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第13話: 二十六家の耳

 大広間へ通されて、リネットの目が最初にしたのは、いちばん役に立たないことだった。


 端の席から順に、肩幅を測っていたのだ。


 人を見ると寸法が見えてしまう。二十年、そういう目で生きてきたのだから仕方がない。仕方がないけれど、今日でなくてもよかったと思う。


 三日の猶予の、三日目の昼だった。


 この昼、この国の諸侯が集まる。諸侯というのは、この国のいちばん大きな家の当主たちのことだ。全部で二十六家ある。


 決めるのは二つ。王弟ジョス殿下の喪をどうするか。それから、戴冠をいつにするか。


 もう一つ、決めなくてよいことがある。王弟殺しの帳だ。それは、この場で閉じられる。


 帳というのは、城の正式な書きつけのことをいう。誰かの申し立てが帳に入れば、調べが始まる。入らなければ、その言葉ははじめから無かったことになる。宰相閣下が、そう教えてくださった。


 今日その帳が閉じれば、殿下を刺したのはリネットだと決まる。決まったら、明日の朝、庭に組まれたあの白い板の台に上がるのだ。


 だから、これが最後の昼だった。


(……肩幅を測っている場合ではございませんわね)




 リネットが立たされたのは、いちばん端の、扉のすぐそばだった。


 ニコの言ったとおりだった。上座に王太后アデルハイト陛下。その斜め前の卓に、宰相オットマール閣下。諸侯の椅子は左右に二列で、真ん中の床だけが空けてある。


 みんなに見えるところに立たせるのだと、ニコは言っていた。


 当主たちが、一人ずつ入ってくる。黒い喪の衣ばかりで、どの背中も同じ色に見えた。


「針子さん」


 背中のうしろで、クルトが口を動かさずに言った。扉の脇に立って、まっすぐ前を向いている。


「あんた、さっきから何を数えてた」


「……肩幅を、測っておりました」


「なんでだ」


「癖でございます」


「妙な癖だな」


「あなたのも、測りました」


「やめろ」


「右の肩が、わずかに下がっていらっしゃいます。槍をいつも右で担ぐからですわ」


「……気味が悪い」


「ごめんなさい」


「謝るな」


 息が、少しだけしやすくなった。


「なあ。今日は、何を決める集まりなんだ」


「殿下の喪をどうするかと、戴冠の日取りでございます」


「それだけか」


「……それから、わたくしのことが決まります」


「そうか」


 クルトは、それきり黙った。


 それから、リネットは上座のほうを見た。


「クルトさん。あの椅子が、空いておりますけれど」


「見るな」


「……はい」


 上座にいちばん近い椅子だ。座るはずの人が来ていない。誰も、そのことを口にしなかった。


 昨日の夕方、宰相閣下の卓に大きな紙が広げてあった。升目に家の名が並んでいて、いちばん上の一行だけが三度書き直されていた。墨が重なって、字の形が潰れていた。


 あれが、あの椅子だったのだ。




 鐘が鳴って、書記が紙を広げた。


 喪は十五日。戴冠は喪が明けて七日目。日取りは、思ったよりあっさり決まった。誰も長く喋らなかった。


「では、王弟殿下の一件を帳に納めます」


 オットマールが書付を開いた。


「咎人は、お抱え仕立て師リネット・カルヴェ。証人の申し立ては昨日までに納めております。以後、申し立ては受けませぬ」


「宰相。娘を見せなさい」


 アデルハイトの声だった。黒い喪の衣のまま、椅子の背から動かずにいる。


「前へ」


 リネットは真ん中まで歩いて、床に膝をついた。石が冷たかった。


「これが、王弟殿下を刺した針子か」


 どこかの列で、誰かが言った。


「ずいぶん細い腕だな」


「針で人が死ぬものかね」


 笑い声が、二つか三つ上がった。すぐにやんだ。


「仕立て師」


 宰相の声が、上から落ちてきた。


「何か、申し立てることはあるか」


「……ございません」


 声が、自分でも聞き取れないほど小さくなった。


「よろしい」


 宰相は書記へ顎を引いた。羽根ペンが走りはじめる。


 閉じるのだ。


 そう思ったのに、涙は出なかった。三日のあいだに、涙の出るところが少し変わってしまったらしい。


 そのとき、扉の外で人の足が動いた。


「宰相閣下」書記が首を伸ばした。「あの、外に」


 オットマールは、目を上げなかった。


「入れよ」




 扉が開いて、リネットは顔を上げた。


 三日、この人を見たいと思っていた。誰にも言えないまま、思っていた。


 最初に見えたのは、肩だった。


 癖のせいだ。目が勝手にそこへ行った。


 肩の線が落ちている。首の据わりが少し前へ出ている。黒い上着は借りもので、袖の丈がわずかに長かった。


(……あら)


