第16話: 六つの子の上着
牢の詰所の卓に、六つの子の黒い上着が置いてあった。
リネットは荷を抱えたまま、そこで足を止めた。
襟の裏に、色の違う糸の目がある。太い糸をほどいて、細い麻糸で入れ直した縫い目だ。二日前の夕方、侍女の局でリネットの手が入れたものだった。
自分の縫い目が真夜中の詰所の卓に出ているというのは、どう考えても妙な話だった。
猶予の三日目は、もう深夜だった。鐘が二つ鳴れば未明で、そのあとに来る朝が四日目になる。
その朝に、裁定が下る。
「……お帰りを、お待ちしておりました」
長椅子から人が立った。侍女のロザだった。
その隣で、丸まっていたものが跳ね起きた。
「リネット様!」
「ドリス。まだいたのですか」
「夕方から待ってたんだもん」ドリスは目を擦った。「ボタンにご飯やってきたよ。それだけ言いたくて残ってた」
「小魚は、ありましたか」
「無かった。パンの端っこで許してもらった」
こんな夜に猫の献立の話ができるのは、この子だけだ。
リネットは荷を長椅子へ置いた。さっき塔でやり直した仮縫いが入っている。待ち針が十七本、刺したままだ。朝までに縫い上げなければならない。
「針子さん」戸のところでクルトが槍を下ろした。「俺は次の鐘までだぞ」
「はい。ご苦労さまでございました」
「……ご苦労さまと言われる仕事じゃないんだよ、これは」
「その上着を、お直しいただきたいのです」
ロザが言った。
リネットは卓の一枚を手に取って、灯へ向けて裏と表を返した。
「どこがでございましょう」
「……」
「襟はわたくしが入れました。裾も落ちておりません。釦がひとつ緩んでおりますけれど、これは糸を替えるだけで済みます」
ロザは、上着を見なかった。
「殿下が、お眠りになりません」
「え」
「三晩でございます」ロザは言った。「叔父上さまの棺の前に、明日の朝もお立ちになります。お支度をと申し上げても、わたくしの前ではこの上着に指一本触れてくださいません」
「……こわいのですね」
「分かりません。何もおっしゃいませんので」
ロザは前掛けの端を握った。
「三晩、同じことだけおっしゃいます。針子の姉さまはどこにいるのか、と」
リネットは口を開けたまま黙った。
「ロザさま。わたくしは、明日の朝に」
「存じております」
声が、そこで小さくなった。
「存じております。ですから、今夜のうちにと思いました」
詰所の灯の芯が、油の切れかけた音を立てた。
「上着は口実でございます」ロザは言った。「咎人を殿下の間へ上げる理由が、ほかにございません。直しを頼みに参ったということにいたします」
「そんなことをなさって、ロザさまは」
「叱られます」
あっさり言われた。
「二日前、あなたに襟を直していただきました。あの襟に気づいたのはあなたで、気づかなかったのはわたくしです」ロザは頭を下げた。「わたくしは、あなたを死なせる言葉を御前で申しました。そのわたくしが、あなたに頼み事をしております」
「頭をお上げくださいまし」
「嘘は、もう上手になりました」ロザは言った。「これくらいの嘘は、平気でつけます」
リネットは、卓の上着を胸のあたりで抱え直した。
二尺に足りない一枚だ。抱えると、思ったより軽かった。
「……クルトさん」
「聞かなかったことにする」クルトは天井を見た。「いや。だめだ。今夜は聞く」
「え」
「俺が付いていく」クルトは天井から目を戻した。「咎人をひとりで歩かせたら、それは俺の首だ。付いていけば、ただの職務だ」
「……ずるいことをおっしゃいますわね」
「三日で覚えたんだよ」
「あたしも行く」ドリスが手を挙げた。
「お前は何の理由で行くんだ」
「針箱持ちです。あと、灯持ちもできます」
クルトは口を開けて、そのまま閉じた。
