第12話: わたくしのための嘘
この三日で、リネットは何度も親切にされた。
親切という言葉は、ずいぶん便利だ。そう呼んでしまえば、それがどこから来たものなのかを、もう考えなくて済む。
だからリネットは、考えないでいた。二十年、そうやって生きてきた娘だった。
考えてしまったのは、二日目の夜が明ける前の、鐘ひとつぶんのあいだのことだ。
猶予の三日のうち、二日目の夜が終わりかけていた。
夜が明ければ三日目になる。その日の昼に諸侯が集まり、王弟殺しの帳が閉じられる。閉じられてしまったら、明くる朝、リネットは城の庭に組まれた白い板の台へ上がる。
残っているのは、それだけだった。
牢の高い窓の外で、夜のあいだずっと槌の音がしていた。
その音が、少し前にやんだ。
やんだのは、出来上がったからだろう。リネットは繕いかけの袖を手もとへ落として、しばらく石の壁を見ていた。
格子の錠が、かちりと鳴った。
「行くんだろう」
夜番の衛兵だった。昼のあいだ市までついてくる、あの若い人だ。
「……わたくし、まだ何も申しておりません」
「言われる前に開けた。そのほうが、俺の気が楽だ」
リネットは、その手もとを見た。鍵の束が、迷いもせずに回っていた。
さきほどは、頼んでから長いこと天井を仰いでいた人だ。
「よろしいの、ですか」
「よくない。次の鐘までだ」
「はい。……ありがとう、ございます」
立ち上がって、リネットは一度だけためらった。
「あの。ひとつだけ」
「言え」
「お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
衛兵の手が、錠の上で止まった。
「……名前」
「はい」
「あんた、明日の朝には死ぬかもしれないんだぞ。それで俺の名前を聞くのか」
「はい」
衛兵は、返事をしなかった。長いこと錠を握って、それから鼻で息をした。
「クルトだ」
「クルトさん」
「……ああ」
返事が、妙に不器用だった。呼ばれ慣れていない人の返事だった。
「三日ついて回って、名前を訊かれたのは今夜が初めてだ」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだ」
「もっと早く、伺えばよかったので」
クルトは、天井のほうを見た。それから槍を担ぎ直した。
言われてみれば、この三日、この人ばかりだった。
昼は槍を担いで市までついてきて、夜は詰所に座っている。代わりの人が来たことが、一度もない。城の衛兵は、あんなにたくさんいるのに。
「クルトさん。もうひとつ、伺ってもいいですか」
「今夜はよく訊くな」
「どうして、いつもあなたなんですか」
「上が決めたんだよ」
「上」
「詰所の帳に、あんたの名と俺の名が並んで書いてある。三日ぶん、先に書いてあった」
リネットは瞬いた。
「先に、でございますか」
「猶予が決まった日にな」
「その帳は、どなたでも見られるものですか」
「詰所の壁に掛かってる。読める奴なら、誰でも見るよ」
「では、あなたはご覧になったんですね」
「見た。初日にな」クルトは槍の柄を持ち替えた。「妙な話だと思ったよ」
「妙、とおっしゃいますと」
「牢番は日替わりだ。三日続けて同じ奴を付けるなんて、聞いたことがない」
「……そういうものですか」
「そういうものだ。だから俺は、上に嫌われたのかと思ってた」
「嫌われた」
「面倒な役だからな。針子ひとりのために、三日も市までついて回るんだ」
リネットは、うつむいた。
「ごめんなさい」
「そこも謝るのか」
「はい」
「……まあ、今夜は考えが変わったよ」
リネットは、その帳のことを考えようとした。
三日ぶん、先に。ということは、猶予が決まったその日に、誰かがこの人を選んだのだ。
あくびばかりして、よそ見が多くて、市で人が話しかけたら三歩離れていてくれる人を。
(……いえ。考えすぎでございますわ)
