水底の冬桜
第一章 境界の透かし絵
冬の朝の車内は、暖房が効いているのに足元だけが冷たい。
上越新幹線を高崎で降り、八高線のディーゼル車両に乗り換えた途端、空の色が変わった。東京を覆っていた鉛色の雲が、北へ向かうにつれて薄れていく。神流川沿いを走る車窓に差し込むのは、白く乾いた冬の光。乗客はまばら。蓮の向かいの席は、高崎を出てからずっと空のままだ。
丹荘駅まで、あと二十分。
蓮は膝の上に両手を置き、流れていく景色へ漫然と顔を向けている。ガタン、とポイントを通過する揺れが背中を叩いても、瞬きひとつしない。シートの背もたれは薄く、振動のたびに肩甲骨のあたりが微かに痺れる。ただ景色だけが視界を流れていく。音は鼓膜を震わせているはずなのに、電車の駆動音すら遠い。祖父の訃報を受け取った夜も、新宿のオフィスで休職届を出した朝も、荻窪のマンションを出た今朝も。蓮はずっと、分厚いガラス一枚隔てた向こう側から世界を眺めているような感覚の中にいた。
窓に自分の顔が映っている。知らない人間の顔のようだった。
ふと、神流川が見える。
いや、それはすでに川ではない。
蓮は初めて、ほんの少しだけ姿勢を起こす。川床が丸ごと露出しているのだ。白い砂礫と灰色の岩が、冬の陽光の下に黙って広がっている。褪せた白と、濁った灰色だけ。かつて水があったはずの場所に、今は乾いた風だけが吹き抜けていく。
異常渇水。祖父からの最後の手紙の一文が、不意に脳裏をよぎる。
『今年の冬は異常なほど水が少ない。すべてが干上がり、底が顔を出す前に、お前に見せたいものがある』
その手紙を最後まで読んだのは、皮肉にも祖父が死んだあとだった。底が顔を出す前とは、一体どういう意味なのだろうか。
◆◆◆
丹荘駅のバス停から、神泉村役場行きの便は一日数本しかない。
待合の屋根の下で立っていると、山あいの道から小さなバスが現れる。乗り込んだのは蓮一人。バスは神流川に沿って北へ向かう。両側から斜面が迫り、集落が途切れ、車内の光が少しずつ薄くなっていく。幼い頃、祖父と二人でこのバスに乗って高崎まで出かけた記憶。当時は高崎が都会だと思っていた。世界がもっと広いのだと知るまでに、それほど時間はかからなかったが。
二十分ほどで到着した神泉村役場前。
ロータリーには一台の軽トラックが停まっている。荷台には、乾いた泥がべったりとこびりついた長靴が二足。アイドリング音を響かせたまま運転席の窓が開き、中から女が顔を出した。
「遅い」
紬だった。十五年ぶりに見る顔は、思ったより変わっていない。子供の頃から、紬はいつもそういう顔だった。責めているわけではなく、ただ冷徹に事実を述べているだけの顔。
「ごめん」
「三週間も何してたのよ」
ため息をつきながら、紬は窓を閉めて助手席のドアを開ける。蓮は黙って乗り込み、冷え切ったシートに身を沈めてシートベルトを締めた。合皮の座面が固く、背中から冷気が滲み込んでくる。
軽トラックはすぐに山道へ入る。カーブのたびに木々が迫り、空が狭くなった。助手席の足元にはくたびれた地図帳と、赤いストラップのついた一眼レフカメラが無造作に転がっている。紬はハンドルを切りながら、前だけを見つめていた。
「湖、見た?」
「川なら、来る途中で」
「そう。湖はもっとひどいから。帰る前に寄ってく」
返事をしない。紬も特に気にする様子はなく、次のカーブにハンドルを向ける。
冬の神泉は、蓮が記憶している夏の景色とはまったくの別物。葉を落とした木々、白い空、斜面を覆う枯れ草の淡い黄褐色。それでも、美しい。そう思えた自分に、蓮は少し驚く。
足元のカメラが、カーブのたびに微かに揺れる。紬が写真を撮ることは知っていた。ただ、あの荷台の泥だらけの長靴といい、彼女がこの渇水の村で何を撮り歩いているのか、蓮には見当がつかない。
◆◆◆
祖父の家は、村の奥まった斜面に建っている。
杉林に囲まれた古い平屋。板張りの外壁は年月で黒ずみ、所々に苔の緑が這う。屋根の端には枯れた蔦が絡まり、冬の風にかさかさと揺れていた。庭の柊の枝が、寒々しい冬空へ鋭く伸びている。葉の縁の棘が白く光を帯び、深緑の葉が艶やかだ。軽トラックを降りると、頬に当たる空気が刃のように冷たく、吸い込むたびに鼻の奥がひりつく。虫の音もなく、鳥の影もなく、冬の山の息だけが斜面の上から下りてくる。
玄関に鍵などかかっていない。この一帯の家はどこもそうだった。
引き戸を開けると、冷えた空気が足元へ流れ出してくる。
人の気配がないのは当たり前だが、それでも蓮は土間で立ち止まった。上がり框の脇に揃えられたスリッパ。壁には古い暦。茶の間に続く廊下の先が、口を開けたように暗い。息を吸い込むと、肺の奥まで冷気で満たされる。三週間、誰も入らなかった家の匂い。埃と、古い木と、かすかな線香の残り香。
「上がって。私も掃除手伝うから」
背後から声をかけた紬に、蓮は首を振る。
「いいよ。一人でやる」
「……なんで」
紬の声が、少し低く沈む。
「なんでって、そういうわけじゃないけど」
「三週間も来なかったくせに、今さら一人でやるって言われても」
紬はしばらく蓮の横顔を見つめ、それから小さく息をつく。
「わかった。夕方、また来るからね」
それだけ言い残し、彼女は玄関を出ていく。エンジン音が遠ざかり、ふたたび静寂だけが残された。
靴を脱ぎ、ゆっくりと廊下へ上がる。廊下の板が、体重をかけるたびにきしんだ。
茶の間は、幸三が最後に使ったままだ。座卓の上に湯飲みが一つ。新聞が折りたたまれ、読みかけのまま置いてある。日付は三週間前。テレビのリモコンが、いつも幸三が置いていた座布団の脇にある。
蓮はその場に立ったまま、部屋を見回す。
片付けなければならない。そうわかっているのに、頭が順番を出してこない。ガラス一枚の向こう側から、誰かの家を眺めているような感覚。東京でずっと続いていたそれが、ここでも続いている。
幸三はどんな気持ちで、三週間前のその朝を過ごしていたのだろう。新聞を読み、お茶を飲み、そしてどこかで倒れた。蓮が最後に電話したのはいつだったか。去年の正月か、それより前か。思い出そうとすると、記憶がどこか遠くへ逃げていく。
窓の外に、柊の木が見える。深緑の葉が風に揺れ、白い実がいくつかついていた。幸三はあの木をとても大切にしていた。
蓮は座卓の前に座り、湯飲みを両手で包む。陶器の表面は、ひどく冷たい。指先から掌へ、冷気がじわりと広がっていく。それでも、蓮は手を離さない。
◆◆◆
日が傾き始めた頃、蓮はようやく腰を上げる。
押し入れを開けると、幸三の衣類が几帳面に畳まれて積まれている。その下には段ボール箱がいくつか。一番上の箱を引き出し、蓋を開けた。
古い書類の束に、測量の図面らしき紙。何十年も前の役所からの通知。幸三は何でも取っておく性格だった。蓮が子供の頃に送った絵葉書が出てきたとき、思わず手が止まる。小学三年生の字で「げんきですか」と書いてある。
捨てられない。箱に戻し、次を開ける。
二つ目の箱には、祭りの写真や古い地図。神流湖ができる前の地図だろうか。川と集落の位置が、今とは全然違う。かつてそこに家があり、人が暮らし、子供たちが走り回っていた痕跡。それが、薄い紙の上に細い線として残されている。
三つ目の箱に手をかけたとき、座敷の奥の文机が目に入る。
引き出しが、少しだけ開いている。
幸三が引き出しを開けたままにするような人ではないことを、蓮はよく知っている。
立ち上がり、文机に近づく。引き出しを引くと、中には文房具と、折りたたまれた紙が数枚。その一番下に、明らかに質感の違うものが混じっていた。
手に取ると、ざらりとした和紙の感触が指先に伝わる。薄く、光に透かすと向こうが見えそうなほど繊細な紙。乾いているのに、どこか湿度を含んだような柔らかさがある。丁寧に折りたたまれていて、表には何も書かれていない。なのに、この紙だけが引き出しの底で、他の紙とは明らかに違う重さを持っていた。
そっと広げて、蓮は息を呑む。
和紙の中央に、細い線で精緻な図面が描かれている。道と、川と、建物らしき四角。等高線のようなものも引いてある。しかし蓮には見覚えがない。神泉村の地図のはずだが、現在の道路がどこにもないのだ。役場も、バス停も、紬の家もない。
代わりに、今は存在しない場所が描かれている。
湖の底に沈んだ、旧神泉村の地図。
蓮は立ち上がり、和紙を窓の前に持っていき、夕暮れのわずかな光に透かした。橙色の西日が和紙の繊維を透過し、線がぼんやりと浮かび上がる。和紙越しに差し込む夕日は滲んで広がり、まるで濁った水の底から空を見上げているようだった。
線の密度は均一ではない。ある一箇所だけ、細い線が幾重にも交差し、不自然に濃くなっている。ただのインクの溜まりではない。意図的に、そこを指し示している。交点には、虫眼鏡でなければ読めないような小さな字で、こう記されていた。
『丹生神社』
現在、そこは数十メートルの水底のはずだった。
指先が、かすかに震える。和紙の端が、その震えに合わせて微かに揺れた。
そのとき、玄関の引き戸が開く音がした。
「おかえり」
と紬の声が響く。
「夕飯、持ってきた」
蓮は和紙を折りたたみ、手の中に握りしめた。
「紬」
と蓮は呼ぶ。
「ちょっと、来て」
廊下を歩いてくる足音。引き戸の向こうに紬の顔が現れ、蓮の手元を見る。
「何、それ」
「じいさんの遺品」
蓮は短く答える。
「たぶん、地図だ」
紬は部屋に入り、蓮の隣に立つ。二人で、窓の外の暗くなりかけた空を背景に、ふたたび和紙を光に透かした。紬の息が、冷えた空気の中で白く揺れる。
「……これ、今の村じゃない」
紬がつぶやく。
「ああ」
「湖の底の地図だ」
蓮は何も言わない。紬もしばらく黙っていた。二人の間で、和紙が静かに橙色の光を透過している。
「この濃い部分」
紬が和紙の一点を指先で示す。
「意図的に重ねてある」
「わかる?」
「写真撮ってるから、密度の差には敏感なんだよ」
紬は和紙から目を離さずに言った。蓮は改めてその一点を見つめる。たしかに、そこだけ線が微妙に重なり、他の部分より濃く描かれている。偶然ではない。幸三が意図を持って刻んだ、何かの目印。
「じいさんが隠したものが、ここにある」
蓮は言う。
紬は答えなかった。ただ、和紙を持つ蓮の手に、自分の手をそっと添えて、一緒に光に透かす。
村の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。水の底に沈んだ、もうどこにも存在しない村の姿。そして、交点が示す神社の座標。
風が、杉林を鋭く鳴らした。
第二章 ひび割れた湖床
和紙を折りたたんだまま、蓮はしばらく座卓の前に座っていた。
紬が持ってきた夕飯を二人で食べたが、会話はほとんどない。味噌汁の湯気だけが、この家でまだ生きているものの匂いがした。食事を終えてから、紬は和紙を広げて光に透かし、蓮は紙の地図帳を開く。それから二人は、かなり長い時間をかけて和紙を眺め続けた。
「和紙に、一つだけ変なところがある」
蓮が言うと、紬が顔を上げる。
「これ」
蓮は和紙の一点を指先で示した。
「四つ折りにされてるけど、ここだけ折り目が二重になってる。同じ場所を、二度折った跡だ」
紬はしゃがんで近づき、折り目を確認する。
「……意図的に、ここを強調した」
「そう。その折り目が交差する場所に、『丹生神社』って書いてある」
紬はしばらく黙ってから言った。
「幸三じいさんって、無口な人だったよね」
「ああ」
「でも、この村のことはよく話してた。昔の神社がどこにあったとか、どの山道が昔は生活道路だったとか。測量士だから、地形の記憶が細かかった」
「子供の頃、よく数字を教えてくれた」
蓮は和紙を見つめながら言う。
「角度とか、距離とか。仕事の呪文だって言って」
「覚えてる?」
「なぜか、ずっと覚えてる」
紬はしばらく黙ってからつぶやいた。
「じいさんは、わかってたんだと思う。蓮が来ることを」
その言葉が、夜の間もずっと蓮の頭の中に残る。
翌朝、食事を終えてから蓮は再び和紙の前に座り、地図帳を取り出した。
「コンパスで照合してみる」
紬は湯飲みを両手で包んだまま、黙って頷く。
問題は、現在の地図と和紙の地図では基準となる地形が根本的に違うことだ。現在の地図には神流湖がある。和紙の地図には、神流湖がない。ダムができたのは昭和四十三年。それ以前の川筋と集落の配置を手がかりに、二つの地図を重ね合わせなければならない。
山の稜線は水没しない。水は低いところを満たすだけで、高いところの形は変えない。それが基準点になる。
「この尾根の形、今も変わってないはずだ」
和紙の上に指を置き、対応する地形図の場所を探す。南東に伸びる稜線。その角度と曲がり方が、和紙の等高線と一致している。一点目が決まった。
「この曲がり方、神流川の旧河道と一致する」
紬が言った。
「昔の地形図で見たことがある」
旧河道は現在の湖底の下に沈んでいるが、地形図や国土地理院の二万五千分の一地図を見ると、川筋の名残が微妙に表れている。水深の差を読み取ることができるのだ。
「ここが旧河道の曲がり角だとすると……座標が二点決まる」
二点が決まれば縮尺と方位が割り出せる。和紙の縮尺と現在の地図の縮尺の比率を計算し、変換式を当てはめると、交点の現在座標が弾き出された。
地図の上で対応する場所を確認する。交点は——
湖底だった。水面の、ほぼ中央部。
「やっぱり、水の中か」
「今年は違う」
紬が静かに言った。
「今年だけは、底が出てる」
蓮は改めて手紙の文面を頭の中で辿る。
『すべてが干上がり、底が顔を出す前に、お前に見せたいものがある』
底が顔を出す前に、ではなく、底が顔を出したとき、という意味だったのかもしれない。祖父はこの渇水を、ずっと前から待っていたのだろうか。
窓の外、冬の昼の光が庭の柊の葉を白く照らしている。
◆◆◆
湖が、消えていた。
昼過ぎ、軽トラックでダムの堤体の上に立ったとき、蓮は最初そう思う。水面を探して視線を動かし、ようやく理解する。消えたのではない。底が、出たのだ。
