↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/27

第16話: 六つの子の上着

 牢の詰所の卓に、六つの子の黒い上着が置いてあった。


 リネットは荷を抱えたまま、そこで足を止めた。


 襟の裏に、色の違う糸の目がある。太い糸をほどいて、細い麻糸で入れ直した縫い目だ。二日前の夕方、侍女の局でリネットの手が入れたものだった。


 自分の縫い目が真夜中の詰所の卓に出ているというのは、どう考えても妙な話だった。


 猶予の三日目は、もう深夜だった。鐘が二つ鳴れば未明で、そのあとに来る朝が四日目になる。


 その朝に、裁定が下る。


「……お帰りを、お待ちしておりました」


 長椅子から人が立った。侍女のロザだった。


 その隣で、丸まっていたものが跳ね起きた。


「リネット様!」


「ドリス。まだいたのですか」


「夕方から待ってたんだもん」ドリスは目を擦った。「ボタンにご飯やってきたよ。それだけ言いたくて残ってた」


「小魚は、ありましたか」


「無かった。パンの端っこで許してもらった」


 こんな夜に猫の献立の話ができるのは、この子だけだ。


 リネットは荷を長椅子へ置いた。さっき塔でやり直した仮縫いが入っている。待ち針が十七本、刺したままだ。朝までに縫い上げなければならない。


「針子さん」戸のところでクルトが槍を下ろした。「俺は次の鐘までだぞ」


「はい。ご苦労さまでございました」


「……ご苦労さまと言われる仕事じゃないんだよ、これは」




「その上着を、お直しいただきたいのです」


 ロザが言った。


 リネットは卓の一枚を手に取って、灯へ向けて裏と表を返した。


「どこがでございましょう」


「……」


「襟はわたくしが入れました。裾も落ちておりません。釦がひとつ緩んでおりますけれど、これは糸を替えるだけで済みます」


 ロザは、上着を見なかった。


「殿下が、お眠りになりません」


「え」


「三晩でございます」ロザは言った。「叔父上さまの棺の前に、明日の朝もお立ちになります。お支度をと申し上げても、わたくしの前ではこの上着に指一本触れてくださいません」


「……こわいのですね」


「分かりません。何もおっしゃいませんので」


 ロザは前掛けの端を握った。


「三晩、同じことだけおっしゃいます。針子の姉さまはどこにいるのか、と」


 リネットは口を開けたまま黙った。


「ロザさま。わたくしは、明日の朝に」


「存じております」


 声が、そこで小さくなった。


「存じております。ですから、今夜のうちにと思いました」


 詰所の灯の芯が、油の切れかけた音を立てた。


「上着は口実でございます」ロザは言った。「咎人を殿下の間へ上げる理由が、ほかにございません。直しを頼みに参ったということにいたします」


「そんなことをなさって、ロザさまは」


「叱られます」


 あっさり言われた。


「二日前、あなたに襟を直していただきました。あの襟に気づいたのはあなたで、気づかなかったのはわたくしです」ロザは頭を下げた。「わたくしは、あなたを死なせる言葉を御前で申しました。そのわたくしが、あなたに頼み事をしております」