「行くぞ。静かに歩け」
回廊は暗かった。
喪のあいだは油を控えると聞いている。それでも、燭台はひとつ置きに火が入っていた。
角を折れたところで、リネットは足を止めた。
いちばん奥の燭台にだけ、火が入っていない。
「クルトさん。あの灯が、消えております」
「切れたんだろ」クルトは槍を持ち替えた。「灯係は何をしてるんだ。喪だからって、奥から抜いていくやつがいる」
リネットは動けなかった。
あの晩もそうだった。北の回廊のいちばん奥だけが暗かった。灯を落とせという言いつけは、前の日の昼に来ていたのだとニコが教えてくれた。
「針子さん。どうした」
「……いえ」
言いかけて、飲み込んだ。
こわい、と言ってしまえばよかったのだ。けれど言えば、この人はきっと引き返させる。引き返せば、六つの子は四晩目も眠らない。
リネットは上着を抱え直して、暗いほうへ歩いた。
侍女の局は、天井から黒が垂れていた。
喪服の染めをこの部屋でやるからだ。竿が二本渡してあって、湿った黒い布が床すれすれまで下がっている。奥の桶からまだ湯気が立っていた。
「ほかの侍女は」
「殿下の間の控えに詰めております。今夜はわたくしが、こちらに残る番でございます」
黒い布の向こうで、小さな影が動いた。
「姉さま」
布を押しのけて、子どもが出てきた。
夜着のままだった。髪が寝ぐせで片側だけ立って、目の下が黒い。
「殿下。お足が冷えます」
「くつは、はいてる」
ユリアンが足もとを見せた。片方しか履いていなかった。
「……もう片方は」
「わかんない」
ドリスが膝をついて灯を下げた。片方の靴は、竿の下から出てきた。
リネットは床に座って、その靴を子どもの足に入れた。踵をとんとんと押して、履かせた。
「あったかいね」
「ドリスの手が熱いのですわ」
「あたし、いつも熱いって言われる」ドリスは笑った。「冬は便利なんですよ」
ユリアンが、はじめて口の端を動かした。
「殿下。上着をお持ちいたしました」
リネットは黒い一枚を床へ広げた。
ユリアンは見なかった。見ないようにしている顔だった。
「明日の朝、これをお召しになると伺いました」
「……」
「お召しになりたくないのですね」
「着ると、叔父上がいないことになる」
小さな声だった。
「ロザは着なさいって言う。ロザが泣くから、着るって言った。でも着たら、ほんとに終わりになる」
リネットは足もとの布を撫でた。
撫でてから、何も言えずにいた。ここで気の利いたことを言える人になりたいと、生まれてはじめて思った。
「殿下。わたくしは頭がよくございません」
「うん」
「ですから、上着のことしか申し上げられません」
ユリアンが、こちらを見た。
「これは、叔父上さまがいないことにする一枚ではございません。いなくなった方のことを覚えている一枚でございます」
「……おなじじゃないの」
「ちがいます。喪の色は、忘れるための色ではございませんもの」
リネットは襟の裏を返して見せた。
「黒は、いちばん手のかかる色でございます。ひと息では染まりません。まず藍で下を染めて、その上に蘇芳を重ねて、胡桃を重ねて、それでようやく黒に近づきます」
「なんかい、そめるの」
「四度も五度も」
「たいへんだね」
「たいへんでございます。この部屋の布も、ぜんぶそうです」
ユリアンが、天井から下がった黒を見上げた。
「みんな、叔父上のために?」
「みなさま、そうでございます」
子どもは黒い布に手を伸ばして、指の先で少し触った。
「……重い」
「濡れておりますもの」
ユリアンは布を触ってから、床の上着の前に座った。
「着る」
「明日の朝で結構でございます」
「いま、着る」
リネットは上着を持ち上げた。
