第9話: 焼けなかった一着
二日目の朝、マルゴの工房の戸が閉まっていた。
三年のあいだ、リネットはこの戸が閉まっているのを見たことがない。主席仕立て師の工房は日の出前から人が出入りして、いつも半分は開いている。鋏の音と女たちの声が通りまで漏れているのが、この一角の朝だった。
それが、板を打ちつけたように閉じている。
三日の猶予のうち、一日目は終わった。今日が二日目だ。日が暮れれば、残りは一日しかない。
「なあ針子さん。ここでいいのか」
つき添いの若い衛兵が、槍を担ぎ直した。昨日と同じ、あくびの多い人だった。
「城の中を見て回るんじゃなかったのか」
「……はい。でも、どうしても先にここへ」
「日が落ちる前には戻るぞ。叱られるのは俺なんだからな」
「ごめんなさい」
「もう聞き飽きた」
リネットは懐に手を当てた。折りたたんだ紙が一枚、そこに入っている。
王太子ユリアン殿下の寸法を、書き写したものだ。肩幅。着丈。袖の通り。それから、育つぶんの余りをどれだけ見込んだか。襟を擦らせないための、縫い目の落としどころ。
昨日の夜、牢の暗がりで指をなぞりながら思い出して、朝、看守に紙と炭を借りて書いた。字は震えていたけれど、数だけは間違えていないはずだった。
戴冠の式は、日延べになった。それでもいつかは行われる。そのとき、あの子は白い絹を着るのだ。
自分が縫った一着は、もう血を吸ってしまった。
だから、頼まなければならない。この国でいちばん腕のいい仕立て師に。
リネットは息を吸って、閉じた戸を叩いた。
戸は、思ったよりすぐに開いた。
「……あなた」
マルゴだった。
顔を見た瞬間、リネットは言葉を忘れた。
目の下が黒い。頬が削げている。髪をまとめた紐が緩んで、後れ毛が首に張りついていた。いつも隙のない襟が、片方だけよじれている。
(三晩、寝ていらっしゃらないわ)
そう分かってしまった。分かったところで、何になるわけでもないのに。
「牢に入っていたのではなかったの」
「……猶予を、いただいて」リネットは頭を下げた。「あの、朝早くにごめんなさい。ほんの少しだけ、お時間を」
マルゴは戸の隙間から通りを見て、それから顎を引いた。
「お入りなさい。……戸は、閉めて」
工房の中は、黒かった。
卓の上、床の上、壁ぎわの台の上に、黒い布が積み上がっている。仕立て途中の喪服だ。諸侯の分だと聞いていた。数えるのも面倒なほどある。
人がいない。
いつもは十人ばかりの女たちが並んで縫っているはずの台が、ぜんぶ空だった。
「あの……お弟子さんたちは」
「帰したわ。しばらく来なくていいと言って」
「そんな。この量を、おひとりで」
「わたくしがそう決めたのよ」マルゴは椅子に腰を下ろした。「用件を言いなさい。あなたに割ける時間はないの」
声はいつもの声だった。硬くて、皮肉の膜がかかっている。
けれどリネットの目は、その手を見てしまった。
卓の縁に置かれた右手が、細かく震えている。
それだけではない。マルゴの前に置かれた黒い布は、同じ場所を三度ほどいてあった。糸の穴が三本、並んで残っている。縫って、ほどいて、また縫って、またほどいたのだ。
この人の縫い目を、リネットは三年見てきた。この人がほどくのを、一度も見たことがない。
「……何を見ているの」
「あ。ごめんなさい」
リネットは慌てて目を伏せた。
「先に申し上げておくわ」
マルゴが糸を通しながら言った。
「わたくし、あなたに不利な申し立てをしました。昨日、宰相閣下に書付を上げたの」
リネットは、瞬いた。
「衣装にかこつけて殿下のお部屋の奥まで入れるのは、あなたしかいない。あなたには針も鋏もある。そう書いたわ」
「……はい」
「はい、じゃないでしょう。少しは怒りなさいよ」
「……怒るの、下手なんです」
マルゴの指が、針の穴の手前で止まった。
「それに、あなたには――」
そこで、口を閉じた。
糸を歯で切って、それきり続けなかった。続きは、とうとう言わなかった。
リネットはその先を待ったけれど、待っても来ないものだと分かった。
「……あの。用件を、申し上げます」
懐から紙を出して、両手で差し出した。
「これ、王太子殿下の寸法です」
マルゴが顔を上げた。
「肩と袖に、育つぶんの余りを見込んであります。それと、襟のところ。あの子は首の皮がやわらかいので、縫い目を内側に出さないように……あ、ごめんなさい、そんなこと、マルゴさんに申し上げるほうが」
