第3節
祖父の家は、村の奥まった斜面に建っている。
杉林に囲まれた古い平屋。板張りの外壁は年月で黒ずみ、所々に苔の緑が這っている。屋根の端には枯れた蔦が絡まり、冬の風にかさかさと揺れていた。
庭の柊の枝が、寒々しい冬空へ鋭く伸びている。葉の縁の棘が白く光を帯び、深緑の葉が艶やかに光っていた。
軽トラックを降りると、頬に当たる空気が刃のように冷たく、吸い込むたびに鼻の奥がひりつく。虫の音もなく、鳥の影もなく、冬の山の息だけが斜面の上から下りてくる。
玄関に鍵などかかっていない。この一帯の家はどこもそうだった。
引き戸を開けると、冷えた空気が足元へ流れ出してくる。
人の気配がないのは当たり前だが、それでも蓮は土間で立ち止まった。上がり框の脇に揃えられたスリッパ。壁には古い暦。茶の間に続く廊下の先が、口を開けたように暗い。息を吸い込むと、肺の奥まで冷気で満たされた。
三週間、誰も入らなかった家の匂い。埃と、古い木と、かすかな線香の残り香。
「上がって。私も掃除手伝うから」
背後から声をかけた紬に、蓮は首を振る。
「いいよ。一人でやる」
「……なんで」紬の声が、少し低くなった。
「なんでって、そういうわけじゃないけど」
「三週間も来なかったくせに、今さら一人でやるって言われても」
紬はしばらく蓮の横顔を見つめ、それから小さく息をついた。
「わかった。夕方、また来るからね」
それだけ言い残し、彼女は玄関を出ていく。エンジン音が遠ざかり、ふたたび静寂だけが残された。
靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下へ上がる。廊下の板が、体重をかけるたびにきしんだ。
茶の間は、幸三が最後に使ったままだ。座卓の上に湯飲みが一つ。新聞が折りたたまれ、読みかけのまま置いてある。日付は三週間前。テレビのリモコンが、いつも幸三が置いていた座布団の脇にある。
蓮はその場に立ったまま、部屋を見回す。
片付けなければならない。そうわかっているのに、頭が順番を出してこない。ガラス一枚の向こう側から、誰かの家を眺めているような感覚。東京でずっと続いていたそれが、ここでも続いている。
幸三はどんな気持ちで、三週間前のその朝を過ごしていたのだろう。新聞を読み、お茶を飲み、そしてどこかで倒れた。蓮が最後に電話したのはいつだったか。去年の正月か、それより前か。思い出そうとすると、記憶がどこか遠くへ逃げていく。
窓の外に、柊の木が見える。深緑の葉が風に揺れ、白い実がいくつかついていた。幸三はあの木をとても大切にしていた。柊は幸三がいなくなっても変わらずそこにあって、久しぶりに帰ってきた孫を、あの日のままの瞳で見つめているようだった。
蓮は座卓の前に座り、湯飲みを両手で包む。陶器の表面は、ひどく冷たい。指先から掌へ、冷気がじわりと広がっていく。それでも、蓮は手を離さなかった。
この家に、まだ幸三の時間が残っている気がした。




