第7話: 肩の余った上着
嘘は、寸法の合わない上着に似ている。
着ている本人はたいてい気づかない。けれど袖を上げれば肩が余る。腕を伸ばせば背中が引きつる。どこかが必ず余るのだ。
リネットがそれを知っているのは賢いからではなかった。ただ、人の服ばかり直して生きてきたからだ。
三日の猶予の、一日目。その朝、リネットは牢から引き出された。
王弟ジョス殿下が刺し殺された夜から、二度目の朝だった。あの夜、リネットは血まみれの手で殿下のそばにいた。お衣装を届けに上がっただけですと何度言っても、誰も書き取ってはくれなかった。咎は王弟殺し。罰は処刑。
ただ、王太后アデルハイトが三日だけ待つと言った。その三日のうちに何も申し立てられなければ、そこで終わる。
今日が終われば、残りは二日。
数えるたびに膝の裏から力が抜けた。ドリスが祖母についていてくれる。今はそれだけが、たったひとつの支えだった。
通されたのは、昨日とは別の広い部屋だった。
奥の椅子に王太后アデルハイトが腰かけている。黒い喪の衣のままだ。その斜め前の卓に宰相オットマール。壁ぎわに書記がひとり控えていた。戴冠の式は日延べになったと聞いた。城じゅうが喪に沈んで、廊下からは花の匂いも消えている。
リネットは冷たい床に膝をつかされた。
「本日は、証人の申し立てを聞く」オットマールの声は昨日と同じように低かった。「フォルカー家の嫡子、ベルント殿」
「はい」
よく通る声が答えた。
卓のわきに、若い貴族が進み出た。ベルント。歳は二十三、四だろうか。戴冠前夜、リネットが北の回廊の角ですれ違った、あの人だった。
顔を上げた拍子に、リネットの目は見なくていいものを見てしまった。
上着だ。仕立てはいい。生地も新しい。けれど肩が余っている。腕を下ろしたときの落ち方が、ほんの少しだけ緩い。袖も指の付け根まで来ている。
(……この上着、この方の寸法で仕立てられたものではないわ)
もっと肩幅のある人の型で、そのまま裁ってある。誰かが決めた型に、この人の体を入れているのだ。
思ってから、リネットは自分に呆れた。こんなときにまで人の寸法を測ってしまう。
「申せ」
アデルハイトが言った。
「はい。――決まっております」ベルントは胸を張った。「この針子が、殿下のお部屋へ盗みに入ったのです」
「盗み」
「衣装を届けるなどというのは口実にすぎません。この女は貧しい。寝たきりの祖母がいて、薬代にも事欠く。職人街では知らぬ者がおりませんとも」
リネットはうつむいた。
祖母のことを、この方はどこで聞いたのだろう。薬の壜を数えた夜のことも、パンを半分にした朝のことも何ひとつ知らないくせに、その貧しさだけを刃にして振り下ろしてくる。
顔が熱い。悔しいのか恥ずかしいのかも、もう分からなかった。
「殿下のお部屋には金目のものがいくらでもある。あの女は目がくらんだ。そこを見咎められて逆上し、刺したのです。卑しい者のすることだ」
「見たのですか」アデルハイトが問うた。
「見ました」ベルントは間を置かなかった。「三つの鐘のすぐあとです。北の回廊で、あの部屋から出てくるところを。手は血まみれでした。目は血走って、まるで獣のようで」
――ちがう。
声にならない声が、胸のあたりで跳ねただけだった。
この人とすれ違ったのは、お部屋に入るずっと前だ。角のところで肩がぶつかりそうになって、リネットのほうが謝った。そのときこの手には、血なんてついていなかった。
言わなければ。言えば、少しは。
「あの……」
声がみっともなく掠れた。
「わたくしは、お部屋から出ておりません」
「なに?」
「衛兵の方々が入っていらしたとき、わたくしはお部屋の中におりました。出たのなら……どうして、中に」
言いながら心臓がうるさかった。自分の言っていることが正しいのかどうかさえ、途中で分からなくなる。
ベルントは鼻で笑った。
「一度出て、また戻ったのだろう。取り忘れでもあったのではないか」
「そんな……」
「盗人の考えることなど、いちいち私が知るものか」ベルントは卓のほうへ向き直った。「宰相閣下。針子ふぜいの申すことに、いちいち耳をお貸しになるおつもりですか」
オットマールは何も言わなかった。
書記の羽根ペンも動かなかった。