神流湖の湖底が丸ごと露出し、どこまでも広大な泥の平原が広がっている。かつて水面だったその場所は、今や無数のひび割れに覆われていた。乾いた泥が亀甲状に割れ、その一枚一枚の端がめくれ上がっている。風が渡るたびに、めくれた泥の縁が乾いた音を立ててきしんだ。白く乾燥した地面が、冬の低い陽光を反射して鈍く光っている。
泥の平原の所々に、かつての痕跡が露出している。水没した県道のアスファルトが一直線に伸び、石垣の残骸、家屋の基礎のコンクリートが点在していた。そして数本の立ち枯れた木。幹が灰白色に変色し、枝を一本も残さないまま天へ向かって突き立っている。底から生えた骨のようだ。
「毎年、少しずつ水位が下がってた」
紬が言った。
「でも今年みたいに全部出たのは、初めて」
「写真、撮ってるのか。これを」
「去年の秋から。水位が下がるたびに来てた」
「なんで」
紬は一眼レフのファインダーを覗き込んだまま、少し間を置く。
「消えていくものを、撮りたかった。消えていく前に」
シャッター音が一度、鳴る。
蓮はその音を聞きながら、湖底を見下ろし続けた。
「この辺の人は、みんな複雑な気持ちで見てるんじゃないか」
「そう」
紬はカメラを下ろした。
「喜んでる人もいる。昔の家の跡を確認したくて、毎日湖底を歩いてるお爺さんもいる。逆に、見たくないって人もいる。底が出るたびに、ダム賛成派と反対派の話が蒸し返されるから」
「今でも、その話をするのか」
「する。何十年経っても、する」
紬の声は平坦だった。蓮はそれ以上聞かない。
荷台から長靴を取り出す紬の動きに、迷いがない。蓮の足元を一瞥すると、荷台の奥からもう一足、幸三が使っていたらしき大きめの黒い長靴を引っ張り出した。泥がこびりついた、古びた長靴。蓮は黙ってそれを受け取り、トレッキングシューズを脱ぐ。地面の冷たさが靴下越しに伝わってくる。長靴に足を入れると、内側がひんやりと湿っていた。ゴムの匂いと、泥の残り香が混ざっている。
「行こう」
紬はカメラを肩に下げ直し、湖底への降り口へ向かった。
◆◆◆
最初の一歩が、すべてを変える。
足の裏に、泥の重さが伝わってくる。決して固くはないが、足を取られるほど深く沈むわけでもない。乾いた表面の下に、まだ湿気を含んだ層がある。体重をかけるたびに、表面のひび割れた泥がぱきりと音を立てて割れ、その下の柔らかい層が長靴の底を包む。一歩ごとに微かに沈み、抜くたびにずっという音がした。
匂いがある。泥の、生臭い匂い。川の底に溜まった有機物の匂い。東京では嗅いだことのない匂いだ。
紬は慣れた足取りで先を歩いている。長靴の跡が、泥の上に点々と続く。蓮はその跡を踏みながら進んだ。
五分ほど歩くと、アスファルトの道路跡に出る。水没していた県道だ。路面は泥に覆われているが、下の舗装の固さがはっきりとわかる。
「ここ、昔は商店街だったって」
紬が言った。
「八百屋と、豆腐屋と、駄菓子屋があったって」
「じいちゃん、ここの出身なのか」
「そう。だから、水没には反対してた」
それ以上は言わない。蓮も聞かない。
歩きながら、蓮は足元の泥に残る跡を何気なく眺めていた。
自分たちの長靴の跡。そして、それより前についた別の跡。
待て。
蓮は立ち止まる。泥の上に、自分たちとは別の長靴の跡が残っている。一人分。向かっている方向は、旧・丹生神社の跡地だ。跡の縁が少し崩れているから、今日ではない。昨日か、一昨日か。底のパターンが特徴的で、菱形が並ぶ農作業用の長靴の跡。
誰かが、先に同じ場所へ向かっている。
「紬」
紬が振り返る。蓮は足跡を指差した。紬はしゃがんで跡を確認し、立ち上がる。その表情は変わらなかったが、歩く速度が少しだけ上がった。
平原の中央部に近づくにつれ、泥の色が変わっていく。灰褐色から黒褐色へ。乾燥しきっていない証拠だ。足を抜くたびに、泥が名残惜しそうに長靴の底を引き留める。
そのとき、蓮は気づく。
ガラスの感覚が、ない。
足の裏に泥の重さがある。頬に風が当たる。肺の中に、この湖底の匂いが満ちている。
「何か踏んだ?」
紬が振り返る。
「いや」
蓮は首を振った。
「なんでもない」
紬はしばらく蓮の顔を見てから、また前を向く。
「もうすぐだよ」
◆◆◆
旧・丹生神社の跡地は、湖底の中でも少し高い場所にあった。
周囲より一段盛り上がった台地状の地形。かつての境内の石段が、泥の中から半分ほど顔を出している。石の表面は白く変色し、苔が剥がれ落ちていた。鳥居はない。倒れたか、撤去されたか。石段の先に平らな地面が広がり、そこだけ雑草の枯れた茎が密集して残っている。
石段の脇の泥に、足跡があった。さっき県道跡で見たのと同じ、菱形パターンの農作業用長靴の跡。石段を上り、境内へ入り、また下りていく。一人分。
蓮は石段を上り、境内跡へ足を踏み入れた。枯れた茎が長靴の底でかさかさと折れる。
和紙の交点に最も近い場所へ近づいたとき、足が止まった。
地面の色が、周囲と違う。
一メートル四方ほどの範囲だけ、泥の色が濃い。周囲より暗く、湿っている。表面のひび割れ模様も、その部分だけ浅い。乾燥が浅いということは、最近まで表面が露出していなかった、ということだ。
掘り返されている。
「紬」
紬がすぐに近づく。二人はしゃがみ込み、地面をよく見た。
「最近だ」
紬が泥の感触を指先で確かめながら言う。
「足跡のエッジがまだ崩れきってない。一週間も経ってない」
「誰が」
「わからない。でも」
紬は立ち上がり、足跡を目で追う。
「この足跡の主だと思う。底のパターン、さっきのと同じだから」
蓮は頷いた。菱形パターン。県道跡からここまで、同じ跡が続いていた。
「この場所、知ってたってことか」
「そう。和紙の地図を見ないと、ここには来られない。湖底のどこに神社があったか、普通は知らないから」
蓮はスコップで掘り始めた。三十センチ。五十センチ。七十センチ。
空だった。
黒い泥が、穴の壁からじわりと滲み出している。
「取り出したんだと思う」
紬が静かに言う。
「埋め戻してるから。空だとわかってて埋め戻さない人間はいない」
「なんで埋め戻したんだろ」
「誰かに気づかれたくなかったから。それか、まだここに来る人間がいると知っていて、その人間に気づかれたくなかった」
その人間とは、蓮のことかもしれない。あるいは、紬のことかもしれない。
祖父の家へ戻ったのは、日が完全に落ちた頃だった。
玄関を入ると、昨日と同じ匂いがする。埃と、木と、線香の残り香。しかし今は、その匂いに泥の匂いが混じっていた。自分たちが持ち込んだ、湖底の匂いだ。
薪ストーブに火を入れる。細い棒の先に火が灯り、薪が赤く燃え始めるまでの間、蓮はしゃがんだままストーブの炎を見つめていた。
「あの足跡の主が、和紙の地図を持ってるとしたら」
紬が言った。
「じいさんから直接渡された可能性がある」
「か、じいさんが誰かに話してたとか」
「手紙を書いたかもしれない。蓮に書いたように」
複数の人間に、手紙を送った。その可能性がある。
「遺品、もう一回全部見直してみる」
紬は頷き、押し入れの段ボール箱を引き出し始める。ストーブの温もりが、少しずつ部屋に広がっていく。
三つ目の箱を開いたとき、蓮の手が止まった。
箱の底に、錆びた缶が一つ。蓋は固く閉まっている。振っても、音がしない。
「何が入ってんの、それ」
「わからない」
蓮は缶の蓋を慎重にこじ開ける。
中から出てきたのは、茶色く変色した封筒だった。封筒の表面には何も書かれていない。封はされていなかった。
蓮は中身を取り出す。
古い写真だった。白黒で、紙の縁が黄ばんでいる。何枚かが重なり合っている。粒子の粗いモノクロームの画面に、薬品の匂いが微かに残っていた。
一枚目。山の稜線と、川と、集落の全景。今とは微妙に違う、湖底に沈む前の神泉村だ。
二枚目。三枚目。風景が続く。
そして四枚目で、蓮の手が止まる。
若い男が三人、土を掘っている。その足元に、大きな木箱があった。
「紬」
「何」
紬が覗き込む。
「……これ、じいさんじゃないか」
写真の中の若い男。二十代か三十代。測量用の野帳を脇に抱えている。
若い幸三だった。
「もう一人は」
隣に立つ男には見覚えがない。そして三人目。
顔の部分だけが、鋭利なもので削り取られていた。
紬の息が、止まる。
「誰かが、削った」
蓮はつぶやく。
「意図的に、顔だけ」
風が、杉林を鳴らした。
第三章 鬼石の廃写真館
写真を、もう一度見直す。
翌朝、蓮は座卓に写真を並べ、一枚一枚を確認する。白黒で、紙の縁が黄ばんでいる。薬品の匂いが微かに残っていた。一枚目から三枚目は風景写真。四枚目に、木箱を埋める三人の男。そして、削り取られた顔。
紬が茶を持ってくる。
「この写真、どこで現像したんだろ」
「さあ」
紬は写真を覗き込む。
「でも四十年前にこの辺で現像できる店って、マツダ写真館しかないと思う。うちのじいちゃんがよく頼んでたって言ってたし」
「そこが現像したとしたら、当時のことを知ってる」
「そうなる」
蓮は四枚目の写真を手に取った。削り取られた顔の輪郭。肩幅の広い男。
「紬」
「何」
「この削られた顔、見覚えない?」
紬は写真を受け取り、しばらく見つめた。それから、少し間を置いてから言う。
「……わからない。でも、なんか気になる」
「気になる、って」
「うまく言えない。なんか、見たことあるような気がするけど」
紬は写真をテーブルに置いた。
「輪郭だけじゃ、はっきりしない」
「松田さんなら、わかるかもしれない」
「行ってみる価値はある」
紬は立ち上がった。
「でも」
立ち上がりかけて、止まる。
「なんで幸三じいさんは、顔を消したんだろ。この写真を持ってたのはじいさんだ。消したのもじいさんだとしたら、消したかった理由がある」
「木箱の中身と関係してるのかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、絶対関係してる」
紬の声に、珍しく確信があった。
「じいさんは何かを守ろうとした。この写真を残しながら、顔だけ消すって、そういうことだと思う」
蓮は写真を見る。
幸三が守ろうとしたもの。それが何かはまだわからない。
鬼石への道は、神流川に沿って南へ下る。川底の石が、冬の朝の光に白く光っていた。
「松田さんって、どんな人なの?」
「寡黙な人」
紬はハンドルを切りながら言う。
「でも、写真のことになると話が長くなる。じいちゃんとの関係はよく知らないけど……ダム賛成派と反対派が割れてた時代に写真館やってたってことは、どっちの人間も撮らないといけなかったはずだ」
「中立、か」
「どっちの味方もできない、って言った方が正確かもしれない。中立って言葉、きれいすぎるから」
蓮はそれ以上聞かない。
橋を渡ると、景色が変わった。古い商店街の建物が見えてくる。シャッターの下りた店が多いが、所々に営業中の看板がある。
「あそこ」
『マツダ写真館』。紺地に白い文字。看板の端が錆びて、文字の一部が剥げている。ショーウィンドウには色褪せた婚礼写真と、七五三の記念写真。どちらも、かなり古いものだ。
軽トラックを路肩に停め、二人は店の前に立つ。
ここに来て正解かどうか、まだわからない。
◆◆◆
ドアを開けると、古い木とケミカルの匂いが混じった空気が流れ出す。懐かしいような、それでいてどこか刺激のある匂い。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の男が顔を上げた。七十代、眼鏡、作業着。手元に虫眼鏡を持ち、何かの写真を確認していたらしい。
「松田さん、久しぶりです」
紬が言う。
「紬です。鳥居紬。神泉の」
男は眼鏡の奥の目を細めた。
「ああ、紬ちゃんか。大きくなったねえ」
少し間を置いてから、男が口を開いた。
「幸三さんのこと、聞きましたよ。残念でしたねえ」
「ありがとうございます」
「こちらは?」
「幸三さんの孫の蓮さんです」
松田は蓮を見た。値踏みするような視線ではなく、何かを確かめるような目だ。
「幸三さんの孫か」
静かに言う。
「目元が、似てますねえ」
蓮は封筒を取り出した。
「あの、祖父の遺品から出てきた写真なんですけど。見ていただけますか」
松田は封筒を受け取り、中身を取り出す。一枚ずつ丁寧に確認していく。
一枚目。二枚目。三枚目。
四枚目で、手が止まった。
長い沈黙が落ちる。
「松田さん」
紬が静かに言う。
「この写真、ご存知ですか」
松田は眼鏡を外し、写真を近づけて見る。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「知ってます」
「現像したのは、松田さんですか」
「そうですねえ」
松田は写真をカウンターに置く。
「四十年以上前のことです。わたしが現像して、幸三さんに渡した」
「渡したときは」
蓮は一歩前に出た。気づいたら、前のめりになっていた。
「顔は、残ってましたか」
「残ってました」
蓮の喉が、少し詰まる。
「じゃあ、誰かが後から削ったってことですよね」
「そういうことになりますね」
「松田さん」
紬が写真の削られた箇所を指差した。声が、一段低くなっている。
「この人物に、心当たりはありますか」
松田はまた沈黙した。店の外で、風が古い看板を鳴らす音がする。
「ある」
松田はゆっくりと言った。
「でも、わたしの口からは言えません」
「なんで」
「その人がまだ生きているから、です」
紬の顔色が、かすかに変わった。蓮は気づいたが、聞かない。
◆◆◆
「茶でも飲んでいきなさい」
松田はカウンターの下から湯飲みを二つ取り出した。促されるまま、二人はカウンター脇の古い椅子に腰を下ろす。
壁には額縁入りの写真が何枚も掛かっていた。風景写真、人物写真、祭りの写真。その一枚に、見覚えのある山の稜線が写っている。神泉村の山だ。
「幸三さんとは、長い付き合いでしてねえ」
松田は湯飲みを二つ並べながら言う。
「ダムができる前から知ってます」
「ダムができる前から、ですか」
「そう。あの頃は、みんな若かった……」