「何のつもりなの、これは」
「戴冠のお衣装を、お願いしたくて」リネットは頭を下げた。「わたくしの縫った一着は、汚れてしまいましたから」
工房が、静かになった。
「あなたの名前で、納めてくださって構いません」リネットは続けた。「わたくしの名前は、どこにも要りません。ただ、あの子にあたたかい一着を着せてあげてほしいんです」
マルゴは紙を受け取らなかった。
受け取らないまま、じっとリネットを見ていた。
「……あなた、明後日には死ぬのよ」
「はい」
「死ぬ人間が、他人の子の襟の心配をするの」
「……ほかに、できることがなくて」
マルゴは、乾いた音で笑った。笑ったのに、目が笑っていなかった。
「腹の立つ娘」
それだけ言って、紙を指の先で受け取った。乱暴に置くのだろうと思ったのに、卓の隅の、糊のこぼれていないところへそっと置いた。
同じ縫い目を、三度ほどいた。
こんなことは十年なかった。針目を数えれば布に触れる前から仕上がりが見えるのが、マルゴの手だった。
その手が、朝から言うことを聞かない。
この娘の目が、いやだ。
顔を見ていない。手を見て、襟を見て、卓の上を見ている。値踏みではない。恨んでもいない。あの目には、隠したものが映ってしまう。
三年、この目のことは知っていた。知っていて、ずっと使ってきた。
マルゴは針を持ち直した。奥の間の戸に目が行きかけて、針へ戻した。
「そこに立っていられると気が散るわ」
言いながら、声が思ったより低く出た。
「座りなさい。……椅子は、その辺のを使って」
リネットは、壁ぎわの低い台に浅く腰かけた。
卓の端に、椀がひとつ置いてある。粥だ。匙が刺したまま倒れていて、表面に膜が張っていた。朝のぶんに手をつけていないのだ、とリネットは思った。
(わたくしと、同じでございますわ)
牢の椀も、この二日ほとんど喉を通らなかった。人は、こわいと食べられなくなる。それだけは分かる。
その台の横に、蓋の開いた木箱があった。
布が入っている。
目が吸い寄せられて、リネットは慌てて膝の上に手を重ねた。人の工房のものを覗くなんて、してはいけない。そう思ったのに、指のほうが台の縁をなぞりはじめていた。
黒ではなかった。深い青だ。上等な羊毛で、織りの目がそろっている。
胸のあたりが、暗く固まっていた。
血だ。
「……これは」
「殿下があの晩お召しだったものよ」マルゴは針を止めなかった。「亡くなった方の衣は、洗って納めるか焼くかを決める。決めるのは仕立て師の仕事なの。だから、ここに回ってくる」
「……はい」
「触ってはだめよ」
「はい」
触らなかった。触らないまま、リネットは見た。
最初に見たのは、襟だった。
もとのままだ。
昨日の夕方、侍女の局で見た籠を思い出す。殿下のお召し物は、どの一枚も襟の合わせを指一本ぶん外へ広げ直してあった。継いだ糸の色がもとと違っていたから、着てから直したものだと分かった。いちばん下の一枚には、襟の内側に柔らかい布が縫い留めてあった。
殿下は、喉を痛めていらしたのだ。だから襟を広げ、当て布を入れ、蜂蜜の湯を一日に何度も飲み、声を張らずに済むよう手もとに銀の鈴を置いていた。
この一枚だけが、広げられていない。
当て布も、入っていない。
(……この襟では、痛かったはずです)
次に見たのは、袖口だった。
擦れていない。
布に触らなくても分かる。上等な布は、袖口から先に艶が変わる。肘のあたりも、まだ張りが立っている。三日か四日、それくらいしか着ていない布の顔だ。
けれど殿下は、襟を直す手間をかけるほど、同じ形の上着を着回していらした。
リネットは、いちど唇を結んだ。
「マルゴさん。あの……お願いがあります」
「まだあるの」
「その上着、袖に腕を通してみてもよろしいですか」
マルゴの針が、止まった。
「何のために」
「分かりません」リネットは正直に言った。「ただ、その上着がなんだか」
「なんだか」
「……息をしていない気がして」
マルゴは長いあいだ黙っていた。それから、椅子から立ってきて、箱の中から上着を持ち上げた。血の乾いた胸を自分の腕の側へ隠して、袖のほうをリネットへ向ける。
「血に触らないように。片方だけよ」
「はい」
リネットは立ち上がって、右腕をそっと袖に通した。
