↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/27

第15話: わたくしのために

「帰れ」


 北の塔の部屋に入ってリネットが最初に言われたのは、それだった。


「……お測りしてから帰ります」


 猶予の三日目の、夜だった。


 明日の朝がどうなるかは、昼のうちに決まっている。ひとつの罪を二人で名乗り合っている以上、まずどちらが偽りかを大広間で裁く。そのあとで庭の台が使われる。


 つまり明日が期日だ。誰の期日になるのかだけが、まだ空いている。


 部屋の外でクルトが戸を閉めた。閉める前に、こう言い置いていった。


「俺は今夜、耳が遠い」


 それきり、廊下で槍を持ち替える音がした。


 塔の部屋は牢よりは広かった。寝台がひとつ。卓がひとつ。高いところに小さな窓があって、鉄の桟が入っている。卓の上で蝋燭が半分ほど短くなっていた。


 男は寝台の端に腰かけていた。借り着の黒い上着のままだ。袖の丈がやはり長い。


 その袖を見て、リネットは少し腹が立った。誰の寸法でもない一枚を着せられて、明日いちばん人に見られる場所へ出されるのだ。


「聞こえなかったのか。帰れと言った」


「聞こえました」


 リネットは布巾の結び目をほどいた。


「でも、明日の朝までに仕上げなければなりません」


「要らない」


「王太后陛下のご命令でございます」


「……」


「それに」


 裁った布を卓へ広げながら、リネットは言った。


「合わない上着をお納めするのは、仕立て師の恥ですの」


 男がこちらを見た。


 三日ぶりにまっすぐ見られた。ゆうべまでなら、それだけで足が竦んでいたと思う。


 今夜は竦まなかった。竦んでいる暇がなかった。




「その前に召し上がってくださいまし」


 リネットは抱えてきた椀を卓に置いた。


「なんだ」


「お粥です。クルトさんが半分残してくださいました」


「衛兵が咎人に飯を分けるか」


「分けてくださいました」


 男は椀を見て、それから手を出さなかった。


「お前が食え」


「わたくしはいただきました」


「嘘だな」


「……半分だけ本当です」


 口が滑って、リネットは自分の舌を恨んだ。嘘は下手なのだ。昔からそうだった。


 男が椀を取った。匙を使わずに縁から一口すすって、それから動きが止まった。


「塩が入ってる」


「牢のお粥には入りませんの。昨日までは入っておりませんでした」


「……そうか」


「入れてくださった方は、名乗ってくださいません」


 男は二口目を飲んだ。飲みながら何も言わなかった。


 その飲み方で知れてしまう。この人は今日、たぶん何も口にしていない。




「腕を上げていただけますか」


「なぜ」


「仮縫いをいたします」


 リネットは布を持ち上げて見せた。


「仮縫いというのは、本式に縫う前に粗い糸でいったん形にすることです。それを体に当ててみて、合わないところを直します。ここで直しておかないと、あとで襟が浮きます」


「明日の朝までしか着ない」


「一度でも着るのなら、合っていなければなりません」


 男は動かなかった。


 それから立った。


 立つときに寝台の縁へ一度手をついた。三日前の廊下では、そんなつき方をしない人だった。


 リネットはそれを見ないふりをした。見ないふりだけは、この三日でずいぶん上手くなった。


「上着をお脱ぎください」


「……」


「借りもののほうです。寸法が取れませんので」


 男が黒い上着を脱いだ。下は粗い麻の襦袢《じゅばん》だった。


 肩の骨の形が、布の上からでも分かった。


 リネットは巻尺を出して、首のうしろへ回した。


「首まわり、一尺三寸。春と同じでございます」


 声が思ったより落ち着いて出た。


 数を読み上げていれば手が動く。手が動いているあいだは、余計なことを考えずに済む。この三日、それで持たせてきた。


「肩の先が四分落ちております」


「そうか」


「背中が前へ丸くなっておいでですので、後ろ丈が三分足りません。腕の付け根も細くなりました。このままお着せすると、袖のところが余ります」


