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第11話: 四つの糸

 その夜、リネットは、自分の命を助ける方法を四つ持っていた。


 四つとも、別の誰かを死なせる方法だった。


 三日の猶予の、二日目。夜はもう半分ほど過ぎている。明日の昼に諸侯が集まり、そこで帳が閉じる。閉じてしまえば、明後日の朝にあの白い板の台へ上がるのは自分だ。


 眠らなければ、と思うほど、四つの糸の端が指の先へ集まってくる。


「……起きてるのか」


 格子の向こうから声がした。昼のつき添いの、あくびの多い若い衛兵だった。夜は詰所の番をしているらしい。


「はい。すみません」


「謝るな。俺も暇なんだ」


 衛兵は壁にもたれて、槍を立てた。


「明日、御前に出るんだってな」


「そう伺いました」


「その形でか」


 リネットは自分の袖を見た。


 事件の夜から、この一枚きりだ。胸のあたりの血は洗ってもらったけれど、洗ったところだけ色が抜けて、白っぽい輪になっている。袖口は裂けたままだった。引き立てられたとき、腕を掴まれてほどけたのだ。


「衛兵さん」


「言うと思った」


「……まだ、何も申しておりません」


「顔に書いてある。どこだ」


「仕立て場です」


 衛兵は天井を仰いだ。


「日はとっくに落ちてる」


「はい。分かっています」


「分かってて言うのが、あんたの悪いところだ」


「ごめんなさい」


 リネットは格子に額を寄せた。


「明日、諸侯のみなさまの前に立ちます。この形で立てば、みなさまの目はそちらへ行ってしまいます」


「……そりゃ、まあ」


「それに、明日が最後ですから」


 詰所のほうで、薪がぱちりと鳴った。


 衛兵は長いこと黙っていた。それから槍を担ぎ直して、鍵の束を鳴らした。


「次の鐘までだ」


「え」


「昼だと目がある。今なら、たぶん誰も見てない」衛兵は錠を外した。「俺は外で待つ。見つかっても、俺はあんたを知らんぞ」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。叱られるのは俺なんだ」




 三日ぶりの、仕立て場だった。


 夜の職人街は、昼とまるで違う匂いがする。染め工房の桶の匂いが、冷えた石の上に低く残っていた。革屋の前を通れば、なめしの匂い。どこかで犬が一度だけ吠えて、それきり静かになった。


 リネットは自分の足音を聞きながら歩いた。石畳のどこが窪んでいるかを、体のほうが覚えている。


「なあ、針子さん」


「なんでしょう」


「あんた、逃げようとか思わないのか」


 リネットは足を止めた。


「今なら、俺は寝てたことにできるぞ」衛兵は前を向いたまま言った。「三つ角を右に折れりゃ、川だ」


 衛兵は、それきり何も言わなかった。槍の石突きが、石畳を一度だけ鳴らした。


「わたくし、おばあさまを置いていけません」リネットは言った。「それに逃げたら、あなたが叱られるだけでは済みませんもの」


「そこは考えなくていい」


「考えます」


 衛兵は舌打ちをして、槍を担ぎ直した。


「……変わってるな、あんた」


「よく言われます」


 仕立て場の戸の前で、足が止まった。


 掛け金が、新しくなっていた。


 この戸の掛け金は、去年の冬から壊れている。閉めても浮いてしまうので、いつも紐で縛っていた。その紐がない。代わりに、真新しい鉄の掛け金が打ってある。打ちつけた釘の頭が、まだ光っていた。


(……ドリスかしら)


