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第10話: 名のない者

「針子さん。呼び出しだ」


 その一言で、リネットは自分の首もとに手をやった。


 処刑は明後日だと聞いている。それでも日が繰り上がることはあるのだと、隣の牢の男が笑って教えてくれた。お役人は気の変わるものだからな、と。


「……いまから、でございますか」


「いまからだ」


「あの、どちらへ」


「宰相閣下のお部屋」


 つき添いの若い衛兵が、格子の錠を外した。


 二日目の夕方だった。牢の高い窓から落ちてくる光が、もう赤くなっている。三日の猶予のうち、二日目が暮れようとしていた。残りは一日だ。


「日が落ちたら牢へ戻す約束でしたのに」


「閣下がお呼びなら、約束のほうが引っこむんだよ」衛兵は肩をすくめた。「今日は叱られずに済むと思ったんだがな」


「ごめんなさい」


「あんたのせいじゃない」


 立ち上がろうとして、リネットは少しよろけた。この二日、椀の中身がほとんど喉を通っていない。


 衛兵が懐から半分のパンを出した。


「食っとけ」


「……いえ、そんな」


「俺の昼の残りだ。腹に何も入れないと、閣下の前で倒れるぞ」


 リネットは受け取って、端をひとくちだけかじった。


 味がしなかった。


 こわいと食べられなくなるのは知っている。けれど、おいしいと思えないのは初めてだった。昨日はニコの焼き串を、あんなにおいしいと思ったのに。


 残りは、袖の内へしまった。


「腐らせるなよ」


「……はい。だいじに、いただきます」




 回廊は、昼のうちにきれいに掃かれていた。


 石の目地に埃がない。柱の裾も拭いてある。城の中でここまで丁寧に掃かれるのは、人が来る前の日だけだ。


「明日、諸侯のお集まりですね」


「昼からな」衛兵が言った。「大広間の椅子を、朝から数えてるよ。何度数えても足りないんだと」


 下の庭を通りかかったとき、槌の音がした。


 リネットは足を止めた。


 積んだ板が、夕日の中で白く光っている。松の生木だ。切ったばかりで、まだ脂の匂いが立っている。


 癖で、目が長さを測ってしまった。


 六尺と、四尺。それを四方に組んで、高さは胸のあたり。


(……何かの、お台ですわね)


 そこまで考えて、体のどこかが止まった。


「行くぞ」衛兵の声が、急に大きくなった。「そっちは見なくていい」


 リネットは、板から目を離した。離すのに、思ったより手間がかかった。


 歩きだしても、脂の匂いは、しばらく背中についてきた。


 宰相の執務室は、城のいちばん奥の、いちばん狭い廊下の突き当たりにあった。


 立派な部屋を想像していた。扉は、ただの樫だった。取っ手のところだけが、握られすぎて色が抜けている。




 中は、寒かった。


 暖炉に灰があるのに、火が入っていない。灯は卓の上の一本きりで、部屋の隅は暗いままだ。紙と、墨と、冷えた灰の匂いがした。


 卓の向こうに、オットマールが座っていた。


「そこへ」


 リネットは膝をつこうとした。


「立っていろ。膝をつかれると話が長くなる」


「……はい」


 膝を戻すのに、手が卓の縁を探ってしまった。


 顔を上げて、リネットはまず、その袖を見てしまった。


 右の袖口だけが薄い。三十年も卓に肘をついて書いてきた人の袖だ。そこを四度ほど繕ってある。同じ場所に、糸の色の違う継ぎが四枚重なっていた。


 玉止たまどめというのは、縫い終わりに糸をくくって留めることをいう。この方の玉止めは大きい。ひと針も長い。糸は麻糸だった。羊毛の袖に麻の糸を使えば、洗うたびに引きが違って布が痩せていく。


(……ご自分で繕っていらっしゃるのだわ)