松田は自分の湯飲みを両手で包み、少し遠くを見るような目をした。窓の外、冬の低い陽光が山の稜線を照らしている。
「あの稜線の形は、昔から変わらんねえ」
松田がぽつりと言った。
「村が沈んでも、山だけは変わらない」
蓮はその言葉を、なぜか頭の片隅に留めた。
「ダムの話が出たとき、村は真っ二つに割れた」
松田は続ける。
「賛成派と反対派。家族の中でも意見が分かれて、口を利かなくなった人たちもいましたよ。幸三さんは賛成派の中心にいた。声の大きい方でねえ」
「じいちゃんは反対派でした」
紬の声が、少し変わった。低く、平坦だが、その奥に何かがある。
「ずっと反対してた。補償金も受け取らなかった。お金を受け取るのは村を売ることだって、死ぬまでそう言ってた」
松田は紬を見た。静かな目で。
「そうですねえ……」
「松田さんは?」
「わたしは……」
松田は少し笑った。
「どちらの味方もできなかった。したくなかった、というのが正直なところですかねえ」
「したくなかった、じゃなくて」
紬は湯飲みを置いた。
「できなかった、でしょう。どっちかの味方をしたら、どっちかの写真が撮れなくなる。商売だから」
松田は答えない。否定もしなかった。
「幸三さんは補償金を受け取るよう、村中を説得して回った」
松田は続ける。
「それが反対派には許せなかった。裏切り者だって。でもね、わたしはずっと不思議に思ってましてね。幸三さんが、なぜそこまでしたのか」
「なぜ、ですか」
「幸三さんは、誰よりもこの村を愛してた人だった。その人が、なぜ村を沈めることに賛成したのか……」
松田の声が、静かに途切れる。
その問いに、蓮はまだ答えられない。
「松田さん」
蓮は少し前のめりになった。
「幸三の遺品から、写真以外にも何か出てきたんです。和紙の地図で……湖底に沈んだ村の地図で、丹生神社の場所が印されていた」
松田の手が止まる。ゆっくりと振り返り、蓮の顔を見た。
「丹生神社……」
「ご存知ですか」
「知ってます」
松田はゆっくりと言う。
「あそこに、木箱が埋まっているはずだった」
「はずだった、というのは」
「今は、ないかもしれません」
「木箱に、何が入っていたんですか」
松田は一度黙った。現像室のドアに手をかけ、少し止まる。
「村人たちが、互いに宛てて書いた手紙の束です。賛成派も、反対派も、みんなが。面と向かっては言えなかったことを、紙に書いて、木箱に入れた。和解の証として、神社の跡地に埋めるはずだった」
「はずだった、というのは」
「埋める前に、村が沈んだ。でも幸三さんたちは……」
松田の言葉が、そこで止まる。
「幸三さんたちは、なんですか」
しかし松田は現像室のドアを開け、中へ入っていく。
「それ以上は、わたしの口からは言えません」
ドアが閉まった。
紬が小さく舌打ちする。
◆◆◆
しばらく店内で写真を見直した。
「この崖」
紬が一枚の写真を持ち上げた。遠景に、切り立った崖が写っている。
「県境のあたりじゃないか」
「そうですねえ」
松田がカウンター越しに言う。
「あの辺は昔から、岩が風化して穴が開いてるところがあってね。地元の子供たちが探検に行ったりもした」
蓮は崖の写真を頭の片隅に収め、木箱の写真に戻る。
「松田さん」
蓮は写真を持ち上げた。
「もう一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「松田さんは、木箱に何が入っているはずだった、とおっしゃいました。はずだった、って。中身をご存知だってことですよね」
松田は蓮を見る。少し目を細める。
「鋭いですねえ」
静かに言った。
「幸三さんに似てる。目元だけじゃなくて」
「三人の男が木箱を埋めてる写真。一人は幸三。一人は顔を削られた人物」
蓮は三人目の男を指差した。
「この人、松田さんに似てる。若い頃の」
沈黙が落ちる。長い、沈黙だった。
「写真代は結構です」
松田はカウンターを拭きながら言った。
「幸三さんには、世話になりましたから」
写真館を出ると、夕暮れの商店街に二人の足音だけが響く。
「なんなんだよ、あの人」
紬が歩きながら言う。声に苛立ちが滲んでいる。
「知ってるのに言わないって」
「言えない理由があるんだと思う」
「わかってる。でも、もどかしい」
紬は足を速めた。
「しかも自分が三人目の男なのに、しらばっくれて」
「しらばっくれてたわけじゃないと思う」
「じゃあなんで認めないんだよ」
「……まだ、怖いんじゃないか」
蓮は少し考えてから言う。
「四十年前のことが。今さら表に出ることが」
紬は足を止めない。でも、少し黙った。
「松田さんが木箱の中身を知ってたのは、自分も関わってたからだ」
蓮は続ける。
「三人で一緒に埋めようとしてた。でも、村が沈んだ。それで、終わらなかった」
「顔を消したのも松田さん自身か」
「たぶん。自分が関わってたとわかると困る理由が、何かあった」
「でも写真は捨てなかった」
紬がつぶやく。
「幸三じいさんに渡した」
「捨てられなかったのかもしれない。それか……」
軽トラックが見えてくる。
蓮は足を止める。
「荷台」
紬が振り返る。荷台に、泥の跡がついている。長靴の跡。自分たちが来る前にはなかったもの。
「誰かが乗り込んだ」
「いつの間に」
紬の顔が険しくなる。
「ずっと店の中にいたのに」
蓮は荷台を確認した。封筒が動いている。写真の順番が、変わっていた。
「見られた」
「写真を」
紬は低い声で言った。
「わざわざ戻してった。気づかせるために」
二人は顔を見合わせた。
この写真が誰のものか、誰かが知っている。そしてその誰かは、蓮たちが何を探しているかも、知っている。
夕暮れの空が、橙色から深い紫へと変わっていく。
第四章 空白のタイムカプセル
荷台の足跡が、ずっと頭に残っている。
誰かが写真を見た。順番を変えて、戻す。気づかせるために。
偶然ではない。自分たちが店にいる間に、待っていたということだ。待っていたということは、跡をつけていた。いつから。神泉村を出たときから? それとも、もっと前から?
翌朝、蓮は神川町の図書館へ向かう。
紬は助手席で黙っていた。昨夜から、口数が少ない。荷台の足跡を見てから、何かが変わった気がする。しかし蓮には、まだその理由がわからなかった。
「図書館に、当時の地方紙のマイクロフィルムがあるはずだ」
蓮は言う。
「ダム建設の前後、何があったか。記事を当たってみたい」
「……うん」
「紬、大丈夫?」
「大丈夫」
大丈夫じゃない声だったが、蓮はそれ以上聞かない。
神川町立図書館は、国道沿いの古い建物だった。平日の午前中、利用者は少ない。司書に案内されたマイクロフィルム室は、窓のない小さな部屋で、機械の駆動音だけが静かに響いている。
「昭和四十年代のものが見たいんですけど」
「下久保ダム関連ですか」
司書の女性が言った。
「よく調べに来る方がいますよ」
蓮は少し引っかかる。
「最近も?」
「先週、お一人来られました。七十代くらいの男性でしたね」
紬が蓮を見る。蓮も紬を見た。
二人は何も言わなかった。
マイクロフィルムを機械にセットし、画面を送っていく。昭和四十年、四十一年、四十二年……。ダム建設が決まった頃の記事が、次第に増えていく。
小さな活字が、白黒の画面に広がっている。
補償金交渉。移転先の選定。水没予定地の測量。蓮はページを送りながら、頭の中で時系列を組み立てていく。プログラマーとしての癖が出た。データを並べ替え、パターンを探す。感情ではなく、構造を見る。
「ここだ」
思わず声が出た。
『水没地区住民、補償交渉で合意――賛成派・反対派、異例の和解へ』
紬が身を乗り出す。
「和解の記事だ」
「読む」
記事を丁寧に追った。ダム建設を巡って二年以上対立してきた賛成派と反対派が、交渉の末に合意に達した。補償金の受け取りについて、賛成派・反対派双方が納得できる条件が整ったという。
そして、記事の後半に、こう書かれていた。
『和解の証として、両派の代表者が共同でタイムカプセルを作成し、水没前の丹生神社跡地に埋める計画があると関係者は語る。カプセルには、村人たちが互いに宛てた手紙が収められる予定だという』
「タイムカプセル」
紬がつぶやく。
「松田さんが言ってた。村人たちが互いに宛てた手紙の束、って」
「一致してる」
蓮は画面を見つめた。計画、とある。計画だ。実際に埋めた、ではない。
「でも、埋める前に村が沈んだ」
「そういうこと」
紬は腕を組む。
「だから『幻の』タイムカプセルだ」
しかし、松田は言っていた。今は、ないかもしれない、と。
つまり誰かが、後から別の場所に埋めた。
「幸三じいさんたちが、村が沈む前に埋めた」
蓮は言う。
「計画通りじゃなくても、自分たちで実行した」
「丹生神社の跡地に」
「でも誰かに取り出された」
二人は同時に黙った。
取り出した人間は、今もこの辺にいる。足跡の主と同一人物かもしれない。松田が口にできないと言った、生きている人物。
蓮はページを送り続ける。
◆◆◆
記事を読み進めていくと、少しずつ全体像が見えてきた。
ダム建設を巡る対立は、単純な賛否ではなかった。村を離れたくない人間。補償金を受け取って新しい生活を始めたい人間。土地への愛着と、現実的な生活の問題。そのせめぎ合いが、記事の行間から滲み出てくる。
「これ見て」
蓮は画面の一点を指差した。
「賛成派の代表者として名前が出てる」
『賛成派代表・桐島幸三氏』
幸三の名前が、活字になっていた。
紬はその名前を見て、少し唇を噛む。
「じいさんが代表だったんだ」
「反対派の代表者も出てるはずだ」
蓮はページを送る。
「この記事の少し後に……」
見つかった。
『反対派代表として交渉の中心を担ったのは、強硬な姿勢で知られる――』
蓮は読み続けた。記事の内容が、頭の中でパズルのように組み合わさっていく。
タイムカプセルの計画は、両派が合意した証だった。補償金の受け取りについて、賛成派の幸三が粘り強く交渉した結果、反対派も納得できる条件が整った。それを記念して、共同でカプセルを作ることになった。
しかし、記事には続きがあった。
合意の直後、計画が頓挫しかけた。反対派の一部が「やはり受け取れない」と再び反発した。幸三は一人で各家を回り、説得を続けた。
なぜ、そこまでしたのか。
記事には、その答えがなかった。
幸三が補償金の受け取りを村人たちに勧めたのは、ダムを歓迎していたからではない。村が沈むことは変えられない。ならば、村人たちが新しい生活を始められるよう、少しでも条件を整えたかったのだ。
「じいさんは」
蓮は言いかけて止まる。
「何」
「悪役を演じたんじゃないか。わざと。反対派から裏切り者と呼ばれることを、わかってやった」
紬は黙った。
「村人たちに補償金を受け取らせるには、誰かが先頭に立って賛成を叫ばないといけなかった。その役を、じいさんが引き受けた」
「……そんなこと」
紬の声が、少し掠れた。
「証拠は?」
「ない。でも」
蓮は画面を見た。
「じゃあなんで、誰よりもこの村を愛してた人が、賛成派の中心にいたんだ」
紬は答えない。
部屋の外で、図書館の静かな空気が流れている。
◆◆◆
ページを送り続けた。
昭和四十三年。村が水没する直前の記事が増えていく。移転先での新生活。水没記念式典。そして、タイムカプセルの計画が再び動き出したという短い記事。
蓮は目を細める。
埋めた、とある。計画通りではなかったが、村が沈む直前に三人で実行した、と。
三人。
「三人で埋めた」
蓮はつぶやく。
「写真に写ってた三人だ。幸三、松田さん、そして顔を削られた人物」
「誰だろ、三人目」
「この記事に名前が出てるかもしれない」
蓮は記事を丁寧に読んだ。タイムカプセルについての記述は短い。しかし、その末尾に一行だけ、こう書かれていた。
『埋設作業には賛成派代表・桐島幸三氏、写真館主・松田一郎氏、そして反対派代表・鳥居忠雄氏の三名が立ち会ったとされる』
部屋の空気が、変わった。
紬が、固まっている。
画面から目が離せない。鳥居忠雄。鳥居、という苗字。紬と同じ苗字。
「紬」
返事がない。
「紬」
「……うん」
「鳥居忠雄って」
紬は答えなかった。しかし、その沈黙が答えだった。
蓮はもう一度、画面の名前を見た。
反対派代表・鳥居忠雄。
紬の苗字は、鳥居だ。
「じいちゃん、か」
紬の喉が、かすかに動いた。
「……じいちゃんの名前、忠雄っていうんだ」
低い声で、震えていた。
「じいちゃんが、一緒に埋めた」
紬は続けた。
「幸三じいさんと。あんなに対立してたのに」
「松田さんが間に入ったのかもしれない」
「でも」
紬は画面を見つめたまま、続ける。
「じいちゃんはずっと、幸三じいさんのことを裏切り者だって言ってた。それは、本当のことじゃなかったってこと? それとも、一緒に埋めた後でまた対立したってこと?」
蓮には答えられなかった。
「じいちゃんに聞かないといけない」
「紬――」
「帰る」
紬は立ち上がった。椅子が、床に当たって音を立てる。
「今日はもう、帰る。一人で考えたい」
「待って」
「待てない」
紬はドアを開け、部屋を出ていった。廊下に足音が遠ざかっていく。蓮は画面を見た。鳥居忠雄という名前が、白黒の活字で静かに輝いている。
紬の祖父は、幸三と一緒にタイムカプセルを埋めた。
そして、写真の顔を削り取った人物が、この三人の中にいる。
◆◆◆
蓮は立ち上がる。
マイクロフィルムを機械から外し、ケースに戻す。机の上に広げていたメモを手に取り、図書館を出た。
駐車場に、軽トラックがない。
「紬っ」
声が出た。駐車場を見回す。いない。もう出ていった。
蓮は走る。
国道に出ると、水色の軽トラックが遠ざかっていくのが見えた。信号で止まっている。蓮は全力で走った。息が切れる。冬の空気が、肺に刺さるように冷たい。
信号が変わる直前に、助手席のドアを引く。
「乗せて」
紬は前を向いたまま、何も言わなかった。しかし、ドアのロックは外れていた。
蓮は乗り込んだ。荒い息のまま、シートベルトを締める。軽トラックが走り出した。
しばらく、沈黙が続いた。