 あの子は器用だけれど、鍛冶の仕事まではできない。


 戸を押すと、思ったよりなめらかに開いた。




 灯をつけると、まず床が見えた。


 掃いてある。


 台の上の埃も拭いてある。裁ち板が壁に立てかけてあって、糸の箱が高さの順に並べ直されていた。並べ方だけが、リネットの並べ方ではなかった。


 水瓶に、水がある。竈のわきに、割った薪が積んである。


「……どなたか、来てくださっているのだわ」


 声に出してみたけれど、その先は思いつかなかった。


 足もとで、何かが動いた。


 茶と白の毛玉が台の下から出てきて、まっすぐリネットの脛に頭をぶつけてきた。


「ボタン」


 しゃがむと、猫はごろごろ鳴きながら首を押しつけてきた。三日ぶんを、いっぺんに返そうとしているみたいだった。


 皿に、水があった。干した小魚が二匹。


 これも、誰かだ。


 リネットは袖から半分のパンを出した。夕方に衛兵からもらって、しまっておいたものだ。


「あなたも、いかが」


 ボタンはパンに鼻を寄せて、それからつんと横を向いた。


「……そうよね」


 少し笑えた。笑えたことに、自分で驚いた。


 猫は戸口のほうへ歩いていって、敷居のところをしつこく嗅ぎはじめた。何度も嗅いで、鼻を鳴らして、また嗅ぐ。


「ねずみかしら」


 ボタンは答えなかった。




 針箱は、いつもの棚にあった。


 その横に、采寸帖が置いてある。


 お師匠さまが四十年ぶんの寸法を書きつけた、分厚い帖面だ。リネットが継いでからは、三年ぶんを書き足した。


 繕う前に、なんとなく手が伸びた。


 最後の頁を開くと、あの一行がある。


 ――ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ。


(お師匠さま。わたくし、今夜もまだ分かりませんの)


 閉じようとして、指が別の頁を挟んでしまった。


 春の終わりの頁だった。


 肩幅。着丈。袖の通り。首まわり。それから、腕を上げたときの背の伸び。


 名前の欄だけが、空いている。


 書き忘れたのではない。あの方が、名は要らないとおっしゃったのだ。仕立て代の話をしたら相場をご存じないようで、こちらのほうが困ってしまった。だから代金の欄も空いたままになっている。


 リネットは、その空いた二つの欄を見ていた。


 ――その者に、名はない。


 宰相さまの声が、耳の裏で鳴った。


 鳴っただけで、どこにも繋がらなかった。


 まさか、と思う。あの方は逃げてくださったのだ。もうずいぶん遠くにいらっしゃるはずだ。そうでなければ、あの夜にわたくしがしたことは、何ひとつ意味がない。


 帖面を閉じて、台の隅へ目をやった。


 たたんだままの反物が置いてある。地味な色の羊毛だ。目立たない、ふつうの上着に、いちばん向く布だった。


 まだ、裁ってもいない。




 リネットは低い台に浅く腰かけて、袖口を手もとへ引き寄せた。


 繕うには、まず古い繕いをほどく。


 この袖は去年の秋に一度直している。そのときの糸が、裂け目の際まで走っていた。


 糸を一本、指で起こして引いた。


 ぷつ、と音がして――糸の脇の布が、いっしょに裂けた。


 リネットは手を止めた。


 もう一本、今度はうんとそっと引いた。同じところが、指ひとつぶん伸びるように裂けた。


 こういうことは、ときどきある。何度も洗った羊毛に丈夫な麻の糸を当てて繕うと、糸のほうが強くなりすぎるのだ。引いたとき、切れるのは糸ではない。負けるのは布のほうだ。


(……弱っていたのは、糸ではなかったのだわ)


 裂けた袖を、灯のほうへ持ち上げた。


 四つ、と胸のうちで数えた。


 ロザさまの糸。あの方の申し立てをほどけば、あの晩あの廊下に誰も通らなかったという話は消える。消えれば、あの方が消していた誰かが、あの冷たい床へ出てくる。誰なのかを、リネットはまだ言葉にしていない。したくない。ただ、あの小さな黒い上着の襟を、この指が直したことだけは覚えている。