 夜に、この一本の灯で。


 それに、上着が大きい。肩が落ちて、襟が首から浮いている。仕立てが悪いのではない。この方が、この上着の中で細くなったのだ。


 卓の上には紙が山になっていた。封をしたもの、開いたもの、砂をかけたばかりのもの。


 その中に一枚だけ、山に入っていない紙があった。


 二つに折った紙だ。宰相の左手が、その上に置かれている。置いたまま、動かない。


 折り目のところが、毛羽立っていた。何度も開いて何度も畳んだ紙は、そこから先に古くなる。


 墨の色も、卓の上のどの紙より薄い。端に、封蝋を剥がした跡が赤く残っていた。剥がしたきり、封じ直していないのだ。


 ――ずいぶん、読み返していらっしゃるのだわ。


 それが何の紙なのかは、分からなかった。


「明日の昼、諸侯が集まる」オットマールが言った。「王弟殿下の喪と、戴冠の日取りを決める」


 リネットは、うまく頷けなかった。明日の集まりと自分に、どんな関わりがあるのか分からなかった。


「その席に、お前を出す」


 リネットは瞬いた。


「わ、わたくしを」


「王太后陛下のご意向だ。猶予をやった娘を隠したままでは、あとで話がややこしくなる」オットマールは目を上げなかった。「立たせて何もなかったと確かめて、それで終いだ」


 リネットの胸のあたりが、勝手に動いた。


 明日、その席には、もうひとり立つ人がいる。自分が刺したと申し出る人だ。


 顔が、見られる。


 こんなときに何を思っているのだろうと、自分に呆れた。呆れたのに、胸のほうは正直に鳴っていた。


「あの、それは」


「口を閉じていろ、という話をしている」


 オットマールは、そこで初めて顔を上げた。


「明日の席で、お前は問われる。申し立てることはあるか、と。今日までと同じに、ございませんと答えろ」


 リネットは膝の前で指を組んだ。組んだ指が、思ったより冷たかった。


「……分かりました」


「それだけだ。下がれ」


 リネットは、下がらなかった。


 下がらなければならないのは分かっていた。膝も、さっきから小さく鳴っている。それでも足が動かなかった。


「あの……宰相閣下」


「なんだ」


「明日その席で、自分が刺したとおっしゃる方が」


 宰相の指が、紙の上で一度だけ動いた。


「……その方は、どうなりますの」


「首が飛ぶ」


 なんの色もない声だった。


「なぜ、お助けにならないのですか」


「助けている」


「……え」


「言わせぬのが、助けることだ」オットマールは言った。「今日まで三度、あの申し立ては帳に入れていない。入れれば調べが始まる。調べは、まずその者の素性へ行く」


「素性を、お調べになるのですか」


「どこの生まれで誰の子で、これまで何をしてきたか。そこを掘る」


「……掘れば、どうなりますの」


「掘ったぶんだけ人が死ぬ」


 リネットは、その言い方をうまく飲み込めなかった。


 言葉は分かる。分かるのに、どこにも収まらない。


「あの……三度も帳に入れずにいらしたのなら」リネットは言った。「明日も、そうしてくださればよいのではないですか」


「明日は、入れざるを得ぬ」


「どうして」


「諸侯の前で申せば、聞いた者が二十六家ぶんできる」オットマールは言った。「私ひとりで握り潰せる数ではない」


「では、なぜその席に」


「明日の席は、新しいことを聞く場ではない。決まったことを諸侯に見せて、帳を閉じる場だ」宰相は紙の上の手を動かさなかった。「その閉じる場に、自分から立つと言ってきた」


