何も数えない春
北の春は、去年と同じ日に来なかった。
去年は四月の末まで朝が白かった。今年は四月の半ばで井戸の水がぬるみ、丘の雪が下から溶けた。同じ土地でも、年によって違う。
石灰の荷は週に二度、丘の道を下りていく。去年は荷の音で曜日を知った。今年は音を聞かなくても分かる。仕事が七日で一巡するようになったからである。
一年が経った。
オーレン家の順は戻っている。去年の寄合で上座から二番目に置き、その年の弔いで額を前例どおりに包み、秋の贈答で品を一段軽くした。三度で足りた。
ケイル家は当主が若いので、こちらから先に出す形を三度続けたら、四度目から向こうが先に出すようになっている。
ドゥニ家には、去年出し損ねた祝いを冬の贈答で埋めた。埋めるときに、遅れたことを詫びる一行は書かない。詫びを書くと、遅れたことが記録になる。
三つ。約束したとおりの数である。
一年で三つと答えたのは、停留所の朝である。数えて出した数ではなかった。出した数が合っていたことを、私は今になって確かめている。
四年狂った順を戻すのに要る回数は、だいたい決まっている。決まっていることを知っている者が、この土地に一人もいなかっただけである。
残りの四つは、相手の家の代替わりを待つことになる。ハルツ家の当主は七十を超えていて、レーヴェ家は跡取りがまだ十四だった。
こういうことは、待つのではなく、置いておくと言う。
置いておくものには期日がない。期日がないものを抱えていても、私は平気だと分かった。分かるのに一年かかった。
四月の末に、王都から便りが二通届いた。
一通は大伯母様である。
紙は一枚。書いてあったのは、今年の一族の集いのことだった。
今年も、うちで立てます。
それだけである。日取りも、人数も、頼みごとも書いていない。書かなくても、私が並びを送ることは分かっている。
その下に、もう一行あった。
札の紙を、去年より厚いものに替えた、と。
あの方は札の紙を指で確かめる人である。厚みを替えたと書いてよこすのは、こちらに気づかせるためではない。自分が確かめたことを、報せておきたいのだと思う。
去年、私は大伯母様の札を二度書き直した。一度目は敬称を落とし、二度目は紙の縁が波打っていたからである。あのときは何も言われなかった。
私は返事に、今年の並びを書き添えた。
ハウレル家とベルリエ家のあいだは、今年もセール家とレンヴィル家。オルディス家は上座から四つ目。ドラン家は据え置き。
オルディス家を四つ目にしたのは、去年の返礼のことがまだ残っているからである。上座から遠すぎず、宗家の名の隣でもない。二年かけて戻す位置がそこになる。
書き終えて、封をした。蝋は温めすぎないようにする。熱すぎると気泡が入る。
アシュフィールド家の印には欠けがない。押すと、縁まで均一に乗る。
もう一通は、知らない筆跡だった。
宛名は、アドリーナ・ヴェスタール様。敬称が付いている。
裏を返すと、差出人の名がある。ハンナ。姓が変わっていた。
去年の秋に暇をもらい、王都の南で麦の仲買をしている家へ嫁いだ、と一枚目に書いてあった。相手は先妻を亡くした人で、子が二人いる。
一枚目には、屋敷のことが一行も書いていない。誰がどうしているかも、今どうなっているかも書いていない。書かないことにしたのだと分かる書き方だった。
二枚目に、用件があった。
嫁ぎ先には、麦を扱う家の付き合いが十一軒ある。年に一度、収穫のあとに集まりがあり、今年からその支度をすることになった。
十一軒の順が分からない。
誰と誰を隣にしてはいけないかを、どうやって知ればよいのか。それを伺いたい、と書いてある。
私は二枚目を三度読んだ。
この人は、五年のあいだ一度も私に聞かなかった。
聞き方を覚えたのは、聞けなくなってからだった。
返事を書いた。
十一軒なら、まず市の立つ日に広場へ行くこと。誰と誰が並んで買い物をしているかを三度見ること。並ぶ組み合わせと、並ばない組み合わせが出てくる。それを紙に書かないこと。
最後に一行だけ足した。
無事に終わった日は、何も残りません。残らないのが正しいので、そのまま置いてください。
書きながら、この返事は控えを取らないでおこうと思った。取れば、こちらに残る。残ったものは、いつか誰かの目に触れる。
触れて困るのはハンナの嫁ぎ先の十一軒であって、私ではない。私ではないものを、私の手元に置かない。
封をして、荷の袋に入れた。
五月の半ばに、七家の寄合があった。
今年の回り番はオーレン家である。主催が向こうなので、私は客として行く。
行くと言っても、席の割りは前もって送ってある。オーレン家の当主が去年の暮れに書付を寄越して、今年はどう組めばいいかを尋ねてきた。
オーレン家の館は、アシュフィールド家より小さい。広間の天井が低く、窓が三つしかない。三つとも開けてあって、外から石を焼く匂いが入ってきた。
広間に入ると、札が立っていた。