「三日でそんなに変わるか」


「変わります」リネットは巻尺を巻き直した。「人の体は正直ですもの」


 背に手を回して、布を合わせた。


 男の体がこわばった。


 春の終わりと同じこわばり方だった。人に触られ慣れていない体は、触られるたびに一度そこで止まる。


「痛くありませんでしたか」


 男の息が浅くなった。


「……お前は、それを毎回訊くのか」


「訊きます」


「変わらないな」


「あなたも変わっておられません」


 そう言って、リネットは待ち針を口にくわえた。くわえていれば、それ以上喋らずに済む。


 男もそれきり口を開かなかった。


 昼の御前でも、王太后陛下の私室でも、この人は知らないと言い続けた。ここでは言わなかった。


 言ってくれればよかったのに、と思った。言ってくれれば、まだ知らない者どうしでいられたのに。




 待ち針を打っていくと、胸のあたりへ来た。


 リネットの指がそこで止まった。


 男の襦袢の胸に、洗った跡がある。色が抜けて、輪の形が薄く残っていた。


 自分の服とおなじだ。


「あの」


「なんだ」


「昨日、宰相閣下に申し上げたことがございます」


「……」


「あなたの胸についていた血は、飛んだ血ではありませんでした。擦れておりました」


 男は動かなかった。


「肉屋さんの前掛けを、わたくしは何枚も繕っております。刃を入れれば血は点々と前へ飛ぶのです。洗っても、その点だけは落ちません」


 リネットは待ち針をもう一本打った。


「擦れた血はそうなりません。人を抱き起こしたときの付き方でございます」


「医者みたいなことを言う」


「医者ではございません。前掛けを繕っただけです」


「……」


「ちがいますか」


「ちがわない」


 あっさり返されて、リネットは待ち針を落としそうになった。


 三日、こわくて訊けなかったことだった。宰相閣下にも王太后陛下にも通らなかったことだった。それを本人が一言で認めた。


「あの晩、何がございましたの」


「訊くな」


「訊きます」


「お前は、そこだけ強情だな」


 男は壁のほうを向いた。向いてから話しはじめた。


「物音がした。行ったら部屋から出てくる男とすれ違った。追ったが庭で見失った」


「……その方は」


「顔は見えなかった。雇われだ。ああいうのは自分の考えで人を刺したりしない」


「では、雇った方が」


「いる」


 それだけだった。


「どなたですか」


「言えば、お前が今夜のうちに死ぬ」


 男はそこで一度言葉を切った。


「北のほうに大きな家がある。それだけにしておけ」


 北。


 リネットはその一言を胸の底へ落とした。落としたきり拾わないことにした。拾って何かが分かってしまったら、たぶん今夜は縫えなくなる。


「戻ったら、あの方が倒れていた」男は言った。「もう息はなかった。それでも床に置いたままにはできなかった」


「だから抱き起こされたのですね」


「……ああ」


「そこへ、わたくしが参りました」


「そうだ」


 蝋燭の芯がぱちりと鳴った。




「ひとつだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか」


「まだあるのか」


「あの晩の肩掛けでございます」


 男の背中がはっきりと動いた。


「色の褪せた、粗い毛織りの一枚です。わたくしがあなたの肩へかけました」


「……」


「あれは、どうなさいました」


「焼いた」


 リネットは待ち針の袋を握った。


「その晩のうちに竈へ入れた」


「……なぜですの」


「あれが俺から出たら、お前は終わりだ」


 男は目を上げなかった。


「血まみれの男に肩掛けをかけて逃がした針子が、届け物に来ただけの娘で通ると思うか」


 リネットは何も返せなかった。


「お前はあのとき指をさされて済んだ。手伝ったと分かれば、済まない」


「……はい」


 この三日、焼かない人にばかり会ってきた。


 お師匠さまの帖面を焼けと言われて、リネットは焼けなかった。宰相閣下は折り目の毛羽立った紙を焼いていらっしゃらない。マルゴさんはすり替えの一着を焼かずに取ってあった。