 この背中を、わたくしは知っている。


 どこで測ったのだったか、と思って、思う前に分かった。


 男が真ん中で足を止めて、顔を上げた。


 春の終わりの、日の傾いた仕事場だった。名を書かない客だった。仕立て代の相場をご存じなくて、目立たないふつうの上着がいいと言って、采寸のあいだずっとこちらの手もとを眺めていた人だった。


 その手は、いい手だ、と言った人だった。


「……あ」


 声が出た。


 出てから、自分の声だと分かった。


「そこの娘」いちばん近い列の当主が振り向いた。「何か申したか」


「いえ」


 クルトの声だった。


「何も申しておりません」


 リネットは口を開けた。開けたまま、何も言えなかった。


 申しました、と言えば、この人が御前で偽りを申したことになる。


 足が竦んで、リネットは両手を前で握った。




「名を申せ」


 オットマールが言った。


 男は答えなかった。


「名を」


「ございません」


 答えたのは、宰相閣下だった。


 諸侯の列が、ざわりと動いた。名のない者が御前に立つということが、この方々には分からないのだ。リネットにも分からなかった。ただ、昨日そう聞かされていたから、驚かずに済んだ。


「申せ」


「王弟ジョス殿下を刺したのは、私です」


 男は、まっすぐに言った。


「あの晩、私はあの部屋におりました。この娘は衣装を届けに来ただけです。関わりありません」


 部屋の音が、いっぺんに消えた。


 オットマールが書記のほうへ手を上げた。羽根ペンを止めさせる手つきだった。


「狂言である。取り上げるに足らぬ」


「三度、申し上げました」


 男が言った。声を張らなかったのに、端まで届いた。


「三度とも、帳には入りませんでした。……ですから、今日ここで申しています」


 リネットの指が、袖を掴んだ。


 昨日の夕方、宰相閣下がおっしゃったことがある。二十六家の耳が聞いてしまえば、ご自分ひとりでは塞げないと。あの方が、ご自分でおっしゃったのだ。


 この人は、それをご存じだったのだ。


 三度断られて、断られない場所を探して、そこへ歩いてきたのだ。




 二列目で、白い髭の老人が杖を鳴らして立った。


「宰相閣下。今のは、聞こえてしまいましたな」


「狂言でございます」


「狂言かどうかは、調べてから申されることでしょう」老人は言った。「わしは耳が遠い。それでも今のは聞こえた」


 その隣の、まだ若い当主が続けた。


「刺したと申す者を、ここで聞いておいて帳に入れなんだと。あとでそれが表に出れば、我らも同じ穴の者にされます」


「そのとおり」


「書き取っていただきたい」


 声が三つ、四つ、重なった。


「お待ちを」


 オットマールが遮った。


「帳に入れれば、調べが起きます」


「起きればよい」


「調べは、この者の生まれのほうへ真っ先に伸びます。どこで生まれたか。誰に育てられたか。今日まで何をしていたか。そこを掘ることになります」


「掘られればよろしいでしょう」


「掘ったあとに出てくるものの始末を、どなたが引き受けられますか」


 部屋が、静まった。


 老人が、杖の先を石に突いた。


「宰相。それは、我らを脅しておられるのか」


「事の順を申し上げております」


「ならば、なおのこと書き取られよ」老人は言った。「宰相おひとりの胸に納めておかれるほうが、わしには恐ろしい」


 オットマールは、答えなかった。


「ひとつ、伺いたい」


 若い当主が、真ん中の男へ向き直った。


「なぜ、王弟殿下を刺した」


 男は答えなかった。


「なぜだ」


「……申し上げられません」


 ざわめきが、いっぺんに大きくなった。


「名も申せぬ。理由も申せぬ。それで刺したと申すのか」


「申します」


「これは狂言だ」


「狂言なら、帳に入れて狂言と決めればよい」老人が言った。「決めるのは我らの役ではない。だが、聞いたことを無かったことにすれば我らの罪だ」


 それから、老人は真ん中の男をじっと見た。


「もう一つ、分からぬことがある。……そなたは、なぜあの針子を庇う」


 リネットの息が、止まりかけた。


「知らぬ娘のために首を出す者が、この世におるものか」


 男は、答えなかった。


「金でも積まれたか」


「針子が銭を出せるものかね」


「では、なんのためだ」


「答えぬか」


「……申し上げられません」


 部屋の中で、答えられる者がいなかった。




 二十六家。数えるまでもなかった。


 この場を閉じるためだけに、三度書き直した座席の割だ。上座にいちばん近い椅子は、空けておくほかになかった。あの椅子の主は来なかった。来ないという返事が、昨日の夜に届いていた。