そう思ったのに、胸のあたりが妙に重くなった。
牢の門を出て、クルトは南の小門のほうへ折れた。
「あの。そちらは」
「いつもの門は、今夜はよそう」
「どうして、でございますか」
「人が立ってる」クルトは顔を動かさずに言った。「城の者じゃない。頭巾をかぶって、三人だ」
リネットの足が、勝手に速くなった。
馬と羊の匂いのする使い。銀の留め金。縫い取りを外した糸の跡。ニコの口の端の傷。ぜんぶ、同じところから来ている。
「クルトさん。あの、わたくし――」
「静かに歩け。それだけでいい」
石畳の上を、二人はしばらく黙って歩いた。
革屋の前を過ぎるとき、なめしの匂いだけが濃かった。どこかで戸が一度鳴った。それだけだった。
「クルトさん」
「まだあるのか」
「今夜、三つ角を右へ折れれば川だとおっしゃいました」
「言ったな」
「あれは、あなたのお考えですか」
クルトは、少しのあいだ答えなかった。
「俺の考えだ」
「……はい」
「誰にも言われちゃいない。ただ、逃がしたほうがましだと思ったんだよ」
「まし」
「あんな台を、朝から見せられる身になってみろ」
リネットは、返す言葉を持っていなかった。
この人は、明後日の朝、あの台のそばに立たされるのだ。
「わたくし、逃げません」
「知ってる」
「ごめんなさい」
「そこは、謝らなくていい」
途中で、リネットは気がついた。
この人はいつも、灯のある側をわたくしに歩かせる。自分は暗いほうへ寄って、そこを歩くのだ。
今夜ここへ来るときも、牢へ戻るときも、そうだった。
――灯のある側を通れ。
宰相閣下も、同じことをおっしゃった。
仕立て場の戸の前で、リネットは掛け金に手をかけた。
この掛け金を初めて見たのは、今夜ここへ来たときだ。冬から壊れたままだった留め具が、真新しい鉄に替わっていた。あのときは、それだけだと思った。誰かが親切をしてくれたのだと。
この戸の前に立つのは、今夜二度目だった。今度は、少し長く見た。
受けの金具が、戸の内側についている。掛けるのも外すのも、中に立った人の手でなければできない。釘の頭も、内から打ってあった。
留守の家に、こんな向きの掛け金を打つ人はいない。留守にするなら、外から錠をかけるほうがいいのだ。
これは、中にいる人が外から入られないようにするための向きだった。
リネットは、手を離した。
この釘を打った人は、この戸の内側にわたくしがいる夜のことを考えたのだ。
わたくしが、生きて帰ってくる夜のことを。
そんなことを考えた人が、この三日のどこかにいた。
処刑の猶予をもらった針子の家に、寝るための掛け金を打った人が。
灯をつけると、台の下で何かが動いた。
「ボタン」
呼ぶと、茶と白の毛玉が出てきて、脛のあたりに体をこすりつけた。まだ同じ夜のうちだというのに、鳴き方ははじめのときより遠慮がなかった。
水瓶に、水が足してある。竈のわきの薪も、さきほどより高く積まれていた。
リネットは、その薪を見つめた。
さきほども、積んであった。それが、また増えている。
わたくしが牢へ戻っているあいだに、また誰かが来たのだ。
「ボタン。あなた、夜のあいだに誰か見ませんでしたか」
猫は答えなかった。
「見たのなら、教えてくださいまし」
ボタンは前足をそろえて、まっすぐ皿のほうを見ていた。
「……そうですわね。ごめんなさい」
皿には、干した小魚が三匹入っていた。
ボタンは戸口へ行って、また敷居を嗅ぎはじめた。鼻先を溝に押しつけたまま、しばらく動かない。
「またそれですの」
リネットは灯を近づけて、敷居に膝をついた。
溝のところに、小魚のかけらが一つ落ちていた。
「……ボタン」
猫はしれっとした顔でそれをくわえ、台の下へ引っこんでいった。
力が抜けて、リネットは声を出して笑った。こんなふうに笑ったのは三日ぶりで、笑ったあとで、少しだけ泣きそうになった。