 はじめて、焼いた人に会った。


 しかも焼かれたのは、わたくしのものだった。




 仮縫いの布を、リネットは男の体から外した。


 手が震えて、待ち針を打てなくなったからだ。震えているのを見られたくなくて卓のほうを向いた。


「アルノーさま」


 男がびくりとした。


 殴られた人の動き方だった。


「……その呼び方はやめろ」


「ごめんなさい」


「ニコが十のとき、一度言って歯が折れた」


「伺いました」


「なら、やめてくれ」


 リネットは少し考えた。


「では、アルノーさん」


 男がこちらを見た。


 変な顔をしていた。怒っているのでも笑っているのでもない。何と呼ばれたのか分からない、という顔だった。


「……なんだ、それは」


「クルトさんやニコさんと同じでございます」


「衛兵と芸人と同じか」


「はい」


 男は口をつぐんだ。


 それから寝台に腰を下ろした。座り方がさっきよりだいぶ雑だった。




「アルノーさん。数えたものが、いくつかございます」


 リネットは布を卓に広げ直した。


「うちの仕立て場の掛け金は去年から壊れておりました。内側から掛けるあれです。三日前に新しいのが打ってございました」


「知らん」


「水瓶に水が足してありました。竈のわきの薪も割ってありました。糸箱が片づけてありました」


「知らん」


「猫の皿に小魚が入っておりました」


「……」


「うちの子は鰯《いわし》では顔をそむけますの。入っていたのは上等なほうでした」


 男が天井を見た。


「猫の話をされても困る」


「困っていただきたくて申しております」


 リネットは指を折りはじめた。


「祖母の部屋の戸に、薬と炭と卵が三度置いてありました。一日目からです。宰相閣下は、薬代のことは昨日の夕方に決めたとおっしゃいました。合いません」


「宰相に訊け」


「訊きました」


「……」


「あの方はご自分のなさったことをご自分でおっしゃる方でした。クルトさんを三日つづけて付けたのも、執務室の火も、昨日からの薬代も、全部ご自分だと。それより前のものはちがうと」


