第4節
日が傾き始めた頃、蓮はようやく腰を上げた。
押し入れを開けると、幸三の衣類が几帳面に畳まれて積まれている。その下には段ボール箱がいくつか。一番上の箱を引き出し、蓋を開けた。
古い書類の束に、測量の図面らしき紙。何十年も前の役所からの通知。幸三は何でも取っておく性格だった。蓮が子供の頃に送った絵葉書が出てきたとき、思わず手が止まる。小学三年生の字で「げんきですか」と書いてある。
捨てられない。箱に戻し、次を開けた。
二つ目の箱には、祭りの写真や古い地図が入っていた。神流湖ができる前の地図だろうか。川と集落の位置が、今とは全然違う。かつてそこに家があり、人が暮らし、子供たちが走り回っていた。その痕跡が、薄い紙の上に細い線として残っている。
三つ目の箱を開けたとき、座敷の奥の文机が目に入った。
引き出しが、少しだけ開いている。
幸三が引き出しを開けたままにするような人ではないことを、蓮はよく知っていた。
立ち上がり、文机に近づく。引き出しを引くと、中には文房具と、折りたたまれた紙が数枚。その一番下に、明らかに質感の違うものが混じっていた。
手に取ると、ざらりとした和紙の感触が指先に伝わる。薄く、光に透かすと向こうが見えそうなほど繊細な紙。乾いているのに、どこか湿度を含んだような柔らかさがある。丁寧に折りたたまれていて、表には何も書かれていない。なのに、この紙だけが引き出しの底で、他の紙とは明らかに違う重さを持っていた。
そっと広げて、蓮は息を呑んだ。
和紙の中央に、細い線で精緻な図面が描かれている。道と、川と、建物らしき四角。等高線のようなものも引いてある。しかし蓮には見覚えがない。神泉村の地図のはずだが、現在の道路がどこにもないのだ。役場も、バス停も、紬の家もない。
代わりに、今は存在しない場所が描かれている。
湖の底に沈んだ、旧神泉村の地図。
蓮は立ち上がり、和紙を窓の前に持っていき、夕暮れのわずかな光に透かした。橙色の西日が和紙の繊維を透過し、線がぼんやりと浮かび上がる。和紙越しに差し込む夕日は滲んで広がり、まるで濁った水の底から空を見上げているようだった。
線の密度は均一ではない。ある一箇所だけ、細い線が幾重にも交差し、不自然に濃くなっている。ただのインクの溜まりではない。意図的に、そこを指し示している。交点には、虫眼鏡でなければ読めないような小さな字で、こう記されていた。
『丹生神社』
現在、そこは数十メートルの水底のはずだった。
指先が、かすかに震える。和紙の端が、その震えに合わせて微かに揺れた。
そのとき、玄関の引き戸が開く音がした。
「おかえり」と紬の声が響く。「夕飯、持ってきた」
蓮は和紙を折りたたみ、手の中に握りしめた。
「紬」と蓮は呼ぶ。「ちょっと、来て」
廊下を歩いてくる足音。引き戸の向こうに紬の顔が現れ、蓮の手元を見る。
「何、それ」
「じいさんの遺品」蓮は短く答える。「たぶん、地図だ」
紬は部屋に入り、蓮の隣に立つ。二人で、窓の外の暗くなりかけた空を背景に、ふたたび和紙を光に透かした。紬の息が、冷えた空気の中で白く揺れる。
「……これ、今の村じゃない」紬がつぶやく。
「ああ」
「湖の底の地図だ」
蓮は何も言わなかった。紬もしばらく黙っていた。二人の間で、和紙が静かに橙色の光を透過している。
「この濃い部分」紬が和紙の一点を指先で示す。
「意図的に重ねてある」
「わかる?」
「写真撮ってるから、密度の差には敏感なんだよ」
紬は和紙から目を離さずに言った。蓮は改めてその一点を見つめる。たしかに、そこだけ線が微妙に重なり、他の部分より濃く描かれていた。偶然ではない。幸三が意図を持って刻んだ、何かの目印。
「じいさんが隠したものが、ここにある」蓮は静かに言う。
紬は答えなかった。ただ、和紙を持つ蓮の手に、自分の手をそっと添えて、一緒に光に透かした。
村の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。水の底に沈んだ、もうどこにも存在しない村の姿。そして、交点が示す神社の座標。
風が、杉林を鋭く鳴らした。