リネットは口を閉じた。昨日と同じだ。言葉は出ていくのに、どこにも届かない。石の壁に投げた糸くずのように足もとへ落ちて、それきりになる。
「ひとつ、お願いがございます」
ベルントが急に居住まいを正した。
「宰相閣下。私の申し立てを、一言一句そのまま書き取らせてください」
書記の手が止まった。
「……なぜだ」
「あとになって、言った言わないの話になるのは業腹ですので。私は嘘など申しておりません。ならば残していただいて、何が困りましょう」
ベルントの声は朗々としていた。
「私はフォルカー家の嫡子です。その私の言葉が、そこらの針子の言葉と同じ扱いでは家の名にも関わります」
リネットは床を見つめたまま瞬いた。
同じ扱い。――昨日、自分の言葉はひとつも書き取られなかった。同じ扱いですら、なかった。
オットマールはしばらくベルントを見ていた。それから書記のほうへ、短く顎を引いた。
「書き取れ。一言一句、違えるな」
「はっ」
羽根ペンが走りはじめた。
そのときオットマールの目が、ほんの一瞬だけベルントの顔を撫でた。憐れむのとも呆れるのとも違う。何か危ういものを見る目だった。
「では続けます」ベルントは機嫌よく胸を反らした。「あの女の手には――」
声は、よく出ている。
ベルントはそう自分に言い聞かせた。震えてはいない。昨日は少し上ずったが、今日は違う。ひとつも間違えていない。間違えて、いないはずだ。
書記の羽根ペンが、自分の言葉を追いかけて走っている。その音がたまらなく心地よかった。
ベルントは書記の手もとをちらりと確かめ、それからもう一度確かめた。
あとは最後まで言い切ればいい。それだけのことだ。
その針子が、さっきから妙な目でこちらを見ている。
顔を見ているのではない。肩のあたりを。それから袖の丈を。値踏みでも憎しみでもない、何かをそっと測るような目だった。
背中がざわりとした。
「――何を見ている」
思ったより大きな声が出た。
針子はびくりと肩を跳ねさせ、慌てて床へ目を落とした。
ベルントは手のひらを上着の腿にこすりつけた。汗が、じっとりと滲んでいた。
「フォルカー殿」
アデルハイトが、初めて身じろぎをした。
「そなたは、その刻限になぜ北の回廊にいたのです」
部屋の空気が、すっと薄くなった気がした。
「……用が、ありました」
「どのような」
「人を、待っておりました」
「どなたを」
「――それは」ベルントの舌がわずかにもつれた。「申し上げるほどのことでは。私の一存で参ったのです」
「そなたの父上は、この件をなんと申しておいでか」
「家は、関わりございません」
ずいぶん早い返事だった。
「関わりがあるとは、まだ誰も申しておりませんよ」
「……当然のことを、申し上げたまでです」
ベルントはまた胸を反らした。けれど、その反らし方がさっきまでとは少し違っていた。肩に力が入りすぎている。上着の余りが、いっそう目立った。
リネットは床を見つめたまま、目だけをそっと上げた。
さっきから、この方は同じことをなさっている。ひとつ言い切るたびに、書記の手もとへ視線を投げるのだ。ちゃんと書かれたかを、たしかめるように。それから、閉じた扉のほうへ。誰かがその向こうで聞いていてくれればいい――そんな目の動き方だった。
手のひらも、何度も腿にこすりつけていらっしゃる。こんなに冷える部屋なのに。
声だって、はじめより高い。よく通る声だと思ったけれど、あれは張り上げていらしたのだ。
なぜだろう。この方は、宰相さまに申し上げているように見えない。
ここにいない誰かに、聞かせようとしていらっしゃる。
(……そのくせ、一度も「父」とはおっしゃらなかった)
家、と言った。名前も爵位も、ついに口にしなかった。
人には、避ける言葉というものがある。触るとまだ痛むところを、無意識によけて歩くように。
だからなんだと言うのだろう。そう思うのに、その一点だけが、指に刺さった小さな棘のように残った。
「仕立て師」
オットマールがリネットのほうを向いた。
「申し立てることはあるか」
あった。喉の奥まで、上がってきていた。
あの夜、あの部屋にはもうひとりいた。血に濡れた手で殿下を抱き起こそうとしていた人が。その人が本当のことを話してくれれば、わたくしは。
言えば、たぶんこの流れは変わる。少なくとも、誰かは調べにいくだろう。