袖を通させながら、指のほうは勝手に測っていた。腕の付け根が、采寸に伺った日より細い。六つの子は三日で痩せるのだ。
「殿下。腕をお上げくださいまし」
ユリアンが両腕を上げた。
釦のところで、リネットの手が止まった。
「釦が、ひとつございません」
「……とれた」
「どちらに」
「ここ」
ユリアンが手を開いた。
汗で湿った掌に、黒い小さな釦がのっていた。握りしめた跡が、皮膚に赤く残っている。
三日、この子はこれを掌に持っていたのだ。
ロザが、口を押さえた。
知らなかったのだ、と分かった。この方の前では指一本触れなかった子が、その裏で、たった一つだけ握っていた。
「お預かりしてよろしいでしょうか」
「……なくさない?」
「なくしません。仕立て師でございますから」
リネットは針箱を開けた。
「ドリス。糸を」
「うん」
黒い糸を通した。針を持つと手が落ち着くのは、この三日で分かっていた。
釦の足を四度巻いて、根もとを固めた。玉止めは小さく作った。
「これで、指で引いても取れません」
「ひっぱっていい?」
「どうぞ」
ユリアンが釦を引いた。二度引いて、三度引いて、取れないのを確かめた。
「姉さま」
「はい、なんでございましょう」
「戴冠のお召し物は、姉さまが縫うって言った」
リネットは、針を刺す先を見失った。
「……はい。申し上げました」
「うそだったの」
「嘘ではございません。ただ」
言葉が出てこなかった。
「ただ、わたくしより上手な方がいま縫っていらっしゃいます。寸法はわたくしが書きました。書いたとおりに縫ってくださると、約束していただきました」
「姉さまじゃないの」
「……はい。ちがいます」
「なんで」
リネットはうつむいた。言えることが、ひとつもなかった。
「ごめんなさい」
子どもは怒らなかった。怒られたほうが、たぶん楽だった。
「……いいよ」
「殿下」
「姉さま、明日いなくなるんでしょ」
部屋の音が消えた。
ロザが息を吸う音がした。ドリスが灯を持ち直す音がした。
「誰から、お聞きになりました」
「みんな言わない」ユリアンは言った。「言わないから、そうなんだと思った」
リネットは針を針山へ戻した。
六つの子に隠せることなんて、ほんとうは何ひとつないのだ。大人がみんなで黙れば、子どもはそれで察してしまう。
「殿下。ひとつだけ、確かなことがございます」
「なに」
「その釦は、もう取れません」
ユリアンが、自分の胸の釦を見た。
「それだけ?」
「それだけでございます」リネットは言った。「わたくしが確かにできるのは、それだけでございました」
ユリアンは、少しのあいだ黙っていた。
それから、リネットの袖を握って離さなかった。
その時刻、ニコは南の小門の外の壁にはりついていた。
三日、この門を見ている。城の裏で油と炭を回す下役に聞いた話が本当なら、外から来る使いはここを通る。
閂が鳴った。
頭巾が三つ、内側へ入っていった。
三つだ。門番はいない。門番のいない門は、開いている門よりよほど悪い。
腹のあたりが冷たくなった。三日前の晩に刃を当てられたのは、ちょうどこの高さだ。灯のことも下役のことも忘れろ、あの針子に近寄るな、次はその舌からいく――そう言われた。
舌は、ニコの商売道具だ。よく分かっている人の脅し方だった。
「……勘弁してくれよ」
声に出してみた。ちゃんと自分の声で出た。
宰相の執務室までは、走って四半刻。四半刻あれば、三人はどこへでも着く。
ニコは門をくぐった。
三つの頭巾は、庭を横切って北の塔のほうへ折れた。
塔にはあいつがいる。二十六家の前で自分が刺したと言った男だ。明日の朝には裁定が下る。口を閉じさせるなら今夜しかない。
やっぱりそっちか、と思った。思った足で追いかけた。