 リネットは、瞬いた。


「諸侯の前で王弟殺しを名乗るというのは、そういうことだ。真であれ狂言であれ、名乗った者の首は飛ぶ」


「……狂言でも、でございますか」


「狂言でもだ」


「でも、狂言だとおっしゃったと聞きました」


「言った」


「では明日その方がおっしゃっても、狂言でございましょう」リネットは言った。「狂言なら、みなさま笑ってお済ませになるのではないのですか」


 オットマールの手が、止まった。


 止まったというより、そこから先へ動かなくなった。


 灯の芯が、小さく鳴った。


「……仕立て師」


「はい」


「お前は、いま自分が何を言ったか分かっているか」


「え」


 リネットは自分の言葉を巻き戻した。巻き戻して、分からなかった。


「あの。ごめんなさい。何か、失礼を」


「謝るな」


 オットマールは、卓の脇の椅子を指した。


「座れ」


「え」


「膝が鳴っている」宰相は言った。「明日で終わる娘に、話しておくことにした。座れ」




 この部屋の火は、三日入れていない。入れる暇がなかった。


 卓の上には、明日の座席の割が広げてある。諸侯の家の順は、間違えれば恨みになる。二十六家。何度並べ替えても、どこかの家が下がる。


 オットマールは、いちばん上の一行を左の指で押さえた。押さえて、また離した。


 娘の肩が、さっきから小さく上下している。


 紙の上へ、手を戻した。戻したまま、動かさなかった。


「――火を入れろ」


 扉のところの下役に、そう言った。




 下役が二度出入りして、炭を運んできた。


 灰をかき寄せる音がした。炭を組む音がした。息を吹き込む音が、三度した。


 この部屋には音が少ないので、そのひとつひとつが、やたらと大きく響いた。


 しばらく間があって、暖炉の奥がふっと明るくなった。


 リネットは、座ったままそれを見ていた。


 三日入っていなかった火だ。それが、明日で終わる自分のために入れられた。そう思うまでに、少し時間がかかった。思ってしまったら、うまく息が継げなくなった。


「あの……ありがとうございます」


「礼を言うな。書き物の手が冷えると、字が荒れる」


 そういうことにしておこう、とリネットは思った。この方の字は、さっきから少しも荒れていない。


 卓の上に、大きな紙が広げてある。


 升目が引いてあって、そこに家の名が並んでいた。上のほうに三つ。その下に、二列。書いて、消して、また書いた墨が重なっている。


 いちばん上の一行だけが、三度書き直されていた。誰の名かは、リネットには読めなかった。墨が重なりすぎて、字の形が潰れていたからだ。


「あの晩のことを本気で調べれば、行き先はもう決まっている」オットマールが言った。


 リネットの指先から、力が抜けた。


「北の、大きな家だ」


 その先を、宰相は言わなかった。


 三人が飲み込んだのと、同じ場所だった。


 ベルントさまは家と言った。ロザさまは申せませんと言った。マルゴさんは、言わないわ、と言った。


 この方も、そこで止まった。


「……お名前は」


「言わぬ」


 なんでもない声だった。断ったというより、はじめから渡すつもりがなかったという声だ。


「王家がその家を王弟殺しで呼ぶ。呼べば、諸侯は二つに分かれる」オットマールは紙から手を離さないまま言った。「北につく家がいくつあるか、お前は数えたか」


「……いえ」


「私は数えた。十一だ」


 リネットは指を折ろうとして、途中でやめた。十一は、片手では足りない。


「城の側で明日すぐ兵を出せる家は、その半分もない」


 リネットは、その数をどこにも置けなかった。


 布ならすぐ分かる。何反あれば足りるか、指で数えられる。人の数は、指のどこにも載らなかった。


「あの……わたくし、頭がよくないので」リネットは言った。「十一とその半分だと、どうなりますの」


「負ける」


 それだけだった。


「宰相閣下は、なぜわたくしにこんなお話を」


「話しても値がつかぬからだ」


「……値、と申しますと」


「針子が諸侯の前で北の家の名を申したところで、誰も帳には入れぬ。入れずに、その口を閉じるだけだ」宰相は紙の上の手を少し動かした。「だから数は教える。名は言わぬ」


