第6.5話: 猫のボタンと、糸玉の行方
拾った猫は、いつか恩を返してくれる。子どものころ、そんな話を聞いた覚えがある。
リネットのところへ来たあの子は、返す気がまるでなさそうだった。糸玉を隠す。釦をくわえて持っていく。魚だけは、きちんと食べる。
その猫のことを、リネットは石の牢の隅で考えていた。
三日の猶予をもらって、まだ一つ目の夜だ。ここには窓がなくて、時を教えてくれるのは鐘の音だけだった。こわいという気持ちは、さっきから同じところに座っている。それなのに頭のほうは、勝手に別のことを考えはじめる。
水を置いてきたかしら。
あの戸の掛け金は、冬のうちに釘がゆるんでしまった。閉めても板が浮くので、いつも麻紐を柱に回して結んでおく。あの朝は結んだだろうか。
もっとも、あの子に戸は関わりがない。裏の板が一枚たわんでいて、そこから出ていく。日が落ちるころに帰ってきて台の下で丸くなり、朝はリネットより早くにいなくなる。
(……ごはんは、どうしているのかしら)
考えても、どうにもならない。どうにもならないのに、考えているあいだだけ、処刑のことを考えずにいられた。
あの子が来たのは、冬の終わりだった。
その朝は、雨に雪がまじっていた。
仕立て場の戸を開けようとして、リネットは足もとのものに気づいた。蓋のない木箱がひとつ、戸の前に置いてある。中には古い外套の切れっぱしが敷かれていた。
その上に、茶と白のかたまりが乗っていた。
鼻の頭だけがぬれている。リネットが屈むと、かたまりが動いて、ちいさく鳴いた。
捨てるつもりなら、こんな置き方はしない。切れっぱしは端を折って敷いてあった。木箱は、雨の吹き込まない向きに寄せてあった。
(置いていかれたのね。……どなたが)
分からなかった。向かいの染め屋のおかみさんに訊いても、通りの子どもに訊いても、見た人がいない。職人街ではときどきこういうことがある。繕い物も、割れた鍋も、名を書かずに戸の前へ置かれる。
「リネット様。それ、どうしたんですか」
息を白くしながら、ドリスが駆けてきた。木箱をのぞきこんで、声を裏返させる。
「猫! 猫じゃないですか!」
「しっ。起きてしまいますでしょう」
「うわ、ちっちゃい……。飼うんですか」
リネットは答えられなかった。飼うという言葉が、自分にはずいぶん立派に聞こえたのだ。
祖母の薬代を数えるだけで、指が足りなくなる暮らしだった。
「わたくし、この子に食べさせるぶんがあるかしら」
「ありますよ」ドリスはきっぱり言った。「あたし、朝のパンもらってるもん。あれ、返します」
「それは、だめです」
「じゃあ魚屋に行ってきます。頭とかしっぽとか、捨てるやつタダでくれるもん」
言うだけ言って、ドリスは走っていってしまった。
リネットは木箱をもう一度のぞいた。子猫は前足を口のそばにそろえて、まだ眠っていた。
(……わたくしより、よく眠るのね)
半刻もしないうちに、ドリスは葉に包んだものを抱えて帰ってきた。
「もらってきました。頭と、しっぽと、骨」
「そんなにいただいて、よろしかったの」
「魚屋のおじさん、笑ってましたよ。誰が食べるんだって」
「……猫だと、申しました?」
「言いました。そしたら二つ増えました」
その日、リネットは裂いた布で台の下に寝床を作った。
三日もすると、猫は仕立て場を自分の家だと思ったらしい。
名前の相談は、なかなかまとまらなかった。
「ミケはどうですか。この通り、ミケがいちばん多いですよ」
「三毛ではありませんもの。二色しかありませんわ」
「じゃあトラ」
「虎にも、見えませんけれど」
「じゃあ、シロ」
「白いのは、お腹だけですのよ」
「注文が多いです、リネット様」
そのとき、猫が台の上を横切った。口に何かをくわえている。仮縫いに使う、いちばん安い貝の釦だ。
「あっ、こら! それお仕事のやつ!」
ドリスが手を伸ばした。猫は台から飛び降りて、あっという間に見えなくなった。
リネットは笑ってしまった。声を出して笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ボタン」
「え」
「ボタンでは、いけませんかしら」リネットは言った。「釦を持っていく子ですもの」