 リネットは指を握り込んだ。


「宰相閣下のぶんを引いた残りが、まだこんなにございます」


 男は答えなかった。


「市で、ニコさんに針をいただきました」


「……」


「二本ではなく三本でございました。折れる場合の勘定まで入っていたのです」


「あいつは世話焼きだ」


「ニコさんは、頼まれたと申しておりました」


 男の肩がほんのわずかに動いた。


「誰にとお訊きしても、言えないとしかおっしゃいません。ただ、ひとつだけ教えてくださいました」


 リネットはそこで息を継いだ。


「頼んだ方が言ったのは、ひとつだけだったと」


「やめろ」


「腹を空かせないでやってくれ」


 三日ぶん落ちた男の肩が、そこで一度だけ、上がらなかった。


 窓の外で遠くの鐘が半分だけ鳴って、風に持っていかれた。


「……ニコか」


 男が言った。


「あいつ、しゃべったのか」


「わたくしがしつこかったのです」


「……そうか」


「アルノーさん」


「なんだ」


「三日、わたくしは親切にされたと思っておりました」


 リネットは卓の布を撫でた。


「親切という言葉は便利ですの。そう呼んでしまえば、どこから来たものかを考えなくて済みます。二十年、そうやってまいりました」


「なら、そう呼んでおけ」


「もう無理でございます」




「なぜ、そこまでなさいますの」


 返事はなかった。


「わたくしはあなたに何もして差し上げておりません。上着だって、まだ縫い上がってもいないのに」


「……」


「教えてくださいまし。明日になったら、伺えなくなります」


 しばらく、何もない時間があった。


 卓の蝋燭が指の幅ぶんだけ短くなった。


「あの晩、お前は俺になんて言った」


 リネットの手から巻尺が落ちた。


 床で二度はねて、卓の脚のところで止まった。


「……覚えて、いらっしゃるのですか」


「三日、それしか考えてない」


「わたくしは」


「言ってみろ」


「……申し上げられません」


「なら、俺が言う」


 男が立った。


 立ってこちらへ二歩だけ来た。それ以上は来なかった。


「『行ってください』」


 リネットは耳を塞ぎたくなった。塞げなかった。両手が、落ちた巻尺を拾おうとした形のまま止まっていた。


「『……あなたは、生きていて、いいんです』」


 男の声は平らだった。


 平らにしないと最後まで言えないのだと、リネットにも分かった。人が声を平らにするときの顔を、この三日でずいぶん見た。


「一字も違えてない」男は言った。「たしかめてくれ」


「……はい」


「合ってるか」


「合っております」


 言ったとたん、床が遠くなった気がした。




「二十年、誰にも言われたことがなかった」


 男はそこに立ったまま言った。


「洗礼にも名寄せにも、税の帳にもない。死んだことになってる。墓まで出てる。中身は五つの子の上着だ」


 その一行なら、わたくしが読みました。


 声にはならなかった。


「そういう男があの晩、血まみれで床に座ってた」


 リネットは動けなかった。


「そこへ、名前も知らない針子が来た。逃げも叫びもしないで俺の手に手を重ねて、そう言った」


「わたくし、そんな」


「言った」


「……はい」


「言われたら、生きるしかないだろう」


 蝋燭が、じじ、と鳴った。


 リネットはその音のほうを見た。見ていないと立っていられなかった。


「俺は逃げた。お前が逃がしたからだ」


 リネットは、うなずいた。


「そのあと、お前が指をさされる声を廊下の暗いところで聞いてた」


 リネットの指が卓の縁を掴んだ。


「聞いて、それでも出ていかなかった。出ていけば素性を掘られる。掘られれば、あの子が危ない」


「……ユリアン殿下」


「六つだ」


 男はそこで少し黙った。


「だから歩いた。歩きながら、それは違うだろうと思った」


「アルノーさん」


「お前が俺を生かした。……なら、その命の使いみちは俺が決める」


 リネットは、そこでやっと分かった。


 分かってしまった。


 わたくしが、この人を殺すのだ。


 三日前のあの晩、あの一言を言わなければよかったのだ。黙って背中を押しておけば、この人はどこかで生きていた。名前も墓も帳もないまま、それでも生きていた。


 わたくしが渡してしまった。渡したせいで、この人は使いに来た。


 誰かのためになる嘘なら、二十年ついてきた。人の役に立つほうの嘘だと思っていた。


 たった一度、本当のことを言った。


 それがいちばん、いけなかった。




「なんで、あんなことを言った」


 男が訊いた。


「……分かりません」


「分からないで言ったのか」


「はい。口が勝手に」


 男が笑った。


 笑い方がうまくいっていなかった。


「二十年待って、そんなものか」


「ごめんなさい」


「謝るところじゃない」


 リネットは袖の内をきつく握った。


 あんなことを、と言われてはじめて考えた。誰かに同じことを言ってもらったことが、自分にあっただろうか。


 考えて、ひとつも出てこなかった。


 仕事は褒められる。手も褒められた。名前を呼んでもらえた日は、書付を三度読み返した。


 けれど、そこにいていいと言われたことは一度もない。


 なかったから口から出てしまったのかもしれないと思って、リネットは首を振ってその考えを追い払った。




 あの晩、男の肩には粗い毛織りがかかったままだった。血の匂いを一枚ぶん遮ってくれていた。


 城の裏の勝手口は、夜のあいだ薪を運ぶために閂《かんぬき》が抜いてある。二十年市井で育った男は、そういうことを知っている。誰にも見咎められずに外へ出た。


 職人街まで走らずに歩いた。走る男は目につくからだ。


 ニコの家の戸を三度叩いた。


 寝ぼけた顔が出てきて、それから一気に醒めた。


「……なにやったんだ、おい」


「竈に火を入れてくれ」


「先に説明しろよ」


「頼む」


 ニコはそれ以上訊かずに火を熾《おこ》した。男は肩掛けをその上へ広げた。狭い土間が、じきに焦げた獣の匂いになった。


「それ、あんたのじゃないだろ」ニコが言った。「そんな安いの、あんた持ってない」


「ああ」


「なら、なんで焼くんだ」


「出たら、あの子が助からない」


