の上に置いた。それから天井のほうへ、一度だけ言った。
「――ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ」
「……あの」
「なんだい」
「今のは、どういう」
「豆を煮ておくれ」
「え」
「明日の朝の」
それだけだった。何をどう訊いても、もう答えなかった。
湯を替えに立って、戻ったときには眠っていた。
朝、息をしていなかった。
葬いのあと、帖面のいちばん最後の頁に、あの一行が書き足されていた。震えた字だった。誰も見ていないうちに、あの手で書いたのだ。
針刺しの底が抜けたのは、それから半年ほどしてからだった。
直そうとして縫い代をほどくと、内側に色の違う糸で一針だけ結んであった。
何も留めていない一針だった。布を合わせてもいない。ただ、そこに一つあるだけだ。
(……お師匠さま。ここに、いらしたんですね)
その一針はほどかずに残して、底だけ別の糸で閉じ直した。
その日から、縫うものにはどれにも一針を入れるようになった。誰の目にも触れないところに、たった一つ。
蝋燭が、また短くなっていた。
袖の縫い目を全部ほどくと、抜いた糸は掌に乗るくらいの量になった。
この上着は、アルノーさんの寸法ではない。肩が足りなくて、袖が長い。塔で貸し与えられた借り着だ。体に合ってもいないものを、あの方は三日着ていた。
リネットは待ち針を打ち直して、肩の縫い目から縫いはじめた。
「……リネット様。まだ縫ってる」
「ドリス。起きていたのですか」
「ちょっとだけ」ドリスは右腕を抱えたまま言った。「あたしの袖は、もういいよ。破けたまま着るから」
「いけません」
「だって、あと一枚あるでしょ」
「二枚でございます。二枚と申しましたもの」
「……手、もう動かないんじゃないの」
「動きます」
「うそ」
「……うそでございます」
ドリスが少し笑って、また目を閉じた。
笑わせるつもりで言ったのではなかった。指のほうが、ほんとうに長くは持たない。
半分まで縫って、縫い代の奥で一度手を止めた。
糸の色を少しだけ変えて、一針だけ結んだ。
ほどいて仕立て直すことでもなければ、着る人にも分からない。
(……お師匠さま。アルノーさんの頁には、まだ二行しかございませんの)
二十年前の一行と、この春の終わりの一行だ。国があの方を死んだことにしていた二十年ぶんは、どこの帖面にもない。
あの最後の一行の意味は、今夜もまだ分からなかった。ほどくのは、いくらでもできる。今夜も二枚ぶんほどいた。ほどく手つきばかり上手になって、結び直すというのが何なのかだけ、分からないままだ。
返事はどこからも来ない。かわりに、頭のうしろが少しあたたかい気がした。痛くない力で小突かれた場所だ。
鐘が鳴った。一つ、二つ。
未明になった。
針を針刺しに戻すとき、指の腹が底に触れた。三年洗っても落ちなかった一針だ。
朝までに、あと一枚。
あと一枚ぶんは、たしかに約束した。その先のことは、大広間が決める。