「泥棒って名前じゃないですか、それ」
「……そう言われますと、そうですわね」
それでも、その日から猫はボタンになった。呼ぶと、三度に一度は返事をした。
困ったのは、糸玉だった。
春が近くなるころ、糸玉が三つ、行方知れずになった。
「ドリス。青の糸玉を、見ませんでした?」
「見てないです。……あれ、亜麻の白もない」
二人で床に這った。台の下。裁ち板のうしろ。竈のわき。
見つかったのは、竈の裏だった。板と壁のあいだの、指も入らないような隙間だ。
青の糸玉。亜麻の白。それから、いつなくしたのかも分からない去年の生成り。三つが並べて押し込まれていた。並べて、というのが妙だった。転がり落ちたのなら、あんな風には収まらない。
「この子、集めてる」
「集めていますわね」
「なんでですか」
「わたくしにも、分かりませんの」
「猫って、どうしてこういうことするんですかね」
「訊いてみましたけれど、教えてくださらないの」
台の下からボタンが出てきた。何も知らない顔で、リネットの前掛けに乗って、そのまま丸くなった。
「返してくださらないの」
猫は目を閉じた。
ボタンには、可愛いだけではない癖もあった。
預かった繕い物に、いちいち鼻を寄せるのだ。
その日、台には三枚あった。染め屋のおかみさんの前掛け。糸屋のご隠居の襟巻き。靴屋のご主人の上着。
前掛けと襟巻きの上には平気で乗るのに、上着だけは鼻を近づけたところで耳を伏せた。それから後ろへ下がって、台から降りてしまった。
「なにそれ。この上着、嫌いなの」
「……ドリス。少し借りますわね」
リネットは縫い目に顔を寄せた。
羊毛の奥から、苦い匂いがした。薬草を煮つめたときの匂いだ。祖母の薬を毎晩煮ているから、これだけはよく知っている。一度や二度では、こんなに深くは入らない。毎日、湯気の立つ鍋のそばに立つ人の服だった。
それだけではなかった。脇の縫い目が、左右とも伸びきっている。背中の内側には、汗の輪が薄く残っていた。
「人を抱き起こす人の上着は、いちばん先に脇が切れるんです」
「……それって」
「靴屋のご主人。どなたかを、看ていらっしゃるのだと思いますの」
ドリスが口を開けた。
「そんなの、ひとことも聞いてないですよ」
「おっしゃらないのでしょう」リネットは言った。「言えば、心配をかけてしまいますもの」
「……リネット様。これ、頼まれてるのは袖の破れだけですよ」
「ええ。ですから、あとは内緒でいたしますわ」
脇に余りの布を足して、腕が上がるようにした。襟の裏には、汗で傷まないように薄い当て布を入れた。代金の話は、とうとうしなかった。
上着を受け取ったご主人は、袖を通して、しばらく腕を上げたり下げたりしていた。それから何も言わずに帰っていった。
三日たった朝、戸の前に大根が二本置いてあった。
「リネット様。あれ、ご主人ですよね」
「たぶん、そうでしょうね」
「渡せばいいのに。なんで置いて帰るんですか」
「照れくさいのだと思いますわ」
ボタンは大根の匂いを嗅いで、まるで興味を示さずに行ってしまった。
「ボタン。あなたのおかげですのよ」
「え。猫のおかげなんですか、あれ」
「この子が教えてくれるのは、匂いがおかしいというところまでですけれど」リネットは言った。「それが何の匂いで、その方が何を抱えていらっしゃるのかまで猫には分かりませんもの」
「じゃあ、あとは」
「あとは、わたくしが見ます」
石の壁に背をつけて、リネットは目を閉じた。
あの糸玉は、まだ竈の裏にあるだろうか。
ボタンは、大事なものを隠す。隠して、何も知らない顔で丸くなる。返してくださらないのと訊いても、目を閉じるだけだ。
――わたくしにも、ひとつある。
あの夜のあの部屋で、血に濡れた手に指を重ねて、耳もとで言った言葉だ。
誰にも話していない。話す気もない。
訊かれたら、猫と同じ顔をしていようと思った。
こわい。処刑は、やっぱりこわい。
それでも、竈の裏の糸玉を思っているあいだだけ、鐘が遠くなった。
拾った猫は、いつか恩を返してくれる。
あの子はまだ、何も返してくれない。糸玉も、釦も、返してもらっていない。
それでも今夜は、鐘の音を一つ聞き逃した。