通した瞬間に、分かった。
肩が、詰まっている。
背中の幅が足りない。袖のつけ根が前に引かれていて、腕を横に開くと布が突っ張る。
リネットは、腕を上げようとした。
肩の高さまでは、上がった。
そこから先が、上がらなかった。
「……上がりません」
「え」
「腕が」リネットは自分の肩を見た。「肩より上に、上がらないんです」
マルゴが、リネットの腕を見た。
「もう一度やってみなさい」
「……はい」
二度やった。三度やった。
三度目に無理に上げようとして、背中の縫い目が小さく鳴った。
リネットは腕を抜いた。抜いてから、しばらく声が出なかった。
「殿下はあの晩、これをお召しでした」
「……そうよ」
「この上着では、腕が上がりません」
「だから何なの」
「顔を、庇えません」
言った途端に、立っているのが急にむずかしくなった。
リネットは台に手をついた。手のひらが冷たくて、自分の手のような気がしなかった。
「刃を向けられたとき、人はこうします」
両腕を顔の前へ上げてみせようとして、途中で下ろした。
「……できません。この服では、できないんです」
工房の空気が、動かなくなった。
「それから、声も」リネットは続けた。うまく続かなかった。「襟が、広げてありませんから。あの喉に、この襟です。……ほとんど、出なかったと思います」
マルゴは上着を抱えたまま、突っ立っていた。
「誰かが」
リネットの声が掠れた。
「あの方に、この服をお着せしたんですね」
マルゴは答えなかった。
答えないまま、上着を箱へ戻した。戻す手つきが、いつものこの人の手つきではなかった。畳まずに、そのまま落とした。
リネットは、箱の縁の縫い目を見た。
見たくなかった。見なければよかった。それでも、目は勝手に仕事をする。
脇の縫い代の止めが、三度返してある。
運針というのは、針の運び方のことをいう。同じ布を同じ糸で同じように縫っても、手の癖は人ごとに違う。針目の傾き、糸を引く強さ、縫い終わりの止め方。だから縫い目を見れば、誰の手か分かってしまう。
止めは、普通は二度返せば足りる。
三度返すのは、この工房でひとりだけだった。
それに、針目がわずかに右へ傾いている。左の手で布を送る癖のある人の、目の傾きだ。
リネットは、箱から目を上げた。
「……マルゴさんが、縫われたんですね」
マルゴの肩が、はっきりと落ちた。
「布は、新しいものです。殿下のお召し物に見えるように、よく似せてあります。……でも、これは殿下の上着ではありません。あとから縫われたものです」
「……」
「襟が広げてないのは」リネットは言った。言いながら、自分の言葉が怖くなった。「頼んだ方が、殿下の寸法だけ持っていらしたからでしょう。喉のことは、ご存じなかったんです」
マルゴが、初めて目を伏せた。
「その方は、殿下の寸法は知っていて」
リネットは、そこで止まった。止まってから、小さく続けた。
「……殿下のことは、知らなかったんですね」
鋏が、床に落ちた。
マルゴが落としたのだ。拾おうとして屈んで、そのまま床に膝をついた。
「マルゴさん」
「……二寸」
「え」
「背を二寸詰めろと、言われたわ」
マルゴの声は、リネットが聞いたことのない声だった。低くて平たくて、皮肉のかけらもなかった。
「一晩で、殿下の上着と同じものを縫え。布はこれを使え。襟は帖面の寸法どおりに。背は二寸詰めろ。……理由は、聞かなかった」
「……はい」
「聞かなかったのよ」マルゴは自分の手のひらを見た。「わたくしは、寸法どおりに縫えばいいと思ったの。詰めろと言われたら詰める。それだけの話だと思った」
「マルゴさん」
「二十年、針を持ってきて」マルゴは笑った。笑い方が壊れていた。「布のことなら誰よりも分かると思っていたのよ。それが、自分の手が何を縫ったのかも分からなかった」
リネットは、床に膝をついた。マルゴのそばに寄って、落ちた鋏を拾った。
「……あの」
「触らないで」
「はい」
鋏は、卓の上に置いた。
それから、リネットは何も言わずにそこに座っていた。
訊きたいことは、山のようにあった。誰に言われたのか。いつ来たのか。なぜ引き受けたのか。
ひとつも口に出さなかった。
昨日、侍女の局でも同じだった。こちらが訊けば、この人は答えてしまう。答えてしまえば、その首に糸がかかる。
だから、黙っていた。
黙っていたら、マルゴのほうが喋りはじめた。