国道を外れ、山道に入る。カーブのたびに木々が迫り、空が狭くなっていく。
「ごめん」
紬が言った。
「急に出ていって」
「いや」
「でも、頭が整理できなくて」
「わかる」
「じいちゃんが幸三じいさんと一緒にいた、なんて思ってなかった。ずっと敵だと思ってたから」
蓮は窓の外を見た。冬の山の稜線が、白い空に縁取られている。
「一つ、聞いていいか」
「何」
「忠雄さん、今も神泉村にいるんだよな」
「いる。山の上の方に、一人で住んでる。もう何年も、村の人間とほとんど話してない」
「会いに行けるか」
紬は少し間を置いた。
「……行ける。でも、じいちゃん、人と話すのが嫌いで」
「断られても構わない。行くだけ行ってみたい」
紬はハンドルを握ったまま、前を向いていた。その横顔に、何かを決める色が出てくる。
「わかった」
それだけ言って、紬はカーブにハンドルを切った。
山道をさらに奥へ進んでいくと、古い民家が見えてきた。板張りの外壁、急勾配の屋根、窓に下りた古い雨戸。軽トラックを停めると、風の音だけが聞こえた。
煙が出ている。誰かがいる。
「じいちゃん」
紬が声をかけた。
「紬だよ。ちょっと、話したいことがあって」
しばらく、何も起こらなかった。
それから、引き戸が開く。
八十代に近い老人が顔を出した。白髪で、背が高く、かつては体格がよかったことがわかる骨格をしている。写真の削り取られた輪郭と、重なった。
老人は紬を見た。それから蓮を見た。蓮の顔を見た瞬間、その目が変わった。
「お前は」
老人は低い声で言った。
「幸三の孫か」
「はい」
老人はしばらく黙っていた。風が、枯れ草を揺らす音がする。
「……入れ」
老人は引き戸を開けたまま、中へ入っていった。
蓮と紬は顔を見合わせた。
これが、始まりだ。
第五章 レンズ越しの真実
忠雄の家の中は、静かだった。
古い囲炉裏の部屋。天井が低く、梁が黒く煤けている。窓から差し込む冬の光が、土間の石を白く照らしていた。忠雄は囲炉裏の前に座り、背筋を伸ばしたまま、黙って火を見つめている。
蓮と紬は向かいに座った。
誰も、最初の言葉を出さない。
火が、静かに燃えている。
「幸三の孫が来るとは思わなかった」
忠雄はやがて、火を見たまま言った。
「いつかは来ると思っていたが」
「いつかは、というのは」
蓮は問い返す。
「幸三が死んだと聞いたとき、そう思った。あいつが遺したものを、孫が探しに来ると」
「遺したもの、って」
「和紙の地図だ」
蓮の背筋が、伸びる。
「知ってるんですか」
「知ってる」
忠雄は初めて蓮を見た。
「あの地図を作ったのは、幸三だ。わたしと松田に渡す前に、孫のお前用にも一枚作っておいたと言っていた」
「でも幸三じいさん、蓮に何も言わなかったじゃないか」
紬が口を開く。声は平静を保っているが、その奥に何かが渦巻いていた。
「手紙すら、じいさんが死んでから読んだんだよ」
「そういう人間だ、幸三は」
忠雄は短く言った。
「言葉より、仕掛けで話す。お前の祖父がそういう人間だということは、お前が一番よく知っているだろう」
紬は黙った。
「丹生神社の跡地は、もう掘りましたか」
蓮は聞く。
「掘った」
「空でした」
「そうだ。わたしが取り出した」
はっきりと言った。隠すつもりはない、という目だった。
「なぜ」
「幸三が死んだからだ」
忠雄は火に視線を戻す。
「あいつが死んで、あのカプセルを開けられる人間がいなくなった。このまま誰かに見つかっても、意味がわからないまま終わる。それは嫌だった」
「今、どこにあるんですか」
「ここにある」
忠雄は立ち上がり、押し入れを開けた。古い木箱が出てくる。写真に写っていた、あの木箱だ。六十センチほどの、板張りの箱。南京錠がかかっている。
紬の息が、止まる。
「開けてください」
蓮は言った。
「開けられない」
「なぜ」
「鍵を知っているのは、幸三だけだった」
忠雄は木箱を囲炉裏の前に置いた。
「わたしと松田は、鍵を知らない。幸三が一人で設定した。孫が来たときに開けさせるつもりだったのかもしれない」
蓮は木箱を見る。南京錠は古いが、頑丈そうだ。
「鍵は、数字か言葉か」
「数字だ。四桁だと聞いた」
四桁の数字。
蓮の頭の中で、何かが動いた。
「仕事の呪文」
蓮はつぶやく。
「何」
紬が聞く。
「じいさんが子供の頃の俺に教えてくれた数字。角度と距離の数値だった。意味はわからないまま、ずっと覚えてる」
「試してみろ」
忠雄が言った。
蓮は南京錠に手を伸ばす。幸三が教えてくれた数字を思い出す。囲炉裏の火が、手元を照らしている。
ダイヤルを回す。
カチ、と音がした。
南京錠が、開く。
◆◆◆
木箱の蓋を、蓮はすぐには開けなかった。
横に座っている紬を見る。紬は木箱を見つめたまま、動かない。唇を少し噛んでいる。
「開けていいか」
蓮は聞いた。
「……うん」
蓋を持ち上げる。
中には、松田が言っていたような「手紙の束」は、なかった。
空洞の底に、一通だけ封筒がぽつんと置かれている。
宛名は、蓮へ、とある。
幸三の筆跡だった。
紬が、小さく息を吸う。
「読んで」
忠雄が言った。
「ここで読め」
蓮は封筒を開けた。便箋一枚。几帳面な測量士の字で、こう書かれていた。
『蓮へ。
お前がこの箱を開けたということは、あの交点の座標を解いたということだ。よくやった。
だが、ここはダミーだ。わしが本当に残したかったものは、こんな分かりやすい場所にはない。
証拠は、お前がすでに持っているはずだ。よく見ろ。
幸三』
蓮は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
火の音だけが、部屋に満ちている。
「手紙の束は……ないんですか」
蓮はやっと言った。
「やはりな」
忠雄は微かに笑う。
「あいつが素直に真実を渡すわけがないと思っていた」
忠雄が茶を入れ直す。部屋の空気が、少し柔らかくなった。
「一つ聞いていいですか」
蓮は忠雄に言った。
「幸三と、なぜ対立し続けたんですか。一緒にカプセルを埋めたのに」
忠雄はしばらく黙った。
「意地だ」
やがて、ぽつりと言う。
「わかってた。幸三が悪役を演じていることは、途中からわかっていた。わかっていて、それでも許せなかった。あいつが笑って裏切り者と呼ばれていることが、腹立たしかった」
「なんで腹立たしいんですか」
紬が言った。
「守ってくれてたんでしょう」
「そうだ」
忠雄は孫娘を見た。
「だから腹が立つ。守られていた側の人間は、感謝しながら、同時に屈辱を感じる。お前の母親が出ていったのも、そういうことだ」
紬の顔が、一瞬動く。
「お母さんの話は、しないでください」
「するつもりはない」
忠雄は言った。
「ただ、お前に知っておいてほしかっただけだ。あの子が出ていったのは、わしのせいだ。お前を守るためだったと、わしは今でも思っている」
紬は黙った。膝の上で、手が少し震えていた。
蓮は何も言わなかった。ただ、その場にいた。
「紬」
蓮はやがて、静かに言った。
「何」
「写真、撮ってるのって、直視し続けるためだって言ってたよな」
「……うん」
「俺はずっと、逆だった。見ないようにしてた。ガラスの向こうから眺めてた」
紬は蓮を見た。
「だから俺には、お前が必要だ」
蓮は続ける。
「お前がカメラで見ているものを、俺は素手で触りたい。そのためには、お前が隣にいないといけない」
しばらく沈黙があった。
忠雄が、ふたたび微かに笑う。
「幸三に似てるな」
老人は言った。
「言葉より、仕掛けで話す、と言ったが。たまには直接言う人間でもあった」
紬は前を向いた。目が、少し赤くなっている。でも、声はいつもの紬だった。
「仕掛けの方が多かったけどね、じいさんは」
「そうだ」
忠雄は笑った。
「まったく、最後まで面倒な男だった」
◆◆◆
忠雄の家を出たのは、昼過ぎだった。
軽トラックに乗り込み、二人はしばらく黙る。山道を下りながら、枯れ草の斜面が窓の外を流れていく。
「さっきの、本気?」
紬が前を向いたまま言った。
「何が」
「俺には、お前が必要だ、って」
「本気だよ」
紬は少し間を置く。
「……私も、そう思ってた」
「何が」
「蓮がいると、撮れる写真が変わる気がする。一人で撮ってると、どうしても怖いものから目を逸らしたくなる。でも蓮が隣にいると、逸らさなくていい気がする」
蓮は窓の外を見る。白い空と、枯れ草の色。
「なんで」
「蓮は逸らさないから」
紬は言った。
「怖いとか怖くないとかじゃなくて、ただそこにある、って顔で見てる。それが、私には眩しい」
蓮は何も言わなかった。
祖父の家に戻ると、蓮は遺品の写真を広げた。
『証拠は、お前がすでに持っているはずだ』
幸三の手紙の言葉が頭をよぎる。すでに持っているもの。この写真のことしか考えられない。
木箱の写真。三人の男。そして削り取られた顔。
何かが引っかかっていた。昨日から、ずっと。何だろう。
写真を一枚ずつ、もう一度見直す。風景写真。山の稜線。川。そして木箱を埋める場面。
そこで、蓮の手が止まった。
「紬」
「何」
「これ、何時頃の写真だと思う」
紬が覗き込む。
「朝、じゃないか。光の感じが」
「そう。朝焼けの光だ」
蓮は写真の影を指差した。
「影が西に伸びてる。太陽は東にある。つまり、朝だ」
「それが?」
「和紙の地図が示す交点、丹生神社の跡地、俺たちが掘った場所、あそこは湖底のほぼ中央だ」
蓮は写真と頭の中の地図を照らし合わせる。
「でも、この写真を見ると、背景に稜線が見える。あの稜線の位置、湖底の中央から見える稜線じゃない」
「どういうこと」
「この写真が撮られた場所は、丹生神社の跡地じゃない」
紬が、写真を手に取った。背景の稜線を確認する。目が鋭くなっていく。
「確かに」
紬はつぶやく。
「この稜線、湖底から見えるはずがない。もっと南側、川を挟んだ向こう岸から見える形だ」
「向こう岸」
蓮は地図を広げる。
「旧採石場の跡地があるあたり」
「ダミーだったんだ」
紬は写真から顔を上げた。
「丹生神社の交点は、ダミーだ。本当の場所は」
「旧採石場」
二人は同時に地図を見る。
川を挟んだ向こう岸。湖底ではなく、岸辺に近い場所。
「忠雄さんが取り出したのは、ダミーの場所のものだった」
蓮は言う。
「でも本物は、まだそこにある」
「まだ、誰も掘ってない」
部屋に、静かな興奮が広がった。
◆◆◆
「待って」
紬が地図を見ながら言った。
「旧採石場って、今は湖に沈んでるんじゃないか」
「渇水で出てるはずだ」
「確認しよう」
紬は地図帳で地形図を確認した。現在の神流湖。干上がった湖底。旧採石場の位置を確認する。
「出てる」
紬は地図帳を蓮に見せた。
「岸辺に近いから、湖底の中央より先に露出してる。今なら、行ける」
「でも、問題がある」
蓮は言った。
「何」
「俺たちが旧採石場に向かうのを、誰かが知るかもしれない。荷台の足跡の主が、まだ俺たちを追ってる可能性がある」
紬は少し考える。
「追わせればいい」
「え?」
「追わせて、先に着く。それだけだ」
紬は地図を折りたたんでポケットに入れた。
「ぐずぐず考えてる時間はない。台風が来る前に、湖に水が戻る前に、掘り出す」
蓮は紬を見る。
さっきまで目が赤かった紬が、今は前だけを見ている。迷いがない。怖がっていない。ただ、やるべきことを見据えている。
「行こう」
蓮は立ち上がった。
「待って、スコップ」
「ある」
「長靴」
「ある」
「じゃあ行こう」
二人は家を出た。軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。夕方の光が、山の稜線を橙色に染めていた。
「一つだけ確認させて」
蓮は言った。
「何」
「俺たちが本物を見つけたとして、手紙を届けるのを手伝ってくれるか。じいさんの本来の頼みだったはずだから」
紬はエンジンをかけたまま、少し間を置く。
「最初から、そのつもりだよ」
軽トラックが走り出す。
山道を下り、川沿いの国道に出る。向こう岸への橋が見えてきた。橋を渡ると、旧採石場だ。
「ねえ、蓮」
「何」
「じいさんたちがあの木箱を埋めたとき、どんな気持ちだったんだろ」
蓮は窓の外を見る。夕暮れの川が、橙色に光っている。
「伝えたかったんじゃないか」
蓮は言った。
「声に出せなかったことを。言葉にならなかったことを。水の下に沈んでしまう前に、どこかに残しておきたかった」
「それを、私たちが掘り出す」
「ああ」
橋を渡る。向こう岸の道が、採石場の方へ続いている。
夕暮れの光の中、軽トラックは進んでいく。
二人の影が、同じ方向に伸びていた。
第六章 枯れ川の探索行
防災無線が鳴ったのは、朝の七時だった。
祖父の家の天井が、白く光っている。布団の中で目を開いたまま、蓮はしばらく動かなかった。外から、スピーカー越しの声が届いてくる。台風十四号が関東地方に接近中。明後日未明には上陸の見込み。神流湖上流では降水量が増加しており、ダムの放流量も増加する予定です。住民の皆様は——。
起き上がり、窓の外を見る。
空は今のところ、ただ白い。しかし空気が違う。昨日より重く、湿度を含んでいる。風はまだないが、木の葉がどこか落ち着きなく揺れていた。植物は嘘をつかない、と幸三がよく言っていた。天気予報より葉の揺れ方を見ろ、と。
防災無線の意味は、すぐにわかる。
雨が来れば、湖に水が戻る。ダムの放流量が増えれば、干上がった湖底は翌日には再び水面の下に消える。つまり今日が、最後のチャンスだ。
蓮は布団をたたみ、立ち上がる。足の裏が板間の冷たさを拾う。廊下を歩くと、奥から温かい空気が流れてきた。
台所に行くと、紬がすでにいた。昨夜ここに泊まった状態のまま、まだ帰っていない。
朝の台所は、橙色の光の中にある。コンロの火が白い鍋を温め、湯気が天井へ細く伸びている。窓ガラス越しに見える庭は、霜が降りたのか草の先端が白く光っていた。紬は蓮の気配に振り返りもせず、おかゆをゆっくりとかき混ぜている。短い黒髪の横顔が、火の明かりに橙色に縁取られていた。