「頭をお上げくださいまし」


「嘘は、もう上手になりました」ロザは言った。「これくらいの嘘は、平気でつけます」


 リネットは、卓の上着を胸のあたりで抱え直した。


 二尺に足りない一枚だ。抱えると、思ったより軽かった。


「……クルトさん」


「聞かなかったことにする」クルトは天井を見た。「いや。だめだ。今夜は聞く」


「え」


「俺が付いていく」クルトは天井から目を戻した。「咎人をひとりで歩かせたら、それは俺の首だ。付いていけば、ただの職務だ」


「……ずるいことをおっしゃいますわね」


「三日で覚えたんだよ」


「あたしも行く」ドリスが手を挙げた。


「お前は何の理由で行くんだ」


「針箱持ちです。あと、灯持ちもできます」


 クルトは口を開けて、そのまま閉じた。


「行くぞ。静かに歩け」




 回廊は暗かった。


 喪のあいだは油を控えると聞いている。それでも、燭台はひとつ置きに火が入っていた。


 角を折れたところで、リネットは足を止めた。


 いちばん奥の燭台にだけ、火が入っていない。


「クルトさん。あの灯が、消えております」


「切れたんだろ」クルトは槍を持ち替えた。「灯係は何をしてるんだ。喪だからって、奥から抜いていくやつがいる」


 リネットは動けなかった。


 あの晩もそうだった。北の回廊のいちばん奥だけが暗かった。灯を落とせという言いつけは、前の日の昼に来ていたのだとニコが教えてくれた。


「針子さん。どうした」


「……いえ」


 言いかけて、飲み込んだ。


 こわい、と言ってしまえばよかったのだ。けれど言えば、この人はきっと引き返させる。引き返せば、六つの子は四晩目も眠らない。


 リネットは上着を抱え直して、暗いほうへ歩いた。




 侍女の局は、天井から黒が垂れていた。


 喪服の染めをこの部屋でやるからだ。竿が二本渡してあって、湿った黒い布が床すれすれまで下がっている。奥の桶からまだ湯気が立っていた。


「ほかの侍女は」


「殿下の間の控えに詰めております。今夜はわたくしが、こちらに残る番でございます」


 黒い布の向こうで、小さな影が動いた。


「姉さま」


 布を押しのけて、子どもが出てきた。


 夜着のままだった。髪が寝ぐせで片側だけ立って、目の下が黒い。


「殿下。お足が冷えます」


「くつは、はいてる」


 ユリアンが足もとを見せた。片方しか履いていなかった。


「……もう片方は」


「わかんない」


 ドリスが膝をついて灯を下げた。片方の靴は、竿の下から出てきた。


 リネットは床に座って、その靴を子どもの足に入れた。踵をとんとんと押して、履かせた。


「あったかいね」


「ドリスの手が熱いのですわ」


「あたし、いつも熱いって言われる」ドリスは笑った。「冬は便利なんですよ」


 ユリアンが、はじめて口の端を動かした。




「殿下。上着をお持ちいたしました」


 リネットは黒い一枚を床へ広げた。


 ユリアンは見なかった。見ないようにしている顔だった。


「明日の朝、これをお召しになると伺いました」


「……」


「お召しになりたくないのですね」


「着ると、叔父上がいないことになる」


 小さな声だった。


「ロザは着なさいって言う。ロザが泣くから、着るって言った。でも着たら、ほんとに終わりになる」


 リネットは足もとの布を撫でた。


 撫でてから、何も言えずにいた。ここで気の利いたことを言える人になりたいと、生まれてはじめて思った。


「殿下。わたくしは頭がよくございません」


「うん」


「ですから、上着のことしか申し上げられません」


 ユリアンが、こちらを見た。


「これは、叔父上さまがいないことにする一枚ではございません。いなくなった方のことを覚えている一枚でございます」


「……おなじじゃないの」


「ちがいます。喪の色は、忘れるための色ではございませんもの」


 リネットは襟の裏を返して見せた。


「黒は、いちばん手のかかる色でございます。ひと息では染まりません。まず藍で下を染めて、その上に蘇芳《すおう》を重ねて、胡桃《くるみ》を重ねて、それでようやく黒に近づきます」


