第8話: 小さな喪服
喪服は、この世でいちばん急いで縫わされる服だ。
人が死ぬのは、たいてい急だから。
そして急いで縫ったものは、どこかが必ずほつれる。裾が落ちる。釦が緩む。襟が、首に当たる。
三日の猶予の、一日目。日はもう西の屋根にかかって、王城の回廊は蜜のような色をしていた。
リネットはその光の中を歩いていた。市から戻ったばかりで、足の裏がじんじんと痛い。
「針子さん。そろそろ牢へ戻ろうな」つき添いの若い衛兵が槍を担ぎ直した。「日が落ちたら、俺が叱られる」
「……はい。ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。俺が叱られるだけだから」
妙な慰め方をする人だ、とリネットは思った。
布包みから硬いパンをひとつ取り出して、そっと差し出す。
「あの。よろしければ」
「……いや、それはあんたの飯だろ」
「ふたつ、いただいたんです。わたくし、ひとつでじゅうぶんですから」
衛兵はしばらく槍を持ち替えていた。それから、ばつの悪そうな顔でそれを受け取った。
「……あんた、変わってるな」
(今日、二度目でございますわ)
パンの端をかじりながら、衛兵はふいに言った。
「そういやさ。今日、侍女がひとり申し立てをしたらしいぞ」
「侍女……どなたの」
「殺された殿下の、お部屋付きの人だ。ロザさんっていったかな」
リネットは足を止めた。
「なんて、おっしゃったんですか」
「あの晩は自分がずっと殿下のお部屋の前に控えていた。通ったのは針子ひとりだ、ってな」
風が、回廊の柱のあいだを抜けていった。
その言葉の意味は、少し遅れて胸に届いた。リネットはいつも、こういうことに気づくのが遅い。
あの晩、あの廊下を通ったのは自分ひとり。ほかには誰も。――そう記録に残るなら、あの部屋にもうひとりいたあの人は、この世のどこにもいなかったことになる。
わたくしの言い分は、これで、行き先をなくした。
「……その方は、今どちらに」
「侍女の局じゃないか。喪の支度で寝る間もないって聞いたぞ」
「あの。お願いがございます」リネットは両手を握った。「連れて行っていただけませんか」
衛兵が眉を寄せた。
「城の内なら構わないって話だけどな。……何をするつもりだ」
「分かりません」正直にそう言ってしまって、リネットは慌てて付け足した。「いえ、あの。お会いして、お話を伺いたくて……。ちゃんとは考えていないんです。ごめんなさい」
「あんた、それで大丈夫か」
「大丈夫ではないと思います」
衛兵は天を仰いだ。それから、槍を担ぎ直した。
「……ま、いいや。どうせ俺は叱られる」
「ごめんなさい」
「それ、もう三回聞いたぞ」
歩きだしてすぐ、衛兵は思い出したように言った。
「なあ。喪服なんて、城じゅうのぶんをどうするんだ」
「染めの工房だけでは、とても間に合いませんわ」
「じゃあ、どうするんだ」
「たぶん、みなさまご自分で染めて縫っていらっしゃいます。主席仕立て師のマルゴさんは、諸侯のお召し物にかかりきりですから」
「侍女が自分で縫うのか。難しくないのか、そういうのは」
「難しいです」リネットは少しだけ笑った。「急いで縫うのが、いちばん難しいんですもの」
局というのは、侍女たちが寝起きをして、針も洗い物もする小部屋のことをいう。
扉が開いた途端、リネットは目をしばたたいた。部屋いっぱいに、黒がかかっていた。
黒は、いちばん手間のかかる色だ。ひと息には染まらない。まず藍で下染めをして、その上に蘇芳や胡桃を何度も重ねて、ようやく黒に近づいていく。
話に聞いた通りだった。侍女たちが自分で染めて、自分で縫っているのだ。
桶の湯気と、渋くて甘い染めの匂い。竿にかかった黒い布が、天井まで垂れている。
六人ばかりの侍女が、いっせいに顔を上げた。
それから、部屋の音が消えた。
誰かが桶の縁に柄杓を落とした。
「……あの人でしょう」
「殿下を」
「なんで、こんなところに」
「静かに。衛兵さんが、ついてらっしゃるでしょう」
小さな声だった。小さいのに、よく聞こえた。侍女たちは黒い布を胸に抱えたまま、少しずつ壁ぎわへ寄っていった。
リネットは戸口で立ちすくんだ。