――言えば、あの人がこの床へ引きずり出される。
覚悟した目が浮かんだ。ここで捕まればすべてが終わると分かっていて、それでも動かなかった目。ひとりぼっちで終わっていこうとしていた、あの目。
あの夜、リネットはその耳もとで、たったひとことだけ告げた。
その言葉を最後まで思い出そうとすると、いつも喉の奥が閉じてしまう。だから今日も、途中でやめた。
「……ございません」
自分の首を自分で絞めていることは、痛いほど分かっていた。それでも指が、あの手を裏切ってくれなかった。
「よろしい」
ベルントがちらりとこちらを見て、口の端を上げた。
そのとき、アデルハイトが静かに言った。
「そなたに三日をやったのは、床に額をこすりつけさせるためではありません」
リネットは顔を上げた。
「牢に座っていて、真実が縫えますか」
「……いいえ」
「衛兵をひとりつけます。城の内と、市までは許しましょう。日が落ちる前に戻りなさい」
「……よろしい、のですか」
「よろしくはありません」アデルハイトの声に、温度はなかった。「そなたが何も言えぬまま死ねば、あとで困るのは王家です。そなたのためではありませんよ」
「……はい」
それでもリネットは深く頭を下げた。石の壁の内側で数えるだけの三日では、なくなった。
立ち上がろうとしたとき、卓の脇を通りかかったオットマールが、ふと足を止めた。誰にも聞こえないほどの低い声だった。
「仕立て師。三日は、長いようで短い。……余計なものまで、見ぬことだ」
リネットが顔を上げたときには、宰相はもう背を向けていた。
午後の市は、人でいっぱいだった。
王弟が殺されようとパンは焼かれ、菜は積まれ、子どもは走り回る。城の中の静けさが嘘のようだった。
つき添いの衛兵はまだ若い男で、長い槍を肩にあくびをかみ殺している。見張りにしては、やたらとよそ見が多い。
誰に何を聞けばいいのか、リネットには正直まるで分からなかった。ただ、あの証言のどこかが余っている気がする。それがどこなのかも掴めないまま、人混みの匂いの中に立っていた。
そのときだった。
「針子。相違ないか」
背中で、低く落ち着いた声がした。
リネットは飛び上がった。心臓が、ひと跳ねで喉まで上がった。宰相さまが、こんなところに。
振り返ると、そこにいたのは灰色の髪の宰相ではなかった。
背の高い、若い男だった。日に灼けた首。無造作な黒髪。腹が立つほど顔がいい。その顔がにんまりと笑っていた。
「どう、似てた? 宰相さまの声」
「……し、心臓が」
「悪い悪い。二回呼んだのに、あんた振り向かないんだもの」男はあっさり謝って、それから胸に手を当てた。「ニコ。名字はない。職人街でニコと言えば、たいてい通る」
「……ニコ、さん」
「さんはいらない」
若い衛兵が、じろりとこちらを見た。ニコはにこやかに片手を上げると、その耳もとで何かを二言三言ささやいた。衛兵は妙な顔をして、それから三歩ばかり離れ、屋台の焼き串をぼんやり眺めはじめた。
「……何を、おっしゃったんですか」
「宰相閣下から言伝がある、って」
「そんな嘘」
「嘘じゃないよ。声はほんとに宰相閣下だったろ」
リネットは言葉に詰まった。この人はたぶん、ものすごく悪い人か、ものすごくいい人のどちらかだ。
「お針子さん。顔が白いよ」
ニコは屋台のほうへ二歩で行って、二歩で戻ってきた。手には、湯気の立った揚げパンがひとつ。
「はい、これ」
「いえ、そんな」
「腹が減ってちゃ、頭も回らないだろ」
リネットは、その包みを見つめた。
朝から水しか口にしていない。というより、この二日まともに食べたのがいつだったか思い出せない。牢の椀は喉を通らなかった。
油の匂いが、遠慮なく鼻に届いた。おなかが、正直な音を立てた。
顔から火が出そうになった。
「……いただきます」
「そうこなくちゃ」
ひとくちかじると、湯気が目にしみた。湯気のせいということに、しておきたかった。
あたたかい。ただそれだけのことで、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。処刑が三日後だという日でも、揚げたてのパンはおいしい。人の体というのは、まったく薄情にできている。
「おいしい、ですわ。……とても」
「だろ」