 マルゴさんの糸。あれを御前に出しさえすれば、ベルントの筋書きは足場ごとなくなる。けれどその糸を引いた日、あの奥の間で寝ている人は、帰る場所をなくす。


 ニコの糸。あの人は消灯の出どころまで辿ってくれた。それを明日わたくしが申し上げれば、いちばん先に閉じられるのはあの人の口だ。宰相さまが、そうおっしゃった。


 そして、わたくしの糸。


 あの夜、あの部屋にもうひとりいた。血の重さごと殿下を抱きとめて、動こうとしなかった人が。


 ――掘ったぶんだけ人が死ぬ。


 リネットは、裂けた袖を手もとへ下ろした。


 四つとも、糸のほうが強い。


 引けるのだ。引く力なら、この指にある。引けば必ず、糸ではないほうが裂ける。


(……ほどけないというのは、こういうことなのですね)


 ずっと、うまく飲み込めずにいた。ほどけない結び目、という言い方が、どうしてもぴんと来なかった。結び目なら、根気よくやればいつかはほどける。お師匠さまの最後の一行を、リネットは三年、その意味で読んできた。


 ちがったのだ。


 ほどけないのではない。ほどけてしまうから、いけないのだ。


 リネットは針を一本取り出した。ニコが運んできてくれた、細くて腰の強い針だ。


 糸を通そうとして、三度、穴を外した。


 こういうとき、リネットは針目を数えることにしている。一、二、三と数えているあいだは、思い出しそうなものを思い出さずに済む。


 四度目に、糸が通った。


 裂けた縁を細く折り込んで、羊毛の糸で目を取っていった。麻ではもう持たない。弱った布には、弱いくらいの糸でちょうどいい。


 手が動きだすと、肩から力が抜けた。


 ボタンが台に飛び乗ってきて、糸巻きを前足で転がした。転がして、追いかけて、また転がす。


「……お願いだから、それだけは」


 猫は聞いていなかった。




 牢の詰所まで戻ったとき、東の空はまだ暗かった。


 衛兵は先に立って歩きながら、思い出したように言った。


「言い忘れてたんだが」


 リネットは、繕った袖口を撫でていた指を止めた。


「あんたに面会が来てる。夕方からずっと粘ってて、追い返しても帰らないんだ」


「え」


「若い娘だ。声のでかい」


 リネットは、それだけで分かった。




 ドリスは、詰所の隅の板の間に座り込んでいた。膝を抱えて、頭を壁につけて、目だけがしっかり開いていた。


「リネット様」


 跳ねるように立ち上がって、そのまま格子まで走ってきた。


「どこ行ってたの。ずっと待ってたんだから」


「ごめんなさい。少し、出ておりました」


「出るって、こんな夜に」


「お仕事を、少し」


「こんなときにお仕事?」ドリスは目を丸くして、それからリネットの袖を見た。「……直してきたんだ」


 リネットは袖を後ろへ回した。回したところで、もう見られている。


「ばか」


 ドリスの顔が、いっぺんに崩れた。


「泣かないでちょうだい」


「泣いてない」


「泣いていますでしょう」


「泣いてないってば」ドリスは袖で顔をこすった。「お、おばあさまは大丈夫だからね。今日もちゃんと食べたよ。あたし、粥に卵を落としたの」


「卵」リネットは目を見張った。「そんな贅沢を、どうやって」


「それがね」


 ドリスの声が、急に低くなった。


「知らない人が、置いていくの」


「……え」


「お薬と炭と、卵だよ。三回目。戸の前に置いて、名前も言わないで帰っちゃうの」ドリスは眉を寄せた。「一回追いかけたんだ。でも角を曲がったら、もういなかった」


 リネットは、格子を握った手を動かせなくなった。


「どんな方だったの」


「顔は見てない。置いたら、すぐいなくなっちゃうの」ドリスは首をかしげた。「あ、でもお薬はちゃんとしたやつだよ。薬師のとこで一番高いの。あたし、値段だけは知ってるもん」