塔の戸のところで、詰めていた衛兵が音も立てずに崩れた。
ニコは薪の山の陰で歯を噛んだ。
二人が塔へ入る。一人が外に残る。
下役の話では、塔の戸に錠はない。外から閂を一本掛けるだけだ。
掛ける役が倒れれば、あとは板が一枚あるだけになる。
しばらくして、上のほうで何かが倒れる音がした。人が倒れる音だった。
それから、頭巾が二つだけ出てきた。
戸は開けたままだった。閉める要のない相手だと思ったのだろう。
二つは庭を斜めに横切って、城の本館のほうへ歩いていく。
ニコは、そこで自分の考えが間違っていたことに気がついた。
塔は、寄り道だ。
二つの頭巾が向かっているのは、王太子の間のある側だった。
「――子どもか」
言った瞬間に、膝が笑った。
三日前の晩と同じだ。人の声ならいつでも出るのに、体のほうが言うことを聞かない。
ニコは膝を叩いて、走った。
走りながら、一度だけ振り返った。
開いたままの戸口の暗がりで、壁づたいに何かが動いていた。動いて、庭のほうへ出てくる。
止まらなかった。止まれば、間に合わない。
局の戸の外で、槍が石を叩いた。
「誰だ」
クルトの声が一度だけした。
それから、音がした。
肉を打つ音というのは、聞けば分かるのだと、リネットはそのとき知った。
戸が内側へ開いた。黒い布が揺れて、竿が鳴った。
布の向こうに、頭巾が二つ立っていた。
「殿下!」
ロザが動いた。
三日、前掛けのかくしから一度も出てこなかった左手が、そこで出た。出た手で、子どもの体を抱いた。
リネットは何も持っていなかった。針箱はドリスが持っている。針山は卓の上で、卓は男たちのうしろだった。
「ドリス」
「うん」
「その子を、連れて」
「うん」
ドリスが灯を床へ置いて、ユリアンを両腕で抱え上げた。膝が一度沈んだ。
「奥に戸があります」ロザが言った。「洗い場から、殿下の間の控えへ抜けられます」
「承知しました。ドリス。振り返らないで」
「うん」
ドリスは走った。黒い布が三枚めくれて、その先で戸が鳴った。
頭巾のひとりが、そちらへ足を向けた。
リネットは、その前に立った。
立つ、というだけのことだった。ほかに何もできなかった。
「どけ」
「……いやです」
言ってから、自分の言い方に呆れた。仕立て場で値切られたときとまるで同じだった。
「どけと言った」
「あの子は、六つでございます」
「知ってる」
背の高いほうが、頭巾の下で息を吐いた。笑ったのだと、あとで分かった。
男が二歩出た。
その外套の胸に、糸の跡があった。
縫い留めてあったものを外した跡だ。針の穴が四つ、四角に並んでいる。
リネットの膝が、勝手に一度折れかけた。
同じ跡の話を、二人から聞いていた。ニコが城の下役から聞いた話と、マルゴさんが工房で見た使いの外套だ。
それから、匂いがした。
羊の脂の匂いだ。羊毛を洗う前の匂いだった。羊のいる土地から来た人の匂いだ。
当てたわけではなかった。あの晩の話が、目の前に立っているだけだった。
「……あなたは、あの晩の」
「黙れ」
「北の、大きな」
男の手が、リネットの襟を掴んだ。
石の壁に背中を押しつけられて、爪先が浮いた。
「お前は明日死ぬ娘だ」
耳のすぐ前で言われた。
「今夜死んでも、帳は一行も変わらん。……分かるか」
分かった。
この三日で聞いたどの話より、それはよく分かった。わたくしは、明日の朝に消される予定の一行だ。今夜消しても、誰も数え直さない。
声が出なかった。
「ロザさま」
やっと出たのは、その名前だった。
「お逃げくださいまし」
「いやです」ロザは動かなかった。「わたくしは、あの子の部屋付きでございます」
階段の下から、声が降ってきた。
「――北の階だ。三人おる」
リネットの体が固まった。