皿に残った小魚を、指でつまんでみる。
いい魚だ。頭も腹も落としてある。裏の通りの店に並ぶのは、頭のついたままの安いものだった。
針も、そうだった。ドリスが言うには、おばあさまの戸の前に置かれていた薬も、薬師の店でいちばん高いものらしい。
安い物で済ませていない。
その人は、いつも選んでいる。
台の隅の反物は、今夜の初めに見たときと同じところに、同じようにたたまれていた。角の折り目まで、そのままだった。まだ鋏を入れていない。
リネットは鋏を取って、それから置いた。
布を裁つとき、仕立て師は縫い目の外に少しだけ布を余らせる。縫い代という。あとでほどいて出し直せるように、はじめから余らせておくのだ。詰めて裁ってしまえば、二度と出せない。
だから裁つのは、いつでもこわい。もとの一枚には、もう戻らないから。
棚から采寸帖を下ろした。
春の終わりの頁を開く。肩幅と着丈。袖の通り。首まわり。それに、腕を上げたときの背の伸び。
数はどれも、きちんと書いてある。
空いているのは、名前の欄だけだ。代金の欄も、空いたままだった。
(……ちがいますわ。ぜんぜん、ちがうお話ですもの)
あの方は逃げてくださった。この手が、あの手を扉のほうへ押したのだ。もしそれが無駄になっていたのなら、あの夜のわたくしは、いったい何をしたことになるのだろう。
帖面を閉じようとして、指が止まった。
閉じたくないのだと、少し遅れて分かった。
戸の外で、猫が鳴いた。
ボタンは台の下にいた。
リネットが戸を細く開けると、背の高い男がにんまり立っていた。
「猫の声、似てただろ」
「ニコ……その、お顔」
口の端の腫れが、昼に見たときより広がっていた。目の下も青い。
「派手に転んだんだよ」
「転んで、そこは腫れませんわ」
「よく知ってるね、お針子さん」
「お入りください。灯を、小さくしますから」
「気が利くね」
ニコは戸の内側にしゃがんで、懐から串の切れっぱしを出した。ボタンが飛んできた。
「猫のめしは、俺じゃないよ」肉を落としてやりながら、ニコは言った。「俺が置いてるのは、こういう残りものだ」
「小魚は」
「あんな上等なもの、俺は買わない」
ニコは首をのばして、台の上を見た。
「なに縫ってるの」
「まだ、何も」
「その布」
「……ご注文をいただいた上着です。ずいぶん前に」
「ずいぶん前」
「春の終わりに。……お名前も、書かずに帰られました」
「そりゃ困るね」
「困ります」リネットは采寸帖を閉じた。「取りにいらしたら、そのときに伺おうと思っていたんです」
「取りに来なかったのか」
「はい」
ニコは、それから何も言わなくなった。串を回す手も、止まっていた。
リネットは、皿のほうを見た。
「ニコ。あの掛け金は」
「釘は打てるよ。曲げるほうが得意だけどね」ニコは肩をすくめた。「あれは俺じゃない。あんな真っすぐには打てない」
「……では、どなたですか」
「言えない」
「ニコ」
「言えないんだ。悪いね」
リネットは、両手を前で握った。
「ご存じなんですね」
ニコは串の先で床を小突いた。小突く音が、二度した。
「……うん」
それだけだった。
「ひとつだけ言うよ」ニコが顔を上げた。「頼まれたとき、その人が言ったのはひとつだけだ」
「……はい」
「腹を空かせないでやってくれ、ってさ」
リネットは、動けなくなった。
「それきり、自分の話は一つもしなかった。名前も、どこにいるかも」ニコは笑おうとして、うまく笑えていなかった。「俺はね、そういうのがいちばん腹が立つんだ」
リネットは袖の内から、半分のパンを出した。
「これ、召し上がってくださいまし」
「よせよ、お針子さん。あんたの腹に入れるもんだ」
「夕方に、いただいたものです。クルトさんに」
「誰」
「衛兵さんです。お名前を、今夜伺いました」
「三日目でようやくか」
「……はい」
