第14話: 棺に入れた上着
城の帳には、書いてはならない名前がある。
書いてしまえば、その一行から先が全部嘘になる。だから誰も書かない。書かないでいるうちに、その人はいなくなる。
リネットがそれを知ったのは、猶予の三日目の午後だった。
明日の朝、大広間がもう一度開く。同じ一件を二人が名乗っているから、どちらが偽りかをそこで決めるのだと、王太后陛下は今日おっしゃった。決まったあとに、庭の白い台が使われる。
つまり、期日が一日だけ延びたのだ。
うまく喜べなかった。延びたのは自分のぶんだけで、あの方のぶんは延びていない。
牢から連れ出した侍従は、行き先を言わなかった。
石の段は五十四あった。数えていたのは癖だ。癖のおかげで、こわいことを考えずに登れた。
通されたのは、王太后陛下の私室だった。
物の少ない部屋だった。壁の掛け布は色が褪せて、継ぎが二か所ある。宮廷お抱えの目で見れば、あの継ぎは十年より古い。三日ぶりに、暖かい部屋に入った。暖炉に火が入っていた。
王太后陛下は、喪の衣のままだった。三日、同じ黒を着ておられる。
その足もとの床に、人が一人、額を石につけて伏せていた。
「……ニコさん」
声が出てしまった。
「お針子さん」ニコは顔を上げなかった。「悪いけど、いまこっち見ないで。俺、たぶんひどい顔してる」
「なにを、なさったのですか」
「なんもしてないよ。なんもしてないのが通らない部屋に来ちゃっただけ」
「立ちなさい」
王太后陛下の声だった。
ニコが立った。膝の埃を払う手が、うまく払えていなかった。
「そなたも座りなさい」
「……あの」
「なんですか」
「わたくし、咎人でございます。椅子に座ってよいことになっておりません」
「そのような決まりは、私が作りました」王太后陛下は言った。「今日はありません」
リネットは布巾にくるんだ布を足もとへ置いて、椅子の端に浅くかけた。
座ってしまうと、膝の震えが椅子に伝わって音を立てた。手で押さえた。
「この部屋に書記はおりません。帳もありません」
王太后陛下は、卓の上で指を組んだ。
「ここで申したことは、どこにも残りません。……そなたは今日、私の前で嘘をつきましたね」
リネットは椅子から落ちそうになった。
「叱ってはおりません。私も、聞こえなかったふりをしました」
「……申し訳ございません」
「明日の朝までに、私はどちらが偽りかを決めなければなりません。嘘の残った部屋では決められません」
王太后陛下は、いちど息を吸った。
「ですから、先に私が申します。そのあとで、そなたに訊きます」
「あの者は、二十五年前に生まれました」
王太后陛下は、火のほうを見ていた。
「先王の子です。后の子ではありません。城に仕えていた女に産ませました。そういう子を庶子と申します」
リネットは口を開けた。何も出てこなかった。
「王家の子ではありますが、王位を継ぐ順ではありません。……ですが、継げないことと担がれないことは別です」
「担がれる、というのは」
「幼い正統な世継ぎがおります。その上に年上の兄がおります。そなたが力のある家の当主なら、どちらを立てますか」
「……」
「六つの子を立てても、命じられるのは自分ではありません。年上の兄を立ててその兄に恩を売れば、家が上がります」
王太后陛下は指を組み直した。
「必ず出ます。二人も三人も出ます。そして国が二つに割れます。四十七年前に一度割れました」
宰相閣下がおっしゃった話だ。麦が三年焼けたという年のことだ。
「ですから二十年前に、あの子を死んだことにしました」
薪が一度鳴った。
「決めたのは、私です」
リネットは、自分の指を見ていた。指の背に針だこがある。それを見ていれば、口が勝手に動かない。
「ユリアンには、兄がおります」
王太后陛下が言った。
「この国でそれを知っているのは、三人だけでした。宰相と、私と、そこの男です」
ニコが、床を見た。
「今日から四人です」
リネットは顔を上げた。
「陛下。……なぜ、わたくしに」
「知れば、そなたはもう申せなくなります」
王太后陛下は、こちらを見た。
「私は、そのために申しました」
何も言えなかった。
こわいのに、腹が立たなかった。この方は、いま自分がしていることを隠さずに言ったのだ。宰相閣下の「訊けば、お前も消える」と、同じことを別の言い方でされている。
どちらも、優しいのだと思った。優しさというのは、ずいぶん困るものだ。
「名を申します」
