第15話: わたくしのために
「帰れ」
北の塔の部屋に入ってリネットが最初に言われたのは、それだった。
「……お測りしてから帰ります」
猶予の三日目の、夜だった。
明日の朝がどうなるかは、昼のうちに決まっている。ひとつの罪を二人で名乗り合っている以上、まずどちらが偽りかを大広間で裁く。そのあとで庭の台が使われる。
つまり明日が期日だ。誰の期日になるのかだけが、まだ空いている。
部屋の外でクルトが戸を閉めた。閉める前に、こう言い置いていった。
「俺は今夜、耳が遠い」
それきり、廊下で槍を持ち替える音がした。
塔の部屋は牢よりは広かった。寝台がひとつ。卓がひとつ。高いところに小さな窓があって、鉄の桟が入っている。卓の上で蝋燭が半分ほど短くなっていた。
男は寝台の端に腰かけていた。借り着の黒い上着のままだ。袖の丈がやはり長い。
その袖を見て、リネットは少し腹が立った。誰の寸法でもない一枚を着せられて、明日いちばん人に見られる場所へ出されるのだ。
「聞こえなかったのか。帰れと言った」
「聞こえました」
リネットは布巾の結び目をほどいた。
「でも、明日の朝までに仕上げなければなりません」
「要らない」
「王太后陛下のご命令でございます」
「……」
「それに」
裁った布を卓へ広げながら、リネットは言った。
「合わない上着をお納めするのは、仕立て師の恥ですの」
男がこちらを見た。
三日ぶりにまっすぐ見られた。ゆうべまでなら、それだけで足が竦んでいたと思う。
今夜は竦まなかった。竦んでいる暇がなかった。
「その前に召し上がってくださいまし」
リネットは抱えてきた椀を卓に置いた。
「なんだ」
「お粥です。クルトさんが半分残してくださいました」
「衛兵が咎人に飯を分けるか」
「分けてくださいました」
男は椀を見て、それから手を出さなかった。
「お前が食え」
「わたくしはいただきました」
「嘘だな」
「……半分だけ本当です」
口が滑って、リネットは自分の舌を恨んだ。嘘は下手なのだ。昔からそうだった。
男が椀を取った。匙を使わずに縁から一口すすって、それから動きが止まった。
「塩が入ってる」
「牢のお粥には入りませんの。昨日までは入っておりませんでした」
「……そうか」
「入れてくださった方は、名乗ってくださいません」
男は二口目を飲んだ。飲みながら何も言わなかった。
その飲み方で知れてしまう。この人は今日、たぶん何も口にしていない。
「腕を上げていただけますか」
「なぜ」
「仮縫いをいたします」
リネットは布を持ち上げて見せた。
「仮縫いというのは、本式に縫う前に粗い糸でいったん形にすることです。それを体に当ててみて、合わないところを直します。ここで直しておかないと、あとで襟が浮きます」
「明日の朝までしか着ない」
「一度でも着るのなら、合っていなければなりません」
男は動かなかった。
それから立った。
立つときに寝台の縁へ一度手をついた。三日前の廊下では、そんなつき方をしない人だった。
リネットはそれを見ないふりをした。見ないふりだけは、この三日でずいぶん上手くなった。
「上着をお脱ぎください」
「……」
「借りもののほうです。寸法が取れませんので」
男が黒い上着を脱いだ。下は粗い麻の襦袢だった。
肩の骨の形が、布の上からでも分かった。
リネットは巻尺を出して、首のうしろへ回した。
「首まわり、一尺三寸。春と同じでございます」
声が思ったより落ち着いて出た。
数を読み上げていれば手が動く。手が動いているあいだは、余計なことを考えずに済む。この三日、それで持たせてきた。
「肩の先が四分落ちております」
「そうか」
「背中が前へ丸くなっておいでですので、後ろ丈が三分足りません。腕の付け根も細くなりました。このままお着せすると、袖のところが余ります」
「三日でそんなに変わるか」
「変わります」リネットは巻尺を巻き直した。「人の体は正直ですもの」
背に手を回して、布を合わせた。
男の体がこわばった。
春の終わりと同じこわばり方だった。人に触られ慣れていない体は、触られるたびに一度そこで止まる。
「痛くありませんでしたか」
男の息が浅くなった。
「……お前は、それを毎回訊くのか」
「訊きます」
「変わらないな」
「あなたも変わっておられません」