「奥の間を、見ていらっしゃい」
「え」
「見ればいいわ」
リネットは立ち上がって、工房の奥の戸を開けた。
小さな部屋だった。窓は高いところに一つだけある。寝床が一つ。枕もとに湯呑みと、櫛。壁に、麻の下着が二枚かかっている。
寝床には、誰もいない。
掛け布が、めくったままになっていた。めくった形のまま、乾いて固くなっている。人が起きたのではない。人が、連れ出されたのだ。
リネットは戸のところで立ちすくんだ。
この奥の間に、マルゴのお母さまが寝ていることは知っていた。腰が立たなくなって、もう幾年になるとか。工房の女たちが交代で世話をしているのだと、ドリスが言っていた。
顔は、一度も見たことがない。
「……お母さまは」
「三日、預かると言われたわ」
マルゴは卓のほうを向いたままだった。
「三日たったら返す。それまで、言われたとおりにしろと」
「……三日」
「今日が二日目でしょう」
リネットの背中を、冷たいものが下りていった。
三日。処刑までの三日と、同じ三日だ。
「マルゴさん。それは、つまり」
「あなたが死んだら、母は帰ってくるの」
マルゴがこちらを向いた。
「わたくしはね」
目が、赤かった。
「あなたに死んでほしいのよ、リネット」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
三年、この人はリネットを小娘と呼んだ。カルヴェの、と呼んだこともある。名前で呼ばれたのは、一度もなかった。
リネットは、戸の枠に手をついて立っていた。
「……はい」
「はい、って何なの」
「そうですね、って」
「気味の悪い娘」マルゴは目のふちを手の甲で拭った。「あなた、ほんとうに腹が立たないの」
「立ちません」リネットは首を振った。「お母さまでしょう」
マルゴの手が止まった。
「わたくしも、おばあさまがいますから」リネットは言った。「もし、おばあさまを三日預かると言われたら……何を縫ってでも取り返しますわ。もっとひどいことも、するかもしれません」
「……あなたにはできないわ」
「できます」
「できないわよ」マルゴは、うんざりした顔をした。「あなたはそういう子でしょう。だから腹が立つの」
言ってから、マルゴは長く息を吐いた。
「焼けと言われたのよ」
「え」
「その上着。縫い終わったら、こちらで焼いておけと。……ずいぶん親切な言い方だったわ」
リネットは、箱のほうを見た。
深い青の布が、蓋の開いたまま入っている。血が、胸のところで暗く固まっている。
「焼いてありません」
「焼いてないわ」
「……どうして」
マルゴは椅子に座り直した。座って、卓の上のリネットの紙を指で押さえた。
「さっき、言いかけたでしょう」
「……はい」
「あなたには――」
そこで一度切って、マルゴは今度は最後まで言った。
「あなたには、見えてしまうでしょう。だから、焼かなかったの」
工房が、しんとした。
「わたくしは頭で考えるのよ。いつもそう。書付は上げた。母のためだもの、上げるわ。何度でも上げる」マルゴは紙を撫でた。「でも、焼くのだけは手が動かなかった。……理由は、自分でも説明できないの。腹の立つことに」
リネットは、目のふちが熱くなるのを感じた。
「マルゴさん」
「泣くのはよしてちょうだい」
「……はい」
「泣くなと言っているでしょう」
リネットは袖で顔を押さえた。押さえたけれど、間に合わなかった。
「ごめんなさい。……わたくし、マルゴさんのことをこわい人だと思っていました」
「こわい人よ」
「はい。……でも、ずっと羨ましかったんです」
マルゴが、顔を上げた。
「マルゴさんは頭がよくて、腕もわたくしよりずっと上で。わたくしみたいに、迷ったり間違えたりしませんもの」
「……あなた、本気で言っているの」
「はい」
マルゴは、しばらく黙っていた。
それから、椅子の背にもたれて天井を見た。
「同じ針を持って生まれて」
ぽつりと言った。
「どこで、愛される側と愛されない側に分かれたのかしらね」
リネットは、その言葉の意味がすぐには取れなかった。取れないまま、胸のどこかが痛んだ。
ふいに、三年ぶんの朝のうちの一つが浮かんできた。
手柄を渡した朝だ。マルゴが夜会服を畳んで、手間賃はいつも通りそこに置いておくと言った。それから、ひとことだけ付け足した。
――足りる?
