初めての一太刀-01
巨大な爪が、振り下ろされる。
リリアは思わず目を閉じた。
死ぬ。
そう思った、その瞬間。
――カチリ。
どこかで、小さな音が鳴った。
金属が噛み合い、静かに外れるような音。
それは耳ではなく、ノアの心に響いた。
「……え?」
次の瞬間だった。
世界が、変わる。
吹き抜ける風が見えた。
舞い落ちる木の葉が、一枚、また一枚と空中を漂う。
黒い獣の爪が、ゆっくりと近づいてくる。
あまりにもゆっくりで、手を伸ばせば触れられそうなほどだった。
いや。
世界が遅くなったのではない。
自分が、世界を正しく認識できるようになったのだ。
鼓動が静まっていく。
荒れていた呼吸が整う。
恐怖で曇っていた頭の中が、澄み渡る湖のように静かになった。
視界の隅に映る木々。
足元の石。
湿った土。
風向き。
木漏れ日。
そのすべてが、一瞬で頭の中へ収まっていく。
そして。
黒い獣が、初めて目を見開いた。
『……そうか。』
声ではない。
心へ直接響く思念。
『神枷が、解かれたか。』
ノアは意味が分からなかった。
ただ一つだけ、本能が告げている。
動ける。
今なら、動ける。
身体が軽い。
今まで感じたことのないほど軽い。
足に力が宿る。
腕が思うように動く。
いや――違う。
これが、本来の自分なのだと、身体が思い出していた。
ノアは静かに息を吸う。
折れた木剣を握る。
その感触が、まるで自分の腕の延長のように自然だった。
『恐れるな。』
再び思念が響く。
『お前は、何も得てはいない。』
『ただ、失っていたものを取り戻しただけだ。』
その言葉と同時に、ノアの脳裏へ父の声がよみがえる。
『剣は腕で振るうな。』
『腰で振れ。』
『目で追うな。相手の呼吸を読め。』
『力で勝とうとするな。』
『一歩先を読め。』
毎朝。
毎夕。
何百回、何千回と繰り返した教え。
意味も分からず続けてきた鍛錬。
その一つひとつが、今、一本の道となってつながっていく。
ノアは静かに左足を引いた。
半身になる。
父が最初に教えてくれた構え。
無駄のない姿勢。
それを見た黒い獣の瞳が、わずかに揺れた。
『……技か。』
その思念には、驚きが滲んでいた。
ノアは何も答えない。
ただ、折れた木剣を静かに構える。
怖さは消えていない。
心臓は今も速く脈打っている。
それでも、もう震えはなかった。
守る。
その想いだけを胸に、ノアはゆっくりと一歩踏み出した。




