第8.5話: 道化が、肚を据える
その晩、職人街の酒場で、ニコは三人ぶんの声で喋っていた。
宰相閣下の声で「酒代は国庫から出す」と言い、鍛冶屋の親方の声で「そんな話があるか」と怒鳴り、最後に焼き串屋のばあさんの声で「うちの串は一本で二枚だよ」と締める。卓の男たちが手を叩いて笑った。それだけで、麦酒の一杯はたいてい誰かが払ってくれる。
「ニコ。もういっぺん宰相さまをやれ」
「やめとくよ。あの人は、ほんとに来るから」
「来たらどうするんだ」
「にこにこしてる。それでだいたい許される」
また笑い声が上がった。
笑わせておけば、人はよく喋る。それがニコのやり方だった。
三日の猶予の、一日目の夜だ。城の牢には、揚げパンひとつで泣きそうな顔をした針子が座っている。残りは二日しかない。
この夜に聞き出したいことは、ひとつだけ決まっていた。あの晩、北の回廊のいちばん奥の灯を落とせと言ったのは、いったい誰か。
「ニコ。その話は、もうよしてくれ」
トビは麦酒に手をつけなかった。灯係のじいさんの孫で、城の灯を入れて回るのがこの男の仕事だ。ニコの悪友でもある。
「まだ何も訊いてないだろ」
「訊く顔をしてる」
こういうときのトビは勘がいい。ニコは椅子を引き寄せて、声を落とした。
「あの晩の灯さ。じいさんは、いつ言われた」
「……当日じゃない」
「うん?」
「前の日の昼だ」トビは卓の輪染みを指で撫でた。「明日の晩は奥の灯を入れるな、ってさ」
ニコは笑うのをやめた。
あの晩に限って暗かった、というのとは話が違う。灯を落とす晩は、前の日から決まっていたのだ。誰かが先に、あの晩を選んでいる。
「じいさんに言ったのは、誰」
「城の下役だよ。ハインっていう、油と炭を回してる男」
「そのハインは、誰に言われた」
「知るもんか」トビが初めて声を荒げた。「なあニコ。灯係が余計を言ったら、次の朝には灯係じゃなくなってるんだ。じいさんは腰が悪い。俺しか稼げないんだよ」
「……悪い」
「あんた、なんでそんなことを調べてる。あの針子の知り合いか」
「野次馬だよ」
「嘘つけ」
ニコは笑って、串を一本トビの前に置いた。
「もう訊かない。ほんとだ」
それは、たぶん半分だけ本当だった。
城の裏手の炭置き場は、夜になると人が絶える。
ニコは薪の山の影に立って待った。しばらくすると、油壺を抱えた男が出てきた。背が低くて、片足を引きずるように歩く。
息を吸って、喉の奥を低く鳴らす。灰色の髪の宰相の声を、腹の底から出した。
「灯のことだ」
油壺が鳴った。
「……さ、宰相、閣下」
「そこにおれ」ニコは影から出なかった。「戴冠の前の晩だ。北の奥の灯を、落とさせたな」
「わ、私は、言われた通りに」
「誰に言われた」
「お使いの方です。名は伺っておりません」男の声が裏返った。「前の日の昼でした。銀貨を三枚、置いていかれて」
「城の者か」
「ちがいます」
ニコは、そこで初めて息を止めた。
「城の方ではありません。馬の匂いがして……あと、羊の。ずいぶん遠くから来た方だと思いました」
「顔は」
「頭巾で。ただ、外套の留め金だけが銀でした。それと、胸に何か外したような跡がありました」
「跡」
「糸の跡です。縫い留めてあったものを、外したような」
裏門のほうで、閂が鳴った。
ニコは影から動かず、宰相の声で短く言った。
「今夜のことは、忘れろ」
「はっ」
男が油壺を抱えて駆けていく。その足音が消えてから、ニコは壁に額をつけた。膝から下が、他人のものみたいだった。