「なんかい、そめるの」


「四度も五度も」


「たいへんだね」


「たいへんでございます。この部屋の布も、ぜんぶそうです」


 ユリアンが、天井から下がった黒を見上げた。


「みんな、叔父上のために?」


「みなさま、そうでございます」


 子どもは黒い布に手を伸ばして、指の先で少し触った。


「……重い」


「濡れておりますもの」


 ユリアンは布を触ってから、床の上着の前に座った。


「着る」


「明日の朝で結構でございます」


「いま、着る」


 リネットは上着を持ち上げた。


 袖を通させながら、指のほうは勝手に測っていた。腕の付け根が、采寸に伺った日より細い。六つの子は三日で痩せるのだ。


「殿下。腕をお上げくださいまし」


 ユリアンが両腕を上げた。


 釦のところで、リネットの手が止まった。


「釦が、ひとつございません」


「……とれた」


「どちらに」


「ここ」


 ユリアンが手を開いた。


 汗で湿った掌に、黒い小さな釦がのっていた。握りしめた跡が、皮膚に赤く残っている。


 三日、この子はこれを掌に持っていたのだ。


 ロザが、口を押さえた。


 知らなかったのだ、と分かった。この方の前では指一本触れなかった子が、その裏で、たった一つだけ握っていた。


「お預かりしてよろしいでしょうか」


「……なくさない?」


「なくしません。仕立て師でございますから」


 リネットは針箱を開けた。


「ドリス。糸を」


「うん」


 黒い糸を通した。針を持つと手が落ち着くのは、この三日で分かっていた。


 釦の足を四度巻いて、根もとを固めた。玉止めは小さく作った。


「これで、指で引いても取れません」


「ひっぱっていい?」


「どうぞ」


 ユリアンが釦を引いた。二度引いて、三度引いて、取れないのを確かめた。


「姉さま」


「はい、なんでございましょう」


「戴冠のお召し物は、姉さまが縫うって言った」


 リネットは、針を刺す先を見失った。


「……はい。申し上げました」


「うそだったの」


「嘘ではございません。ただ」


 言葉が出てこなかった。


「ただ、わたくしより上手な方がいま縫っていらっしゃいます。寸法はわたくしが書きました。書いたとおりに縫ってくださると、約束していただきました」


「姉さまじゃないの」


「……はい。ちがいます」


「なんで」


 リネットはうつむいた。言えることが、ひとつもなかった。


「ごめんなさい」


 子どもは怒らなかった。怒られたほうが、たぶん楽だった。


「……いいよ」


「殿下」


「姉さま、明日いなくなるんでしょ」


 部屋の音が消えた。


 ロザが息を吸う音がした。ドリスが灯を持ち直す音がした。


「誰から、お聞きになりました」


「みんな言わない」ユリアンは言った。「言わないから、そうなんだと思った」


 リネットは針を針山へ戻した。


 六つの子に隠せることなんて、ほんとうは何ひとつないのだ。大人がみんなで黙れば、子どもはそれで察してしまう。


「殿下。ひとつだけ、確かなことがございます」


「なに」


「その釦は、もう取れません」


 ユリアンが、自分の胸の釦を見た。


「それだけ?」


「それだけでございます」リネットは言った。「わたくしが確かにできるのは、それだけでございました」


 ユリアンは、少しのあいだ黙っていた。


 それから、リネットの袖を握って離さなかった。




 その時刻、ニコは南の小門の外の壁にはりついていた。


 三日、この門を見ている。城の裏で油と炭を回す下役に聞いた話が本当なら、外から来る使いはここを通る。


 閂《かんぬき》が鳴った。


 頭巾が三つ、内側へ入っていった。


 三つだ。門番はいない。門番のいない門は、開いている門よりよほど悪い。


 腹のあたりが冷たくなった。三日前の晩に刃を当てられたのは、ちょうどこの高さだ。灯のことも下役のことも忘れろ、あの針子に近寄るな、次はその舌からいく――そう言われた。