リネットは、袖の下で拳をつくった。
「王籍にはアルノルトと書きました。私が書かせて、私が消させました」
リネットは、その名を口の中で一度なぞった。なぞってから、なぞってはいけなかった気がした。
「名を全部取り上げるのは、私にはできませんでした。……半分だけ、乳母に残させました」
「あいつの名前は――」
ニコが言ってから、自分で口を閉じた。
リネットは、そこで動けなくなった。
名のない者でも、王家の子だとたったいま聞いた。それを「あいつ」と呼ぶ人が、この部屋にいる。
誰も咎めなかった。
「よい」王太后陛下が言った。「そう呼ばせたのは、私です」
「十のときにね」ニコは自分の手を握っていた。「一度だけ、さまって言ったんだ。母親に張り倒された。歯が一本折れたよ。乳歯だったけどさ」
「なぜ、そんな」
「言い慣れてる呼び方しか、口からは出ないんだよ。だから慣らされたんだ。十年かけて」
リネットは、市場のことを思い出した。
あの日ニコは、一度だけ「あの人」と言った。言ってすぐ、言葉のあやだと言った。
十年かけて慣らした癖が、あの一度だけ外れたのだ。外れた場所が、揚げパンを食べている自分の隣だった。
「ニコさん」
「なに」
「あの日、謝らなくてよかったのに」
「……なんだよ、それ」
ニコは、そこで初めて顔を上げた。ひどい顔ではなかった。ただ、目のふちが赤かった。
「あの子には、名がありません」
王太后陛下が言った。
「どこの帳にもありません。洗礼にも、名寄せにも、税の帳にもありません。……そういうことが、そなたに分かりますか」
リネットは、しばらく黙っていた。
「……あの」
「申しなさい」
「わたくし、名前で呼ばれないことがございます」
言ってから、慌てた。
「ごめんなさい。似ておりません。全然ちがいます。伯爵夫人さまが『針子』とおっしゃるのと帳から消されるのは、比べるようなことでは」
「似ていましょう」
王太后陛下が言った。
「そなたを針子と呼ぶ者は、そなたを消したいのではありません。ただ面倒なのです。面倒だから名を呼ばない。……それを十年されると、人は自分の名前を少し忘れます」
「……はい」
「あの子は、二十年です」
リネットは、袖の内側を握った。
二十年。数えてみて、指が止まった。わたくしが針を持ちはじめてからよりも、まだ長い。その長さを、わたくしは持っていない。
二十年前のあの夜のことを、アデルハイトは忘れていない。
あの子は五つだった。
夜着のまま連れて来られて、眠そうな目でこちらを見上げた。乳母が背中を押さないと歩かなかった。
困ったのは、誰の顔にも見えるように育っていたことだ。先王にも似ていた。ジョスにも似ていた。自分にも似ていた。似ているというだけで、担ぐ者には十分だった。
「明日から、別のおうちで暮らします」
そう言った。
「わるいことを、しましたか」
あの子はそう訊いた。
「していません」
「では、なぜ」
答えを用意していなかった。人の前で言葉に詰まったことのない人生だったのに、そのときだけ詰まった。
「じきに、迎えを出します」
そう言った。
迎えは出さなかった。二十年、一度も出さなかった。
弔いは出した。棺も出した。城の者はみな、王家の子が一人死んだと思っている。中に何を入れたかは知らない。見なくてよいと言われたので、見なかった。
名で呼んだのは、ジョスだけだった。
あの子は月に一度か二度、市の裏の通りをジョスと歩いていた。知らないふりをしていた。知らないふりをしているあいだが、いちばん楽だった。
悔いているかと訊かれれば、悔いていると答える。
もう一度あの夜に立てば、同じことをするとも答える。
その二つは、同じ胸のなかに並べて置ける。長く生きて、そういうものだと分かった。
ただ、この娘の前では、二つを並べて置いておくのが少し苦しい。
扉が二度鳴って、宰相閣下が入ってきた。
灰色の背中だった。上着の肩が落ちて、襟が首から浮いている。昨日、この方の袖の継ぎのことを申し上げた。あと二度繕えば布が持たないと申し上げた。それを覚えているらしく、宰相閣下は入ってくるとき袖を体の後ろへ回した。
「消したのは、私です」
挨拶も前置きもなかった。
「洗礼の帳の一行を削りました。名寄せから抜きました。乳母を替えて、市井へ移しました。……それだけでは足りません。人は、死んだと聞かされなければ死んだと思いません」
リネットは、瞬きを忘れた。
「ですから、弔いを出しました。棺は私が担ぎました」