 来ないほうがましだと思った自分に、オットマールは少し呆れた。


 娘の口を黙らせるのは、三日でうまくいった。


 こちらは、うまくいかない。


 帳に入れれば、掘らねばならない。


 あの名を消したのは、私だ。


 消した名を、私がもう一度掘り返すことになる。掘ったぶんだけ人が死ぬ。四十七年前に自分が歩いたあの道を、六つの子に歩かせることになる。


 懐の紙が、胸に当たっていた。


 折り目の毛羽立った紙だ。読んだ数だけ畳み直して、それでも焼かなかった。


「……書き取れ」


 自分の声が、思ったより低く出た。




 羽根ペンが走った。


 その音を、リネットはよく知っていた。昨日、この音はベルントさまについて走った。今日は、真ん中に立っている人について走っている。


「王太后陛下」


 宰相が、はじめて上座を見た。


「申し立ては帳に入りました。ゆえに、調べを起こさねばなりませぬ」


「起こしなさい」


「ただし、ひとつ申し上げます」宰相の声は平らだった。「二十六家の耳の前で殿下を刺したと申した者は、生きて帰れませぬ。真であっても、偽りであっても同じことでございます」


「偽りでも、か」


 若い当主が言った。


「同じことでございます」


「存じています」


 アデルハイトは、扇を閉じた。


 閉じるとき、骨が一度だけ鳴った。


「そこの者」


 王太后が、真ん中の男に言った。


「そなたは、あの針子を知っていますか」


 リネットは顔を上げた。


 男は、こちらを見なかった。


「知りません」


 迷いのない声だった。


「あの晩、初めて見ました」


 嘘だった。


 リネットは自分の指を握った。爪が食い込むほど強く握る。そうしていれば、口が勝手に動くことはない。二日ぶん、それで持たせてきた。


「仕立て師」


「……はい」


「そなたは、この者に見覚えがありますか」


 部屋の中の目が、いっぺんにこちらへ来た。


 息が、うまく吸えなかった。


 春の終わりの、あの日の手もと。首まわりと、着丈。腕を上げたときに背がどれだけ伸びるか。名前だけが書かれていない一行。仕立て代を尋ねたときの、見当違いの返事。


 ぜんぶ、この胸の中にある。


「……存じません」


「よく見なさい」


 アデルハイトの声が、少しだけ低くなった。


「それでも、覚えがありませんか」


 リネットは、真ん中に立っている人の靴を見た。顔のほうは、どうしても見られない。


「……ございません」


 口から、出てしまった。


 出してしまってから、体のどこかが冷たくなった。


 わたくしは今、この方のために嘘をついた。


 二十年、他人の嘘ばかり見てきた。自分でつくのは、こんなに簡単なことだったのだ。


 卓の向こうで、オットマールが顔を上げた。


 この方は、真ん中の男を一度も見ていない。上座の王太后陛下も、さっきから扇の骨のほうを見ている。


 二十六家がみんなあの顔を見たのに、いちばん上のお二人だけが見ていないのだ。


 その宰相閣下が、今はじめてこちらを見た。


 昨日、見ないでくれとおっしゃった方だ。


 目に、勝ち負けの色はなかった。怒ってもいなかった。ただ、長いこと見られた。




「明日の朝、この場をもう一度開きます」


 王太后が言った。


「それまでに調べをまとめなさい。同じ一件を二人が名乗っているのに、片方の首を先に落とすわけにはいきません」


「御意」


「その者の身柄は預かります。娘も、明日までは生かしておきなさい」


「処刑の日取りは、明日の朝と定めております」


「では、裁定のあとに」


「畏まりました」


「宰相閣下。では、二人とも咎人ということになりますか」


 若い当主が言った。


「二人が同じ一件を名乗っております。どちらか一方は、偽りを申しております」オットマールは書付を閉じた。「そのどちらが偽りかを、明日の朝までに決めます」


「決まらなかったときは」


「決めます」


 それで、決まった。


 リネットは膝をついたまま、床の石の目を見ていた。


 閉じるはずだった帳が、閉じなかった。


 その代わりに、卓の上へ乗ったものが一つある。


 あの人の首だ。


 衛兵が二人、真ん中の男の腕を取った。


 男は逆らわなかった。


 連れ出されるとき、その目が扉のほうへ動きかけて、動かなかった。


 リネットは、その一寸だけの止まり方を見てしまった。