 舌は、ニコの商売道具だ。よく分かっている人の脅し方だった。


「……勘弁してくれよ」


 声に出してみた。ちゃんと自分の声で出た。


 宰相の執務室までは、走って四半刻。四半刻あれば、三人はどこへでも着く。


 ニコは門をくぐった。


 三つの頭巾は、庭を横切って北の塔のほうへ折れた。


 塔にはあいつがいる。二十六家の前で自分が刺したと言った男だ。明日の朝には裁定が下る。口を閉じさせるなら今夜しかない。


 やっぱりそっちか、と思った。思った足で追いかけた。


 塔の戸のところで、詰めていた衛兵が音も立てずに崩れた。


 ニコは薪の山の陰で歯を噛んだ。


 二人が塔へ入る。一人が外に残る。


 下役の話では、塔の戸に錠はない。外から閂を一本掛けるだけだ。


 掛ける役が倒れれば、あとは板が一枚あるだけになる。


 しばらくして、上のほうで何かが倒れる音がした。人が倒れる音だった。


 それから、頭巾が二つだけ出てきた。


 戸は開けたままだった。閉める要のない相手だと思ったのだろう。


 二つは庭を斜めに横切って、城の本館のほうへ歩いていく。


 ニコは、そこで自分の考えが間違っていたことに気がついた。


 塔は、寄り道だ。


 二つの頭巾が向かっているのは、王太子の間のある側だった。


「――子どもか」


 言った瞬間に、膝が笑った。


 三日前の晩と同じだ。人の声ならいつでも出るのに、体のほうが言うことを聞かない。


 ニコは膝を叩いて、走った。


 走りながら、一度だけ振り返った。


 開いたままの戸口の暗がりで、壁づたいに何かが動いていた。動いて、庭のほうへ出てくる。


 止まらなかった。止まれば、間に合わない。




 局の戸の外で、槍が石を叩いた。


「誰だ」


 クルトの声が一度だけした。


 それから、音がした。


 肉を打つ音というのは、聞けば分かるのだと、リネットはそのとき知った。


 戸が内側へ開いた。黒い布が揺れて、竿が鳴った。


 布の向こうに、頭巾が二つ立っていた。


「殿下!」


 ロザが動いた。


 三日、前掛けのかくしから一度も出てこなかった左手が、そこで出た。出た手で、子どもの体を抱いた。


 リネットは何も持っていなかった。針箱はドリスが持っている。針山は卓の上で、卓は男たちのうしろだった。


「ドリス」


「うん」


「その子を、連れて」


「うん」


 ドリスが灯を床へ置いて、ユリアンを両腕で抱え上げた。膝が一度沈んだ。


「奥に戸があります」ロザが言った。「洗い場から、殿下の間の控えへ抜けられます」


「承知しました。ドリス。振り返らないで」


「うん」


 ドリスは走った。黒い布が三枚めくれて、その先で戸が鳴った。


 頭巾のひとりが、そちらへ足を向けた。


 リネットは、その前に立った。


 立つ、というだけのことだった。ほかに何もできなかった。


「どけ」


「……いやです」


 言ってから、自分の言い方に呆れた。仕立て場で値切られたときとまるで同じだった。


「どけと言った」


「あの子は、六つでございます」


「知ってる」


 背の高いほうが、頭巾の下で息を吐いた。笑ったのだと、あとで分かった。


 男が二歩出た。


 その外套の胸に、糸の跡があった。


 縫い留めてあったものを外した跡だ。針の穴が四つ、四角に並んでいる。


 リネットの膝が、勝手に一度折れかけた。


 同じ跡の話を、二人から聞いていた。ニコが城の下役から聞いた話と、マルゴさんが工房で見た使いの外套だ。


 それから、匂いがした。


 羊の脂の匂いだ。羊毛を洗う前の匂いだった。羊のいる土地から来た人の匂いだ。


 当てたわけではなかった。あの晩の話が、目の前に立っているだけだった。


「……あなたは、あの晩の」


「黙れ」


「北の、大きな」


 男の手が、リネットの襟を掴んだ。


 石の壁に背中を押しつけられて、爪先が浮いた。


「お前は明日死ぬ娘だ」


 耳のすぐ前で言われた。


「今夜死んでも、帳は一行も変わらん。……分かるか」


 分かった。


 この三日で聞いたどの話より、それはよく分かった。わたくしは、明日の朝に消される予定の一行だ。今夜消しても、誰も数え直さない。


 声が出なかった。


「ロザさま」


 やっと出たのは、その名前だった。


「お逃げくださいまし」


「いやです」ロザは動かなかった。「わたくしは、あの子の部屋付きでございます」