ちがいます、と言えばよかったのだろう。けれど、この二日で分かったことがある。ちがいますと言えば言うほど、人の顔は固くなる。だから何も言えなかった。ただ、爪の間にまだ残っている赤を、そっと手のひらで隠した。
ひとりだけ、手を止めなかった人がいた。
窓ぎわの椅子に座った女だった。歳は三十半ばだろうか。ふっくらとした頬に、泣きすぎたあとが残っている。
その膝の上に、黒い小さな上着があった。
小さい。六つか七つの子の寸法だ。
この城に、六つの子はそう多くない。
それでも、リネットはその先を考えなかった。考えてしまったら、たぶん、立っていられなくなる。
だから目だけが、勝手に襟へ吸い寄せられた。
襟だ。布を裏へ折り返して、そのまま太い糸で留めてある。急いだのだ。縫い目が内側で硬く盛り上がって、細い筋になっている。
あれを着せたら、首のいちばん柔らかいところに当たる。歩くたびに擦れて、赤くなる。子どもの首の皮は薄いから、半日でひりつきはじめる。
気がついたら、口が動いていた。
「あの……ごめんなさい。その襟、そのままだと当たりますわ」
女の手が止まった。
部屋の空気が、また固くなった。
「……あなたが、あのお針子ですね」
低い声だった。低いのに、どこか掠れていた。
「……はい。リネットと申します」
「わたしはロザです」女は膝の上着を少し抱え込むようにした。「殿下のお部屋付きでした。……でした、というのも変な言い方ですけれど」
言ってから、ロザは口をつぐんだ。
リネットは戸口から二歩だけ入った。それ以上は近づけなかった。
「ロザさま。あの……お伺いしてもよろしいですか」
「申し立てのことでしたら、宰相さまに申し上げました」
「はい。伺いました」
「では、それだけです」ロザは糸を引いた。「宵の口に、殿下がわたしをお呼びになる声が聞こえました。ですから、お部屋へ入る手前の廊下に上がって控えておりました。そのあいだ廊下をお通りになったのは、あなたひとりです」
同じだ、とリネットは思った。衛兵から聞いたのと、言葉の順番までそっくり同じだった。
「ほかには、どなたも」
「どなたも」
ロザは繰り返した。繰り返すとき、膝の上着を握った。
「四つの鐘の少し前に、湯をいただきに下がりました。戻ったときには、もう人が集まっておりました」
「……はい」
「あなたが人を刺したところは、見ておりません」ロザは針の先を布に立てた。「わたしが申し上げたのは、それだけです」
リネットは、うつむいた。
この方は、わたくしを刺したとは言っていない。それなのに、この方の言葉ほど確かに、わたくしを刺すものはない。
声を落とすこと。
ロザはそれだけを考えていた。
言うべきことは、もう決まっている。宵の口に殿下のお声を聞いた。お部屋へ入る手前の廊下に控えていた。通ったのは針子ひとり。四つの鐘の少し前に湯を取りに下がった。同じ言葉で、同じ順で言う。宰相さまの前でもそう申し上げた。書き取られてもいる。
喉の奥がいがらっぽい。息を吸うたびに、うすい紙を引き裂くような音が混じる気がした。
この娘の目が、こわい。
顔を見ていないのだ。手と、襟と、糸の目を見ている。値踏みでもない。憎んでいるのでもない。ただ、見えてしまう人の目だった。
ロザは針を持ち直した。指が震えて、糸が針の穴を外れる。三度も外れた。四度目にようやく通ったとき、糸の先が唾で湿っていることに、自分で気づいた。
左手は、前掛けのかくしから出さなかった。
「ロザさま」
娘が呼んだ。
ロザは息を吸った。声を落とす。それだけだ。
「……直しても、いいですか」リネットは小さな上着を指した。「その襟。針は、持っておりますから」
ロザは長いあいだ黙っていた。竿の黒い布が、風でゆっくり揺れた。
それから、上着を膝から持ち上げて、リネットのほうへ差し出した。
「……当たりますか」
「当たります」
「そう」ロザは目を伏せた。「わたしは、繕いが下手なんです」
「いえ。針目は、まっすぐですわ」
「……お世辞は結構です」
「お世辞ではありません。急いだ手で、これだけまっすぐには縫えませんもの」
ロザは何も言わなかった。ただ、上着を差し出す手が、少しだけ下がった。
リネットは戸口のそばの床に膝をついて、上着を受け取った。
糸切りを持っていないから、太い糸は指と歯でほどいた。みっともない格好だと思ったけれど、こういうことは急ぐほうが大事だ。