「……そう」


「リネット様のお知り合い?」


「分かりませんの」


 分からなかった。分からないのに、胸の底のほうが、なぜか騒いだ。


「あのね。仕立て場も」


「え」


「あたし、掃除はしたよ。ボタンのごはんもあげてる」ドリスは言った。「でも、掛け金は直してない。あたし、あんなの打てないもん」


 リネットは、返事をしなかった。


 牢の壁の高いところで、風が鳴った。


 三日の猶予。差し入れの針。あくびばかりしている見張り。三日も入っていなかった暖炉の炭。半年ぶんの薬代。掛け金。薪。卵。


 ぜんぶ、親切だ。親切だから、これまで一つずつ、別々に受け取ってきた。


 それが今夜にかぎって、板の上に並べた釦のように、みんな同じ方を向いて見えた。


 考えようとすると、頭のほうが先に諦めた。昔からそうだ。数の話も、人の思惑の話も、リネットには重すぎる。


 ただ、ひとつだけ動かないものが残った。


 わたくしは、どこかで誰かに手をかけられている。


 その誰かの顔が、どうしても浮かんでこなかった。




「リネット様」


 ドリスは、格子の下のほうを見たまま言った。


「ねえ。どうやったら、リネット様は助かるの」


 まっすぐな声だった。


 リネットは、しばらく答えられなかった。


「……四つ、あるの」


「四つもあるの? じゃあ、大丈夫じゃない」


「一つ目は、ある方の申し立てが本当でないと申し上げること」リネットは言った。「そうすると、その方が守っていらっしゃる人が明日あの床へ出てきます」


「……ん?」


「二つ目は、あるものを御前に出すこと。出せば、わたくしの疑いはたぶん晴れます。晴れた日に、ある人のお母さまが帰ってこられなくなります」


 ドリスの口が、少しずつ閉じていった。


「三つ目を使えば、ニコが」


「ニコって、あの声真似の人?」


「はい。あの人の口が、いちばん先に閉じられるそうです」


「……四つ目は」


 リネットは黙った。


「四つ目は、なに」


「四つ目のことは、言えませんの」


「なんで。三つは言ったのに」


「三つは、わたくしが黙っていれば済みます」リネットは言った。「四つ目は、聞いた人のほうが黙らなければならなくなるんです」


 ドリスが、口を開けたまま止まった。


「……それ、聞いたらあたしも黙らなきゃいけないってこと」


「そうです」


「……」


「ごめんなさい。ドリスに、そんなものを持たせたくないんです」


 ドリスは格子を両手で掴んだ。手の甲に、洗い物のあかぎれが並んでいた。


「あたし、そんなの怖くないよ」


「わたくしが怖いんです」


 言ってから、リネットは自分の声の低さに驚いた。


「ドリスに何かあったら、わたくしはたぶん明日まで持ちません」


 ドリスの目から、ぼろりと落ちた。


「……ずるい」


「ごめんなさい」


「そういう言い方するの、ずるいよ」




 しばらく、二人とも黙っていた。詰所のほうで、衛兵がわざとらしく咳払いをした。気をきかせているつもりらしい。


「あのさ」


 ドリスが鼻をすすった。


「お城でもう一人、自分がやったって言ってる人がいるんでしょ。うちの通りでも、みんな言ってる」


「そう聞いています」


「じゃあ、その人が明日そう言ったら? それでリネット様は助からないの」


「助かりません」


「なんで」


「その方ひとりの申し立ては、これまで三度も帳に入れてもらえなかったそうです」リネットは言った。「明日は諸侯のみなさまがいらっしゃるから、入れないわけにいきません」


「入ったら、どうなるの」


「調べが始まります」


「調べが始まったら」


「その方が、死にます」


「リネット様が黙ってたら」


「明後日の朝に、終わります」


 ドリスは、しばらく何も言わなかった。板の間で、爪先だけが小さく動いていた。


「……どっちかしか、ないの」


「そうなんです」


「なにそれ」ドリスの声が裏返った。「そんなの、選べるわけないじゃない」


「はい」


「なんでリネット様が選ぶの。悪いことしてないのに」


「……分かりませんの」


 本当に、分からなかった。


「明日、その人に会うんでしょ」


「会う、というのとは違いますけれど」


「顔は、見られるんだよね」


「たぶん」


「見たい?」


 リネットは、答えなかった。


「見たいんでしょ」


「ドリス」


「あたし、三年リネット様の顔を見てるの」ドリスは言った。「今の顔、初めて見た」


 リネットは格子から手を離した。離した手の置き場がなくて、自分の袖を握った。


「いけないことだと、思うんです」


「なんで」


「明日、その方はたぶん死んでしまわれます」リネットは言った。「それなのに、その席へ出ろと言われたときです。わたくしが先に思ったのは、その方の顔が見られるということでした」