そう言って、リネットは待ち針を口にくわえた。くわえていれば、それ以上喋らずに済む。
男もそれきり口を開かなかった。
昼の御前でも、王太后陛下の私室でも、この人は知らないと言い続けた。ここでは言わなかった。
言ってくれればよかったのに、と思った。言ってくれれば、まだ知らない者どうしでいられたのに。
待ち針を打っていくと、胸のあたりへ来た。
リネットの指がそこで止まった。
男の襦袢の胸に、洗った跡がある。色が抜けて、輪の形が薄く残っていた。
自分の服とおなじだ。
「あの」
「なんだ」
「昨日、宰相閣下に申し上げたことがございます」
「……」
「あなたの胸についていた血は、飛んだ血ではありませんでした。擦れておりました」
男は動かなかった。
「肉屋さんの前掛けを、わたくしは何枚も繕っております。刃を入れれば血は点々と前へ飛ぶのです。洗っても、その点だけは落ちません」
リネットは待ち針をもう一本打った。
「擦れた血はそうなりません。人を抱き起こしたときの付き方でございます」
「医者みたいなことを言う」
「医者ではございません。前掛けを繕っただけです」
「……」
「ちがいますか」
「ちがわない」
あっさり返されて、リネットは待ち針を落としそうになった。
三日、こわくて訊けなかったことだった。宰相閣下にも王太后陛下にも通らなかったことだった。それを本人が一言で認めた。
「あの晩、何がございましたの」
「訊くな」
「訊きます」
「お前は、そこだけ強情だな」
男は壁のほうを向いた。向いてから話しはじめた。
「物音がした。行ったら部屋から出てくる男とすれ違った。追ったが庭で見失った」
「……その方は」
「顔は見えなかった。雇われだ。ああいうのは自分の考えで人を刺したりしない」
「では、雇った方が」
「いる」
それだけだった。
「どなたですか」
「言えば、お前が今夜のうちに死ぬ」
男はそこで一度言葉を切った。
「北のほうに大きな家がある。それだけにしておけ」
北。
リネットはその一言を胸の底へ落とした。落としたきり拾わないことにした。拾って何かが分かってしまったら、たぶん今夜は縫えなくなる。
「戻ったら、あの方が倒れていた」男は言った。「もう息はなかった。それでも床に置いたままにはできなかった」
「だから抱き起こされたのですね」
「……ああ」
「そこへ、わたくしが参りました」
「そうだ」
蝋燭の芯がぱちりと鳴った。
「ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
「まだあるのか」
「あの晩の肩掛けでございます」
男の背中がはっきりと動いた。
「色の褪せた、粗い毛織りの一枚です。わたくしがあなたの肩へかけました」
「……」
「あれは、どうなさいました」
「焼いた」
リネットは待ち針の袋を握った。
「その晩のうちに竈へ入れた」
「……なぜですの」
「あれが俺から出たら、お前は終わりだ」
男は目を上げなかった。
「血まみれの男に肩掛けをかけて逃がした針子が、届け物に来ただけの娘で通ると思うか」
リネットは何も返せなかった。
「お前はあのとき指をさされて済んだ。手伝ったと分かれば、済まない」
「……はい」
この三日、焼かない人にばかり会ってきた。
お師匠さまの帖面を焼けと言われて、リネットは焼けなかった。宰相閣下は折り目の毛羽立った紙を焼いていらっしゃらない。マルゴさんはすり替えの一着を焼かずに取ってあった。
はじめて、焼いた人に会った。
しかも焼かれたのは、わたくしのものだった。
仮縫いの布を、リネットは男の体から外した。
手が震えて、待ち針を打てなくなったからだ。震えているのを見られたくなくて卓のほうを向いた。
「アルノーさま」
男がびくりとした。
殴られた人の動き方だった。
「……その呼び方はやめろ」
「ごめんなさい」
「ニコが十のとき、一度言って歯が折れた」
「伺いました」
「なら、やめてくれ」
リネットは少し考えた。
「では、アルノーさん」
男がこちらを見た。
変な顔をしていた。怒っているのでも笑っているのでもない。何と呼ばれたのか分からない、という顔だった。
「……なんだ、それは」
「クルトさんやニコさんと同じでございます」
「衛兵と芸人と同じか」
「はい」
男は口をつぐんだ。
それから寝台に腰を下ろした。座り方がさっきよりだいぶ雑だった。
