初めての一太刀-03
森を吹き抜ける風が止んだ。
静寂。
世界から音が消えたようだった。
ノアは折れた木剣を静かに構える。
半分しか残っていない木剣。
それでも十分だった。
黒い獣もまた動かない。
互いに見つめ合う。
いや――。
互いの呼吸を読んでいた。
ノアの肩が、ほんのわずかに上下する。
黒い獣の尾が揺れる。
葉が一枚、二人の間へ落ちた。
その葉が地面へ触れるより早く。
両者は同時に動いた。
ズンッ!
黒い獣が大地を蹴る。
巨体とは思えない速度。
一直線にノアへ迫る。
普通なら逃げる。
横へ飛ぶ。
距離を取る。
だが、ノアは違った。
一歩。
前へ。
黒い獣の懐へ踏み込む。
リリアが息を呑む。
「ノアっ!」
叫びは届かない。
ノアの世界には、黒い獣しか存在していなかった。
父の声が蘇る。
『剣は、振るう前に勝負が決まる。』
『相手の力が最も強い場所では戦うな。』
『力の流れる先を見ろ。』
黒い獣の前足が振り下ろされる。
その軌道を、ノアは読んでいた。
半歩だけ身体をひねる。
巨大な爪が、髪を一本だけ切り裂いて通り過ぎた。
紙一重。
しかし、それで十分だった。
ノアは黒い獣の肩口へ滑り込む。
そこから見えた。
厚い外殻。
硬い筋肉。
そして、その奥に一箇所だけ。
外殻の継ぎ目。
呼吸とともに、わずかに開く場所。
父は教えてくれた。
『どんな鎧にも、継ぎ目がある。』
『そこを見つけるのが剣士だ。』
ノアは迷わない。
折れた木剣を静かに引く。
力まない。
叫ばない。
ただ、一息。
吸って。
吐く。
そして。
一閃。
木剣は風を切ることもなく、音すら立てずに振り抜かれた。
――コン。
小さな音だけが響く。
次の瞬間。
黒い獣の動きが止まった。
巨体が、一歩。
また一歩。
後ろへ下がる。
紅い瞳が、大きく見開かれていた。
『……見抜いたか。』
思念が震える。
傷は深くない。
致命傷でもない。
それなのに。
黒い獣はゆっくりと頭を垂れた。
まるで王が、勇敢な騎士へ敬意を示すように。
ノアは息を整えながら木剣を下ろす。
何が起きたのか分からない。
ただ、父の教え通りに剣を振っただけだった。
黒い獣は静かに目を閉じる。
『剣を教えた者に伝えよ。』
『あれは、真の剣だ。』
その言葉に、ノアは目を瞬かせた。
「父さん……?」
問い返した、その時。
黒い獣の身体が、淡い光へと変わり始めた。