宰相閣下の声だった。低くて、少しも急いでいない声だ。
男の手が、襟から離れた。
「衛兵は東からまわれ。洗い場の戸を押さえよ」
石の壁が、その声を四つにも五つにもして返した。
「宰相閣下が」
ロザが言った。
リネットは言えなかった。
二日前、市場でこの声に呼び止められたことがある。振り向いたら、笑っている若い男が立っていた。人の声はいつでも出る、と言っていた。
「……ニコさん」
「灯を持て。奥まで入れよ」
別の声になった。年寄りの当主の声だ。それから若い衛兵の声で「はっ」と応えた。
一人で、三人ぶん喋っていた。
「引くぞ」頭巾の二人が顔を寄せた。「人が来る」
「まだ子どもが」
「引くと言った」
二人が動きかけて、その足が止まった。
階段のほうで、走る音がひとつだけ鳴ったからだ。
石の廊下は正直だ。二人ぶんの足音を、一人ぶんには聞かせない。
背の高いほうが、階段の口へ歩いていった。
「――待って」
リネットは追った。追ったところで、何ができるわけでもなかった。
男が黒い布の一枚を掴んで、階段の口の暗がりへ投げるように振った。
布の下で、人が転がった。
「……よう」
ニコの声だった。今度は、ニコの声だった。
「宰相閣下はもう寝てるよ。あの人ね、寝るのが早いんだ」
「お前か」
「うん。俺だ」
男が屈んだ。布が動いて、ニコが笑うのが下から聞こえた。
「言ったろ。俺、有名すぎて困ってるんだ」
刃が動いた。
リネットは目を閉じられなかった。
ニコが短い声を出した。
布の端に、黒いものが広がった。濡れた黒に落ちた血は、色が分からない。分からないから、どれだけ出ているのかも分からなかった。
「――ニコさん!」
リネットは叫んだ。
自分の口から出た音が、自分のものだと思えなかった。
背の高い男が、こちらを向いた。頭巾の下で、笑うのをやめていた。
「そうか。お前がいたな」
男が階段の口から離れて、まっすぐ来た。
三歩だった。
叫べば、こちらを見る。当たり前のことだった。
逃げようとして、足が竿にかかった。竿が落ちて、濡れた布が体に巻きついて、視界が黒くなった。
布の向こうで、男の腕が上がるのが見えた。
それから、その腕が横へ流れた。
誰かが、男の肘のあたりを掴んで捻っていた。
布を払いのけて、リネットは見た。
借り着の黒い上着だった。袖の丈が長い。指の先が、袖から半分しか出ていない。
「――どうして」
塔にいるはずの人だった。
左の腕の外側に、上着ごと切れた線が入っていた。そこから下の袖が、黒よりもっと黒く濡れている。
濡れたところが、袖の縫い目まで回りきっていた。ここで切られた血ではない。
塔で受けた傷だ。
裾には庭の土がついていた。走った人の跳ね上げ方ではない。歩いた人の、擦れた跡だ。
背中が息で大きく動いていた。上がりきって、声にならないのだ。
間に合ったのが、ぎりぎりだったのだ。
さっき塔で測った肩だ。四分落ちて、三日何も食べていない体だった。
その体で、男とぶつかっていた。
布を掴む。押しつける。壁に肩を入れる。派手なことは何もしなかった。ただ、相手を階段の口から遠ざけていた。
余った袖が、折れた竿の先に引っかかった。
一度だけ、上がるべき腕が上がらなかった。
男の刃が、その脇をかすめた。
「――袖ですわ!」
リネットは叫んだ。
叫んで、自分の言ったことに気が遠くなった。こんなときに、袖の丈の話をしている。
けれど、それがリネットに分かる全部だった。あの上着は誰の寸法でもない一枚だ。さっき塔でそれに腹を立てて、腹を立てただけで、まだ縫い上げていなかった。
男の刃が、二度目に上がった。
そのときには、廊下の向こうから灯が四つ入ってきていた。
「動くな」
衛兵の声が、今度は本物だった。灯を持った者が二人、槍が四人。