 見ないでいてくださったのだ、と分かった。分かってしまうと、指の先が冷たくなった。




「行くぞ」


 クルトの声だった。


 回廊に出ると、日はまだ高かった。石の目地に埃がない。昨日きれいに掃かれた廊下を、今日は二十六家の靴が踏んでいったのだ。


「クルトさん」


「言うな」


「言います」


 リネットは立ち止まった。


「あれは、いけません」


「どれだ」


「何も申しておりません、と。……あれは、嘘でございます」


「そうだな」


「御前で嘘を申し上げたら、あなたが」


「言ったろう。俺が決めるんだ」


 クルトは、前だけを見ていた。


「あんた、あの男を知ってるのか」


「……存じません」


「そうか」


「クルトさん」


「知らんと言ったんだから、俺も知らん」


 石の段の手前で、うしろから足音が来た。


 宰相閣下だった。追い越していくとき、足が半歩だけ遅れた。


「仕立て師」


「……はい」


「今日、お前は一つ嘘をついたな」


 リネットは、黙っていた。


「よい。私も一つついた」


 力んだ言い方ではなかった。


「あの者は、もう戻れぬ」


「宰相閣下」


「なんだ」


「あの方は、なぜ名を消されたのですか」


「訊くな」


「……はい」


「訊けば、お前も消える」


 それだけだった。灰色の背中が、先へ行った。




 牢に戻されたのは、日が西へ回りはじめた頃だった。


 詰所に預けておいた布を、クルトが黙って寄越した。夜明けに裁ったばかりの、地味な羊毛だ。


 石の壁を背にして、リネットは床に座った。布は脇へ置いた。


 縫うつもりだった。


 針を持てば手が動く。手が動けば、頭が数を数えはじめる。この三日、そうやってしのいできた。


 今日は、動かなかった。


 布に手を置いたまま、リネットは同じところを見ていた。


 目を閉じても、あの人が立っていた。


 肩の線が落ちていた。首の据わりが前へ出ていた。上着は借りもので、袖の丈が長かった。


 寝ていないのだと分かる肩だった。人の体は、三日でそれくらい変わる。


 春の終わりに測った数では、あの上着はもう合わない。


 それから、別のものが浮かんできた。


 浮かんでほしくないものだった。


 あの夜の、あの部屋だ。


 血の匂いと、半分開いた扉。床を流れた赤いもの。膝をついて、殿下を抱えて、腕をほどこうとしなかった人。


 その、胸のあたり。


 リネットは目を開けた。




 自分の胸を見た。


 この服は、事件の夜からこの一枚きりだ。胸のところは洗ってもらった。血は落ちたけれど、そこだけ色が抜けて、輪の形が白く残っている。


 あの夜、リネットは殿下に駆け寄って、その胸に手を当てた。抱き起こそうとして、重みを自分の胸で受けた。だから、ここに付いたのだ。


 付き方に、覚えがあった。


 擦れている。点ではなく、面で。布の目に沿って、手のひらで押しつけたような形だ。


 仕立て場には、いろいろな人が繕いを持ってくる。


 肉屋の前掛けを、リネットは何枚も繕ってきた。鶏を絞める人の袖も、魚をおろす人の胸当ても、何度も預かった。


 あの人たちの布には、血が点々と飛んでいる。細かい点が、前のほうへ向かって並ぶのだ。刃を入れれば、血はそういうふうに飛ぶ。何度洗っても、点の形だけは残る。


 擦れた血とは、まるで違う。


 リネットは、手のひらで目を押さえた。


 あの人の胸に付いていたのは、点ではなかった。


 わたくしと同じ、擦れた血だった。


「……これは」


 言葉にするのがこわくて、口の中でだけ言った。


「誰かを、抱きしめたときの血ですわ」


 声に出したら、急に自信がなくなった。


 わたくしはお医者さまではない。骨接ぎの先生のところへ通わせてもらって、繕いをしながら人の体を見てきただけだ。肉屋の前掛けと、人を刺したときとが同じとは限らないのかもしれない。


 誰かに確かめてほしかった。


 いちばん確かめたい相手は、自分が刺したと言っている人だった。




 リネットは、指を折ろうとした。


 申し上げたら、どうなるか。


 あの方が刺していないと分かれば、あの方の申し立ては偽りになる。御前で殿下を刺したと名乗って、それが偽りだったのなら、首は落ちる。真でも偽りでも同じだと、宰相閣下は今日、二十六家の前ではっきり言った。