宰相閣下は、卓の端に指を置いた。
「中には、小さな上着を入れました。五つの子の丈で仕立てさせた一着です」
リネットの手が止まった。
布巾の結び目に、指がかかったままだった。
「……あの」
「なんだ」
「お師匠さまの采寸帖に、その行がございます」
宰相閣下が、はじめて顔を上げた。
「二十年前の頁でございます。丈と身幅だけが書いてあって、名前の欄と代金の欄が空いております」
「……」
「わたくし、あの帖面を継いで三年になります。直しをお預かりするたびに、その方の頁へ書き足してまいりました」
子どもの頁には、必ず何かが足されていく。裾を下ろした。肘に当てを入れた。肩の縫い目をほどいて出した。三年、そればかりを書いてきた。
「あの一行にだけ、足すものがございませんでした。お師匠さまの手でも、わたくしの手でも」
「それは、どういうことだ」
「子どもの服は伸びます。着ている子がいれば、半年で必ず一度は直します。丈を出すか、袖を出すか。……直しが一つもない一行は、着た子がいない一行でございます」
王太后陛下が、扇を握った。骨は鳴らなかった。
「焼け」
宰相閣下が言った。
「……できません」
「明日、調べが素性へ伸びる。あの帖面が出れば、お前の首も飛ぶ」
「それでも、できません」
「なぜだ」
「お師匠さまの手で書いてあるからです」
自分の声が思ったよりはっきり出て、リネットは驚いた。
「あの帖面は、お師匠さまが四十年書いたものでございます。わたくしのものではありません。焼くと決める資格が、わたくしにございません」
宰相閣下は、長く黙っていた。
それから、背に回していた手を下ろした。
右の袖口が出た。同じ場所に、色の違う糸の継ぎが四枚あった。いちばん上の一枚は、もう薄い。
二つに折った紙のことを、リネットは思い出した。昨日、この方の卓にあった一枚だ。折り目が毛羽立つほど何度も開いて、それでも焼いていない紙だった。
(この三日で、焼かなかった人ばかりに会っております)
誰にも言えないことばかりだ。言えないことが、また一つ増えた。
「宰相閣下。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「訊くなと言ったはずだ」
「これは、名前のことではございません」
「申せ」
「詰所の帳に、クルトさんとわたくしの名前が三日ぶん並んで書いてあったそうです。牢番は日替わりだと聞きました」
「私だ」
あっさり言われて、リネットは瞬いた。
「三日で顔を覚える者を、一人だけ置いた。三人に散らせば口が三人ぶん増える」
「……執務室の火も」
「あれは私だ」
「おばあさまのお薬代も」
「昨日、お前が黙っている代として約束したものだ」宰相閣下は言った。「それより前に運ばれていたものは、私ではない」
リネットは、指を握った。
仕立て場の掛け金。水瓶の水。薪。片づいた糸箱。猫の皿の小魚。おばあさまの部屋に、三日つづけて置いていかれた薬と、炭と、卵。
みんな、猶予の一日目からだ。宰相閣下が薬代をおっしゃったのは昨日の夕方だ。合わない。
「ニコさん」
「……」
「あの、掛け金を打ってほしいと頼んだ方は」
「言えないよ」
ニコは、こちらを見なかった。
言えないと言った。ないとは言わなかった。
リネットは、それ以上訊かないことにした。訊いて聞いてしまったら、たぶん、いま座っていられなくなる。
「宰相閣下」
「なんだ」
「あの方は、刺していらっしゃいません」
言ってしまった。三日ずっと言えなかったことを、この部屋では言えた。帳がないからだ。
「根拠は」
「胸の、血の付き方でございます。飛んだ血ではなく、擦れた血のように見えました。……人を抱えた人の胸に付く付き方だと、思うのです」
言ってから、声が細くなった。
「わたくしはお医者さまではありません。ですから、確かめていただきたいのです」
「それは、明日の朝には関わりのないことだ」
「え」
「二十六家の耳が、あの者の口から聞いてしまった。刺したかどうかではない。申したかどうかだ」
宰相閣下は、卓のほうを見た。
「あの者は、生きて帰れぬ場所を自分で選んだ。真でも偽りでも同じことになる場所を、選んで歩いてきた」
「そんな」
「あれは、賢い」宰相閣下は言った。「私が三度潰したから、四度目にどこへ行けばよいか分かったのだ。……教えたのは私だ」
この方は、いま自分を責めておられるのだと思った。