針を指に挟むと、手のうろたえがどこかへ引っこんだ。それだけは、いつもそうだった。
「ロザさま。少し、糸をいただけますか。黒い、いちばん細いのを」
「……そこの籠に」
「ありがとうございます」
年の若い侍女が、籠を抱えて通りかかった。中身は、たたまれた男物の衣だった。
「ロザさま。殿下のお召し物、どういたしましょう」
「そこへ置いて」
籠は、リネットのすぐ横に置かれた。
いちばん上の一枚に、目がいった。
(……いえ。見てはいけないわ)
そう思ったのに、指のほうが先に動いていた。
襟だ。
どの一枚も、襟の合わせを広げ直してある。もとの縫い目をほどいて、指一本ぶんだけ外へ出して、縫い直してある。糸の色が違うから、あとから直したのだと分かる。それも、つい最近のことだ。
いちばん下の一枚には、細くたたんだ柔らかい布が、襟の内側に縫い留められていた。
(……喉を、締めつけられなかったのだわ)
桶の湯の音が、急に遠くなった。
一枚や二枚ではない。籠の中の召し物がぜんぶ、同じところを同じだけ広げてある。この襟が首に当たって痛かった人が、ここ幾日か、たしかにいたのだ。
布は着た人を覚えている。お師匠さまに、いちばん最初に教わったことだった。
采寸に上がったあの日、あの方は朗らかに笑って、蟻の行列の話をしてくださった。それだけだった。リネットは何ひとつ気づかなかった。目の前にいらしたのに、見えていなかったのだ。
気づいていたら、襟を低くして、内側にやわらかい布を入れて差し上げられた。ほんの「ついで」で、できたことだった。
その「ついで」は、もう永久に来ない。
「あの子ったら、また蜂蜜の壺を割って」
部屋の隅で、侍女たちが小声で話していた。
「殿下の湯に溶かすぶんが、もうないのに」
「昨日も、三度お持ちしたものね」
「……もう、いらないのよ」
声が、そこで途切れた。
リネットは籠のふちを握った。
蜂蜜の湯。一日に何度も。喉を痛めた人が飲むものだ。
さきほどの若い侍女が、籠を取りに戻ってきた。持ち上げた拍子に、いちばん下でちりんと軽い音がした。
小さな銀の呼び鈴だった。柄のところが、握り込まれて曇っている。
「あの……これは」
「殿下がお手もとに置いていらしたものです」侍女は袖で目を押さえた。「ここ幾日か、これでわたくしどもをお呼びでした。……お声を張るのがお辛そうで」
竿の向こうで、誰かが「およしなさい」と小さく言った。若い侍女は口をつぐみ、籠を抱えて黒い布の裏へ引っこんだ。
――あの喉で。
あの喉で、廊下の向こうまで届く声で、人を呼べるだろうか。
その先を考えるのが怖かったので、リネットはいちばんゆっくり考えた。
呼べない。たぶん、呼べない。呼べないから、あの方は手もとに鈴を置いていらしたのだ。
ならば、ロザさまは呼ぶ声を聞いていない。聞いていないのに、聞いたと申し立てた。
この方の申し立ては、思い出したものではない。
作ったものだ。
顔を上げると、ロザは窓の外を見ていた。日の色が、その頬の泣きあとを金色に照らしている。
この方は、嘘をついている。
けれど、盗みのためでも、身を守るためでもない気がした。人が自分のために嘘をつくときは、もっと勢いがつくものだ。ベルントのように、胸を張って、声を張り上げる。
この方は、反対だった。声を落として、同じ言葉を同じ順に、こわごわ並べている。
膝の上着。「どなたも」と言うときに握る手。
この方は、誰かを消しているのだ。廊下からも、書付からも、まるごと。たぶん、自分より弱い誰かを。
なぜだろう。その小さな上着を見ていると、胸のあたりがざわりとした。それがなぜなのかは、リネットには分からなかった。
ただ、はっきり分かることが、ひとつだけあった。
この方が「どなたも通っていない」と言いつづけるかぎり、あの晩あの部屋にいたのは、わたくしひとりになる。あの人は、いなかったことになる。
糸の端は、もう指にかかっている。喉のこと。襟のこと。蜂蜜の湯のこと。それを御前で申し上げれば、この方の申し立ては、たぶんほどける。
……ほどいたら、この方が庇っている誰かが、あの石の床へ引きずり出される。
ほどかなければ、わたくしは三日目に死ぬ。