「聞こえた」蓮がコートを羽織りながら言う。
「聞こえた」紬は振り返らずに答える。「今日行くしかない」
「旧採石場まで、湖底を渡れるか」
「行ける。昨日確認した」紬は椀を二つ出した。「長靴で行って、岩場は手も使う。泥濘の深いところは迂回する。一時間あれば着く」
「一時間」
「多分ね」紬がそっけなく言い、おかゆを椀によそった。
蓮は椅子を引き、座る。熱い湯気が顔に当たった。塩気のある匂い。やわらかくなった米粒が、舌の上でほどける。昨夜からほとんど何も食べていなかったことに、今になって気づく。
二人でこうして朝食を食べている。それがいつの間にか当然になっている。三週間前の蓮には、想像もしていなかったことだ。
「交点がダミーだったとすると」蓮は椀を持ったまま言った。「じいさんは最初から、旧採石場を本命にしてたんだな」
「そう思う。でもなんで二重にした。交点を先に示して、採石場をその次に示す。普通に採石場の座標を書けばよかった」
「誰にでも解かせたくなかったんじゃないか。写真の影の方向まで読める人間じゃないと、たどり着けないようにした」
紬はしばらく黙って考えた。窓の外で、カラスが一声鳴く。
「それか」紬はゆっくり言った。「採石場に何が埋まっているか、自分でもまだ迷っていた」
蓮は椀を置いた。
「どういう意味」
「埋める価値があるかどうか。そもそも、誰かに掘り起こさせる価値がある内容なのかどうか。迷いながら、仕掛けを複雑にすることで、答えを先延ばしにしてたのかもしれない」
蓮には、返せる言葉がなかった。
迷い。その言葉が、妙なところに刺さった。幸三が迷っていたとすれば、何を。村を沈めることか。誰かを傷つけたことか。それとも、もっと別の何か。考えようとするたびに、輪郭がにじんでいく。
「じいさんのこと、あまりよく知らなかったのかもしれない」
口から出てから、言うつもりじゃなかった、と気づいた。
紬は椀を持ったまま、少しだけ蓮の方を向いた。何か言いかけて、そのまま前に戻る。そのわずかな間が、返答よりも雄弁だった。
外の防災無線がふたたび鳴り始め、同じ内容を繰り返した。台風十四号。明後日未明に上陸。神流湖の放流量が増加。
今日が最後だ。
◆◆◆
湖底に降りたのは、八時を少し過ぎた頃だった。
空はまだ白く、風もない。しかし足首の辺りの空気だけが、何か違う。地面から微かに湿った匂いが上がってくる。台風が来る前の、土の匂いだ。嵐の予感は、空よりも先に地面から来る。これも幸三に教えてもらった。
乾いていた湖底は、昨日より地面が柔らかくなっていた。一歩踏み出すごとに、長靴の底が数センチ沈む。泥が長靴を引き留めようとする感触。引き抜くたびに、ぐっ、という音。そしてまた沈む。
紬が先頭を歩く。蓮はその跡をたどる。
湖底の地形は、上から見た印象より複雑だ。乾いた川跡が無数に走り、岩礁が点在している。かつて水の中にあった地形が、そのまま露出している。砂礫の白い平地と、暗い泥の帯と、赤茶色の岩肌が、複雑に入り混じる。
立ち枯れた木が、ところどころに突き立っている。
かつて水辺に生えていた柳か、何かの木だろうか。幹は白く脱色し、枝が全て上を向いたまま固まっている。まるで水の中で溺れた姿のまま、干上がってしまったようだった。その白い幹が点在する光景は、どこか墓標に似ていた。村があったという痕跡の一つだ。人が植えた木。かつて誰かの庭だったかもしれない場所に、今は誰もいない。
三波川結晶片岩だ、と蓮は思った。祖父に教えてもらった言葉。神流川流域に特有の、緑がかった光沢を持つ岩。幸三はよくこの岩を指して「この辺の土台は全部これだ」と言っていた。湖底に露出した岩肌が、白い冬の光の中で鈍く光を返している。
子供の頃、幸三とこの辺りを歩いたことがある。まだ水がある頃の話だ。ダムの堤体に沿って歩き、見下ろした湖面が深い緑色をしていた。幸三はその湖面を長いこと眺めて、何も言わなかった。蓮はそのとき、何を考えているのか聞けなかった。今思えば、聞けばよかった。何度でも——聞けばよかった。
「足元、気をつけて」紬が振り返らずに言った。「あの黒いところは深い」
言われた方を見ると、一面だけ泥の色が濃い。周囲より暗く、しっとりしている。沼状になっているかもしれない。蓮は大きく右に迂回した。長靴が岩の角にひっかかり、一瞬よろける。手を伸ばして、近くの岩に触れた。冷たい。岩の表面がざらざらと指先に当たった。
それだけのことだった。しかしその感触が、妙に鮮やかに残る。
岩が冷たい。泥が重い。空気が湿っている。風の音が細い。
今、足の裏から泥の重さが伝わってくる。
ここに、いる。
「蓮」
紬の声で我に返った。二十メートルほど先、紬が立ち止まって手招きしている。
「川の跡、渡れる」
駆け寄ると、細い溝があった。幅は一メートルもない。底には乾いた砂礫が薄く積もっている。長靴で一跨ぎできる幅だ。ここが昔の神流川の支流跡だろうか。蓮は溝を跨ぎ、対岸に降り立った。
そこから見ると、はじめて旧採石場の崖面が見える。
北側の斜面に、灰色の岩盤が剥き出しになっている。幅五十メートルほど。ところどころに掘削の跡が残っており、岩の断面が段状だ。その崖の下に、平坦な地面が広がっている。かつては採石した石を集めたヤードだったはずで、今は乾いた泥の広場になっていた。
「あそこだ」蓮が言った。
「そうだね」紬がカメラのシャッターを切った。乾いた音が、静かな湖底に短く響く。「行こう」
採石場へ向かう途中で、蓮は立ち止まった。
崖の手前、十メートルほどのところ。湖底の泥の上に、長靴の跡がある。
「紬」
紬が振り返る。蓮は跡を指さした。
菱形パターン。旧丹生神社の跡地で見た足跡と同じ形だ。農作業用の長靴の底。大人の男の足のサイズ。そしてその跡は採石場の入り口の方から来て、途中で向きを変えている。来て、引き返した。あるいは、来て、何かに気づいて引き返した。
「最近のやつだ」紬がしゃがんで跡の縁を見た。「乾き方が浅い。昨日か、一昨日か」
「丹生神社の跡にいた人間と同一人物だとすれば」
「この採石場も知ってた。でも掘らなかった。それか、掘れなかった」
なぜ掘らなかったのか。場所は知っていた。それでも掘らなかった理由がある。蓮には、すぐには答えが出なかった。
「行こう」紬が立ち上がった。「時間がない」
◆◆◆
旧採石場の跡地へ踏み込んだとき、足元の感触が変わった。
湖底の中心部より地面が固い。砂礫の層が厚く、長靴の底が沈まない。崖の影になっていたせいか、泥の湿り気も少ない。白い砂の上に、黒っぽい岩の破片が散らばっている。三波川結晶片岩の欠片だ。それが何十年も、水の中で、誰にも踏まれず、ここに積み重なっていた。
写真の影の向きと、現在の太陽の位置を照合する。蓮は和紙の地図を取り出し、採石場の地形と重ね合わせた。幸三が濃く描いた交点の位置は、地図上では採石場の北東の隅に当たる。崖が折れ曲がる角の、少し手前。
そこへ向かって歩く。
「ここじゃないか」蓮は足を止めた。
地面を見る。砂礫と岩の破片が均一に広がっている。特に変わった様子はない。だが、蓮はしゃがみ込んだ。
砂礫を手でそっとよけ、その下の地面を目を細めて見る。
岩の表面に、細い線がある。
ナイフか、鋭いもので刻んだような線。長さは十センチほど。一本の直線と、そこから分岐する短い線。地面の模様ではない。人間が意図的に刻んだ形だ。
「紬、これ」
紬がすぐに隣にしゃがみ込む。カメラを構えてシャッターを切った。
「矢印だ」紬が言った。静かな声だが、力がある。「方向を示してる」
矢印の向きは、北東。蓮が目星をつけた場所と、ほぼ一致している。
「じいさんが刻んだのか」
「かもしれない。それか」紬は一瞬間を置いた。「足跡の主が刻んだ」
どちらかによって、意味が変わる。幸三が刻んだなら、それは蓮への道標だ。しかし足跡の主が刻んだなら、それは自分のための目印——場所は知っているが、まだ掘っていない、という印。
蓮は迷わず立ち上がった。「スコップ、貸して」
紬がリュックからスコップを出す。軽い、折りたたみ式のやつだ。蓮は地面の一点に刃を刺し、体重をかけた。
砂礫層は二十センチほどで終わり、そこから先は固い土だ。水に何年も晒された土は、乾燥すると砂岩のように固く締まる。スコップの刃が突き刺さるたびに、金属の乾いた音が崖面に反射して戻ってくる。
三十センチ。
五十センチ。
「方向、少しずれてるかもしれない」紬が穴の縁にしゃがみながら言った。「もう少し北側、試して」
蓮はスコップを引き抜き、刃の方向を北へ傾ける。肩が熱くなってきた。背中に汗が伝う。
「ちょっと貸して」紬がスコップを受け取った。「交代」
「いい」
「貸してって言ってる」紬の声が低い。有無を言わせない言い方だ。
蓮は黙ってスコップを渡した。紬は迷わず刃を土に刺し、蓮より深く体重をかける。短い腕で、しかし力強く土をかき出していく。二人が交互に力を使うことで、穴は着実に深くなっていった。
七十センチほど掘ったとき、鈍い音がした。
金属が、何か固いものに当たる感触。スコップの柄から、衝撃が手のひらに伝わってくる。
金属が、何か固いものに当たる感触。スコップの柄から、衝撃が手のひらに伝わってくる。
紬の手が、止まった。
二人は同時に穴を覗き込む。
「何か、ある」蓮が言う。
「掘って」紬の声は低く、静かだ。先程とは違う種類の静けさだった。
土を丁寧にはらう。スコップの刃でなく、手で。固い土が指先を削るが、構わない。黒い土の中から、少しずつ何かが現れてくる。
金属の端。
錆びた、丸みのある形。
缶だ。
祖父の家で見つけた錆びた缶とは違う。もっと大きい。縦に長い、筒型の金属缶。胴体に刻印がある。製造所の名前らしき字と、数字。四十年以上前の缶だ。蓋の縁が錆で変色し、地面の土と同化しかけていた。しかし形は残っている。中のものを守るように、しっかりと。
蓮は両手で缶を抱え、ゆっくりと引き上げた。
重い。
土と錆の匂いが鼻を突いた。長年地中にあったものの、乾いた重さ。四十年分の時間の重さ。
「開けて」紬の声が静かだった。いつもの言い切りではなく、少し低い。
蓮は缶を膝の上に乗せ、蓋の縁に両手の指をかけた。錆が指先に食い込む。力を込めると、長く固まっていた蓋がゆっくりと動き始めた。金属同士が擦れる、かすかな音。
◆◆◆
蓋が外れた瞬間、内側の空気が漏れ出てくる匂いがあった。
古い紙と、干からびた土と、閉じ込められた時間の匂い。
缶の中に、ビニール袋に包まれた何かが入っていた。丁寧に、幾重にも包まれている。水が染みないようにか。あるいは長い時間のためか。蓮は袋を取り出し、端を慎重に開く。指先が震えているのは、寒さのせいばかりではない。
中から出てきたのは、一冊の野帳だった。
表紙は黄ばんでいるが、ほぼ原形を保っている。横書きの野帳で、測量士が現場で使う種類だ。表紙に何も書かれていない。
幸三は仕事の野帳を何十冊も持っていた。棚に並んだ背表紙に、蓮は子供の頃よく触れていた。硬い表紙。乾いた紙の匂い。そして、測量士の几帳面な筆跡。この野帳の表紙を指先でなぞると、記憶の中の質感と重なる。あの頃から、ずっとここにあった。
蓮は野帳を開いた。
最初のページに、文字が並んでいた。
幸三の筆跡。几帳面な、測量士の字。
裏切り者リスト
その一行の下に、名前が並んでいた。
三人の名前。
一番上に書かれていたのは、次の名前だった。
桐島幸三
蓮の視界が、一瞬揺れた。
祖父の名前だ。
蓮の名字と、同じ。
紬が息を呑む音が聞こえた。風が、崖面を低く鳴らした。乾いた岩の音。
二番目の名前は、蓮には見覚えがない。しかし三番目の名前を見た瞬間、紬の手が止まった。
彼女は野帳の三番目の名前から目を離さない。唇を、わずかに引き結んでいる。
「紬」
返事がない。
「紬。この三番目の名前」
「知ってる」紬は短く言った。硬い声だ。「……知ってる。うちの人だ」
蓮は野帳を持ったまま、動けなかった。
裏切り者。
その言葉が、頭の中でゆっくりと回転する。賛成派のリーダーとして村人と対立し、ダム建設を押し進めた。蓮が知っていた幸三の姿。しかし「裏切り者」という言葉は、誰の視点から書かれたのか。賛成側か。反対側か。それとも、幸三自身の手で。そして、なぜ幸三自身の名前が筆頭に書かれている。
自分が裏切り者だと、幸三は思っていたのか。
紬はまだ、野帳の三番目の名前を見ている。表情が読めない。泣いているわけではない。ただ、どこか遠くを見るような目をしていた。
「次のページ」蓮はゆっくり言った。「見ていいか」
紬は一秒黙ってから、頷いた。
蓮は指先をページの端にかけた。
めくった先に何があるか、わからない。
崖の上で、風が唸り始めた。低く、長く、山を越えてくる音。台風の先触れが、もうここまで来ている。
台風が、来る。
第七章 すれ違う座標
野帳の二ページ目を開いた瞬間、蓮の手が止まった。
そこに並んでいたのは、数字だった。
文章ではない。名前でもない。ただ、数字の羅列。
縦に並んだ二列の数字。左の列は三桁から四桁、右の列は二桁から三桁。それが十五行ほど、隙間なく続いている。一見してわかることが一つだけある。幸三の筆跡だ。几帳面な測量士の字で、インクが滲まず、行間が均等で、どこにも訂正の跡がない。一度で書いた、迷いのない数字の列。
二四七 八二
三一五 一二五
一八〇 四八
二二五 七〇
二七〇 九五
九〇 三三
…………
「何だ、これ」蓮はつぶやいた。
「わかる?」紬が肩越しに覗き込む。息が、耳の近くに当たった。
「数字しかない」
「測量のデータじゃないの」
「測量の現場記録なら野帳に書くのは普通だ。でもそれをなんで採石場の地中に埋めた」
「意味があるから埋めた」紬はすぐに言い返す。「そういうことでしょ」
蓮はもう一度数字を見た。左列の最大値を目で追う。二四七、三一五、二七〇、九〇。どれも四桁に届いていない。三六〇を超えるものが一つもない。
「左列、全部三六〇以下だ」
「だから?」
「方位角は最大三六〇だ。北を〇度として、東が九〇、南が一八〇、西が二七〇。この左列、方位角に見える」