「……お名前だけは、なぜ」


「言えば、お前は明日それを申す」


 リネットは、口を開けたまま黙った。


「申した者から先に死ぬ」オットマールは言った。「今日まで三度、それを見ずに済ませてきた」


「では、わたくしが申してもどうにもならないのですね」


「ひとりならな」宰相は言った。「明日、あの者が自分が刺したと申す。そこへお前が別の男を見たと申せば、二つが噛み合う。噛み合った申し立ては、帳に入る」


「……入れば、調べが」


「始まる」


 リネットは、肩を小さくすくめて身構えた。


「四十七年前に一度、この国は割れた」オットマールは続けた。「そのとき麦が三年焼けた。道で人が死んだ。私は十一の年に、その道を歩いた」


 リネットは、何も言えなかった。


 麦の焼けた道を歩く十一の子どもを、うまく思い描けなかった。思い描けないまま、目だけが、その袖口の継ぎへ戻っていた。


「六つの子に、割れた国は持てぬ」


 暖炉の火が、はぜた。


「でも」リネットは声を絞り出した。「ベルントさまは、お父上に申せと言われたと」


「駒がひとつ、口を滑らせただけだ」オットマールは言った。「駒の口は明日には変わる。父に会わせれば、明後日には忘れる」


「……灯のことは」


「灯係の孫が酒場で喋った話を、諸侯の前で誰が数えると思う」


 リネットはうつむいた。


「布のこともか」


 顔を上げると、宰相はこちらを見ていた。


「針目と寸法と、糸の縒りか。……仕立て師。布は、あの部屋では喋らぬ」


「……はい」


「ほかにあるなら、言え。今なら聞く」


 リネットは、口を開いた。


 開いて、閉じた。


 あの上着のことを言えば、いちばん確かなものが卓に載る。誰かがあの晩を前もって用意していたことの、たった一つの証だ。


 載せた途端に、あの工房の奥の間は、永久に空のままになる。


「……ございません」


「よろしい」


 オットマールは、少しも意外そうな顔をしなかった。


「もうひとつ言っておく」宰相は言った。「ニコとかいう市の男に、これ以上ものを訊くな」


 リネットは、膝の上で袖口を握った。


「あの手の者の口は、いちばん先に閉じられる。……私が閉じるのではない」


「ニコは、そんなつもりでは」


「つもりで人は死なぬ」


 言い返す言葉が、出てこなかった。


「あの男は、そこがまだ分かっていない」




「宰相閣下」リネットは言った。「ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「言え」


「……わたくしが死んだら、国は割れませんの」


 オットマールは、少しのあいだ黙った。


「割れぬ」


「……そう、ですか」


「お前ひとりが咎人であれば、諸侯は納まる。針子が金目のものに目がくらんで刺した。それで話は終わる」宰相は言った。「一人を救って国を割るか、一人を捨てて千を守るか。私はずっと、後ろのほうを選んできた」


「……何人、でございますか」


「何人目かは、もう数えていない」


 言い方に、力みがなかった。自慢でも、居直りでもなかった。何度も同じ帳をつけてきた人の、慣れた声だった。


 リネットは、掌を開いたまま動かせずにいた。


 この方は、明日わたくしを殺す人だ。それが分かっているのに、腹が立たなかった。腹が立たないことが、こわかった。


「もうひとつある」オットマールが言った。「お前の祖母のことだ」


 リネットの息が、止まった。


「職人街のはずれの借間だな。腰が立たず、薬を欠かすと夜に息が浅くなる」


「……どうして、そんなことを」


「調べた」


 なんでもない言い方だった。


「明日お前が口を閉じていれば、薬代と間代はこちらで見る。……あの様子では、そう長くはない。半年ぶんで足りるだろう」


 リネットは、暖炉の火を見た。


 三年だ。


 三年、この薬代のために頭を下げてきた。自分の縫った一着を他人の名前で納められても、礼を言った。約束の半分に値切られても、礼を言った。ありがとうございますと言えば、次の仕事が来るからだ。