「アルノーさん。数えたものが、いくつかございます」
リネットは布を卓に広げ直した。
「うちの仕立て場の掛け金は去年から壊れておりました。内側から掛けるあれです。三日前に新しいのが打ってございました」
「知らん」
「水瓶に水が足してありました。竈のわきの薪も割ってありました。糸箱が片づけてありました」
「知らん」
「猫の皿に小魚が入っておりました」
「……」
「うちの子は鰯では顔をそむけますの。入っていたのは上等なほうでした」
男が天井を見た。
「猫の話をされても困る」
「困っていただきたくて申しております」
リネットは指を折りはじめた。
「祖母の部屋の戸に、薬と炭と卵が三度置いてありました。一日目からです。宰相閣下は、薬代のことは昨日の夕方に決めたとおっしゃいました。合いません」
「宰相に訊け」
「訊きました」
「……」
「あの方はご自分のなさったことをご自分でおっしゃる方でした。クルトさんを三日つづけて付けたのも、執務室の火も、昨日からの薬代も、全部ご自分だと。それより前のものはちがうと」
リネットは指を握り込んだ。
「宰相閣下のぶんを引いた残りが、まだこんなにございます」
男は答えなかった。
「市で、ニコさんに針をいただきました」
「……」
「二本ではなく三本でございました。折れる場合の勘定まで入っていたのです」
「あいつは世話焼きだ」
「ニコさんは、頼まれたと申しておりました」
男の肩がほんのわずかに動いた。
「誰にとお訊きしても、言えないとしかおっしゃいません。ただ、ひとつだけ教えてくださいました」
リネットはそこで息を継いだ。
「頼んだ方が言ったのは、ひとつだけだったと」
「やめろ」
「腹を空かせないでやってくれ」
三日ぶん落ちた男の肩が、そこで一度だけ、上がらなかった。
窓の外で遠くの鐘が半分だけ鳴って、風に持っていかれた。
「……ニコか」
男が言った。
「あいつ、しゃべったのか」
「わたくしがしつこかったのです」
「……そうか」
「アルノーさん」
「なんだ」
「三日、わたくしは親切にされたと思っておりました」
リネットは卓の布を撫でた。
「親切という言葉は便利ですの。そう呼んでしまえば、どこから来たものかを考えなくて済みます。二十年、そうやってまいりました」
「なら、そう呼んでおけ」
「もう無理でございます」
「なぜ、そこまでなさいますの」
返事はなかった。
「わたくしはあなたに何もして差し上げておりません。上着だって、まだ縫い上がってもいないのに」
「……」
「教えてくださいまし。明日になったら、伺えなくなります」
しばらく、何もない時間があった。
卓の蝋燭が指の幅ぶんだけ短くなった。
「あの晩、お前は俺になんて言った」
リネットの手から巻尺が落ちた。
床で二度はねて、卓の脚のところで止まった。
「……覚えて、いらっしゃるのですか」
「三日、それしか考えてない」
「わたくしは」
「言ってみろ」
「……申し上げられません」
「なら、俺が言う」
男が立った。
立ってこちらへ二歩だけ来た。それ以上は来なかった。
「『行ってください』」
リネットは耳を塞ぎたくなった。塞げなかった。両手が、落ちた巻尺を拾おうとした形のまま止まっていた。
「『……あなたは、生きていて、いいんです』」
男の声は平らだった。
平らにしないと最後まで言えないのだと、リネットにも分かった。人が声を平らにするときの顔を、この三日でずいぶん見た。
「一字も違えてない」男は言った。「たしかめてくれ」
「……はい」
「合ってるか」
「合っております」
言ったとたん、床が遠くなった気がした。
「二十年、誰にも言われたことがなかった」
男はそこに立ったまま言った。
「洗礼にも名寄せにも、税の帳にもない。死んだことになってる。墓まで出てる。中身は五つの子の上着だ」
その一行なら、わたくしが読みました。
声にはならなかった。
「そういう男があの晩、血まみれで床に座ってた」
リネットは動けなかった。
「そこへ、名前も知らない針子が来た。逃げも叫びもしないで俺の手に手を重ねて、そう言った」
「わたくし、そんな」
「言った」
「……はい」
「言われたら、生きるしかないだろう」
蝋燭が、じじ、と鳴った。
リネットはその音のほうを見た。見ていないと立っていられなかった。
