初めての一太刀-04
黒い獣の身体が、淡い光へと変わっていく。
夜の森に舞う蛍のように、小さな光が一つ、また一つと宙へ溶けていく。
ノアは折れた木剣を握ったまま、その光景を見つめていた。
「……終わったの?」
誰にともなく呟く。
返事はない。
黒い獣は静かにノアを見つめ返していた。
その紅い瞳からは、先ほどまでの威圧感が消えている。
代わりに宿っていたのは、深い静けさだった。
やがて黒い獣は、ゆっくりと前足を折る。
続いてもう片方の前足も。
巨体が静かに地へ伏した。
まるで、誰かへ礼を尽くすように。
ノアは息を呑む。
「どうして……。」
その姿に敵意はない。
敗北の悔しさもない。
ただ、長い旅を終えた者のような穏やかさだけがあった。
黒い獣は一度だけ目を閉じる。
そして、再び開いた。
その瞬間。
ノアの胸へ、静かな思念が流れ込む。
『……届いた。』
短い言葉だった。
意味は分からない。
それでも、その声には確かな安堵があった。
『幾度……願われても。』
『幾度……求められても。』
『届かなかった。』
ノアは首をかしげる。
何を言っているのか分からない。
黒い獣は小さく目を細める。
『だが、お前は違った。』
『力ではない。』
『願いが、お前をここへ導いた。』
ノアは静かにその言葉を聞いていた。
難しいことは理解できない。
けれど、一つだけ気になったことがあった。
「……リリアは?」
その名前を聞いた瞬間。
黒い獣は、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。
『その願いを。』
『忘れるな。』
それだけだった。
次の瞬間。
黒い獣の身体は無数の光となり、夜空へ舞い上がる。
光は森中へ広がり、木々の間を流れ、やがて一つ残らず消えていった。
静寂だけが戻る。
森には、もう黒い獣の姿はなかった。
残っていたのは、踏み荒らされた地面と、折れた木剣。
そして。
「ノア……。」
震える声。
振り返ると、リリアが涙を浮かべながら立ち上がろうとしていた。
足を痛めたままなのに、それでも必死にノアのもとへ歩こうとしている。
「リリア!」
ノアは駆け寄ろうと、一歩踏み出した。
その瞬間だった。
――カチリ。
胸の奥で、再びあの音が鳴る。
まるで外れていた鎖が、ゆっくりと閉じるような音。
「……あ。」
身体から、一気に力が抜けた。
さっきまで軽かった足が鉛のように重い。
呼吸が苦しい。
視界が揺れる。
膝が崩れ落ちた。
「ノア!」
リリアが叫ぶ。
ノアは倒れ込みながら、自分の左手首を見た。
一瞬だけ輝いていた紋様は、もう見えない。
ただ、そこに見えない鎖が巻き付いているような感覚だけが残っていた。
――これが、神枷。
そう思った瞬間、意識が暗闇へ沈み始める。
遠くで誰かが自分の名前を呼んでいる。
その声だけを最後に、ノアの意識は静かに途切れた。