ニコは変な顔をして、それからパンを受け取ってひとくちかじった。
「石だな、これ」
「石ですわね」
「歯が減る」
「削れば、少しやわらかくなりますわ」
「削るのかい、パンを」
二人が笑ったところへボタンが台から飛び降りて、パンを前足で叩き落とした。落ちたそれをくわえて、また台の下へ潜っていく。
「食べないと言ったのに」
「猫は嘘つきだよ」
リネットは、その毛玉の尻尾を目で追った。それから、言わなければならないことを思い出した。
「ニコ。宰相閣下が」
「うん」
「あなたに、これ以上ものを訊いてはならないと。……市の者の口は先に閉じられるものだと、そうおっしゃいました」
「訊いてないだろ」
「え」
「あんたは何も訊いてない。俺が勝手に喋っただけだ」ニコは立ち上がった。「そういうことにしとこう。そのほうが、あんたが困らない」
リネットは、その言い方を胸のうちでもう一度たどってみた。
訊かれたことしか申しません、とロザさまは言った。
この人は、訊かれてもいないのに来て、勝手に喋ったことにしていく。
裏と表で、同じ縫い方だった。
「お針子さん。ひとつ聞かせてくれ」
「はい」
「今日の昼の御前、あんたはどこに立たされる」
「存じません」
「いちばん端だよ。扉のそばだ」ニコは指で床に線を引いた。「諸侯が二十六家。上座に王太后さま、その斜め前に宰相閣下。名乗り出た人は、たぶん真ん中だ」
「……真ん中」
「みんなに見えるところにな。ああいう置き方をするんだ」
「どうして、そんなことをご存じなんですか」
「大広間の椅子を運ぶのは、市から雇われた男たちだよ」
「……ああ」
「その男たちは、みんな酒を飲む」
「そして、あなたは酒場にいらっしゃる」
「そういうこと」
ニコは串を口の端でくるりと回した。
「なあ、お針子さん。あんた、その人に会ったらどうするの」
リネットは、答えられなかった。
「止めるのか」
「……止めれば、その方は」
「うん」
「わたくしが何か申し上げれば、あの方の首が先に飛ぶと。宰相閣下に、そう言われました」
「じゃ、黙るのか」
「黙れば、わたくしが」
「うん」
「……分かりません」リネットは、首だけを横に振った。「ごめんなさい。ほんとうに、分からないんです」
「謝るなよ」
「はい」
「分からないってのは、まだ考えてるってことだ」ニコは言った。「決めちまった奴は、もう考えない」
リネットは、その言葉をうまく飲み込めなかった。
「ニコ。あの、こわくないんですか」
「こわいよ」
あんまりあっさり言うので、リネットは瞬いた。
「路地で腹に刃を当てられたときは、膝が立たなかった」ニコは腫れた口の端を指で押した。「今も、こうやって痛い」
「……ごめんなさい」
「そこじゃない」
「え」
「こわいままでも、足は動くんだよ。俺も三日前までは知らなかった」
ニコは戸を細く開けて、外を透かした。それから、振り向かずに言った。
「南の小門のほう、頭巾が三人いる。今夜は表通りを歩くな」
「クルトさんも、そうおっしゃいました」
「……そうか」
背中が、少しだけ笑った気配がした。
「じゃ、その衛兵は当たりだな」
「あの、ニコ」
「なに」
「今日の昼、その方の顔を見てもよろしいでしょうか」
「俺に許しを取るなよ」ニコは戸に手をかけた。「よく見ときな。それだけだ」
猫の鳴き真似をひとつ置いて、ニコは夜に混ざった。
灯を小さくして、リネットは低い台に浅く腰かけた。
牢から抱えて帰った繕いかけの袖を、板の上に広げる。襟に刺していた針を抜いて、裂け目の続きに入れた。
手が動きだすと、頭のほうが勝手に数えはじめる。いつもそうだった。
夜のはじめに数えたのは、自分が助かる道だった。いま数えているのは、そっちではなかった。
この三日で、リネットは嘘を四つ見た。四つとも、自分のためだけの嘘ではなかった。そして四つとも、行き着く先はわたくしの首だった。