あのとき、リネットは何も答えなかった。答える前に、足りなくてもわたくしの知ったことではないけれど、と続いたから。
あの人は、足りるかと訊いたのだ。
この工房の奥の間に、腰の立たない人が寝ていて。薬と、炭と、粥のぶんを、あの人も毎晩数えていたのだとしたら。
「マルゴさん」
「何」
「……いえ。なんでもありません」
言えなかった。言えば、この人はきっと鼻で笑う。
「その上着は、御前に出せないわ」
マルゴが言った。声が、もういつもの声に戻りかけていた。
「出せば、誰が縫ったかを訊かれる。訊かれれば、わたくしの手だと分かる。分かれば――」
「お母さまが」
「そう」
リネットは、箱を見つめた。
あの一着が、いちばん確かなものだった。誰かがあの晩を前もって用意していたことの、たった一つの証だ。あれを御前に持ち出せば、盗みの成り行きだという話は根から崩れる。
崩せば、この工房の奥の間は、永久に空のままになる。
(……ほどけないわ)
糸の端は、もうこの指にかかっている。昨日もそう思った。今日は、もっと太い糸だった。
「持ち出しません」
リネットは言った。
「あなた、明後日には死ぬのよ。分かっているの」
「はい」
「馬鹿な娘」
「……よく、言われます」
マルゴは何か言おうとして、やめた。
それから針を取って、また黒い布に向かった。三度ほどいた場所に、四度目の針を入れた。
「一つだけ教えるわ」
「はい」
「布を持ってきたのは、お使いの方よ。名は伺っていない」
リネットは、息を止めた。
「頭巾をかぶっていたわ。声は若かった。……外套の胸に、糸の跡があったの」
「糸の、跡」
「縫い取りを外した跡よ。糸の穴が並んで残っていた」マルゴは針目を数えるように言った。「あれを外すのは、外しても困らない家の者だけ。困る家の者は、そもそも外さないのよ」
「……どちらの、家の」
「言わないわ」
マルゴは針を止めなかった。
「言えないの」
リネットは、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはないわ」
「……はい」
「お行きなさい。日が高くなる」
戸のところまで来たとき、背中でマルゴが言った。
「カルヴェ」
リネットが振り返ると、マルゴは布から目を上げなかった。
「あなたの寸法書きは、預かっておくわ」
「……はい」
「あの子の襟のことは、書いてあるとおりにする。……あなたが死んでも、生きていても」
リネットは、もう一度深く頭を下げて、戸を閉めた。
通りに出ると、日はもうずいぶん高かった。
「長かったな」若い衛兵が壁から背中を離した。「泣いてたのか」
「泣いていません」
「顔に書いてあるぞ」
三つ角を曲がったところで、荷車の陰から声がした。
「お針子さん」
リネットは飛び上がった。今日は宰相さまの声ではなかった。
ニコだった。壁にもたれて、串を一本くわえている。にんまり笑っているのに、下唇の端が切れて腫れていた。
「ニコさん。……お顔が」
「さんはいらない」
「そのお口、どうなさったんですか」
「酒場でね。焼き串屋のばあさんの声で、鍛冶屋の親方をおちょくったら殴られた」ニコは肩をすくめた。「自業自得だよ」
リネットは、その手を見た。
串の先が、小刻みに上下していた。ニコはそれを隠すように、指の背で握り直した。
こういう震えは、殴られた人の震えではない。こわい思いをした人の震えだ。牢の中で、自分の指が同じようになっていたのを覚えている。
「……ニコ」
「なに」
「わたくしのために、無理をなさらないでください」
「してないよ」
「なさっています」
「してない」ニコは串を口から抜いた。「はい、これ。焼き串。二本あるから食べな」
「……いただきます」
油の匂いが、ぱっと鼻に来た。おなかが正直な音を立てて、リネットは赤くなった。
「あんた、ほんとにいい鳴りっぷりだね」
「……お黙りください」
「はいはい」
肉は硬かったけれど、あたたかかった。あたたかいものを口に入れると、それだけで肩が少し下りる。こんな日でも下りてしまうのだから、体というのは呆れるほど言うことを聞かない。
「で、本題」ニコは串をくるりと回して、声を落とした。「灯のことだ。あの晩、奥の灯を落とせという言いつけが来たのは当日じゃなかった」
「……当日でない、というのは」
「前の日の昼だよ」
リネットの手が、串の上で止まった。
「あの晩、暗くなったんじゃない。あの晩を、暗くすると決めてあったんだ」ニコは低く言った。「前の日から、あの晩が選ばれてた」
「……」
「言いつけを持ってきたのは、城の者じゃない。馬の匂いと、羊の匂いがしたってさ。頭巾をかぶってて、外套の留め金だけが銀。胸に何かを外した糸の跡があったってさ」