頭巾の二人が、洗い場のほうへ走った。ドリスが子どもを連れて逃げた戸だ。
「そちらは押さえてございます」
先に立っていた衛兵が言った。
男たちが向きを変えて、窓の桟を蹴って、暗い庭のほうへ落ちていった。
槍が三本、追って出ていった。
ロザは壁ぎわに座り込んでいた。ニコは階段の口で布に埋まっていた。袖の長い上着の人は、壁に手をついて立っていた。
立っているだけで、もう歩けないのが分かった。
「クルトさん」
リネットは戸の外へ出た。
クルトは戸のわきで横になっていた。槍は二歩ぶん先に転がっている。脇のあたりの上着が裂けていた。
「……針子さん、か」
「動かないでくださいまし」
「動けって言われても困る」
リネットは局へ駆け戻って、竿から黒い布を一枚引き落とした。絞って、四つに折って、クルトの脇へ押しつけた。
「痛い」
「押さえます」
「押さえるな。痛い」
「押さえます」
黒い布は、血が見えない。染めが濃いほど見えない。だから、指で重さを測るしかなかった。
絞ったばかりの四つ折りの重さは知っている。それより重くなっていく速さで、どれだけ出ているかが分かる。
速かった。
分かっても、押さえて数えることしかできなかった。
「針子さん」
「はい」
「灯だ」
クルトは天井のほうを見ていた。
「俺は、あの灯を見た」
「……存じております」
「切れたんだろって言ったんだよ、俺は」
「わたくしも、そう思うことにいたしました」
「……嘘つけ。あんた、あそこで足が止まってた」
リネットは何も言わなかった。
「次はな」クルトは言った。「次に灯が消えてたら、俺が引き返す。あんたが何と言おうと、俺が決める」
それが、この人の言い方だった。三日で覚えた。
ニコは、目を開けていた。
顎から頬にかけて、深い線が入っている。口の端が切れて、そこから下がぜんぶ濡れていた。
「ニコさん」
「……お針子さん」
「喋らないでくださいまし」
「ちょっとだけ」
ニコは息を吸って、それから少し変な顔をした。
「あのさ。焼き串屋のばあさんの声、やろうと思ったんだけど」
「なさってくださいまし」
「出ない」
リネットはニコの手を握った。振り払われなかった。
「三日前も、出なかったんだ」ニコは言った。「あのときは、俺の声だけ出た。今日は、逆」
「ニコさん」
「まあ、いいや。……あんたら、生きてるな?」
「生きております」
「あの子は」
「ドリスが連れて逃げました」
「……あの子ね」ニコの口の端が動いた。「いい足してる」
それから首をほんの少し動かして、壁に手をついている人のほうを見た。
「おい」
返事はなかった。
「……立ってるな。よし」
それだけ言って、ニコは目を閉じた。動かなくなったので、リネットは指を鼻の下へ当てた。息はしていた。
洗い場の戸が開いて、ドリスが出てきた。
ユリアンを抱えたままだった。子どもは、ドリスの首に両腕を回してしがみついている。
「リネット様!」
「ドリス。腕」
ドリスの右の袖が裂けて、二の腕に線が入っていた。
「戸のところでね」ドリスは言った。「押さえてたら、向こうから刺してきた。板ごしだったから、これだけ」
「座って」
「あとで。この子、下ろすと泣くから」
ユリアンは声を出していなかった。声を出さずに、ドリスの襟をきつく握っていた。
「あんたね」ドリスは子どもの背を叩いた。「重いよ」
「……ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。持てるうちは持つから」
「ドリス。その子は」
「知ってる。えらい人の子でしょ」ドリスは言った。「あたし、こういうのは分かんないよ。でも、六つだもん」
リネットは、その裂けた袖を見た。