それなのに、と思う。
みなさま、縫い代を残してくださっている。訊かれたら答えるようにしておく。焼けと言われた一着を、焼かずに置いておく。ほどけるように縫って、糸の端を、わたくしの指の届くところに出しておいてくださったのだ。
針が、布の目を一度拾いそこねた。
みなさま、と数えて、そこで止まった。四つのうち、ひとつだけ違う。
ベルントさまだ。あの方の嘘には、縫い代がなかった。ほどける余りが、どこにも残っていない。御前で、わたくしの目は獣のようだったとおっしゃって、それで縫い止めてしまわれた。
縫い代を残してくださったのは、三人だ。
リネットは、針を止めた。
その三人が、わたくしにだけは嘘をつかなかった。
ロザさまは、こうおっしゃった。
「謝りもしません」
マルゴさんは、こうおっしゃった。
「あなたに死んでほしいのよ」
宰相閣下は、こうおっしゃった。
「見ないでくれ」
どれも、聞くのが痛い言葉だった。三人とも、御前の帳には作った話を並べておいて、わたくしの顔にだけは本当のことを置いていったのだ。
嘘をつく相手として、数に入れられなかったのだ。
三人とも、本気ではわたくしを殺そうとしていない。
そう思ったら、鼻の奥が痛くなった。
けれど、とリネットは自分に言った。
誰も、自分のいちばん大事なものと引き換えにはしない。
当たり前だ。わたくしだって、しない。おばあさまと引き換えなら、わたくしはきっと同じことをする。
だから三人は、見逃してくれている、というだけだ。
マルゴさんのお母さまは、三日たったら帰されるはずだった。その三日目が、今日だ。
リネットが死ねば、あの奥の間に人が戻る。それがこの結び目の、いちばん静かでいちばんひどいところだった。
五つ目があった。
名を伏せられた、あの人だ。
三度も帳から外されて、それでもやめない人だ。今日の昼、諸侯二十六家の前で、四度目を言う。言えば首が飛ぶと、宰相閣下はおっしゃった。
その人が引き換えに出しているものを、リネットは数えた。
一つしかなかった。
かわりに差し出せる誰かも、守る国も、奥の間で待っている人もない。ただ、自分の首だけを卓の上に置いている。
そんな人がいるはずない、と、この三日ずっと自分に言ってきた。わたくしのために、嘘をつく人が。
言うたびに、少し楽になった。いないと決めておけば、期待しなくて済む。期待しなければ、あとで痛くならない。二十年、そうやってきたのだ。
今夜は、続かなかった。
リネットは、布から針を抜いた。
ニコが運んできた三本のうちの一本だ。腰が強くて、指で挟むと頼りない顔をしているのに、布に入るときは迷わない。
一本でも二本でもなく、三本だった。折れたときのぶんまで数えて、持たせてくれたのだ。
針を握れば、この人は手が止まらなくなる。そう知っている人だ。
あの方は、わたくしの手を見て言った。針を持っていると、こわい顔が消えると。
采寸のあいだ、ずっと手もとを眺めていらした。名前も書かずに、目立たない上着を一枚だけ頼んで、仕立て代の相場もご存じなくて。
リネットは、針を両手で包んだ。
掌のなかで、細い鉄が一本、体温をもらってぬるくなっていく。
四つの嘘は、みんなわたくしを死へ押していた。
この一本を寄越した人の嘘だけが、逆を向いている。
針を選んだ人。掛け金を打った人。おばあさまの戸の前に薬を置いた人。猫の皿にいい魚を入れた人。
その人と、五つ目の嘘をついている人が、同じ人だとしたら。
その人と、あの夜わたくしが逃がした人が、同じ人だとしたら。
息が浅くなって、リネットは台の縁を握った。
まさか、と口の中で言った。声にはならなかった。
まさか。だって、あの方は逃げたのだ。あの晩わたくしは、たったひとことだけ告げて、あの手を扉のほうへ押した。それで終わったはずだった。
終わっていなかったのだとしたら。