紬の目が動いた。野帳をもう一度見る。
「……九〇が東、一八〇が南、二七〇が西。ぜんぶ入ってる」
「そして右列は」
「三十から百二十くらいの値」紬が続ける。「距離じゃない。距離なら単位が必要だし、数字が小さすぎる。標高かな」
「仰角かもしれない。水平から何度の角度で見上げるか。崖や山の中腹にある何かを示すなら、仰角の方が合理的だ」
「つまり」
紬は野帳を指先で叩いた。
「どっちを向いて、どのくらい見上げたところに何かある、ってこと?」
「そう読める」
二人はほぼ同時に顔を上げ、互いを見た。
同じことを考えている。
それが顔を見ただけでわかった。蓮は何も言わなくて良かった。紬も同じだったようで、少し目を細めてから、すぐに前を向く。
「でも、どこを基点に方位を測るか、それがわからないと——」
その声が、途中で止まった。
背後で、砂礫を踏む音がした。
一歩。
また一歩。
二人は同時に振り返った。
採石場の入り口に、人影があった。
老人だ。背が高く、肩幅が広い。かつては相当な体格だったのだろう。今は肉が落ち、コートの肩が少し余っている。古い作業帽を被り、泥のついた長靴を履いている。底の模様が見えた。
菱形パターン。
この足跡を、蓮は知っている。湖底でずっと追いかけてきた、あの足跡だ。
老人は二人を見た。その目に驚きはない。むしろ、覚悟を決めたような、静かな目だった。
「それを、渡せ」
低い声だった。嗄れているが、芯がある。
蓮は野帳を胸に引きつけた。
「あなたは誰ですか」
「渡せと言ってる」老人はまた一歩踏み出す。「幸三のものだ。部外者が持っていいものじゃない」
「幸三は俺のじいさんだ」
老人の足が止まった。
蓮の顔を、しばらく見た。
「……蓮か」
「知ってるんですか」
「顔で分かる」老人は低く言った。「幸三に似てる。目元が」
松田が写真館で言ったのと、同じ言葉だった。
「野帳を奪いに来たなら、渡さない」紬が蓮の横に並ぶ。声に棘がある。「あなたが湖底を掘ったんでしょう。足跡、ずっと追ってた。丹生神社から採石場まで、全部同じ模様だった」
老人は紬を見た。目を細める。
「お前も顔で分かる。……紬か。あの子の孫か」
「そうです」紬の声が一段、硬くなった。「何か文句でもあるなら言えばいい」
老人は短く息を吐いた。疲労とも、苦笑ともとれる音だった。
「……お前たちが来るのは、わかっていた」
「じゃあなんで取ろうとするんですか」蓮は聞いた。「野帳に何が書いてあるか知ってますか」
老人は答えなかった。空を見上げる。白い空の端が、うっすらと灰色になり始めている。台風の先端が、もうここまで来ている。
一粒、雨が落ちた。老人の頬に当たって、無音で滑り落ちる。
「話す気がないなら」蓮は野帳を抱えたまま立ち上がった。「俺たちはここを離れる。台風が来る」
老人はまだ空を見ていた。それから、ゆっくりと首を下ろす。
「……幸三の家に、連れて行け」
低く、絞り出すような声だった。
◆◆◆
雨は祖父の家に着く頃には、本降りに近くなっていた。
軒先で長靴を脱ぎ、三人が玄関に入る。狭い土間に、人が三人いると体温と湿気がすぐに混ざった。蓮は薪ストーブに火をつけた。棒の先に燃え移った炎が、薪に広がるまでの数秒、部屋の中が橙色と黒の境目で揺れた。
老人は土間の近くに立ったまま動かない。座れ、と言っても首を振る。
「裏切り者リストに、幸三の名前があった」蓮は正面から切り込んだ。「一番上に、自分の名前を書いてた。なんで」
老人は床を見ていた。コートの肩に、雨の痕が小さく濡れている。
「幸三は……」老人の声が、低くなった。「誰よりもこの村を愛していた男だった」
「知ってる」
「知らん」老人は顔を上げた。「お前たちは知らん。幸三がどれだけ愛していたか。愛していたから、補償金を受け取ることに賛成した。愛していたから、悪者になった」
沈黙。ストーブの炎が、木を食む音だけが続く。
「……補償金を受け取らないと、村人は何も持たずに追い出される。土地も、家も、全部ダムの底に沈む。国も、県も、金を出すと言っている。なのに反対派は受け取らない。誇りの問題だと言って」
老人はコートの袖を、強く握った。
「村人の多くは迷っていた。受け取りたい。でも反対派に何を言われるかわからない、と」
「それで幸三が」
蓮は言いかけた。
「買って出た」老人が続けた。「誰よりも声を上げて賛成を叫んだ。反対派から何を言われても、怒鳴られても、罵倒されても、笑って受け流した。村人が受け取りやすいように、自ら標的になった」
紬が、小さく息を呑んだ。
「幸三が大声で賛成すれば、迷っていた村人は幸三を悪者にして、自分は流されただけだと言い訳できる。反対派への申し訳が立つ。幸三はそれを、全部計算していた」
「じいさんは……」蓮は声が出にくくなった。喉の奥が、何かに詰まったように。「そのために、自分を裏切り者と書いたのか」
「あのリストは、自分への言葉だ」
老人はゆっくり言った。
「村を沈めることに加担した。どんな理由があっても。裏切り者だという事実は変わらない、という意味で書いた。……そう、幸三から直接聞いた」
部屋の中に、雨の音が広がっていた。屋根を叩く音が、少しずつ大きくなっていく。
「あなたは」
「幸三を罵倒した側にいたんですか」
老人は答えなかった。
「知っていて、罵倒したんですか」
「……知っていた」老人の声が低く落ちる。「幸三の真意を知っていた。だから尚更、大声で罵倒した。他の村人に、幸三への怒りをぶつける場所を作るために」
「それはひどい」紬が言った。「幸三さんが傷ついてたとしたら、あなたのせいでもある」
「紬」蓮は小声で言った。
「いい」老人が静かに遮った。「お嬢さんの言う通りだ」
それきり、老人は黙った。
幸三が悪役を演じることを知っていて、それを成立させるために一緒に怒鳴った。その人間が今、幸三の家の土間に立っている。コートに雨の痕を残して、床を見つめている。
「あとで、謝りに行こうと思っていた」老人はやっと口を開いた。「でも、行けなかった。何十年も、行けなかった。……気づいたら、幸三が死んでいた」
蓮は何も言えなかった。
紬も黙っていた。さっきより少し、表情が柔らかくなっていた。
◆◆◆
薪ストーブが熱くなってきた頃、老人はようやく腰を下ろした。
蓮の向かいの椅子に、静かに。背筋が伸びている。山仕事か農作業か、長年身体を使ってきた人間の姿勢だ。テーブルの上に野帳を挟んで、三人が向かい合う。窓の外は灰色で、雨が斜めに流れている。ガラスに当たるたびに細かい音が重なった。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
「桐島征之」老人は短く答えた。「幸三の、従兄弟だ」
桐島征之。同じ苗字。蓮はその名前を頭に刻んだ。今まで一度も聞いたことがなかった。幸三が話したことも、なかった。しかしこの人が、写真に写っていた人間だ。顔を削り取られた人間。
「写真の件を聞いていいですか」蓮は続けた。「マツダ写真館で現像した写真。三人の男が木箱を埋めている写真がありました。一人の顔が削り取られていた」
征之は微かに目を細めた。
「あの写真の、顔を削られた人物」
「……わたしだ」
想定していた答えだった。しかし実際に聞くと、部屋の温度が一度下がったような気がした。
「誰が削ったんですか」
紬が続けた。蓮が問いを立てて、紬が次の問いを継ぐ。最近、そうなっている。
「わたし自身だ」征之は低く言った。「松田に焼いてもらったとき、自分で削った。わたしがあの場にいたことを、誰にも知られたくなかった」
「なんで関わったんですか」今度は蓮が引き取る。「反対派のリーダーが、木箱を埋めるのに」
征之はゆっくりと、テーブルの木目を指でなぞった。
「幸三に頼まれた。二人で埋めると意味がない、三人でなければ意味がないと言った。なぜかは教えてくれなかった。ただ、来てくれと言った」
「それで来たんですか。あれだけ対立していたのに」
「幸三が頼むなら、来るしかない」征之の指が止まった。「……従兄弟だから。子供の頃からずっと、あいつに頼まれたら断れなかった。それだけだ」
紬は何も言わなかった。ただ、少し目を伏せた。
蓮は征之の横顔を見た。六十代後半か七十代か。幸三より少し年上に見える。
「木箱の中身は知ってますか」
征之は少し間を置いた。
「知らん。幸三は教えなかった。お前にとって大事なものだ、とだけ言った」
「俺に?」
「お前の孫に、という意味だと思った。……蓮、お前のことだろう」
幸三は、蓮のことを考えながら木箱を埋めていた。
「幸三さんは」紬がゆっくり言った。「最後まであなたに謝らなかったんですか」
征之は黙っていた。雨の音が、しばらく続いた。
「……手紙が、来た」低い声で、言った。「死ぬ少し前に。簡単な手紙だ。ありがとう、と書いてあった。それだけだ」
紬は目を伏せた。蓮はただ、野帳の表紙を見ていた。
征之の顔が、かすかに動いた。しかし老人は視線をテーブルの木目に戻し、それ以上は何も言わなかった。
◆◆◆
「野帳の数字を一緒に考えてほしい」
蓮は野帳をテーブルの中央に置いた。
征之は野帳を引き寄せ、数字を見る。目を細める。長い沈黙。
「……わからん。木箱の場所も、幸三は教えてくれなかった。これが手がかりだということは採石場に埋まっていたからわかる。しかし数字の意味は読めない」
「読めなくていい」蓮は野帳を自分の前に戻した。「聞きながら考える」
紬がストーブの前から椅子を引き、蓮の隣に座る。二人の視線が、野帳の数字に落ちる。
「まず左列の仮説から」蓮は指で左の列を示した。「最大値が三一五。最小値が九〇。全部三六〇以下に収まってる」
「方位角」紬がすぐに言う。「北を〇度として東が九〇、南が一八〇、西が二七〇、北西が三一五。全部一致する」
「方位角だとすると、右列は」
「距離か高さか」紬は右列を眺めた。「三三から一二五。小さすぎる。距離をメートルで書くなら三三メートルは短すぎる。でも仰角だったら」
「仰角三三度は水平より三三度上を見てる角度だ。崖の中腹や山の斜面にある目標を示すなら合う」
「つまり」紬は野帳を指先で叩いた。「どっちの方角を向いて、どのくらい見上げたところに何かある、っていう地図ってこと?」
「そう読める」
「でも一つじゃない。十五行ある」
「待って」蓮は左列を再度確認した。「左列に同じ値が繰り返してるものがある。二七〇が三回、九〇が二回。完全に別々の場所を指してるわけじゃない」
紬は即座に反応した。
「絞り込みじゃない? まず方位で方向を限定して、その中から仰角で高さを特定する」
「二段階だ」蓮は言った。「方位で『このあたり』を絞って、仰角で『この高さ』に収束させる」
征之が二人のやり取りを聞いていた。
「幸三に似てる」
低くつぶやいた。
「考える顔が」
蓮は聞こえていたが、返事をしなかった。紬がちらりと蓮を見たが、それも何も言わない。
「問題は基点だ」蓮は続けた。「どこを起点に方位を測るか、それがわからないと計算できない」
「縁側」
紬が言った。蓮が言い終わる前に、被せるように。
蓮は紬を見た。
「和紙の地図も縁側が起点だった。透かし絵を空に当てる仕掛けも、縁側から見た山の稜線に合わせるものだった。同じ発想なら基点も同じ」
「そうだな」蓮はすぐに頷いた。「縁側から見た山の稜線を基準線にして、野帳の角度を当てていく。方位角二四七度の方向に、仰角八二度の高さで見える何か」
「仰角八二度は、ほぼ真上じゃない?」紬が首を傾けた。「空を向いてる」
蓮は数字を見直した。
「……そうだ。八二は急すぎる。これ、別の単位かもしれない」
「パーセント勾配?」
「いや」蓮は少し止まってから言った。「標高差だ。基点との標高差。縁側の標高を〇として、そこから八二メートル高い場所にある、という意味なら——」
「崖の中腹に当たる」
紬が被せた。今度は完全に重なった。
二人は同時に顔を上げ、征之を見た。
「この辺の崖」蓮が言った。「台風のあとは崩れやすいとおっしゃった。どの崖ですか」
征之は少し間を置いた。
「県境の崖だ。神泉村と旧鬼石町の境。三波川結晶片岩が露出している場所で、古くから岩が風化して穴が開いている。子供の頃、幸三と一緒に入ったことがある」
「穴」紬の声が変わった。「中は広い?」
「大人が一人入れるくらいの入り口で、奥は案外広かった。今も残っているかどうかは、わからんが」
蓮は野帳を見た。縦に並ぶ数字の列。
「松田さんが言ってた」紬が言った。写真館を出たあとのことを、蓮も同じ瞬間に思い出していた。「この崖、県境のあたりじゃないか、って。写真の遠景を見て」
「そして松田さんは、子供たちが探検に行くような穴があると言っていた」
風穴。
水没を免れた場所。縁側からの方位と標高差が収束する一点。
全部が、一本の線でつながる。
「台風が過ぎたら行けます」蓮は征之に言った。「縁側から野帳の角度を確認して、崖の風穴に向かう」
「危険だ」征之は静かに言った。「台風のあとは地盤が緩む。崖に近づくなら最低でも二日は待て」
「わかった」
「もう一つ言っていいか」征之はゆっくり蓮を見た。「幸三が数列を解く鍵を持っているのは、お前だけのはずだ。幸三がお前にだけ教えた何かが、必ずある」
蓮の指が止まった。
「子供の頃に教えてもらった数字が、頭のどこかに入っているはずだ。仕事の呪文だと言って教えた、と幸三は言っていた」
「……覚えてる」蓮はゆっくり言った。「意味はわからないまま覚えた。角度と距離の数列を、呪文みたいに言わされた」
「それが鍵だ」
蓮は目を閉じた。
子供の頃の縁側。幸三が隣に座って、「覚えろ、呪文だ」と言った。細い夏の夕方の光。板間の感触。そして、幸三が口にした数字の連なり。
頭の奥に、まだある。
「紬」蓮は目を開いた。「明日、縁側で確認したい。野帳と、俺が覚えてる数列を照合する」
紬は頷いた。「わかった」
それだけ言った。説明も確認もなく、すぐに。
三つ前なら、紬はこう聞いていたはずだ。どうやって? 本当に合う? 根拠は?