リネットは、串を落としそうになった。
「……糸の、跡」
「うん」
「その方は、たぶん」うまく声が出なくて、リネットは唾を飲んだ。「今朝も、同じ外套で歩いていらしたんだと思います」
ニコが、こちらを見た。
「マルゴさんのところに、いらしたんです。同じ跡があったって」
「――そりゃあ」ニコは目を細めた。「同じ使いだ」
「……はい」
「その使いを出した家が灯を落とさせて、あんたのマルゴさんにも何かをやらせてる」
「はい」
「どこの家だ」
「マルゴさんは、言えないと」
「そうか」
ニコは串の先で足もとの石を小突いた。小突く力が、昨日より強かった。
「お針子さん。俺の名前は、御前で出さないでね」
「……はい」
「出したら、俺が困るんじゃない。俺の悪友が困るんだ」
「はい」
「よし」
ニコは残りの肉を口に入れて、串だけを放った。
「灯のことは、ロザさんが申し立ててる。あんたはそれだけ持っていけばいい。ほかは何も言わなくていいよ」
「ロザさまは、灯のことを御前では」
「言ってないんだろ」ニコは笑った。「訊かれてないからさ。あの人は訊かれたことしか言わないよ」
リネットは、その言葉を胸の中で二度なぞった。
訊かれていないから、言っていない。
ならば。
城へ戻る回廊を歩きながら、リネットは指を折っていた。
三人だ。
ベルントさまは、お父上のことを訊かれて、家、とだけ答えた。名前を、一度も呼ばなかった。
ロザさまは、誰が灯を落とさせたのかと訊かれて、申せません、と言った。
マルゴさんは、お使いの方、と言った。名は伺っていない、と。
三人が、同じところで足を止めている。
名前のいちばん手前で、みんな口を閉じるのだ。人を通して物を言わせる人の、その名前の手前で。
こわい人なのだろう、とリネットは思った。どれだけこわい人なのかは、想像がつかなかった。
ただ、その人は、殿下の寸法を持っていた。そして殿下のことは、何ひとつ知らなかった。
昼、リネットはまた御前へ通された。
昨日と同じ広い部屋だった。王太后アデルハイトは奥の椅子に、宰相オットマールはその斜め前の卓に、書記は壁ぎわに控えている。今日はそこに、卓の前へ立つ人が二人いた。
ベルントと、ロザだった。
「本日は、証人の申し立てを帳に納める」オットマールが言った。「猶予は明日で終わる。以後、申し立ては受けぬ」
リネットは冷たい床に膝をついた。膝が、勝手に震えている。
明日で終わる。声にして言われると、体のほうが先に分かってしまう。
「フォルカー家の嫡子、ベルント殿。加えることがあると聞いた」
「はい」
ベルントの声は、昨日よりよく通っていた。上着も昨日と同じだ。肩が余っていて、腕を下ろすと落ち方が緩い。
「思い出したことがございます。あの女は、前掛けの下に何かを押し込んでおりました。殿下のお卓の上にあった何かを」
「何か、とは」
「暗くてそこまでは。ですが、確かに膨らんでおりました」
「暗くて」
オットマールが、そこだけ拾った。
「……いえ。それは、その」
「続けよ」
「とにかく、盗みに入ったのです」ベルントは胸を反らした。「そこは動きません」
書記の羽根ペンが走った。
リネットは床を見ていた。前掛けの下に押し込んだものなど、ひとつもない。けれど、ないと申し上げても、この方はまた別のことを思い出すのだろう。昨日それは分かった。
だから、別のことを言った。
「あの……宰相閣下」
声が、みっともなく裏返った。
「なんだ」
「……ひとつ、確かめていただきたいことが」
リネットは、背中をまっすぐにした。
「ロザさまに、伺っていただけませんか」
「何を」
「あの晩、あの廊下が明るかったかどうかを」
部屋の空気が、動いた。
「わたくしがお訊きしても、答えていただけないと思います」リネットは早口で言った。「でも、それだけならロザさまもお答えになれると思って」
ロザが、こちらへ目を向けた。
その目が、ほんのわずかに大きくなった。
アデルハイトが、身じろぎをした。
「侍女ロザ」
「はい」
「答えなさい。あの晩、北の回廊は明るかったですか」
ロザは背筋を伸ばした。
「暗うございました」
声は、掠れていた。掠れていたけれど、はっきりしていた。
「奥の灯が、落ちておりました。わたし、壁を手で探して歩きました」
羽根ペンの音が、止まった。
声が、出なかった。
ベルントは息を吸った。吸ったのに、途中で止まった。
耳の奥で鳴っている。さっきから何かが鳴っていて、それが自分の心臓の音だと気づくのに、ずいぶんかかった。
卓の向こうで、書記が羽根ペンを置いた。