「俺は逃げた。お前が逃がしたからだ」
リネットは、うなずいた。
「そのあと、お前が指をさされる声を廊下の暗いところで聞いてた」
リネットの指が卓の縁を掴んだ。
「聞いて、それでも出ていかなかった。出ていけば素性を掘られる。掘られれば、あの子が危ない」
「……ユリアン殿下」
「六つだ」
男はそこで少し黙った。
「だから歩いた。歩きながら、それは違うだろうと思った」
「アルノーさん」
「お前が俺を生かした。……なら、その命の使いみちは俺が決める」
リネットは、そこでやっと分かった。
分かってしまった。
わたくしが、この人を殺すのだ。
三日前のあの晩、あの一言を言わなければよかったのだ。黙って背中を押しておけば、この人はどこかで生きていた。名前も墓も帳もないまま、それでも生きていた。
わたくしが渡してしまった。渡したせいで、この人は使いに来た。
誰かのためになる嘘なら、二十年ついてきた。人の役に立つほうの嘘だと思っていた。
たった一度、本当のことを言った。
それがいちばん、いけなかった。
「なんで、あんなことを言った」
男が訊いた。
「……分かりません」
「分からないで言ったのか」
「はい。口が勝手に」
男が笑った。
笑い方がうまくいっていなかった。
「二十年待って、そんなものか」
「ごめんなさい」
「謝るところじゃない」
リネットは袖の内をきつく握った。
あんなことを、と言われてはじめて考えた。誰かに同じことを言ってもらったことが、自分にあっただろうか。
考えて、ひとつも出てこなかった。
仕事は褒められる。手も褒められた。名前を呼んでもらえた日は、書付を三度読み返した。
けれど、そこにいていいと言われたことは一度もない。
なかったから口から出てしまったのかもしれないと思って、リネットは首を振ってその考えを追い払った。
あの晩、男の肩には粗い毛織りがかかったままだった。血の匂いを一枚ぶん遮ってくれていた。
城の裏の勝手口は、夜のあいだ薪を運ぶために閂が抜いてある。二十年市井で育った男は、そういうことを知っている。誰にも見咎められずに外へ出た。
職人街まで走らずに歩いた。走る男は目につくからだ。
ニコの家の戸を三度叩いた。
寝ぼけた顔が出てきて、それから一気に醒めた。
「……なにやったんだ、おい」
「竈に火を入れてくれ」
「先に説明しろよ」
「頼む」
ニコはそれ以上訊かずに火を熾した。男は肩掛けをその上へ広げた。狭い土間が、じきに焦げた獣の匂いになった。
「それ、あんたのじゃないだろ」ニコが言った。「そんな安いの、あんた持ってない」
「ああ」
「なら、なんで焼くんだ」
「出たら、あの子が助からない」
ニコが火箸で燃えかけの端を押し込んだ。
「あんたが助かる話はしないんだな」
「する気がない」
「……そうかよ」
毛織りが半分ほど灰になったころ、男は言った。
「ニコ。頼みがある」
「聞くよ」
「城の牢に娘が入る。今夜だ」
「うん」
「腹を空かせないでやってくれ」
ニコは火箸を持ったままこちらを見た。
「それだけか」
「それだけだ」
「名前は」
「知らない」
「あんたの名前は」
「言うな」
ニコが火箸を放って、頭をかいた。
「あのさ。俺はね、そういうやつがいちばん頭にくるんだよ」
男は答えなかった。
耳の底に、まだ声が残っていた。血に濡れた手の上へ細い指が乗ってきたときの、あの声だ。
夜が明ける前に、男は宰相の屋敷の裏口を叩いた。
一度目だった。
「そんなの、いやです」
声が勝手に出た。
リネットは自分の言った言葉に驚いた。驚いてから、もう一度言った。
「いや。あなたが死ぬなんて、いや」
「決まったことだ」
「決まっていても、いやです」
「二十六家が聞いた」男は言った。「真でも偽りでも、名乗った者は帰らない。宰相がそう言った」
「聞きました」
「なら分かるだろう」
「分かりません」
リネットは卓の布を掴んだ。
「わたくしは頭がよくありません。何をどうすればいいのかも分かりません。明日の朝あの広間で何を申し上げればいいのかも、まだひとつも思いつきません」
「思いつくな」
「それでも、いやです」
顎の先が濡れて、そこでやっと、泣いているのだと気がついた。袖で押さえた。押さえるそばから、また落ちた。
「……こわい」
言葉が勝手にこぼれた。