「うん」


「……ひどいでしょう」


「ひどくないよ」


「ひどいです」


「ひどくない」ドリスはきっぱり言った。「リネット様はいっつもそう。自分が嬉しいと思うと、すぐ謝るんだもん」


 リネットはうつむいた。


 うつむいたまま、違いますと言おうとして、言葉が出てこなかった。




「ねえ。その針」


「え」


 ドリスが、リネットの手もとを指した。袖を直したときのまま、針を一本、襟に刺していた。


「いい針じゃない。どうしたの、そんなの」


「いただいたんです」


「誰に」


「分からないの」リネットは針の頭に触れた。「市で、ニコさんが。頼まれた運び屋だと、それだけ」


 ドリスが、へんな顔をした。


「明後日に死ぬ人に、針を渡す?」


「……はい」


「その人さ」ドリスは首をひねった。「リネット様のこと、よく分かってるんだね」


 リネットの指が、針の上で止まった。


 パンでも、毛布でもなかった。針だった。この娘は針さえ持たせておけばいくらか息ができる、と誰かが思ったのだ。


 それだけのことが、なぜか今夜は、うまく置き場所を見つけられなかった。


「ドリス」


「なに」


「……いえ。なんでもありません」


 ドリスは、しばらくリネットの顔を見ていた。それから格子のあいだから小指を突き出した。


「もう一回」


 リネットはその小指に、自分の小指を絡めた。前より細くなった気がした。どちらのがとは、考えないことにした。


「帰ってきて」


「はい」


「返事、はやい」ドリスは唇を尖らせた。「ちゃんと言って」


「……努めます」


「それでいい」




 ドリスの足音が遠ざかってから、リネットは石の壁に背をつけて座った。


 高い窓の外で、槌の音がしていた。


 夜のうちも打っているのだ。昼に見たあの白い板の台は、明日の朝には出来上がっているのだろう。松の生木の脂の匂いは、ここまでは届かない。届かないのに、鼻の奥だけが覚えていた。


 リネットは襟から針を抜いて、繕い残した袖口の一寸ばかりを取りにかかった。


 一、二、三。


 針目を数える。数えているあいだは、あそこへ戻らずに済む。


 四、五、六。


 七つ目で、指が止まった。


 戻ってしまった。


 あの夜のあの部屋。血の匂いと、近づいてくる松明。膝をついたまま動こうとしなかった人の腕。その耳もとへ、リネットは口を寄せた。


 告げた言葉のことは、思い出さないようにしている。


 思い出さないようにしているのに、体のほうが、あのときの息の継ぎ方を覚えていた。喋る前に一度だけ、短く吸ったのだ。それを思い出すと、いつも指が動かなくなる。


 あの一言を、リネットは誰にも渡していない。宰相閣下にも、マルゴさんにも、ロザさまにも、ドリスにも。


 言えないのではなかった。


 言いたくないのだ。


 あれはたぶん、二十年生きてきて、わたくしがいちばん本当のことを言った瞬間だった。それを冷たい床の上に置いて、書き取られて、帳に入れられるのは――いやだった。


 こわい。明後日死ぬのは、ほんとうにこわい。


 それなのに今夜は、もっとこわいものが別にあった。


 明日になれば、名を伏せられたままのその人が、二十六家の目の前へ引き出される。


 見てしまったら、たぶん、わたくしは黙っていられない。


 黙っていられなければ、その人が死ぬ。


 リネットは針を布に刺した。刺したまま、しばらく動かせなかった。


 仕立て場の台の隅には、たたんだままの反物が置いてある。地味な色の羊毛だ。目立たない、ふつうの上着に、いちばん向く布だった。


 ――縫いたい。


 こんな夜に思うことではないのに、そればかりを思った。

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