初めての一太刀-02
黒い獣が低く唸る。
その巨体から放たれる威圧感は、先ほどまでと何一つ変わらない。
それでも、ノアの見ている世界だけが違っていた。
黒い獣の肩がわずかに沈む。
右の前足に、ほんの少しだけ力が集まる。
尾の先が揺れる。
呼吸が、一拍だけ浅くなる。
――来る。
考えるより先に、身体が動いていた。
黒い爪が横薙ぎに振るわれる。
それは先ほどまでなら、目で追うことすらできない速度だった。
だが今は違う。
ノアは半歩だけ前へ踏み込んだ。
爪の軌道、その内側へ。
風が頬をかすめる。
髪が一筋だけ舞う。
それだけだった。
爪は、ノアに触れることなく空を切る。
黒い獣の瞳が揺れた。
『避けた……?』
初めて、その思念に驚きが混じる。
ノアは答えない。
いや、答える余裕すらない。
身体は自然に次の一歩を選んでいた。
左足を軸に回り込み、巨体の横へ。
父の声が蘇る。
『大きい相手ほど、正面に立つな。』
『相手が強いほど、動きを読め。』
『剣は振るう前に勝負が決まる。』
毎朝、耳にたこができるほど聞いた言葉。
その意味を、ノアは今ようやく理解する。
黒い獣が尾を薙ぐ。
ノアは腰を落とし、その下を滑るように潜り抜ける。
立ち上がる動きと同時に、一歩。
また一歩。
巨体の死角へ。
黒い獣は振り返る。
しかし、その時にはもう、ノアはいない。
『……美しい。』
思わず漏れた思念。
それは敵に向ける言葉ではなかった。
積み重ねられた歳月。
何千、何万と繰り返した鍛錬。
その結晶が、目の前で舞っている。
ノア自身は気づいていない。
ただ父に教わった通りに動いているだけだ。
だからこそ、一切の無駄がない。
力まない。
焦らない。
無理に斬りかからない。
ただ、生き残るための最短を選び続ける。
黒い獣が、大きく距離を取った。
その動きに、森の空気が張り詰める。
そして初めて。
黒い獣は、ノアへ向かって静かに構えを変えた。
先ほどまでの「試す者」の姿勢ではない。
一人の剣士へ向ける、敬意を込めた構えだった。
ノアは小さく息を吐く。
折れた木剣を、静かに正眼へ構える。
木剣は半分しか残っていない。
それでも、不思議と足りないとは思わなかった。
父が笑いながら言っていた言葉が、ふと頭をよぎる。
『剣は長さじゃない。』
『何を斬るかだ。』
ノアの瞳から、迷いが消える。
黒い獣もまた、一歩踏み出した。
森に吹く風が止む。
葉が落ちる音さえ消えた。
次の一瞬で、勝負が決まる。
そんな確信だけが、その場に満ちていた。