「でも、あなたを、死なせたくない」
男が動いた。
二歩ぶんの距離を詰めて、借り着の袖でリネットの頬を拭った。丈の余った袖だった。指では触らなかった。布ごしだった。
仕立て師の目は、こんなときでも仕事をする。袖が長すぎる、と思った。
思ったとたん、よけいに涙が出た。
「泣くな」
「泣きます」
「泣かれると困る」
「困ってくださいまし」
男の手が止まった。
止まって、それから袖を下ろした。
「……お前は、変わってるな」
「よく言われます」
「褒めてない」
「存じております」
リネットはずるずると洟をすすった。淑女の音ではなかった。おばあさまが聞いたら、たぶん寝台から起き上がって叱る。
男が小さく笑った。
今度はうまくいっていた。
「ひとつ、頼んでいいか」
「はい」
「明日の朝、それを着る」
男は卓の上の仮縫いを見た。
「借り着で立ちたくない。……ちゃんと縫え」
リネットは洟をすすったまま、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
それから待ち針の袋を開けた。
やらなければならないことがあると、手は動く。二十年、この手はそうやって覚えてきた。
「もう一度お立ちくださいませ。肩を直します」
男が立った。
リネットは布を体に当てて、肩の線を指で押さえた。四分ぶん、縫い目を上げる。上げれば襟が首から離れない。
背中側の丈を三分足す。腕の付け根を細く詰める。
やりながら、リネットは考えていた。
この一着を着てこの人は明日の朝、二十六家の前に立つ。立ったあと、庭の白い台へ行くのかもしれない。
それでも、襟が首から浮いているよりはいい。
そんなことしか思いつかない自分が情けなかった。情けないまま、指は正確に動いた。
「肩に印をつけます。動かないでくださいませ」
「刺すなよ」
「刺しません」
「昼間、諸侯の前で刺されたばかりだ」
「……ふふ」
こんな夜に笑うところではない。
男もそれきり口を開かなかった。開かないでいてくれた。
仮縫いが体から外れたのは、蝋燭が卓に近づくころだった。
リネットは布を畳んで白墨を握った。
白墨は布に印をつけるための石だ。柔らかくて、縫ってしまえば粉が落ちて消える。消えるから、帖面に写しておかなければ残らない。
「アルノーさん。お師匠さまの采寸帖のことでございますけど」
「なんだ」
「わたくしの帖面には、名前の欄が空いた頁が二つございます」
「……」
「二十年前の頁と、春の終わりの頁でございます。この春から、別の方の頁として離して綴じてまいりました」
リネットは布の裏に今夜の数を書きつけた。四分。三分。腕の付け根。
「二十年前のほうには、直しの覚えがひとつもございません。子どもの着物は、半年もすれば必ずどこかを直します。裾を下ろすか、肘に当てを入れるか。一つも直しの入らない行は、袖を通した人のいない行でございます」
「……」
「今夜の数を書けば、繋がります。……この世であの二つを繋げられるのは、たぶんわたくしだけでございます」
男からは、何も返ってこなかった。
リネットは白墨を置いた。
置いてから顔を上げた。
「次のお直しは、いつ伺えばよろしいでしょう」
男の目が大きくなった。
三日前のあの晩、松明の光の手前で見た顔と同じ目のしかただった。
「……お前」
「肩は、これから戻ります。ちゃんと召し上がってちゃんと眠れば、半年で春の数に戻ります。そうしたら、また合わなくなります」
「おい」
「そのときは、またお測りし直さなければなりません」
男は答えなかった。
答えられないのだと、リネットにも分かっていた。
「……お答えがないのでしたら、勝手に伺います」
男が、声を出さずに一度だけ笑った。
人に向かってそんな言い方をしたのは、生まれてはじめてだった。巻尺を握った指が、汗で滑った。
廊下でクルトが二度咳をした。次の鐘が近いという合図だ。
リネットは布巾を結び直して、針箱を閉じた。
戸のところで一度だけ振り返った。
男は卓の椀を持ち上げて、残りの粥を飲んでいた。
二十年前の頁と、春の終わりの頁のあいだには、知らない人の頁が何十枚も挟まっている。
明日、あいだを繋ぐ。
名前の欄は、空けたままでいい。あの二つが一人ぶんだと知っている者が、この世にひとりいればいい。