 階段の下から、声が降ってきた。


「――北の階だ。三人おる」


 リネットの体が固まった。


 宰相閣下の声だった。低くて、少しも急いでいない声だ。


 男の手が、襟から離れた。


「衛兵は東からまわれ。洗い場の戸を押さえよ」


 石の壁が、その声を四つにも五つにもして返した。


「宰相閣下が」


 ロザが言った。


 リネットは言えなかった。


 二日前、市場でこの声に呼び止められたことがある。振り向いたら、笑っている若い男が立っていた。人の声はいつでも出る、と言っていた。


「……ニコさん」


「灯を持て。奥まで入れよ」


 別の声になった。年寄りの当主の声だ。それから若い衛兵の声で「はっ」と応えた。


 一人で、三人ぶん喋っていた。


「引くぞ」頭巾の二人が顔を寄せた。「人が来る」


「まだ子どもが」


「引くと言った」


 二人が動きかけて、その足が止まった。


 階段のほうで、走る音がひとつだけ鳴ったからだ。


 石の廊下は正直だ。二人ぶんの足音を、一人ぶんには聞かせない。


 背の高いほうが、階段の口へ歩いていった。


「――待って」


 リネットは追った。追ったところで、何ができるわけでもなかった。


 男が黒い布の一枚を掴んで、階段の口の暗がりへ投げるように振った。


 布の下で、人が転がった。


「……よう」


 ニコの声だった。今度は、ニコの声だった。


「宰相閣下はもう寝てるよ。あの人ね、寝るのが早いんだ」


「お前か」


「うん。俺だ」


 男が屈んだ。布が動いて、ニコが笑うのが下から聞こえた。


「言ったろ。俺、有名すぎて困ってるんだ」


 刃が動いた。


 リネットは目を閉じられなかった。


 ニコが短い声を出した。


 布の端に、黒いものが広がった。濡れた黒に落ちた血は、色が分からない。分からないから、どれだけ出ているのかも分からなかった。


「――ニコさん!」


 リネットは叫んだ。


 自分の口から出た音が、自分のものだと思えなかった。


 背の高い男が、こちらを向いた。頭巾の下で、笑うのをやめていた。


「そうか。お前がいたな」


 男が階段の口から離れて、まっすぐ来た。


 三歩だった。


 叫べば、こちらを見る。当たり前のことだった。


 逃げようとして、足が竿にかかった。竿が落ちて、濡れた布が体に巻きついて、視界が黒くなった。


 布の向こうで、男の腕が上がるのが見えた。


 それから、その腕が横へ流れた。




 誰かが、男の肘のあたりを掴んで捻っていた。


 布を払いのけて、リネットは見た。


 借り着の黒い上着だった。袖の丈が長い。指の先が、袖から半分しか出ていない。


「――どうして」


 塔にいるはずの人だった。


 左の腕の外側に、上着ごと切れた線が入っていた。そこから下の袖が、黒よりもっと黒く濡れている。


 濡れたところが、袖の縫い目まで回りきっていた。ここで切られた血ではない。


 塔で受けた傷だ。


 裾には庭の土がついていた。走った人の跳ね上げ方ではない。歩いた人の、擦れた跡だ。


 背中が息で大きく動いていた。上がりきって、声にならないのだ。


 間に合ったのが、ぎりぎりだったのだ。


 さっき塔で測った肩だ。四分落ちて、三日何も食べていない体だった。


 その体で、男とぶつかっていた。


 布を掴む。押しつける。壁に肩を入れる。派手なことは何もしなかった。ただ、相手を階段の口から遠ざけていた。


 余った袖が、折れた竿の先に引っかかった。


 一度だけ、上がるべき腕が上がらなかった。


 男の刃が、その脇をかすめた。


「――袖ですわ!」


 リネットは叫んだ。


 叫んで、自分の言ったことに気が遠くなった。こんなときに、袖の丈の話をしている。


 けれど、それがリネットに分かる全部だった。あの上着は誰の寸法でもない一枚だ。さっき塔でそれに腹を立てて、腹を立てただけで、まだ縫い上げていなかった。


 男の刃が、二度目に上がった。


 そのときには、廊下の向こうから灯が四つ入ってきていた。




「動くな」


 衛兵の声が、今度は本物だった。灯を持った者が二人、槍が四人。


 頭巾の二人が、洗い場のほうへ走った。ドリスが子どもを連れて逃げた戸だ。


「そちらは押さえてございます」


 先に立っていた衛兵が言った。


 男たちが向きを変えて、窓の桟を蹴って、暗い庭のほうへ落ちていった。