今は、頷くだけだ。
蓮は、それが少しうれしかった。
屋根を叩く雨の音が、低く重く、部屋に満ちている。台風はまだ来ていない。しかしこれは、その前触れだ。本番は、明日の夜だ。
オレンジ色のストーブの炎だけが、雨の音の中で静かに揺れていた。
征之はテーブルの上に両手を置いたまま、窓の外の雨を見ていた。幸三の家の中で、幸三に謝れなかった男が、雨を見ている。
蓮は何も言わなかった。言えることが、なかった。
第八章 語り部たちの沈黙
台風は、まず音で来る。
夜の十時過ぎ。それまで断続的に吹いていた風が、ある瞬間を境に性質を変えた。間欠から持続へ。風が引く隙間が消え、一定の音圧が途切れなく部屋に押し寄せてくる。屋根の端が、低く唸り始めた。木材が軋む音ではない。家そのものが、低音で震えている音だ。
それから、雨。
最初は普通の雨音だった。屋根を叩く一粒一粒の音が、やがて一つの塊になる。個別の音が消えて、面の音になる。窓ガラスが、内側から押されるように鳴り始めた。横から叩きつける雨が、ガラス面に張りついて流れ落ちる。外の景色が、水の幕に閉ざされる。
三人は黙って起きている。
征之は壁際に背をつけ、目を閉じている。寝ているのか、起きているのかわからない。紬はストーブの前で膝を抱え、揺れる炎を見ている。蓮は野帳を膝の上に置き、数字の列と向き合っている。
真夜中の零時を過ぎる頃、風の声が変わる。
唸りから、絶叫へ。
山から下りてくる風が、斜面を滑り加速して家に当たる。その衝撃が、木材の節を通じて板間に伝わってくる。蓮の足の裏が、微かな振動を拾った。かすかに、しかし確かに、家が揺れている。棚の上の湯飲みが、音もなく数センチ動いた。
「大丈夫か、この家」蓮はつぶやく。
「大丈夫」紬は炎を見たまま答えた。「幸三じいさんが建てた家だから」
蓮は何も言わなかった。
窓の合わせ目から、細い隙間風が差し込んでくる。冷たく鋭い空気が、首筋をかすめた。ストーブの熱が部屋の半分を温めていても、その隙間風だけは届かない場所がある。
午前二時頃。
台風が、最も近い場所を通る。
風の音が一段階、上がった。屋根が短く、鋭く鳴った。家全体が一瞬だけ息を呑むように静まり、その直後に轟音が来た。山の向こうから転がってくるような低い音。それが壁を通り抜け、腹の底に届いた。
紬の背中が、わずかに丸くなる。
蓮は野帳を胸に引きつける。
征之は動かなかった。壁に背をつけたまま、目を閉じたまま、台風の中にいた。
嵐の最中、蓮は野帳の数字を追い続ける。
幸三が教えてくれた「呪文」の数列を、記憶の底から引き出す。角度と距離の数字。意味を知らないまま頭に入れた数字たち。それを野帳の左列に当てていくと、一致するものがある。
「紬、聞いてくれるか」
嵐の音の中で、紬が顔を上げる。
「メモ取れる?」
「取れる」紬はすぐに鞄からメモ帳を出す。
蓮はゆっくりと記憶を引き出した。幸三の声で刻まれた数列。それを口に出しながら、野帳の列と照合していく。嵐の音が通奏低音のように続く中で、数字だけが静かに並んでいく。
「野帳の一行目、二四七と八二。俺が覚えてる数列の最初の組み合わせが、二四七だ」
「一致する」紬はすぐに書き込んだ。「次は」
「三一五。野帳の二行目の左列と一致する」
「左列だけ一致するなら」紬はメモから目を上げた。「右列の意味が解けてないってこと?」
「右列は鍵なしで読める。基点の標高からの差分だと思う。左列が方向を示して、右列が高さを示す。鍵が必要なのは左列、つまり方向の部分だけだった」
「なんで方向だけに鍵をかけた」
「方向がわかれば、場所が特定できるからだ。高さだけじゃ絞れない。方向と高さが両方揃って初めて一点に収束する」
紬はしばらく黙って考えた。風が屋根を鳴らす。雨が窓を叩く。その音の中で、紬の鉛筆がメモ帳の上を走る。
「つまり」紬は顔を上げた。「左列の暗号さえ解ければ、右列は誰でも読める。わざと分けた。右列は開けておいて、左列だけ閉じた」
「そう。鍵を持つ人間が左列を解いたとき、右列が初めて意味を持つ」
「合理的だ」紬は言った。感心、というより確認するような声だった。「じいさんらしい」
壁際で征之が口を開いた。「幸三が言っていた。お前の孫は、呪文を覚えてる、と」
蓮は征之を見る。
「最初からお前のための暗号だった。誰にでも解かせるつもりはなかった」
台風の音が、一瞬だけ止んだような気がする。
風の息継ぎ。台風の中心が、すぐそこを通っている。
蓮は野帳を閉じた。今夜はここまでにする。台風が過ぎたら、縁側に立てる。縁側に立てれば、確かめられる。
明け方近く、征之が立ち上がる。
「帰ります」
「まだ吹いてますよ」
「知ってる」そのまま土間に降りる。
蓮は何か声をかけようとして、止まった。征之の背中が、帰りたいのではなく、帰らなければならない、という形をしていた。
長靴を履きながら、征之が静かに言う。
「……幸三の家には、もう来ない。これだけ言いに来た」
「なんで」
「お前のためのものだ、ここにあるものは全部。わたしがいる場所じゃない」
蓮は何も言えなかった。
「それだけだ」
玄関の引き戸が開いた。嵐の音が室内になだれ込んだ。湿った土の匂いと、草の千切れた匂いと、山の奥から来る冷気が一気に流れ込んで、ストーブの温もりをひと呼吸で押しのけた。そして引き戸が閉まった。
征之の足音が、雨の中に消えていく。
蓮はストーブの前に戻った。炎が、揺れている。台風の隙間風が、ストーブにまで届いているようだった。
◆◆◆
台風が去ったことは、音でわかる。
午前九時頃。絶叫していた風が、ふと低くなった。屋根の軋みが消えた。雨の音が変わった。叩きつける面の音から、一粒一粒が地面に落ちる音へ。その変化はゆっくりではなく、ある瞬間に切り替わるように来た。
静寂、ではない。雨はまだ降っている。風もある。しかし昨夜の音と今朝の音は、まるで種類が違う。人が叫んでいたのが、囁きになった。
蓮は縁側に出る。
冷たかった。
台風が通り過ぎた後の空気は、普通の冬の朝と違う種類の冷たさをしている。湿度が高く、皮膚に密着してくる冷気だ。コートの上からでも染み込んでくる。息を吸うと、肺の奥まで冷える。土と草と、雨に洗われた石の匂いが混じっている。腐葉土が雨水に溶け出したような、深い匂い。
庭の水たまりが、いくつも光っている。
柊の木の葉が、水を含んで重く垂れている。濃い緑の葉の先から、水滴が一つ一つ落ちた。落ちるたびに水たまりに波紋が広がり、また静かになる。それが繰り返されている。
北の山が、見える。
台風前は霞んでいた稜線が、今日は輪郭を鮮明に出している。雨で空気が洗われたのか、山の肌の凹凸が裸眼でわかるほど鮮明だ。岩の色が、木の色が、稜線の一つ一つのギザギザが、異様なほどくっきりと見える。雨上がりの山は、普段より二倍遠くにあり、二倍近くに見える。
蓮はその稜線を、黙って見る。
しばらくして、紬が縁側に来た。カメラを首からかけている。昨夜一睡もしなかったはずだが、その顔に疲れは出ていなかった。目が、澄んでいた。台風のあとの空気を、身体ごと吸い込もうとしているような目だ。
「撮っていい?」
「どうぞ」
紬はファインダーを覗き、山の稜線に向けた。小さく首を傾け、少しずつ角度を動かしていく。右目だけで世界を切り取っていく。シャッターを切るでもなく、ただ覗き込んで、稜線を辿っていく。
その動きを、蓮は横から見ている。
ファインダーを通して見る、ということ。余分なものを全部削り取って、狙った場所だけを見る。カメラが、目と世界の間に入る。
薄い和紙。
あの和紙を光に透かすと、線が浮かび上がる。沈んだ村の輪郭。交点。密度の濃い部分。
ずっと、「地図」として読んでいた。
しかし、もし和紙が目と世界の間に入るための道具として作られたとしたら。
「紬」
「なに」ファインダーから目を離さない。
「その構え方、ちょっとそのまま待って」
紬の動きが止まる。
蓮は和紙のことを考えていた。目と世界の間に入れる、薄い紙。
「……和紙、地図として読んでた」
「そうでしょ」
「違うかもしれない」
紬がファインダーから顔を上げる。
「今あんたがやってるみたいに、山に向かってかざす道具として作ったとしたら」蓮はうまく言葉にできないまま続けた。「窓の光で透かすんじゃなくて、縁側から稜線に——」
「照準器」
紬が、先に言う。
蓮は黙って頷く。
紬はしばらくカメラを握ったまま、崖の方を見ていた。
「そうだと思ってた」低く言った。「でも言葉にできなかった。あんたが言ってくれた」
「気づいてたのか」
「うっすらと、ずっと」
水たまりに落ちる水滴の音が、縁側まで届いていた。規則正しく、静かに。台風が残していった余韻だ。
蓮は鞄から和紙を取り出す。
◆◆◆
縁側の端に立ち、北の稜線に向かって和紙を持ち上げた。
薄い和紙越しに、山が見える。
和紙の繊維が光を散らし、その向こうに灰色の稜線が透けている。沈んだ村の輪郭線と、現実の山の輪郭線が、同じ空間に重なって揺れている。濡れた空気の中で、和紙が微かに吸湿して、指先にわずかな湿りが伝わってきた。
野帳を開く。第一行。方位角二四七度。標高差八二。
蓮は和紙を、西よりやや南の方向へ向けた。左腕を水平より少し上げ、和紙が斜めに光を受けるように保ちながら、少しずつ向きを調整する。
「合わせ方、わかる?」紬が横に立った。蓮の肘の高さに手を添えた。触れるか触れないかの距離。「和紙の上辺の線を稜線の端に合わせて」
「こうか」
「もう少し反時計回り。そこ——そのまま動かさないで」
蓮は息を止める。
和紙の上辺の線が、稜線の輪郭に重なった。完全に一致しているわけではない。しかし幸三が濃く描いた交点の部分が、稜線のある一点へ向かって絞り込まれていく感覚がある。
「次」紬がメモ帳を開いた。「標高差八二。縁側から八二メートル上を見る」
蓮は和紙の角度を、そのままに保ちながら視線だけを上へ移した。稜線の頂上ではない。その手前、崖の中腹あたり。
北東の崖面。
三波川結晶片岩が露出した、灰色の壁。その中腹に、台風で崩れた跡があった。白い岩肌が新しく剥き出しになっている。その剥き出しの脇に、少し奥まった影がある。
「紬、カメラで見てくれ。北東の崖、中腹。白い岩の横」
紬はすぐにカメラを構えた。望遠レンズが静かに伸びる。ファインダーを覗いたまま、少しずつ角度を動かす。
雨が、また少し強くなった。縁側の軒端から滴が落ち、蓮の長靴の先を叩く。和紙が湿気を吸い、指先にくっついてくる。それでも蓮は角度を変えなかった。
「……ある」
紬の声が低く落ちた。ファインダーから目を離さない。
「岩が奥に引っ込んでる。中が黒い。崖の中腹、白い岩の横」
「深さは」
「暗すぎてわからない。でも」紬は少し間を置いた。「浅くはない。奥まで続いてる」
蓮は崖を見た。
そこだ。
松田が言っていた。征之が言っていた。幸三が子供の頃に入った場所。四十年の時間が、あの暗がりの中にある。
「……あそこに入ったことがある人間が、二人いる」蓮はゆっくり言った。「一人はもう死んでる。一人は今日、この家を出ていった」
紬はカメラをおろす。蓮を見た。何かを言いかけて、やめる。
二人の声が、重なった。
崖の中腹の風穴。
和紙の線が収束する一点。野帳の数字が指す座標。幸三が子供の頃に入り、その場所を記憶して、四十年以上後に暗号の終点に選んだ場所。
水没を免れた場所。
全部が、一本の線でつながる。
蓮はゆっくりと和紙を下ろす。
指先が湿り、少し震えていた。寒さのせいかもしれない。寒さだけのせいではないかもしれない。
◆◆◆
「行けるか」紬が言った。問いかけではなく、確認だった。
蓮は崖を見る。
台風が通った崖は、昨日とは違う顔をしていた。白い岩肌が新たに剥き出しになっている場所が、いくつもある。崖の頂上付近では、小石が細い流れになって落ちていた。雨が染み込んだ土が、重さに耐えかねて少しずつ動いている。
「征之さんは二日待てと言ってた」蓮は言った。
「台風のあとは地盤が緩む」紬は崖を見ながら言った。「知ってる。でも——」
「でも、今日で湖底が沈む」
二人は黙って崖を見る。
防災無線が、台風通過後の増水情報を流している。神流湖の水位が急激に上昇中。ダムの放流量が通常の三倍。今夜か明朝には湖底が完全に水没する見込み。
崖は湖底ではない。水が来ても風穴は沈まない。
しかし、崖が崩れれば入り口は塞がる。
「今日しかない」
紬は崖を見たまま、少し間を置いた。それから蓮を見た。
「わかった」
それだけだった。反論も、確認も、念押しもなかった。
三つ前なら、紬はこう言っていたはずだ。本当に大丈夫? 崩れたら? 計画は?
今は、わかった、だけだ。
蓮は縁側から部屋に戻り、雨合羽を取り出した。台風のあとの雨は、まだしばらく続く。崖に近づくには泥と濡れた岩の上を歩くことになる。ロープはあるか。スコップは。懐中電灯は。頭の中で道具を確認しながら、リュックに詰めていく。
紬はすでに自分のリュックを出していた。蓮が確認していた道具を、既に詰め始めている。
蓮がリュックを開けると、紬が横に来た。無言で蓮のリュックを覗き、自分のリュックから懐中電灯を一本出して押し込んだ。
「これ、予備」
「持ってる」
「二本あった方がいい」それだけ言って、紬は自分のリュックに戻った。
余計な言葉がない。でも必要なものが全部ある。
蓮は野帳を防水袋に入れ、リュックの一番奥にしまった。和紙の地図は胸ポケットに。
出発前、蓮は一度だけ窓から北の山を見た。
崖の中腹。白い岩の横の、暗い影。
幸三が子供の頃に入った場所。幸三が最後に選んだ場所。蓮に向けて、四十年分の時間を詰め込んだ場所。
雨が降り続けていた。台風一過の、細く冷たい雨。空は灰色のままで、青空はまだ遠い。それでも昨夜の嵐とは違う。昨夜は音と圧力と重さで押し潰されるような夜だった。今は、ただ静かに雨が降っている。
「行こう」
「うん」紬は既に玄関に立っている。
二人は玄関を出る。
冷たい雨が、合羽の肩を叩いた。
第九章 境界を越えて
玄関を出る直前、紬が立ち止まった。
「ちょっと待って」
振り返ると、紬がしゃがみ込んで蓮の靴紐をほどいていた。
「何してんの」
「二重に結んでない」紬は引き締めてから二重に結び直した。夜明け前の暗がりの中で、その手が迷わず動いている。「途中で解けたら笑えない」
「……お前のは」
紬は立ち上がりながら、自分の靴紐を一度だけ踏んで確かめた。
「こっちは最初からちゃんとしてる」
「最初から気をつけてたなら、先に言え」
「言っても聞かないでしょ、蓮は」
返す言葉がなかった。紬はすでに玄関の外を向いている。
「行くよ」
扉を閉める音が、夜明け前の静寂の中へ溶けた。
空が、まだ黒い。
東の山の稜線だけが、かすかに白んでいた。台風が去った後の地面は水を含んで重く、長靴の底から土が吸いついてくるような感触がある。冷気が肺の奥まで届いた。
軽トラックのエンジン音が、夜の静寂を割る。ヘッドライトが泥の轍を照らし、その先は闇だ。
「昨日、眠れた?」
紬が聞く。ハンドルから目を離さないまま。
「まあ」
「嘘くさい」
「お前は?」
「……あんまり」
それだけだった。蓮は窓の外を向いた。紬は何も続けなかった。
山道がカーブになり、紬は無言でシフトレバーを一段落とす。急な下りが来る、とわかっている手つきだった。この道を何百回も走ってきた体が知っていることを、蓮は知らない。知らないまま助手席に座っている。それが今の二人の関係の輪郭の、一つだった。
「水、来てる」
紬の声が変わった。
蓮は車窓を向く。遠くダムの方角から、低い水音が聞こえている。目を凝らすと、湖底の窪地のあちこちに黒い鏡が生まれていた。昨日の夕方まで乾いた亀裂が走っていた場所が、もう水面になっている。夜の間に、確実に上がっていた。
「このペースじゃ、日が暮れる前に全部沈む」
蓮が言う。
「わかってる」紬はアクセルをわずかに踏み込んだ。「だから今日なんだよ」
◆◆◆
林道の終点で、車を降りた。
扉を開けた瞬間、風が顔に当たった。頬の皮膚が引き締まり、鼻の奥が冷える。東の空が灰色から薄い金色に変わり始めていた。一日の光が、山の向こうに準備されている。