リネットは、膝の上の襟を見つめた。
ほどけない結び目は、ほどくんじゃない。結び直すんだよ。
お師匠さまが采寸帖に遺した最後の一行が、こんなときに限って浮かんでくる。三年経っても、その意味はまだ分からない。
(お師匠さま。わたくし、やっぱり分かりませんの)
リネットは針を置いて、立ち上がった。桶の横の水差しから湯呑みに水を注ぎ、ロザのそばまで持っていく。
「ロザさま。お水を」
「……なぜ」
「お声が、痛そうですから」
ロザは湯呑みを受け取らなかった。手が膝の上で固まっている。
「……なぜ、そんなことをするんです」
「え」
「わたしの申し立てで、あなたは死ぬんですよ」
湯呑みの水が、ふちのところで揺れた。
「……はい」
「分かっているんですか」
「分かります」
「それなら、なぜ」
「……よく、分からないんです」リネットは湯呑みを両手で持ち直した。「ただ……その襟が当たったら、あの子が痛いと思って」
ロザが、初めてリネットの顔を見た。
それから両手で顔を覆った。声は出さなかった。肩だけが、何度も上下した。
リネットは湯呑みを窓の桟に置いて、また床に座った。針を持って、襟をほどきにかかる。訊きたいことは山のようにあった。
誰を消したのか。誰に頼まれたのか。あの晩ほんとうは何を見たのか。
どれも訊かなかった。
訊いてしまえば、この方は答えてしまう気がした。この方は、嘘が下手だから。
「……言いませんよ」
しばらくして、ロザが言った。まだ手で顔を隠したままだった。
「はい」
「何を訊かれても、同じことを言います。宰相さまにも、王太后さまにも。……わたしは嘘が下手です。でも、やめるつもりはありません」
「はい」
「謝りもしません。あなたに謝ったら、それこそ嘘になる」
「……謝っていただかなくて、いいんです」
リネットは針を動かした。喉の奥が熱くなって、目のふちがふやけた。涙が落ちると布に染みができるから、顔だけは上げたままにした。
(……ずるいわ、わたくし)
この方が守っているのは、たぶんとても大事な誰かだ。それをほどこうかどうしようかと、こちらは指の先で量っている。人の痛みが見えるなんて、たいしていいことではない。見えるだけで、何もできないのなら。
「泣いても、糸は結べますもの」
「え」
「……いえ。お師匠さまの口癖です。ごめんなさい」
ロザが、指のあいだからこちらを見た。
「ロザさま。ひとつだけ、伺ってもいいですか」
「……ひとつだけなら」
「あの晩、あの廊下は暗かったですか」
ロザの手が、止まった。
「……暗かったです」低い声だった。「奥の灯が、落ちておりました。わたし、足で壁を探して歩きましたから」
リネットは針を持つ手を止めた。
やっぱり、暗かったのだ。ニコが言った通りだった。あの真っ暗な廊下で、ベルントは女の目が血走っていたと言い切った。それを、一言一句そのまま書き取らせて。
「あの……どなたが、灯を落とさせたのですか」
「そこは」ロザは息を吸った。「そこは、申せません」
「ご存じないのですか」
「申せません」
それきり、ロザは針の目を数えるふりをした。
リネットは、そっと膝の上へ目を戻した。
今日、二人目だ。
朝、ベルントも同じだった。あの方はお父上のことを問われて、家、と言った。名前も爵位も、ついに一度も口にしなかった。
この方も、名前を言わない。
口は、痛いところをよけて動く。名前を言えないのは、その名前がまだ痛いからだ。
二人が同じ形でよけている。それだけのことなのに、なぜかそれが、いちばん怖かった。
襟を縫い終えるころには、部屋の中の黒が濃くなっていた。
リネットは糸を止めて、小さな上着をロザのほうへ差し出した。
「できました。……あの、内側に余った黒を一枚だけ入れました。首に当たるところにだけ。勝手なことをして、ごめんなさい」
「いいえ」
「それと、袖は詰めずにおいてくださいまし。そのお子さまは、いま伸びる時期でしょうから」
「……余らせておくのですか」
「はい。詰めるより、余らせておくほうがあとで楽ですの」
ロザは受け取って、指で襟の裏をなぞった。何度もなぞった。
「……やわらかい」
「歩いても、擦れないと思います。たぶん」
「たぶん」
「……はい。たぶんです」