 だから、口が勝手に動いた。


「……ありがとうございます」


 言ってしまってから、リネットは自分の口を押さえた。


 押さえた指の下から、去年の秋の朝がひとつ、上がってきた。


 仕上げた外套を、屋敷の家令が受け取った朝だ。針目が細かすぎる、手間をかけすぎだと言って、約束の半分の銅貨を数えた。リネットはそれを両手で受けて、頭を下げた。


 ――ありがとうございます。


 言わなければ、次の仕事が来ない。あのとき下げた頭の高さを、体のほうがまだ覚えている。


「よせ」


 オットマールが、目を伏せた。


 この部屋に入ってから、この方が目を逸らしたのは、それが初めてだった。


 伏せた、というより、こちらから外した。一度だけ瞬きをして、卓の隅の、何も置いていないところを見た。喉が、上下した。


 十一の家の話をしているときも、首が飛ぶと言ったときも、この方はまっすぐこちらを見ていた。手も、一度も震えなかった。あの袖口の擦れ方からして、この三十年、震えたことがないのだろうと思った。


 ベルントさまのように汗をかいたりもしない。ロザさまのように声を落としたりもしない。


 この方は、嘘をついていないのだ。


 嘘をつかないまま、見ないと決めている。それだけのことだった。


 ――こんなにこわいものが、あるのだわ。


 目を伏せたその手の、袖口が見えた。


 四枚重なった継ぎの、いちばん上の一枚が、また薄くなりかけている。


「あの、宰相閣下」


「なんだ」


「その袖口、あと二度も繕えばもう布が持ちません」


 言ってから、リネットは慌てた。


「……あ。ごめんなさい。つい」


 オットマールは、袖を見なかった。


 長いあいだ、何も言わなかった。灰の落ちる音が、二度した。


「仕立て師」


 リネットは顔を上げた。


「お前の目が正しいことは、私がいちばんよく知っている」


 膝の上の指が、勝手にスカートの布をつまんでいた。


「三年前、ハンナが死んだあとにお抱えの席を継がせろと言ったのは私だ。腕の帳を見て決めた。あれは間違っていなかった」


 リネットは、灯のほうを見た。


 奥歯が、かちりと鳴った。


 お師匠さまの葬いのあった三年前の春、誰かがわたくしの名前を紙に書いてくださったのだ。会ったこともないと思っていた人が、腕の帳を繰って。


 その同じ人が、明日わたくしを諸侯の前に立たせる。そして明後日、あの白い板の台へ上げる。


「……存じませんでした」


「言う必要がなかった」オットマールは言った。「明日お前がその目で見たものを一つでも口にすれば、この国は諸侯の前で二つに割れる。……だからこそ、見ないでくれ」


 部屋が、静かになった。


 火の音だけが残った。


 リネットは、掌の中で親指の腹を押した。強く押しておけば、口は勝手に動かない。この二日、そうやってきた。


 言ってしまえば、いっぺんに終わる。あの夜あの部屋で誰を見て、その耳もとで何を言ったのか。ぜんぶ、この方は聞いてくださるだろう。


 聞いて、そのあとで――


 リネットは、親指をもっと強く押した。


「宰相閣下」


「なんだ」


「わたくし、こわいです」


「知っている」


「明後日に死ぬのは、ほんとうにこわいです。いまも、逃げたいと思っています」リネットは言った。「でも、見ないようにするのはたぶんもっとできません」


「なぜだ」


「分かりません」


 本当に、分からなかった。


「……ただ、目が勝手に見てしまって。見なかったことにするのが、わたくしはいちばん下手なんです」


 オットマールは、長いこと黙っていた。


「……そうか」


 それだけだった。怒りもしなかった。


「あの、もうひとつだけ」


「言え」


「明日、名乗り出るその方のお名前を」


「伏せてある」


「……お名前だけでも、いけませんか」


 オットマールは、紙の上の手を少し握った。


「その者に、名はない」


「え」


「そのままだ」


 それきり、宰相は書きものへ戻った。


「下がれ。……日が落ちた。牢へ戻る道は、灯のある側を通れ」


 戸のところで、リネットは一度だけ振り返った。


 オットマールは、座席の割へ戻っていた。二十六家の順を、また並べ替えている。


 その左手だけが、紙の山を離れて、二つに折った紙の上に置かれていた。


 折り目の毛羽立ちは、この部屋のどこよりも古かった。




 回廊には、もう灯が入っていた。


 リネットは灯のある側を歩いた。歩きながら、頭の中で数えていた。


 四人目だ。


 ベルントさまは、お父上のことを訊かれて、家、とだけ答えた。ロザさまは、誰が灯を落とさせたのかと訊かれて、申せませんと言った。マルゴさんは、お使いの方、名は伺っていない、と言った。