 ニコが火箸で燃えかけの端を押し込んだ。


「あんたが助かる話はしないんだな」


「する気がない」


「……そうかよ」


 毛織りが半分ほど灰になったころ、男は言った。


「ニコ。頼みがある」


「聞くよ」


「城の牢に娘が入る。今夜だ」


「うん」


「腹を空かせないでやってくれ」


 ニコは火箸を持ったままこちらを見た。


「それだけか」


「それだけだ」


「名前は」


「知らない」


「あんたの名前は」


「言うな」


 ニコが火箸を放って、頭をかいた。


「あのさ。俺はね、そういうやつがいちばん頭にくるんだよ」


 男は答えなかった。


 耳の底に、まだ声が残っていた。血に濡れた手の上へ細い指が乗ってきたときの、あの声だ。


 夜が明ける前に、男は宰相の屋敷の裏口を叩いた。


 一度目だった。




「そんなの、いやです」


 声が勝手に出た。


 リネットは自分の言った言葉に驚いた。驚いてから、もう一度言った。


「いや。あなたが死ぬなんて、いや」


「決まったことだ」


「決まっていても、いやです」


「二十六家が聞いた」男は言った。「真でも偽りでも、名乗った者は帰らない。宰相がそう言った」


「聞きました」


「なら分かるだろう」


「分かりません」


 リネットは卓の布を掴んだ。


「わたくしは頭がよくありません。何をどうすればいいのかも分かりません。明日の朝あの広間で何を申し上げればいいのかも、まだひとつも思いつきません」


「思いつくな」


「それでも、いやです」


 顎の先が濡れて、そこでやっと、泣いているのだと気がついた。袖で押さえた。押さえるそばから、また落ちた。


「……こわい」


 言葉が勝手にこぼれた。


「でも、あなたを、死なせたくない」


 男が動いた。


 二歩ぶんの距離を詰めて、借り着の袖でリネットの頬を拭った。丈の余った袖だった。指では触らなかった。布ごしだった。


 仕立て師の目は、こんなときでも仕事をする。袖が長すぎる、と思った。


 思ったとたん、よけいに涙が出た。


「泣くな」


「泣きます」


「泣かれると困る」


「困ってくださいまし」


 男の手が止まった。


 止まって、それから袖を下ろした。


「……お前は、変わってるな」


「よく言われます」


「褒めてない」


「存じております」


 リネットはずるずると洟をすすった。淑女の音ではなかった。おばあさまが聞いたら、たぶん寝台から起き上がって叱る。


 男が小さく笑った。


 今度はうまくいっていた。




「ひとつ、頼んでいいか」


「はい」


「明日の朝、それを着る」


 男は卓の上の仮縫いを見た。


「借り着で立ちたくない。……ちゃんと縫え」


 リネットは洟をすすったまま、深く頭を下げた。


「かしこまりました」


 それから待ち針の袋を開けた。


 やらなければならないことがあると、手は動く。二十年、この手はそうやって覚えてきた。


「もう一度お立ちくださいませ。肩を直します」


 男が立った。


 リネットは布を体に当てて、肩の線を指で押さえた。四分ぶん、縫い目を上げる。上げれば襟が首から離れない。


 背中側の丈を三分足す。腕の付け根を細く詰める。


 やりながら、リネットは考えていた。


 この一着を着てこの人は明日の朝、二十六家の前に立つ。立ったあと、庭の白い台へ行くのかもしれない。


 それでも、襟が首から浮いているよりはいい。


 そんなことしか思いつかない自分が情けなかった。情けないまま、指は正確に動いた。


「肩に印をつけます。動かないでくださいませ」


「刺すなよ」


「刺しません」


「昼間、諸侯の前で刺されたばかりだ」


「……ふふ」


 こんな夜に笑うところではない。


 男もそれきり口を開かなかった。開かないでいてくれた。




 仮縫いが体から外れたのは、蝋燭が卓に近づくころだった。


 リネットは布を畳んで白墨を握った。


 白墨は布に印をつけるための石だ。柔らかくて、縫ってしまえば粉が落ちて消える。消えるから、帖面に写しておかなければ残らない。


「アルノーさん。お師匠さまの采寸帖のことでございますけど」


「なんだ」


「わたくしの帖面には、名前の欄が空いた頁が二つございます」


「……」


「二十年前の頁と、春の終わりの頁でございます。この春から、別の方の頁として離して綴じてまいりました」


 リネットは布の裏に今夜の数を書きつけた。四分。三分。腕の付け根。


「二十年前のほうには、直しの覚えがひとつもございません。子どもの着物は、半年もすれば必ずどこかを直します。裾を下ろすか、肘に当てを入れるか。一つも直しの入らない行は、袖を通した人のいない行でございます」


「……」


「今夜の数を書けば、繋がります。……この世であの二つを繋げられるのは、たぶんわたくしだけでございます」


 男からは、何も返ってこなかった。


 リネットは白墨を置いた。


 置いてから顔を上げた。


「次のお直しは、いつ伺えばよろしいでしょう」


 男の目が大きくなった。


 三日前のあの晩、松明の光の手前で見た顔と同じ目のしかただった。


「……お前」


「肩は、これから戻ります。ちゃんと召し上がってちゃんと眠れば、半年で春の数に戻ります。そうしたら、また合わなくなります」


「おい」


「そのときは、またお測りし直さなければなりません」


 男は答えなかった。


 答えられないのだと、リネットにも分かっていた。


「……お答えがないのでしたら、勝手に伺います」


 男が、声を出さずに一度だけ笑った。


 人に向かってそんな言い方をしたのは、生まれてはじめてだった。巻尺を握った指が、汗で滑った。


 廊下でクルトが二度咳をした。次の鐘が近いという合図だ。


 リネットは布巾を結び直して、針箱を閉じた。


 戸のところで一度だけ振り返った。


 男は卓の椀を持ち上げて、残りの粥を飲んでいた。


 二十年前の頁と、春の終わりの頁のあいだには、知らない人の頁が何十枚も挟まっている。


 明日、あいだを繋ぐ。


 名前の欄は、空けたままでいい。あの二つが一人ぶんだと知っている者が、この世にひとりいればいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。