路地を三つ曲がったところで、腕を掴まれた。
壁に背中を押しつけられる。男が二人。ひとりが腹のあたりに硬いものを当ててきた。刃の腹の冷たさが、上着ごしに伝わってくる。
「職人街のニコだな」
「……有名すぎて、困ってるんだよ」
声は、ちゃんと軽く出た。そこだけは自分を褒めてやりたかった。
「口の軽い男は、春になると川から上がる」
「そいつは寒そうだ」
「灯のことも下役のことも忘れろ」男の息が耳に当たった。「あの針子にも近寄るな。次は、その舌からいく」
刃が引かれた。二人は路地の口まで歩いていって、そのまま夜に混ざった。
膝が言うことを聞かなくなって、ニコは壁を滑るように座り込んだ。
手が震えている。止めようとすると、もっと震えた。
いつもの調子で笑い流そうとして、焼き串屋のばあさんの声を出しかけた。掠れた息だけが出た。
人の声なら、いつだって出る。自分の声だけが、こういうときに出てこない。
逃げてもいいのだ。自分は市井の人間で、城には何ひとつ借りがない。今夜のことを全部忘れて、明日も酒場で人を笑わせていればいい。頼まれたのは、パンと針を運ぶことだけだった。灯のことも下役のことも、誰にも頼まれちゃいない。
目の裏に、市場で揚げパンをかじった針子の顔が浮かんだ。湯気に目をしばたたかせて、おいしいですわ、と言った。ろくに食べていない人間の言い方だった。針を三本渡したときは、掌のそれをずいぶん長く見ていた。
それから、あいつのことを思った。
城で「自分が刺した」と言い続けている男だ。宰相に一喝されても、まだ言っている。明日か明後日には、諸侯を集めた前で同じことを言うつもりらしい。言えば首が飛ぶのを、あの男が分かっていないわけがない。
ニコは十年かけて、あいつをあいつと呼ぶ癖をつけた。一度も、間違えたことはない。
――それが今日、市場で滑った。あの人、と言ってしまった。
あの針子は、聞き逃さなかった。
舌の根が冷たくなる。あの一言のあと、ニコは笑って、会ったこともないと嘘をついた。嘘は上手だ。人を笑わせるのと同じくらい上手にできる。
できるけれど。
嘘だけでは、あの二人のどちらも助からない。
ニコは膝に手をついて、立ち上がった。声を作らずに、自分の喉で言った。
「……ふざけるのは、ここまでだ」
思ったより低くて、少しみっともなく掠れた声だった。それでも確かに、自分の声だった。
トビの家の戸を叩いたのは、夜も更けてからだった。
「……ニコ? こんな時間に」
「じいさん連れて、三日だけ川向こうに行け」ニコは財布ごと押しつけた。「妹が嫁いでるって言ってたろ。城には風邪だって言っとけ」
「なんで、そんな」
「俺が余計を訊いたからだよ」
トビは財布と、ニコの顔を交互に見た。
「……ニコ。あんた、何を踏んだ」
「たぶん、でかいやつの尻尾」
ニコは笑った。今度は、ちゃんと笑えた。
「三日でいい。三日たてば、たぶん終わる」
帰り道、仕立て場の前を通った。
窓の格子の内側に、丸い影がひとつ。茶と白の猫が、前足をきちんとそろえて座っていた。拾ったのはニコで、置いていったのもニコだ。ボタン、と呼ばれているらしい。
「よう。留守番か」
猫は返事をしなかった。ニコは懐から串の残りを出して、格子のあいだから肉をひとつ落としてやった。
顔を上げると、屋根の向こうに城の尖塔が黒く立っていた。
口の先まで来た呼び方を、舌の裏へ押し戻す。十年やってきたことだ。今夜も間違えない。
「……あいつを、死なせやしない」
窓の内で、糸玉がころりと転がった。