 槍が三本、追って出ていった。


 ロザは壁ぎわに座り込んでいた。ニコは階段の口で布に埋まっていた。袖の長い上着の人は、壁に手をついて立っていた。


 立っているだけで、もう歩けないのが分かった。


「クルトさん」


 リネットは戸の外へ出た。


 クルトは戸のわきで横になっていた。槍は二歩ぶん先に転がっている。脇のあたりの上着が裂けていた。


「……針子さん、か」


「動かないでくださいまし」


「動けって言われても困る」


 リネットは局へ駆け戻って、竿から黒い布を一枚引き落とした。絞って、四つに折って、クルトの脇へ押しつけた。


「痛い」


「押さえます」


「押さえるな。痛い」


「押さえます」


 黒い布は、血が見えない。染めが濃いほど見えない。だから、指で重さを測るしかなかった。


 絞ったばかりの四つ折りの重さは知っている。それより重くなっていく速さで、どれだけ出ているかが分かる。


 速かった。


 分かっても、押さえて数えることしかできなかった。


「針子さん」


「はい」


「灯だ」


 クルトは天井のほうを見ていた。


「俺は、あの灯を見た」


「……存じております」


「切れたんだろって言ったんだよ、俺は」


「わたくしも、そう思うことにいたしました」


「……嘘つけ。あんた、あそこで足が止まってた」


 リネットは何も言わなかった。


「次はな」クルトは言った。「次に灯が消えてたら、俺が引き返す。あんたが何と言おうと、俺が決める」


 それが、この人の言い方だった。三日で覚えた。




 ニコは、目を開けていた。


 顎から頬にかけて、深い線が入っている。口の端が切れて、そこから下がぜんぶ濡れていた。


「ニコさん」


「……お針子さん」


「喋らないでくださいまし」


「ちょっとだけ」


 ニコは息を吸って、それから少し変な顔をした。


「あのさ。焼き串屋のばあさんの声、やろうと思ったんだけど」


「なさってくださいまし」


「出ない」


 リネットはニコの手を握った。振り払われなかった。


「三日前も、出なかったんだ」ニコは言った。「あのときは、俺の声だけ出た。今日は、逆」


「ニコさん」


「まあ、いいや。……あんたら、生きてるな?」


「生きております」


「あの子は」


「ドリスが連れて逃げました」


「……あの子ね」ニコの口の端が動いた。「いい足してる」


 それから首をほんの少し動かして、壁に手をついている人のほうを見た。


「おい」


 返事はなかった。


「……立ってるな。よし」


 それだけ言って、ニコは目を閉じた。動かなくなったので、リネットは指を鼻の下へ当てた。息はしていた。




 洗い場の戸が開いて、ドリスが出てきた。


 ユリアンを抱えたままだった。子どもは、ドリスの首に両腕を回してしがみついている。


「リネット様!」


「ドリス。腕」


 ドリスの右の袖が裂けて、二の腕に線が入っていた。


「戸のところでね」ドリスは言った。「押さえてたら、向こうから刺してきた。板ごしだったから、これだけ」


「座って」


「あとで。この子、下ろすと泣くから」


 ユリアンは声を出していなかった。声を出さずに、ドリスの襟をきつく握っていた。


「あんたね」ドリスは子どもの背を叩いた。「重いよ」


「……ごめんなさい」


「謝んなくていいよ。持てるうちは持つから」


「ドリス。その子は」


「知ってる。えらい人の子でしょ」ドリスは言った。「あたし、こういうのは分かんないよ。でも、六つだもん」


 リネットは、その裂けた袖を見た。


 この子は今夜、名前も身分も知らないまま、六つの子を抱えて暗い洗い場を走ったのだ。


「……あとで、そこ縫います」


「痛いのやだ」


「痛くないように縫います。……たぶん」


「たぶんかあ」


 ドリスが笑った。


 この夜、はじめて誰かが笑った。




 廊下の向こうから、灯がもう一つ入ってきた。


 衛兵が二人、先に立っていた。そのうしろに、灰色の背中があった。


 宰相オットマールだった。


 夜着ではなかった。肩が落ちて襟の浮いた、いつもの上着のままだ。寝ていなかったのだと、それで分かった。


 入口で、宰相は足を止めた。


 折れた竿。倒れた桶。床に広がった染めの湯。戸のわきで横になった衛兵。階段の口で布に埋まった市の男。壁に手をついて立っている、袖の長い上着の人。それから、六つの子を抱えた下働きの娘。