それが分かったのに、慰める言葉が一つも出てこなかった。
「連れて参りました」
扉のところで、衛兵の声がした。
男が入ってきた。
借りものの黒い上着のままだった。袖の丈が長い。肩の線は、昼よりもう少し落ちている。半日でこれだけ落ちるのかと思った。思ってから、思っている場合ではないと思った。
男は、こちらを見なかった。
「書記はおりません」王太后陛下が言った。「帳もありません。ここで申したことは、どこにも残りません」
「……」
「もう一度訊きます。そなたは、この娘を知っていますか」
「知りません」
迷いのない声だった。昼と同じだった。
「仕立て師」
リネットは立ち上がった。座っていられなかったからだ。
膝が鳴った。
「そなたは、この者を知っていますか」
息を吸った。吸って、吐いて、もう一度吸った。
「……存じております」
男の肩が動いた。
「春の終わりでございます。日の傾いた時分に、わたくしの仕事場へお見えになりました。目立たない、ふつうの上着をとおっしゃいました」
「やめろ」
男が、はじめてこちらを見た。
三日、この声を聞きたいと思っていた。聞いた最初の言葉が、それだった。
「首まわりは一尺三寸。着丈は二尺五寸。右のお肩が、左よりわずかに高くいらっしゃいます」
「やめろと言った」
「背に手を回しますと、体がこわばりました。人に触られ慣れていらっしゃらないのだと思いました。だから、痛くなかったかとお訊きしました」
「おい」
「仕立て代を、三倍おっしゃいました。相場をご存じないのだと思いました」
リネットは、息を継いだ。
「代金の欄は、空いております。……お名前の欄も、空いております」
「二十年前のその一行は、丈と身幅だけでございます。人のお体を測った数ではございません」
男が、口を閉じた。
「あなたのお体を測ったものは、たぶんこの世にあの春の一行しかございません」
部屋の音が消えた。
宰相閣下が目を伏せた。王太后陛下は扇に手をかけて、かけたまま動かさなかった。
「では、あの晩あの部屋で会ったのですか」
王太后陛下が訊いた。
「いえ」
「春の采寸のあとは」
「……お会いしておりません」
嘘だった。
数えるのは、やめた。
王太后陛下は、それきり訊かなかった。訊かないでいてくださったのだと思った。思ってから、思い違いかもしれないと思った。
「……先王さまが亡くなった日にね」
ニコが、床を見たまま言った。
「あいつ、通りにいたんだよ。俺の隣で。みんなと同じ側で、頭を下げてた」
「ニコ」
男が、低く言った。
「言うよ。俺、今日は言う」ニコは手を握った。「明日あいつが死んでも、どこにも書かれない。名前がないんだから。墓も出ない。誰が死んだのかも残らない。二十年前に一度死んでるから、二度目は数えないんだ」
「もういい」
「よくないよ」
ニコの声が、少し掠れた。
「俺、あいつの母親の墓は知ってる。あいつの墓の場所は、いまから決めなきゃいけない。そんな話、二十四になってするもんじゃないだろ」
部屋が静かになった。
リネットは、男の顔を見た。
三日、見てはいけない気がして見なかった顔だった。
寝ていない目をしていた。それだけではなかった。昼のあいだ、この人は一度もこちらを見ないでいてくださった。見ないでいるのに、こちらのほうへ体の向きが少し寄っていた。采寸をしていると、そういう向きは分かってしまう。
分かるのに、何もできなかった。
「あなたは」
声が、うまく出なかった。
「二十年、どこにも書かれていらっしゃらなかったのですね」
男は答えなかった。
「わたくしの帖面の、名前の欄も」
涙が顎まで来て、それでやっと自分が泣いていると分かった。袖で拭いた。拭いても間に合わなかった。
「あなたも……ずっと、いないことにされてきたのですね」
男が、壁に手をついた。
昼、二十六家に理由を訊かれても動かなかった人だった。ご自分の首が卓に乗ったときも動かなかった。それが、壁に手をついた。
「……そういうことを、言うな」
「ごめんなさい」
「言うと」
男は、そこで言葉を切った。
「明日、困る」
「はい」
「困るんだ」
「……はい」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
言うことは、たくさんあった。あの夜のことも、肩掛けのことも、逃げていただいたことも、全部ここにある。
一つも言えなかった。この部屋には帳がない。けれど、耳はある。
「そこまでにしなさい」