ニコは満足そうに笑った。その笑い方で、リネットはようやく少しだけ息ができた。それから癖でつい、その肩幅を目で測ってしまう。広い。腕も長い。この方の上着は、たぶん袖丈が二寸ばかり足りていない。
(……いえ、今はそんな場合ではありませんでした)
「ところでニコさん。どうして、わたくしなんかに」
「さんはいらないってば」ニコは串を一本買いながら言った。「野次馬だよ。それに職人街じゃ、あんたが人を刺したなんて誰ひとり信じちゃいない」
「……そんなことは」
「あるんだよ。あんた、糸屋の親父にツケで糸を買っただろ。染め屋のばあさんの腰巻きをタダで直しただろ。ああいうのはね、みんな覚えてるの」
リネットはパンを持ったまま動けなくなった。
「まあ、頼まれたっていうのもあるけどね」
「頼まれた? どなたに」
「そこは聞かないで」
ニコは串をくわえたまま、片目をつぶった。
「で、本題。お針子さん、今朝の御前で何があった」
リネットは聞いたままを話した。うまく話せた気はしない。順番が前後して、そのたびにニコが「うん、それで?」と拾ってくれた。
北の回廊。三つの鐘のすぐあと。手は血まみれで、目は血走っていた。獣のようだった。
そこまで話したとき、ニコの串を持つ手が止まった。
「……ちょっと待って。目が、なんだって」
「血走って、いたと」
「そのお坊ちゃん、北の回廊でそれを見たって言ったんだね」
「はい」
ニコは串を口から抜いた。さっきまでのふざけた顔が、少しだけ引っ込んでいた。
「北の回廊の灯を入れるのは、灯係のじいさんの孫でね。俺の悪友なんだ」
「灯……」
「あの晩だけ、いちばん奥の灯は入れるなって言われたんだと。火を落としたままにしておけって」
「……どなたに」
「そこまでは分からない。上のほうからのお達しだ、としか聞いてないってさ」
リネットの手から、パンの包みが滑り落ちそうになった。
覚えている。忘れられるはずがない。
あの夜、廊下の奥がいやに暗かった。灯がひとつ消えていて、そのせいで足が速くなったのだ。理由も分からないまま、胸の奥で何かが鳴っていた。
「……暗かった、です」リネットは掠れた声で言った。「殿下のお部屋の前は、ほとんど真っ暗で」
「そういうこと」ニコは指を一本立てた。「その真っ暗な扉の前で、女の目が血走ってたのが見えました、ってさ。そのお坊ちゃん、猫みたいな目をしてるんだね」
「……あ」
リネットは口を押さえた。
余っていたのは、そこだ。
肩の余った上着と同じだった。着ている本人は気づかない。けれど動いた拍子に、どこかが必ず突っ張る。
「でも、そんなことを申し上げても」急に怖くなって、リネットは首を振った。「わたくしが言ったところで、誰も」
「あんたが言わなくていいよ」
「え」
「もう書き取られてるんだろ、その言葉」ニコはにっと笑った。「一言一句そのまま、って自分で頼んだんだって? 自分の口で自分の首を縫っちまったんだよ、そのお坊ちゃんは」
リネットは、しばらく黙っていた。
胸のどこかがすっとした。それは確かだった。あんなふうに人を踏みつけた言葉が、そっくりそのまま自分の足を掬うのだと思うと、ざまあみろという気持ちが少しだけ顔を出しかけた。
けれど、その顔はすぐに引っ込んだ。
肩の余った上着を着た人が、精いっぱい背伸びをして怒鳴っていた。手のひらを腿にこすりつけて、汗を拭いていた。あの人はきっと、誰かに見てほしかっただけなのだ。
「……お可哀想に」
「は?」
「いえ。……なんでもありません」
ニコは変なものを見る顔をして、それから、ふっと笑った。
「あんた、変わってるね」
「よく、言われます」
(あの方は嘘をついていらっしゃる。……でも、あれはご自分のためだけの嘘ではない気がするんです)
言葉にするのが怖くて、リネットはそれを胸の中にしまった。
「灯のことは、もう少し洗ってみる。誰が火を落とさせたか、そこまで辿れれば上等だ」
「……お心当たりが、おありなんですか」
「ないよ。城の中の誰かか、外から城に手を突っこめる誰かか。分かるのはそこまでだ」ニコは城の尖塔のほうへ目をやった。「けどね。あの晩に限ってあの灯だけってのは、偶然にしちゃ寸法が合いすぎてる」
「……寸法」