 宰相は、そのどれにも近寄らなかった。


「何人だ」


「こちらに参りましたのは、二人でございます」リネットは答えた。


「ほかには」


「……分かりません。塔にも、人が入ったのだと思います」


「なぜそう思う」


「あの方の腕の傷が、ここで受けたものではございませんので」


「二人は」


「窓から庭へ。槍が三本、追っていかれました」


「……そうか」


 宰相は、それから何も訊かなかった。部屋の中へ一歩入って、また止まった。


「私は、十一の家を数えた」


 誰にも向けていない声だった。


「二十六の席を、三度書き直した。座り順を間違えれば恨みになるからだ。……三日、そればかりを数えていた」


 リネットは、押さえた手を動かさなかった。


「三人を、数えていなかった」


 宰相は、そこで膝を折った。


 石の床に膝をついて、階段の口の布をめくった。ニコの顎から下を見て、自分の手をそこへ当てた。


 右の袖口だった。


 同じところへ、色の違う糸の継ぎが四枚重ねてある袖だ。あと二度も繕えば布が持たないと、昨日リネットが申し上げた袖だった。


 その袖が、黒い布より濃くなっていった。


「仕立て師」


「はい」


「昨日、この袖はもう持たぬと言ったな」


「……申し上げました」


「そうか」


 宰相は袖を替えなかった。手も離さなかった。


「医師を呼べ。三人だ。……いや、四人だ」


 衛兵が走った。


「宰相閣下。あの方は、逃げたのではございません」


 言ってから、慌てた。


「その、戸を開けたのはあの方ではなくて。塔に人が入ったので、それで」


「分かっている」


 宰相は、壁に手をついている人のほうを見なかった。


「塔の戸口に詰めておった者が倒れておると報せが来た。閂は抜かれたままだったそうだ」


「……それでは、あの方は」


「あれが逃げる男なら、二十六家の前に立たぬ」


 それだけだった。


「明日の朝、大広間は開く」宰相は言った。「開いて、どちらが偽りかを決める」


 リネットの手が、布の上で強くなった。


「仕立て師」


「……はい、宰相閣下」


「見たものを、覚えておけ」


 リネットは顔を上げた。


 昨日、この方はまるで反対のことをおっしゃった。お前の目が正しいことは私がいちばんよく知っている、だからこそ見ないでくれ、と。


「……宰相閣下」


「だが、明日は申すな」


「え」


「覚えておけ。だが、明日は申すな」


 同じ息で、二つのことを言われた。


「あの、それは」


「分からぬ」


 宰相は、ニコの顎を押さえたまま言った。


「私にも、分からぬ」


 この方の手は、一度も震えたことがなかった。十一の家の話をするときも、首が飛ぶと言うときもだ。


 その方が、分からぬとおっしゃった。




 衛兵が、袖の長い人の腕を取った。塔へ戻すのだ。


 取られる前に、その人は自分で壁から手を離した。


 離すときに、一度だけこちらを見た。言葉はなかった。


「あの」


 リネットは、押さえた手を離せないまま声だけ出した。


「袖を、直します」


 人が四人と衛兵が六人いる部屋で、それはずいぶん間の抜けた言葉だった。


「朝までに直します。……あれは、あなたの寸法ではございません」


 その人が口を開いて、何も言わずに閉じた。


 それから、うなずいた。


 うなずいて、連れられていった。




 医師が来て、人が三人運ばれていくころには、局の床の湯はもう冷えていた。


 ユリアンは、ドリスの腕から下りていた。下りて、リネットの横に座った。