王太后陛下が言った。
それから、こちらへ顎を向けた。
「仕立て師。その荷は何ですか」
「……上着でございます」
「誰の」
「お名前を、まだ伺っておりません」
「アルノー」
ニコが言った。
「職人街じゃ、みんなそう呼んでる。……アルノーだよ、お針子さん」
男が、ニコのほうを見た。
ニコは見返さなかった。ただ、鼻の下を親指で擦った。
リネットは、その名前を口の中で一度だけ言った。声には出さなかった。三日ぶんの重さがあった。
「明日の朝、この者を大広間へ立たせます」
王太后陛下が言った。
「陛下」宰相閣下が言った。
「名のない者をその借り着で二十六家の前に立たせれば、狂人が一人立ったという話で片づきます。片づけたい者には都合がよろしいでしょう」
「……」
「私は、片づけません」
宰相閣下は、何も言わなかった。
「仕立て師。明日の朝までに仕上げられますか」
「……はい」
「その荷の寸法では合わないでしょう」
「合いません」リネットは言った。「春の数でございます。三日で肩が落ちておられます。あのまま仕立てたら、襟が首から離れます」
「では、どうします」
「お測りし直します」
言ってから、リネットは自分の声に驚いた。震えていなかった。
「日が落ちたら、北の塔へ通します。衛兵を一人つけます」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではありません」王太后陛下は言った。「立つ場が大広間でも、庭の台でも、要るものは同じでしょう」
リネットは、爪先に力を入れて立っていた。
この方は、ご自分がいまどちらの支度をさせているのか、隠さずにおっしゃった。
だから、頭を下げた。
衛兵が、男の腕を取った。
扉のところで、男の足が止まった。
昼、この人は目を動かしかけて、動かさなかった。
今度は動かした。
まっすぐ、こちらを見た。
何も言わなかった。リネットも言わなかった。
扉が閉まった。
「仕立て師」
「はい」
「明日そなたが本当を申せば、あの者が死にます。黙っていれば、そなたが死にます」
「……はい」
「私は、どちらも死なぬ道を探しています」
王太后陛下は、扇を卓へ置いた。
「今のところ、見つかっておりません」
庭を横切るころには、日が屋根の向こうへ落ちていた。
北の塔の下で待っていたのは、クルトだった。
「……あんたか」
「クルトさん」
「陛下がつけろとおっしゃったのは俺だそうだ」クルトは槍を担ぎ直した。「なんで俺なんだ」
「三日、顔を覚えていらっしゃるからです」
「そりゃ、覚えたが」
「わたくしもです」
「……覚えなくていい」
クルトは、塔の戸のほうへ顎を向けた。
「上へ行くのか」
「はい。お測りして参ります」
「……待ってろ」
クルトは詰所の戸を開けて、しばらくして椀を持って出てきた。
「粥だ。半分残ってる」
リネットは、両手を出した。
「昼に、無理だと三度おっしゃいました」
「あんたが行くんなら、俺が運ぶんじゃない」クルトは目を逸らした。「それなら、無理じゃない」
リネットは、椀を胸のあたりで持ち直した。塩の匂いがした。
塔の下の石の段に、リネットは腰を下ろした。
まだ日は完全に落ちていない。手もとが見えるうちに、しておきたいことがあった。
布巾をほどいて、襟になるところを出した。
縫い代というのは、縫い合わせたときに内側へ折り込まれる余りのことをいう。着てしまえば、着た人の目にも見えない。
針箱から、いちばん細い針を出した。糸は、ニコがくれた糸巻きのものを使った。
城の帳には、書いてはならない名前がある。
けれど、これは城の帳ではない。仕立て師の、縫い代の裏だ。
リネットは、そこに名前を縫った。
王籍から消された長いほうではなく、職人街の人がふだん呼んでいる、短いほうを縫った。
小さく縫った。糸の色は布と同じにした。ほどけば消える。誰にも見えない。それでも、書いてあるのと同じだった。
二十年前の一着には、名前が書かれなかった。丈と身幅だけで仕立てて、土の下へ入れたのだ。
二十年、名前で呼ばれてこなかった人が、明日の朝この一枚を着る。
着るところに縫えばよかったのかもしれない。襟の外でも、胸でもよかった。
でも、この人はきっと、外に書いたら着てくださらない。
だから、内側にした。
顔を上げると、塔の窓に灯が一つ入っていた。
リネットは針箱を閉じて、椀を持ち直して、段をのぼりはじめた。
名前は、もう縫ってある。