 三人とも、名前の手前で口が止まった。手も止まった。ロザさまは声が落ちた。マルゴさんは、針の穴の前で指が動かなくなった。


 こわいから、止まるのだ。


 宰相さまも、名前は言わなかった。


 けれど、あの方の手は止まらなかった。声も落ちなかった。汗もかかなかった。


 言えないのではない。言わないと決めていらっしゃるのだ。わたくしが明日それを口にしないように、はじめから渡さないと決めて。


 同じところで口を閉じているのに、三人とは閉じ方が違う。


 それから、リネットはもう一つ思い出した。


 北の家の名は、言わぬ、とおっしゃった。あるけれど渡さない、という言い方だった。


 けれど明日名乗り出る方については、こうおっしゃった。


 ――その者に、名はない。


 伏せてある、から、無い、へ変わったのだ。


 飲み込んだのではない。消したのだ。


 名前を消せる人が、この世にはいる。


 その恐ろしさが、少し遅れて背中に届いた。リネットは灯の側へ、もう半歩よった。


 それから、あの紙のことを思った。


 二つに折って、開いて畳んで、また開いた紙だ。帳には入れていないと、あの方は言った。焼いてもいない。封蝋を剥がしたまま、封じ直してもいない。


 狂言だと切って捨てた紙を、人はそんなに読み返すだろうか。


 マルゴさんは、焼けと言われた上着を焼かなかった。手が動かなかったと言っていた。理由は自分でも説明できないと。


 焼かなかった人が、もう一人いる。


 リネットは、そのことをどう置けばいいのか分からなかった。ただ、胸のどこかが変な熱を持った。




「あの。……図々しいのは、分かっているのですけど」


「またか」


「北の回廊の角まで、寄らせてくださいまし。……見るだけです」


 衛兵は天を仰いだ。それから、槍を担ぎ直した。


 北の回廊は、明るかった。


 いちばん奥の灯にも、きちんと火が入っている。あの晩だけ、あそこは暗かった。


 リネットは、殿下のお部屋の扉の前で立ち止まった。


 床は洗われている。血の跡も、もうない。壁の燭台が、真新しい油の匂いをさせていた。


 そこで、初めて思い出したことがあった。


 肩掛けだ。


 あの夜、リネットは自分の肩掛けを外して、あの人の肩へかけた。赤くなった胸もとを隠すためだった。粗い毛織りの、六年着た一枚だ。四か所繕ってある。どこをどう繕ったかは、自分がいちばんよく知っている。


 あれは、どこにもない。


 誰も訊かなかった。牢に落とされた娘が肩掛けを持っていなかったことなんて、誰も気にしない。


 でも、もしあれが見つかったら。


 あの晩あの部屋に人がもう一人いたことが分かる。そして、その人の肩に布をかけてやった娘がいたことも、分かってしまう。


 わたくしが、逃がしたのだと。


 リネットは、扉の前で肩を落とした。


 これで、言えないことがまた一つ増えた。


 明日の昼、その方は自分の首を差し出しに出ていく。真であれ狂言であれ飛ぶと、宰相さまは言った。


 止められない。止めようとして口を開けば、その方の首が先に飛ぶ。マルゴさんのお母さまは奥の間へ帰ってこられない。ニコの口も閉じられる。


 わたくしが黙っていれば、明後日、あの白い板の台に上がるのはわたくしだ。


 リネットは、洗われた床を見た。


「……見つからないでいて」


 声に出してから、自分の言い方に驚いた。


 肩掛けのことを言ったのか、あの人のことを言ったのかが、自分でも分からなかった。

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