「あんたら仕立て屋の言い方を借りてみた」ニコは指を折った。「それと、そのお坊ちゃんがほんとにあの刻限にあそこにいたのかどうかもね」
「そんなこと、調べられるんですか」
「城の中のことは、城の下働きがいちばんよく知ってる」ニコは肩をすくめた。「で、下働きはみんな市で買い物をする」
別れぎわ、ニコは懐から小さな布包みを出した。
「はい、これも。運び屋を頼まれてる」
「……なんでしょう」
「見りゃ分かる」
結び目をほどくと、硬いパンがふたつ。それから、小さな紙包みがひとつ。
紙を開いて、リネットは息を止めた。
針が三本。それと、糸巻きがひとつ。
いい針だった。細くて、腰が強い。こんな針はこの二年、自分で買えたことがない。
「……どうして、針なんて」
「さあ。俺は運んだだけ」
「あの、どなたから」
「言えない」ニコはあっさり首を振った。「悪いね。俺、口は軽いけど約束だけは守るんだ」
リネットは、針を掌に載せたまま動けなかった。
誰かが、この手のことを知っている。
牢の中の女に、パンでも毛布でもなく針を送ってくる人がいる。針さえ持っていればこの人は少しは息ができるだろうと、そう思った誰かが。
指の腹が、勝手に針の腰を確かめてしまう。その誰かは、いい針を選んでくれていた。それが分かった途端、三本の針が掌の中でぼやけた。
つき添いの若い衛兵がこちらをちらりと見て、それからまた、律儀に屋台のほうを向いた。
(……この方も、さっきから見ていないふりが上手すぎるわ)
優しくされることに、リネットは慣れていない。だからいつも一拍遅れてから、こわくなる。
「ねえ、お針子さん」
人混みへ戻りかけて、ニコが振り返った。
「ひとつだけ教えとく。城でね、もうひとり名乗り出た人がいるだろ」
リネットの指が、包みの上でこわばった。
「……はい。看守の方から、聞きました」
「あの人、宰相さまに一喝されたそうだよ。狂言はよせ、家の名を汚す気か、ってさ。それきり名も伏せられて、話は消えた」
「では、その方は」
「消えてないんだよ、それが」ニコは笑わなかった。「まだ言い続けてる。自分がやったって。何度でも言うって」
市の喧騒が、遠くなった。
「そんな……どうして。その方は、どうしてそこまで」
「さあね」
「取り下げれば済むことでしょう。ご自分の身が危ないのに」
「そうだよ」ニコは串の先で、足もとの石を小突いた。「まったく、あの人も無茶をする」
「……あの人?」
ニコの動きが止まった。
ほんの一拍だった。それから彼は、いつもの軽さで顔を上げた。
「言葉のあやだよ。会ったこともない」
「でも、今」
「お針子さん」
ニコは笑ったまま言った。笑っているのに、目だけが真面目だった。
「あんたは、自分が助かることだけ考えな。ほかのことは、考えないほうがいい」
そう言い残して、彼は人混みの中へ消えた。声真似のひとつも置き土産にすればよさそうなものなのに、それもしなかった。
城へ戻る道は、影が長くなりはじめていた。
三日のうちの、一日目が終わろうとしている。
リネットは布包みを胸に抱えて歩いた。中で針が、かさりと小さな音を立てる。
名も明かされないひとりの貴族が、まだ「自分が刺した」と言い続けている。何度も。取り下げれば助かるのに、取り下げないで。
あの人であるはずがない。あの人は逃げたのだ。わたくしが、逃がしたのだ。
頭ではそう思うのに、胸のほうが言うことを聞かなかった。
――逃がしたはずの人が、もし、自分から死にに戻ってきているのだとしたら。
あの夜、あの人の耳もとで告げた、たったひとこと。その言葉が、また喉の奥までせり上がってきて、リネットは慌てて蓋をした。今は、だめだ。思い出してしまったら、この足はもう城へ向かってくれない。
立ち止まって、包みから針を一本だけ取り出す。
冷たくて、細くて、頼りない。それなのに指で挟んだ途端、震えがすっと止まった。
――あなたは、針を持つと、こわい顔が消えるな。
いつか、そう言った人がいた。
目の奥が熱くなって、リネットは空を仰いだ。日が、屋根の向こうへ落ちかけている。
ひとつだけ、確かなことがあった。
その人が誰であっても、このまま誰も何もしなければ、その人は死ぬ。
こわい。ほんとうは逃げ出したい。膝は、今も笑っている。
それでもリネットは、掌の中の針をそっと握り直した。