 黙っていたら、どうなるか。


 あの方が咎人になって、わたくしが生きる。


 リネットは、指を握った。


 どちらでも、あの方は死ぬのだ。


 本当のことを申し上げれば、二人とも死ぬ。黙っていれば、あの方だけが死んで、わたくしが助かる。


 それに、調べだ。


 調べは素性から掘るのだと、宰相閣下は昨日そうおっしゃった。掘ったぶんだけ人が死ぬとも。


 あの方には、名がない。


 名を消された人の素性を掘ったら、何が出てくるのだろう。リネットには、見当もつかなかった。


 何も分からないのが、いちばんこわかった。


 わたくしがあの方を助けようとすれば、その掘る手を、わたくしが早めることになる。


(……お師匠さま)


 采寸帖は、仕立て場の棚に置いてきてしまった。


 最後の頁に、お師匠さまの遺した一行がある。結び目はほどくものではない、というようなことが書いてある。三年、意味が分からずにいた。


 今日はじめて、少しだけこう思った。


 結び直すというのは、たぶん、いちばんこわいことだ。




 格子の外で、金物の音がした。


 クルトが椀を置いていた。粥だった。まだ膜が張っていない。


「食え」


「……はい」


「はいと言って、食わないんだよな。あんたは」


「今日は、いただきます」


 匙を取った。ひと口目に、塩の味がした。


「クルトさん。これ、塩が入っております」


「入ってるだろ、普通」


「牢のお粥に、塩は入りません。三日、入っておりませんでした」


 クルトは、格子の向こうで黙った。


「……台所に言ったのは、俺じゃない」


「はい」


「言っておくが、俺じゃないぞ」


「はい」


 おいしい、と思ってしまって、リネットは自分に少し笑った。


 仕立て場では、この時刻に猫が皿の前で座っている。今ごろ、誰かが小魚を入れてくれているだろうか。


「クルトさん」


「なんだ」


「あの方は、どちらに」


「言えるわけないだろ」


 リネットは俯いた。訊いてはいけないことだった。


 クルトは槍を持ち替えた。それから、格子の向こうで少しだけ屈んだ。


「北の塔だ。聞かなかったことにしろ」


「はい」


「そこは素直だな」


「はい」


「その返事も気に入らん」


 リネットは、椀を両手で持ったまま頭を下げた。


 北の塔は、この牢から庭を挟んだ向かいにある。窓の位置までは知らない。


「あの男は、飯を食ってるかね」


 クルトが、ぽつりと言った。


「……え」


「北の塔の飯は、こっちよりまずいらしい」


「そう、なんですか」


「知らん。聞いた話だ」


 リネットは、椀の中を見た。


 塩の入った粥だった。


「クルトさん。あとひとつだけ」


「多いな」


「これ、半分お持ちいただけませんか」


「どこへ」


「……北の塔へ」


「無理だ」


「……でも」


「無理だと言ってるだろ」


「はい。ごめんなさい」


 クルトは、鼻で息をした。


「食え。あんたが食わないと、俺が叱られるんだよ」


 リネットは、匙をもう一度取った。


「その布は、何を縫うんだ」


「上着です」


「誰の」


「お名前を、まだ伺っておりません」


「名前のない男の上着か」


 リネットは、布の端を撫でた。


「あんた、明日死ぬかもしれないんだぞ」


「はい」


「……いや。いい」


 三日、名前も知らない人のことを考えていた。その人が今、石を隔てた向こうで、明日の朝を待っている。




 日が落ちる前に、迎えが来た。


 クルトではなかった。城の侍従だった。


「仕立て師。王太后陛下がお召しである」


 リネットは立ち上がった。立ち上がるのに、壁へ手をついた。


 こわい。


 こわいのに、足は動いた。ニコの言ったとおりだった。


 布を布巾にくるんで、脇に抱えた。


 牢へ置いていってもよかった。置いていけば、身軽だった。


(……お測りし直さなければ)


 あの方の肩は、春の終わりより落ちている。あのままの数で仕立てたら、肩が浮いて、襟が首から離れてしまう。


 合わない上着を納めるのは、仕立て師の恥だ。


 だから、もう一度お測りしなければならない。


 そのためには、あの方がそこにいてくださらなくては、どうにもならないのだ。


 リネットは布を抱え直して、侍従の背中についていった。

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