 夜着の上に喪服を着て、片方の靴だけを履いている。


「姉さま」


「はい」


「クルトは死ぬ?」


 リネットは、その名前を子どもが知っていたことに驚いた。


「……死なせません」


「姉さまが?」


「お医者さまが」


「姉さまじゃないんだ」


「わたくしは、押さえていただけでございます」


 ユリアンは、床の黒い布を見ていた。


「ぼくのせいだね」


「ちがいます」


「みんな、ぼくのところに来た」


「殿下」


 言うべき言葉が、やっぱり思いつかなかった。だから、思いついたことをそのまま言った。


「今夜この部屋にいた人はみんな、あなたのために動きました」


「……うん」


「わたくしは、動けませんでした」リネットは言った。「立っていただけです。それも三歩で終わりました」


「なんで立ったの」


「分かりません」


「わかんないの?」


「ほんとうに、分かりません」


 リネットは自分の掌を見た。まだ黒く濡れていた。


「三日前に、叫べませんでしたので」


 言ってしまってから、口を押さえた。


 誰にも言っていないことだった。あの晩、血まみれの人を前にして、リネットは悲鳴も上げず、衛兵も呼ばなかった。呼ばなかったせいで、この三日のぜんぶが決まった。


 今夜、はじめて叫んだ。


 叫んだせいで、男はこちらを向いた。役に立ったことは、ひとつもなかった。


 それでも、叫んだ。


「ふうん」


 ユリアンは、それだけ言った。


 六つの子は、都合のいいところで分かったふりをしない。


 ロザが来て、子どもの胸の釦に指で触れた。


「……取れておりませんね」


「四度巻きましたもの」


「わたくしは、二度で済ませておりました」


「六つの子には、四度でございます」


 ロザは少し笑って、それから前掛けの上で両手を重ねた。左手も、そこにあった。


「殿下。お部屋へ戻りましょう」


「ここにいる」


「石の床では冷えます」


「姉さまがいる」


 ロザは、床に座った。侍女が咎人の隣に座るのを、この部屋の誰も咎めなかった。




 小さな窓から見上げても、東の空はまだ白んでいなかった。


 次の鐘が鳴れば未明だ。鳴ってしばらくすれば、四日目になる。


 四日目の朝、大広間が開く。開いて、どちらが偽りかが決まる。決まったら、庭の白い台が使われる。


 朝までに、二枚ある。


 塔に戻ったあの人の上着と、ドリスの裂けた袖だ。仮縫いには、まだ待ち針が十七本刺さったままだ。


 リネットは針箱から細い針を出した。


 糸を通そうとして、通らなかった。もう一度やって、また通らなかった。


 手が、言うことを聞いていなかった。


「貸して」ドリスが手を出した。


「ドリスは、右手を上げてはいけません」


「左でやる」


「左では」


「リネット様が針持って、あたしが糸持つ」ドリスは言った。「それでいけるよ」


 リネットは針を持った。


 ドリスが左手で糸の先を潰して、針の穴へ入れた。四度目で通った。


「……ほらね」


「ありがとう」


「あたし、そういうのは得意なの」


 二人ぶんの手で、糸一本を通した。


 リネットは針を握った。握れた。まだ言うことを聞かない指だったけれど、握れた。


 窓の下で、庭を横切る灯が四つ動いていた。追っていった槍が、まだ戻っていないのだ。


 あの二人は、まだ城のどこかか、城の外にいる。


 そして明日の朝、庭のあの台の前に立たされるのは、そのどちらでもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。