昨日、この音は自分について走った。今日は、卓に置かれている。
「書記」
宰相の声がした。
「昨日の申し立てを読み上げよ。フォルカー殿の分だ。一言一句、違えるな」
「はっ」
ベルントは、扉のほうを見た。
閉まっている。昨日と同じに閉まっている。誰かがその向こうにいるはずだった。いるはずだったのに、今日は物音ひとつしなかった。
書記が、紙を持ち上げた。
自分の言葉が、他人の声で部屋に落ちはじめた。
「――三つの鐘のすぐあとです。北の回廊で、あの部屋から出てくるところを。手は血まみれでした。目は血走って、まるで獣のようで」
言った覚えのある言葉だった。
たしかに自分が言った言葉だった。
ベルントは手のひらを腿にこすりつけた。汗が、上着の腿を黒く濡らした。
アデルハイトが、椅子の背から静かに身を起こした。
「フォルカー殿。ひとつだけ伺います」
声は、少しも高くならなかった。
「暗い廊下で、目の色が見えましたか」
「……松明を、持っておりました」
「一言一句と申されたのは、貴殿ご自身です」オットマールが言った。「その申し立てに、松明の話は一行もない」
「書き忘れたのです」
「一言一句、書き取らせた申し立てに」
ベルントの喉が動いた。
「では、灯は点いておりました。あの侍女が嘘をついているのです」
「ほう」オットマールの声は、少しも上がらなかった。「貴殿は、王弟殿下のお部屋付きの侍女が御前で偽りを申したと言われるか」
「そ、そうです」
「侍女ロザ」アデルハイトが言った。「そなたの申し立てには、あの晩あの廊下を通った者が書かれておりますね」
「はい」
「読み上げなさい」
「宵の口に、殿下がわたしをお呼びになる声が聞こえました」ロザは同じ言葉を同じ順に並べた。「ですから、お部屋へ入る手前の廊下に上がって控えておりました。そのあいだ廊下をお通りになったのは、針子ひとりです」
部屋が、静まった。
「ひとり」
アデルハイトが繰り返した。
「はい」
「フォルカー殿。そなたは、その刻限にその廊下にいたと申した」
ベルントの顔から、色が落ちた。
リネットは顔を伏せたまま、目だけを動かした。
――ああ。
昨日、この方の一言でわたくしの言い分は行き先をなくした。あの晩あの廊下を通ったのは、針子ひとり。それが帳に残るなら、あの部屋にいたもうひとりは、はじめからどこにもいない人になる。
その同じ一言が、いま、この方を廊下から消している。
「わたしは、いました」ベルントの声が高くなった。「いたのです。そこにいたから、見たのです」
「では侍女が偽りを申しており」
「そうです」
「同時に、その侍女の申し立てのうち針子が通ったという一行だけは真であると」
「そ、それは」
「どちらかをお選びなさい」
アデルハイトは、少しも急がなかった。
「灯は点いていたのか、落ちていたのか。侍女は嘘をついているのか、いないのか。そなたはその廊下にいたのか、いなかったのか」
ベルントの唇が動いた。動いたけれど、音にならなかった。
「昨日わたくしは、そなたに問いましたね。誰を待っていたのですか、と」
「……」
「そなたの父上は、この件をなんと申しておいでか」
それは昨日と同じ問いだった。
昨日、ベルントは家は関わりございませんと答えた。ずいぶん早い返事だった。
今日は、違った。
「父上が」
声が、掠れて落ちた。
「父上が、そう申せと」
部屋の中の誰も、動かなかった。
ベルントは自分の口を手で押さえた。押さえてから、それが遅いことに気づいたようだった。
「い、いえ。今のは。ちがいます。私は、私の一存で」
「書き取れ」
オットマールが、静かに言った。
「一言一句、違えるな」
「はっ」
羽根ペンが、走りはじめた。
リネットは、床を見ていた。
胸のどこかが、すっとしたのは本当だった。
昨日、この人はわたくしの祖母のことを人前で並べ立てた。貧しいから盗んだのだと。卑しい者のすることだと。あの言葉が、そっくりそのまま返っていく。ざまあみろという気持ちが、たしかに一度、顔を出した。
顔を出して、すぐに引っ込んだ。
衛兵が二人、卓の脇から出てきた。ベルントの腕を左右から取る。
「離せ。離さぬか。私はフォルカー家の――」
言いかけて、ベルントは扉のほうを見た。
閉まった扉を、見ていた。
誰も出てこなかった。開きもしなかった。
連れられていくとき、ベルントは空いているほうの手で自分の上着の肩を引っぱった。何度も引っぱった。肩の余りを直そうとするような手つきだった。あんなに引いても、あの上着は合わないのに。
昨日この人は、書記の手もとと閉じた扉を、代わりばんこに見ていた。ちゃんと書かれたか。ちゃんと聞こえているか。そればかりを気にしていた。誰かに聞いていてほしかったのだ。