ロザは上着を胸に抱えた。抱えてから、小さく笑った。泣いたあとの、へたな笑い方だった。
「これは、王太子殿下のぶんです」
リネットの息が、一度止まった。
あの子だ。膝の上で手を握りしめて、それでも笑ってくれた、あの小さな殿下だ。もうすぐ王さまになる子が、叔父上の喪服を着る。
「……あの子は」思わず声が出た。「殿下は、お元気ですか」
「元気なわけがありません」ロザは静かに言った。「叔父上さまが死んだのですよ」
「……はい。すみません」
「あの子はね」ロザは上着の袖をたたんだ。「あなたのことを、二度お訊きになりました」
リネットは動けなくなった。
「わたしは、お答えできませんでした。お城の者はみんな、あの子に申し上げましたから。針子が叔父上さまを刺したのだと」
黒い布の向こうで、桶の湯がぽこりと鳴った。
リネットは膝の上で両手を重ねた。口の中が、からからに乾いていた。
ちがいます、と言いたかった。あの子には、いちばん言いたかった。あたたかい一着を縫うと約束したのに、あの子はいま、その針が叔父上を刺したと聞かされている。
それでも、ここで本当のことを言うには、あの夜見たものを全部言わなければならない。あの人を、床へ引きずり出さなければならない。
だから、言えなかった。
自分の首に、また自分で糸を掛けている。それは分かっていた。
「針子さん。もう限界だぞ」
戸口から、若い衛兵が首を突っこんだ。回廊のほうが、もうずいぶん暗い。
「はい。……ロザさま、失礼いたします」
立ち上がって頭を下げた。そのとき、ロザが言った。
「リネットさん」
名前で呼ばれて、リネットは振り返った。
「城の中で、噂になっていることがあります」ロザは声を落とした。「殿下を刺したのは自分だと、名乗り出た方がいるでしょう」
「……はい」
「あの方、今度は諸侯の前で申し上げるおつもりだそうです。明日か、明後日に」
足の下から、床が抜けたようだった。
「そんなことをなさったら、その方は」
「死にますね」ロザはあっさりと言った。「宰相さまが、黙って済ませるはずがありません」
「……どうして、わたくしにそれを」
ロザは、膝の小さな上着を撫でた。
「あなたが、あの襟を直したからです」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われることでは、ありません」ロザはまた針を持った。「早くお行きなさい。日が落ちます」
左手は、前掛けのかくしから、とうとう一度も出てこなかった。
回廊には、もう灯が入りはじめていた。
灯係の男が、ひとつずつ火を移していく。いちばん奥の灯にも、ちゃんと火があった。あの晩だけ、あそこは暗かったのだ。
リネットは歩いた。歩きながら、指を握ったり開いたりした。
名も知らない誰かが、明日か明後日、諸侯の前で「自分が刺した」と言うつもりでいる。言えば死ぬ。それが分かっていて、言うつもりでいる。
(わたくしのために嘘をつく人なんて、いるはずないのに)
そう思うたびに、あの夜の目が浮かんだ。
あの人の耳もとで告げた、たったひとこと。それがまた喉の下までせり上がってきて、リネットは慌てて蓋をした。だめだ。いま思い出したら、膝から力が抜けて、歩けなくなる。
急いで縫ったものは、どこかがほつれる。
嘘も、たぶん同じだ。ロザさまの申し立ても、ベルントの上着も、どこかが余っている。糸の端は、もうこの指にかかっている。
けれど、その糸を引けば、誰かの服がほどけてしまう。
どうすればいいのか、リネットには分からなかった。分からないまま、それでも足だけは前へ出た。
その人が誰なのかも、まだ分からない。
それなのに、思ってしまった。
――死なせたくない。
こわいのは、大事にしたいものがあるから。いつか小さな殿下に、そう言った。自分の言葉が、こんな形で返ってくるとは思わなかった。
牢の門をくぐったとき、西の空にはまだ、細く赤が残っていた。
「……間に合ったな」若い衛兵は詰所の帳に何か書きつけて、ふうと肩を落とした。「今日は、叱られずに済む」
「ごめんなさい。……ありがとうございます」
「それ、今日で何回目だ」
詰所の高い窓の向こうで、日が落ちていく。
明日は、二日目だ。
リネットは息をひとつ吸い込んで、牢へ続く暗い階段を下りていった。