この子は今夜、名前も身分も知らないまま、六つの子を抱えて暗い洗い場を走ったのだ。
「……あとで、そこ縫います」
「痛いのやだ」
「痛くないように縫います。……たぶん」
「たぶんかあ」
ドリスが笑った。
この夜、はじめて誰かが笑った。
廊下の向こうから、灯がもう一つ入ってきた。
衛兵が二人、先に立っていた。そのうしろに、灰色の背中があった。
宰相オットマールだった。
夜着ではなかった。肩が落ちて襟の浮いた、いつもの上着のままだ。寝ていなかったのだと、それで分かった。
入口で、宰相は足を止めた。
折れた竿。倒れた桶。床に広がった染めの湯。戸のわきで横になった衛兵。階段の口で布に埋まった市の男。壁に手をついて立っている、袖の長い上着の人。それから、六つの子を抱えた下働きの娘。
宰相は、そのどれにも近寄らなかった。
「何人だ」
「こちらに参りましたのは、二人でございます」リネットは答えた。
「ほかには」
「……分かりません。塔にも、人が入ったのだと思います」
「なぜそう思う」
「あの方の腕の傷が、ここで受けたものではございませんので」
「二人は」
「窓から庭へ。槍が三本、追っていかれました」
「……そうか」
宰相は、それから何も訊かなかった。部屋の中へ一歩入って、また止まった。
「私は、十一の家を数えた」
誰にも向けていない声だった。
「二十六の席を、三度書き直した。座り順を間違えれば恨みになるからだ。……三日、そればかりを数えていた」
リネットは、押さえた手を動かさなかった。
「三人を、数えていなかった」
宰相は、そこで膝を折った。
石の床に膝をついて、階段の口の布をめくった。ニコの顎から下を見て、自分の手をそこへ当てた。
右の袖口だった。
同じところへ、色の違う糸の継ぎが四枚重ねてある袖だ。あと二度も繕えば布が持たないと、昨日リネットが申し上げた袖だった。
その袖が、黒い布より濃くなっていった。
「仕立て師」
「はい」
「昨日、この袖はもう持たぬと言ったな」
「……申し上げました」
「そうか」
宰相は袖を替えなかった。手も離さなかった。
「医師を呼べ。三人だ。……いや、四人だ」
衛兵が走った。
「宰相閣下。あの方は、逃げたのではございません」
言ってから、慌てた。
「その、戸を開けたのはあの方ではなくて。塔に人が入ったので、それで」
「分かっている」
宰相は、壁に手をついている人のほうを見なかった。
「塔の戸口に詰めておった者が倒れておると報せが来た。閂は抜かれたままだったそうだ」
「……それでは、あの方は」
「あれが逃げる男なら、二十六家の前に立たぬ」
それだけだった。
「明日の朝、大広間は開く」宰相は言った。「開いて、どちらが偽りかを決める」
リネットの手が、布の上で強くなった。
「仕立て師」
「……はい、宰相閣下」
「見たものを、覚えておけ」
リネットは顔を上げた。
昨日、この方はまるで反対のことをおっしゃった。お前の目が正しいことは私がいちばんよく知っている、だからこそ見ないでくれ、と。
「……宰相閣下」
「だが、明日は申すな」
「え」
「覚えておけ。だが、明日は申すな」
同じ息で、二つのことを言われた。
「あの、それは」
「分からぬ」
宰相は、ニコの顎を押さえたまま言った。
「私にも、分からぬ」
この方の手は、一度も震えたことがなかった。十一の家の話をするときも、首が飛ぶと言うときもだ。
その方が、分からぬとおっしゃった。
衛兵が、袖の長い人の腕を取った。塔へ戻すのだ。
取られる前に、その人は自分で壁から手を離した。
離すときに、一度だけこちらを見た。言葉はなかった。
「あの」
リネットは、押さえた手を離せないまま声だけ出した。
「袖を、直します」