その誰かは、今日、扉を開けなかった。
「……お可哀想に」
声に出したつもりはなかった。
誰も聞いていなかったと思う。ただ、ロザだけがちらりとこちらを見た。
「王太后陛下」オットマールが言った。「フォルカー家の嫡子の申し立ては、偽証の疑いをもって帳から除きます。身柄は預かります」
「そうしなさい」
「ただし」
オットマールの目が、床のリネットへ下りてきた。
目に、勝ち負けの色がなかった。それが、いちばんこわかった。
「仕立て師。証人ひとりの偽証は、お前の無実ではない」
リネットは顔を上げた。
「お前はあの夜、血に濡れた手で殿下のかたわらにいた。それは何人もが見ている。侍女の申し立ては生きている。あの廊下を通ったのは、お前ひとりだ」
「……はい」
「お前は今日も、自分の弁明を一つも申し立てていない」
リネットは、膝の上の手を握った。
言えば、覆るかもしれない。あの夜、あの部屋にはもうひとりいたと。真っ赤な手で、殿下の背に腕を回していた人がいたと。
言えば、あの人がこの冷たい床へ引き出される。
それに、今日はもう一つ増えた。あの上着のことを言えば、この工房の奥の間が、永久に空のままになる。
どちらの端も、この指のすぐそこにある。けれど引けば、必ず誰かの服がほどける。
「……ございません」
「よろしい」
オットマールは書記に何か言いつけて、立ち上がった。
リネットの脇まで来たところで、その足がまた止まった。誰の耳にも届かない声だった。
「よく、しのいだ」
リネットは、息を詰めた。
「だが覚えておくことだ。お前が次に何かを見つけたなら、それは必ず誰かの首だ」
「……はい」
「明日、諸侯が集まる」
オットマールの声が、一段低くなった。
「そこで、また自分が刺したと申す者がいる。名は伏せてある。……お前が余計を申せば、その者の首が先に飛ぶ」
リネットの指が、床を掻いた。
「お前の猶予も、明日で終わりだ」
宰相は、それきり背を向けた。
部屋を出るとき、ロザとすれ違った。
ロザは目を合わせなかった。合わせないまま、すれ違うときに小さく言った。
「……訊かれたことしか、申しません」
「はい」
「訊いてくださって、よかった」
それだけだった。ロザは黒い布の山のほうへ歩いていった。左手は、今日もかくしの中にしまわれたままだった。
回廊は、明るかった。
灯係の男が、昼の光の中で灯芯を切っている。奥のいちばん端の灯にも、油はきちんと足されていた。
「なあ、針子さん」つき添いの衛兵が、槍を担ぎ直した。「あれ、あんたが勝ったんじゃないのか」
「勝っていません」
「あのお坊ちゃん、引っぱられてったぞ」
「……はい」
「嬉しくないのか」
リネットは、少し考えた。
「あの方の上着は、あの方の寸法ではありませんでした」
「は?」
「肩が、余っていたんです」
衛兵は変な顔をして、それから諦めたように前を向いた。
リネットは、それきり黙って歩いた。歩幅が、自分でも分からないほど小さくなっていた。
残りは、一日だ。
明日、諸侯が集まる。そこで、名も知らない誰かが、自分が刺したと言う。首が飛ぶのを承知の上で、言いにいくのだ。
わたくしがほんとうのことを言えば、その方が死ぬ。
わたくしが黙っていれば、わたくしが死ぬ。
わたくしがあの上着のことを言えば、あの奥の間は空のままになる。
どこにも、ほどける端がない。
(お師匠さま。……これ、ほんとうに、ほどけませんの)
立ち止まって、リネットは高い窓の外を見た。
城の外に、職人街の屋根が並んでいる。あのどこかの下に、マルゴさんが座って黒い布を縫っている。四度目の針目を、たぶん今度はほどかずに。
この人たちは、みんな誰かのために嘘をついている。
嘘は、その人のいちばん柔らかいところに縫いつけてあった。ほどこうとすれば、必ずその柔らかいところが破ける。
――だったら、わたくしは、どうすればいいのでしょう。
答えは出なかった。
出ないかわりに、思ってしまったことがあった。
明日、その人は諸侯の前に立つ。立って、自分が刺したと言う。
顔を、見たい。
自分でも、そんなことを思うとは知らなかった。助けたいでも、止めたいでもない。ただ、顔を見たかった。
名前も知らない人に会いたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
牢へ続く階段の上で、リネットは足を止めた。縫い止めたはずのあの夜の言葉が、糸の先から少しずつほつれてくる。
――今は、だめ。
ほつれの手前を指で押さえるようにして、リネットは石の段を下りた。