七枚。名の下の敬称は七通とも違う。字はオーレン家の当主のもので、去年私が書いた札を写したのだと分かる形をしていた。
写して間違えたところが、一箇所ある。ハルツ家の敬称が一段重い。
自分の席を探した。
上座から数えて、四つ目。
札に、名前が書いてあった。
アドリーナ・ヴェスタール。
六年ぶりに、自分の名の書かれた札を見た。
侯爵邸の広間で、私の名の札が立ったことは一度もない。夫人は主催する側なので、席に名を出さない。
大伯母様の家でも、私の席には茶器が置いてあっただけである。
オーレン家の当主が近づいてきて、札のことで一言あった。
「敬称は、これで合っておりますか」
「ハルツ家が一段重うございます」
「直しましょうか」
「重い分には角が立ちません。来年からで結構です」
当主は頷いて、離れていく。離れる前に、私の札のほうを見た。書いたのは自分だという顔をしていた。
私はその札を手に取り、卓の上の位置を少しだけ直した。角が卓の縁と平行になっていない。指で押して、平行にする。
置いてから、その前に座った。
寄合は二刻で終わった。水路の話は出ない。
帰りの馬車で、カレル様が上着の内側から紙を出した。
「期日が来ますので」
「今月の末でございますね」
「はい」
紙は一枚。厚手で、角が真四角に裁ってある。去年と同じ体裁だった。
上から順に、報酬、期間、解約の条項。
期間の欄が、空いていた。
去年、私はこの欄を二度読んだ。読んで、それが誰の逃げ道でもない場所に置いてあることを確かめた。
数字も、年数も、何も書いていない。線だけが引いてある。
「期限は書きませんでした。あなたが決める欄です」
馬車が段差を越えて、紙の端が少し浮いた。
私は指で押さえる。押さえてから、その欄をもう一度見た。
去年、この欄には一年と書いてあった。一年と書いてある紙を、私は自分の意思で受け取った。今年は、書いていない。
五年前の紙には、期限が書いてあった。書いたのは代理人である。読み上げられたとき、私は顔色を変えなかった。父はそれを帰りの馬車で褒めた。
今日の紙の欄は空いている。書く人がここにいる。
「筆はございますか」
その人は上着の内側から、もう一つ出した。受け取るとき、指の先が触れる。触れてから、どちらも何も言わない。
私は膝の上で紙を押さえ、期間の欄に自分の字を入れた。
日付は書かなかった。書いたのは、終わりを決めるときに二人で決める、という一行である。
書いてから、署名した。
その人は紙を受け取り、日付の欄を探した。探して、無いことを確かめて、そのまま畳んだ。
畳んで、上着の内側ではなく、膝の上に置いた。
「屋敷に着いたら、写しを作ります」
「二通でお願いします」
「三通にします。神殿には預けません」
「三通目は、どちらへ」
「私の抽斗です。宛名だけ書いた紙の隣に置きます」
私は膝の上の手を見た。見てから、見た理由が自分でも分かった。
この人は、二枚の紙のことをまだ覚えている。覚えていて、その隣に置くと言った。
そう言って、その人は窓の外を見た。丘の道の途中で、石灰の荷とすれ違ったところだった。
館に戻ったのは、日が落ちる前である。
仕事場の窓を開けた。北の春の日は長い。空の縁がまだ白い。
針箱を出した。
麻糸の玉は、底のところで少し平たくなっている。一年、動かさずに置いてあった。
指の腹で撫でた。結び目のところだけ、糸が太い。
二百と少し。数えなくても、指が数を知っている。
作った夜のことは、一つも覚えていない。二百の夜が全部同じだったからである。
窓の下で、館の者が水を撒いている。撒く音が一定の間隔で続く。
私は端から、ひとつずつほどいた。
太い麻の結び目は、指では固い。爪を立てて緩め、引いて抜く。抜くと、そこに癖が残る。癖のついたところを指で伸ばすと、糸はまっすぐに戻る。
戻らないものもあった。二十いくつかは、締めた日が固かったらしく、伸ばしても波が残った。
残ったところは、そのままにした。
伸ばせば消えると思ったが、消えないものがある。
日が落ちるまでかかった。灯りを点けずに終えたので、最後の十いくつかは手の中だけでほどいたことになる。
両手を広げても、端まで届かない。長さのほうは、一度も数えたことがなかった。
私は糸を巻き取って、針箱に戻した。結び目のない糸が、箱の底で丸くなる。
蓋を閉めた。
戸口の外で足音が止まり、通り過ぎた。館の誰かである。止まった理由も、通り過ぎた理由も、私は聞きに行かない。
卓の上に、明日出す封が二通置いてある。一通は南へ、一通は王都へ。
どちらの宛名も、私が書いた。書き損じは出なかった。
明日は、ハンナへの返事が荷と一緒に下りていく。
明後日は、大伯母様への便りが出る。
その次の日のことは、決めていない。
去年の今ごろ、私は日数を数えていた。一昨年の今ごろも数えていた。
今年の春は、何も数えていない。