人が四人と衛兵が六人いる部屋で、それはずいぶん間の抜けた言葉だった。
「朝までに直します。……あれは、あなたの寸法ではございません」
その人が口を開いて、何も言わずに閉じた。
それから、うなずいた。
うなずいて、連れられていった。
医師が来て、人が三人運ばれていくころには、局の床の湯はもう冷えていた。
ユリアンは、ドリスの腕から下りていた。下りて、リネットの横に座った。
夜着の上に喪服を着て、片方の靴だけを履いている。
「姉さま」
「はい」
「クルトは死ぬ?」
リネットは、その名前を子どもが知っていたことに驚いた。
「……死なせません」
「姉さまが?」
「お医者さまが」
「姉さまじゃないんだ」
「わたくしは、押さえていただけでございます」
ユリアンは、床の黒い布を見ていた。
「ぼくのせいだね」
「ちがいます」
「みんな、ぼくのところに来た」
「殿下」
言うべき言葉が、やっぱり思いつかなかった。だから、思いついたことをそのまま言った。
「今夜この部屋にいた人はみんな、あなたのために動きました」
「……うん」
「わたくしは、動けませんでした」リネットは言った。「立っていただけです。それも三歩で終わりました」
「なんで立ったの」
「分かりません」
「わかんないの?」
「ほんとうに、分かりません」
リネットは自分の掌を見た。まだ黒く濡れていた。
「三日前に、叫べませんでしたので」
言ってしまってから、口を押さえた。
誰にも言っていないことだった。あの晩、血まみれの人を前にして、リネットは悲鳴も上げず、衛兵も呼ばなかった。呼ばなかったせいで、この三日のぜんぶが決まった。
今夜、はじめて叫んだ。
叫んだせいで、男はこちらを向いた。役に立ったことは、ひとつもなかった。
それでも、叫んだ。
「ふうん」
ユリアンは、それだけ言った。
六つの子は、都合のいいところで分かったふりをしない。
ロザが来て、子どもの胸の釦に指で触れた。
「……取れておりませんね」
「四度巻きましたもの」
「わたくしは、二度で済ませておりました」
「六つの子には、四度でございます」
ロザは少し笑って、それから前掛けの上で両手を重ねた。左手も、そこにあった。
「殿下。お部屋へ戻りましょう」
「ここにいる」
「石の床では冷えます」
「姉さまがいる」
ロザは、床に座った。侍女が咎人の隣に座るのを、この部屋の誰も咎めなかった。
小さな窓から見上げても、東の空はまだ白んでいなかった。
次の鐘が鳴れば未明だ。鳴ってしばらくすれば、四日目になる。
四日目の朝、大広間が開く。開いて、どちらが偽りかが決まる。決まったら、庭の白い台が使われる。
朝までに、二枚ある。
塔に戻ったあの人の上着と、ドリスの裂けた袖だ。仮縫いには、まだ待ち針が十七本刺さったままだ。
リネットは針箱から細い針を出した。
糸を通そうとして、通らなかった。もう一度やって、また通らなかった。
手が、言うことを聞いていなかった。
「貸して」ドリスが手を出した。
「ドリスは、右手を上げてはいけません」
「左でやる」
「左では」
「リネット様が針持って、あたしが糸持つ」ドリスは言った。「それでいけるよ」
リネットは針を持った。
ドリスが左手で糸の先を潰して、針の穴へ入れた。四度目で通った。
「……ほらね」
「ありがとう」
「あたし、そういうのは得意なの」
二人ぶんの手で、糸一本を通した。
リネットは針を握った。握れた。まだ言うことを聞かない指だったけれど、握れた。
窓の下で、庭を横切る灯が四つ動いていた。追っていった槍が、まだ戻っていないのだ。
あの二人は、まだ城のどこかか、城の外にいる。
そして明日の朝、庭のあの台の前に立たされるのは、そのどちらでもない。