もし五つ目の嘘を縫わせたものが、あの夜わたくしが申し上げたあの一言だったのなら。
リネットは、両手で顔を覆った。
言葉のことは思い出さない。覚えているのは、そのとき自分が笑おうとしたことだ。泣きそうな顔で、あの人に笑ってみせようとした。それだけを、頬がまだ覚えている。
「どうして……」
声が出た。灯のほうへ向かって、勝手に出た。
「どうして、わたくしなんかのために、こんな……」
続かなかった。続けようとすると、涙で言葉の形が崩れた。
――腹を空かせないでやってくれ。
あの人が頼んだのは、それだけだった。自分のことは、一つも言わなかった。
二十年、誰かのために針を動かしてきた。そうしているあいだだけ、ここにいてもいいのだと思えた。ここにいていいと誰かに言ってもらったことは、一度もない。
それなのに、名前も知らない人が、わたくしのために首を出して、わたくしの飯のことだけを頼んでいる。
嬉しかった。
嬉しいと思った自分が、こわかった。
「……ずるいです」
誰に言ったのでもなかった。
「わたくしなんかに、そんなものを持たせないでください」
ボタンが台に上がってきて、手の甲に頭をこすりつけた。糸巻きは、今夜は転がさなかった。
灯の油が、そろそろ尽きようとしていた。
高い窓の外が、黒からうすい灰色へ変わりはじめている。
夜が明ける。今日の昼、諸侯が集まる。
リネットは立ち上がって、台の反物をほどいた。
灯の下で、地味な羊毛がおとなしく広がった。
鋏を持った。
手が震えた。裁ってしまえば、もとの一枚には戻らない。着る人がいなくなれば、それは布にも戻れない、ただの裁ち屑になる。
(……縫い代は、たくさん残しますわ)
布に鋏を入れた。乾いた音が、一度した。
裁った布を台へ広げて、リネットは采寸帖をもう一度開いた。
名前の欄が、空いている。
わたくしは、この方のお名前を知らない。宰相閣下は、無いとおっしゃった。
けれど、上着を仕立てるなら、名前がなければ困る。誰の一着なのかを書いておかなければ、この帖面には残らない。
だから、伺わなければならなかった。
「……お名前を、伺います」
声に出したら、思ったよりずっと小さかった。膝から力が抜けて、リネットは台の縁にもう一度手をついた。
こわい。
昼になれば、あの席であの方の顔を見てしまう。見てしまったあとの自分に、縫い代は残らない。ベルントさまの嘘とわたくしの口だけが、ほどける余りを持たないのだ。
残されている道は、黙るか申し上げるかの二つきりだ。そこから先は、まだ何ひとつ解けていない。
――こわいままでも、足は動く。
ニコの言った通りなのかどうかは、まだ分からなかった。
それでも、今夜のうちに一つだけ決まった。
確かめる。
あの人が誰なのかを、この目で確かめる。こわいけれど、確かめる。
戸の外で、クルトが咳をした。
「針子さん。鐘だ」
「はい。いま参ります」
「……その荷物はなんだ」
「上着です。まだ、裁ったばかりですけど」
「今日の昼に帳が閉じるんだぞ。それで、上着を仕立ててるのか」
「はい」
「……あんたは」クルトは何か言いかけて、やめた。「いや。いい」
「なんでしょう」
「言うと、俺が困る」
「……はい」
「かわりに、一つだけ言うぞ」
「はい」
「昼の御前でな。あんたが何を言おうと、俺は聞かなかったことにする」
リネットは、顔を上げた。
「それは、いけません」
「俺が決めることだ」クルトは槍を担ぎ直した。「行くぞ」
リネットは針箱を閉じて、裁った布を布巾でくるみ、脇に抱えた。
戸を開けると、東の空が屋根の上から白みはじめていた。
内側の掛け金に、指がかかった。
これは、中から掛けるものだ。出ていく者の手では、掛けられない。
いつか、これを打った人に、お礼を申し上げたい。その人が、まだ生きているうちに。
掛け金は、掛けないままにしておいた。