崖が、眼前にある。
石灰岩の岩盤が剥き出しになった急斜面。台風の雨で表面がまだ湿り、苔の深い緑色が岩肌に張りついている。見上げると、崖の中腹に岩が大きくえぐれた暗がりがあった。写真で見た影の形と、一致する。
「あそこだ」と蓮が言う。「写真と同じ形してる」
紬はしばらく崖を見上げていた。
「二十メートルくらいか……思ったより高いな」
「怖い?」
「怖くない」紬は最初の岩に手をかけながら言う。「ただ、高いと思っただけ」
「登れそうか」
「登ったことないけど、見れば大体わかる。口出ししないで」
ためらいなく体重を乗せ、次の手がかりを探しながら体を引き上げる。蓮はその動きを一秒だけ目で追ってから、続いて岩に触れた。
眼下では、水が来ていた。
ひび割れた湖底が、じわじわと黒に塗り替えられていく。向こうに見えていた廃屋の基礎が、水の中に消えている。小学校の校門の柱が、膝の高さまで沈んでいる。
蓮は一瞬それを見て、目を崖に戻す。
紬の足跡を踏んで、登り始めた。
岩は、思ったより滑った。
台風の雨が岩盤の奥まで染み込んでいて、表面だけが乾いているように見えても、一皮めくれば水が出てくる。軍手越しに伝わってくる岩の感触が、押すたびにわずかに逃げる。蓮は一手一手、体重を移す前に踵で岩を確かめる。
肘の内側が燃える。肩甲骨の間が張り、腕の付け根が熱くなる。
「そっちの岩、欠けてるけど奥は固いから」と紬が上から言う。
「見てわかる」
「じゃあ次、横割れの岩は使うな。左側に手がかりある」
「今探してる」
短いやりとりが積み重なる。紬が先に踏んで確かめた場所を、蓮が踏む。それだけのことを繰り返しながら、二人は少しずつ上へ向かった。余分なことを言う場所でも時間でもなかった。
崖の半ばを過ぎたあたりで、岩の質が変わる。
風化が進んで表面が細かく剥落している。手がかりを探すたびに小石がぱらぱらと落ちる。蓮は体を壁に近づけ、重心を低く保ちながら足場を丁寧に確かめる。
そのとき、紬の息が止まった。
紬の息が止まった。
次の瞬間、短い声。岩を蹴る鈍い音。
蓮が顔を上げたとき、紬の体が崖面から離れていた。
左足が岩から外れ、右手だけで縁をつかんでいる。リュックの重さが体を外へ引き、腕一本で全体重を支えている状態。
考えるより先に、手が動いた。
右手を伸ばして紬の左手首をつかむ。岩から手を離したくなかったが、離した。踵を岩の出っ張りに引っかけて固定し、腰を落とす。
一秒。
二秒。
腕が、軋んだ。
三秒目に、紬の体が岩に戻った。
二人とも崖にへばりついたまま、しばらく動けない。風の音だけが続いている。紬の肩が小さく上下し、蓮の心拍が耳の内側で響く。
「大丈夫か」
しばらく間があった。
「……岩が崩れた。突然」
声が、少しだけ乱れていた。紬がこういう声を出すのを、蓮はほとんど聞いたことがない。
「手首、大丈夫か」
「平気。ありがとう……本当に」
「俺の方が心臓止まりかけた」
「……そう」紬は一息ついた。「じゃあおあいこだ」
「おあいこって言うな、こういうときに」
「じゃあなんて言えばいいの」
蓮は答えられなかった。
「行ける?」
「行ける。先に行って、上から確認してくれ」
蓮が先に動いた。紬がその足跡を踏む。
残り三分の一。
東の空が橙色から、赤みの強い金色に変わっていた。崖の表面がその光を反射して、濡れた岩がぼんやりと輝く。こんな場所でこれを美しいと思う自分がいる。半年前なら、この光景は視界にすら入らなかった。
洞口まで、あと数メートル。
崖の中腹に、棚のように突き出した岩の縁がある。幅は七十センチほど。踏み立って初めて、内側に暗がりが見えた。横幅は一メートルほど。天井が低いが、身を屈めれば入れる。
洞口から、冷気が流れ出ていた。
地中から吐き出される息のような、湿っているが清潔な冷気。石灰岩特有の、かすかに金属を含んだ匂いがある。蓮はその冷気を感じながら、懐中電灯のスイッチを入れた。
奥がある。空気が動いている。
その事実を、蓮は胸の底に静かに収める。今は使わない。使わずに済むなら、そのまま置いておく。
「入れる」と紬が洞口を覗き込みながら言う。「狭いけど」
「俺が先に行く」
二人は身を屈めて、洞窟の中へ進んだ。
◆◆◆
洞窟の内部は、外とは温度も音も違った。
気温が数度低く、自分の呼吸が壁から帰ってくる。懐中電灯が照らすたびに、石灰岩の白い肌が浮かび上がり、また暗闇に沈む。蓮と紬の影が二つ、でこぼこした壁面に揺れていた。
十歩ほど進むと、内部が広間のように開けた。
「ひろ……」
紬が息を飲む。
「ここ、すごいな」
直径七、八メートル。天井が三メートル以上。壁面を懐中電灯で照らすと、石灰岩が長い時間をかけて描いた縞模様が走っていた。床の窪みに水が浅く溜まり、天井から水滴が等間隔で落ちている。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
その音だけが、この場所の時間を刻んでいる。
蓮は懐中電灯を、広間の奥へ向けた。
岩壁の一番奥に、何かある。
最初は岩のでこぼこかと思う。しかし近づくにつれて、直線の輪郭が浮かんでくる。角。蓋の縁。鉄の金具。
「……あった」
声が掠れた。
木箱は岩壁と床の隅に置かれていた。写真で見たものと同じ形だ。幅六十センチほど、高さ四十センチ。木材は暗褐色に変色し、表面に細かい亀裂が走っている。それでも腐ってはいない。洞窟の安定した温度と湿度が、四十年以上にわたって木を守り続けていた。
蓮は片膝をついて、箱の表面に手を当てる。
ざらりとした木の感触。冷たい。古い。しかし確かにここにある。幸三が、仲間たちとここへ運んだ本物の箱が。
隣でシャッターが切れた。
紬がカメラを向けていた。蓮の手と、木箱を一つのフレームに収めるアングルで。
「撮るのか」と蓮が言う。
「うん。残したい」紬はファインダーを覗いたまま言う。「ここにあった、ってこと」
もう一枚、シャッターが切れた。
「じいさん、ここまで運んだんだな」蓮は木箱から手を離せないまま言う。「一人じゃないにしても、この崖を。重かっただろうに」
「若かったんだよ、あの頃は」紬はカメラをおろして木箱を見た。「体も気持ちも。じいさんたちも、蓮くらいの歳だったんじゃないかな」
「そうか……」蓮は少し黙った。「じゃあ俺たちと変わらないじゃないか」
蓮は木箱の感触を、しばらく手のひらに感じていた。四十年前の夜、この箱を運んだ者たちの体温が、木目の奥にまだある気がした。
「開けよう」
「南京錠がある」紬はしゃがんで確かめた。「ダイヤル式。四桁だ」
鉄製の南京錠が蓋の金具に下がっていた。四つのリングが横並びに並び、それぞれに零から九の数字が刻まれている。現在の表示は「零零零零」のまま。
四桁。
幸三が選んだ数字。蓮にしかわからない数字。この箱を仕掛けた人間は、特定の一人にしか開けられないように設計した。裏を返せばその一人が来ることを、幸三は最初から信じていた。
「何の数字だろ」と紬が言う。誰に聞くでもなく。
蓮は少し考えた。じいさんが蓮にだけ教えたもの。測量の仕事をしながら、子供の蓮に何百回も繰り返した、呪文のような数字。
「呼吸だと思う。四秒吸って、七秒止めて、八秒吐く。じいさんが、測量に入る前は必ずこれをやれって言ってた」
「四・七・八。三桁だよ」
「わかってる。四つ目が」
「足したら?」
「足しても十九になる」
「じゃあ十九を足したら」
「……十になる。それをまた足したら一か」
「四・七・八・一。試してみてよ」
ダイヤルを回した。四。七。八。一。
引く。
動かない。
「だめだった」蓮は南京錠を持ったまま、少し黙った。「でも方向は合ってると思う。呼吸の数字を使う、っていう発想自体は」
「じいさんらしくないけどね、その解き方」紬は頬杖をつくような姿勢で箱を眺めた。
「どういうこと」
「遠回りすぎる。じいさんってもっとシンプルな人でしょ」
「……そうだな」蓮は南京錠を床に置いた。「じいさんは、答えを遠くに隠さない人だった。いつも、一番近いところにある、って言ってた」
蓮は南京錠を持ったまま、紬の言葉を反芻した。遠回りしない。シンプルに。それはたしかに幸三の流儀だった。答えは一番近いところに置く、とよく言っていた。
「……野帳の、一ページ目」
蓮は呟く。
「え?」
「じいさんがよく言ってた。最初のページには基準値を書く、って。基準がなきゃ測れない、基準があればどこからでも戻れるって」
リュックから測量野帳を取り出し、一ページ目を開く。
幸三の字が、そこにあった。四桁の数字が、独立して書かれていた。標高でも距離でもない。しかし蓮には見覚えがある。
子供の頃、幸三が測量を始める前に必ず口の中で確かめていた数字。仕事の最初に立ち返るための、幸三だけの錨のような数字。
「……これだ」
「ほんとに?」
「確信はない。でも、これしかないと思う」
ダイヤルを、慎重に、一桁ずつ合わせた。
引く。
がちり、という金属音が、洞窟に響いた。
紬が短く、鋭く息を飲む。
南京錠が、開いた。
◆◆◆
蓮は金具に手をかけ、蓋をゆっくりと持ち上げた。古い蝶番が、かすかに軋む。
箱の中に、束が入っていた。
油紙で包まれた、薄い束。手に取ると紙の感触がした。折りたたまれた便箋が何枚も重なっていて、油紙が湿気から守ってきた。
慎重にめくると、古い便箋が現れる。インクの色は薄れているが、読める。差出人の名前が表に書いてある。宛名は、みんな別々の人の名前だ。
「村の人間だ」蓮は束をめくりながら言う。「誰かに宛てて書いてある。全部、違う人に。かなりある」
「……出せなかった手紙なんだ」
紬の声が、変わった。それ以上は続かなかった。蓮も続けなかった。村が沈む前に誰かへ向けて書かれ、しかし渡せなかった言葉たちが、四十年間この暗がりの中で眠り続けてきた。
束の一番下に、別の紙があった。
蓮の名前が、表に書いてある。幸三の字で。
「蓮宛て」と紬が言う。声が低い。
蓮はその手紙を取り上げた。
開きかけて、止まる。
「ここじゃないところで読む」蓮はその手紙を両手で持ったまま、少し考えてから言った。「外に出て、ちゃんと光のあるところで。じいさんが書いたものだから」
紬はしばらく黙っていた。
「うん」
それだけだった。問い返すことも、急かすことも、なかった。ただ「うん」とだけ言って、紬は手紙の束に視線を戻した。蓮はその「うん」の重さを、うまく言葉にできなかった。
蓮は手紙を雨合羽の内ポケットに入れた。
「全部、持って出よう」
「二人で分けて入れれば入る」と紬はもうリュックを開いていた。
油紙のまま崩さないように、二人で手分けしてリュックへ移す。木箱は重く、持って下りるのは難しい。中身だけ取り出す。それだけのことを、二人とも迷わずに決めた。
「よし」
蓮が言いかけたとき、地の底から振動が来た。
地の底から、振動が来た。
最初は遠い雷のような音だった。
地面から伝わってくる低い振動で、壁面の水滴のリズムが乱れた。天井から細かい砂が落ちてくる。水たまりの表面に、同心円が広がった。
蓮は洞口へ走る。
身を屈めて外を覗いた瞬間、視界が白く煙った。崖の上方から土砂が滝のように流れ落ちていた。崩れた岩の塊が斜面を転がり、木を薙ぎ倒しながら落ちていく。土と石と水が混ざり合い、崖の表面を根こそぎ削り取っていく。
登ってきたルートが、土砂の中に消えていく。
轟音が収まっていく。代わりに水の音が聞こえ始めた。低く、絶え間なく、上がり続ける水の音。眼下の湖底が、橙色の夜明け空の下で着実に沈んでいく。
蓮は洞口から離れ、広間へ戻る。
紬が立ったまま蓮を見ていた。
「道、消えた?」
「消えた。来たルートは全部」
紬はしばらく黙っていた。目が壁を、天井を、床を、洞口を、そして蓮の顔を、順に動く。怖がっているわけではない。状況を測っている目だ。
「どうする」
「奥に出口がある」蓮は言う。「入るとき洞口から冷気が来た。あの冷気は外から入ってきてた。空気が流れてるってことは、どこかで外に出てる。この広さなら奥に続きがあるはずだ」
「確信はあるの」
「確信はない。でも可能性は高い。ここで待っても水は来る。動いた方がいい」
「気づいてたの、最初から」
「入るとき気になって。何かあったときのために、頭に入れといた方がいいと思って」
紬は少しの間、蓮を見ていた。
「……怖かった?」
予想外の問いだった。蓮は答えるのに少し時間がかかる。
「うん。落ちたら終わりだって、ずっと思ってた」
「そっか」紬は短く頷いた。「私も怖かった。最初からずっと」
二人はしばらく、同じ静寂の中にいた。
「行こう」と蓮が言う。
「うん」
紬はリュックを背負い直しながら言う。
「手紙、全部入った?」
「入った。じいさんのも」
蓮は内ポケットを、手のひらで一度だけ押さえた。
「じゃあ大丈夫だ」
紬はそれだけ言って、懐中電灯を広間の奥へ向けた。明かりの先に、まだ見えていない空間が続く。
「行こう」と紬が言う。
「ああ」
二人の足音が、石の空間に静かに響く。
天井から、水滴が落ち続けている。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
出口は、まだ見つかっていない。
しかし空気は、確かに動いている。
第十章 還るべき場所
洞窟の奥は、枝分かれしている。
広間から続く通路が三本あった。どれも似たような幅で、懐中電灯を向けただけでは判断できない。蓮は一本ずつ、冷気の流れを手のひらで確かめる。
「真ん中だと思う」と紬が言った。
「なんで。全部同じに見えるけど」
「匂いが違う。こっちだけ草の匂いがする。土じゃなくて、生きてる草の匂い。外と繋がってる通路は外の空気を引き込んでくるから、石の匂いだけじゃなくなる」
蓮は真ん中の入口に鼻を近づける。たしかに、石と土の奥に何か別のものが混じっていた。言われなければわからなかったかもしれない。それを紬はすぐ嗅ぎ分けた。
紬はすでに真ん中の通路へ進みながら言う。「早く来て」
通路は狭く、横向きにならなければ進めない箇所が何度かあった。リュックが引っかかるたびに体を傾けて外す。足元の岩が濡れていて、一歩ごとに重心を確かめながら進む。
五分ほど歩いたところで、頭上に裂け目が見えた。
外の光だ。
「あそこ」と蓮が言う。「登れそうか」
「登れる。岩が安定してる。先に行く」
紬が先に取り付いた。手と足を交互に動かして、着実に上へ向かう。蓮は紬が確かめた足場を踏みながら後に続く。裂け目まであと数メートルというところで——懐中電灯が、消えた。
完全な暗闇になった。
頭上の裂け目からかすかな光が差し込んでいるだけで、それ以外は何も見えない。岩の感触だけが、両手にある。
「蓮」
紬の声が上から来る。暗闇の中で、声だけが鮮明だった。
「電池が切れた。温存してた一本、リュックの左ポケットに入ってる。でも手が届かなくて渡せない」
「降りなくていい」紬の声が少し変わった。「このまま上まで来て。声で誘導する」
「暗闇で登るのは……」
「手と足の感覚だけ使えばいい。視覚がなくても登れる。私が全部言う」紬の声は落ち着いていた。焦りがない。「今の右手から、斜め上に突起がある。拳一個分くらいのところ」
蓮は右手を動かす。指先に岩の突起が当たった。
「あった」
「そこに体重を乗せて。左足は今立ってる岩から十五センチ上に段がある。爪先から探して」
蓮は左足を少しずつ上へ滑らせた。段に乗った感覚がある。
「乗った」
「そのまま体を引き上げて。次は——右手を今の位置から横に三十センチ動かして。平らな岩が出てくる」
紬が言う場所に、言われた通りの岩がある。先に登った紬が一手一手確かめてきた場所だから、蓮は信じて動いた。暗闇の中で、声を頼りに体が動く。それだけのことが、不思議と怖くなかった。
「あと二手」
「わかった」
「最後、頭が裂け目に入ったら横向きになって。狭いから」
光が近づく。石灰岩の白い肌が、外の光に照らされて浮かぶ。蓮は体を横向きにして、裂け目を抜けた。
冷たい外気が顔に当たった。
崖の上に出た。
眼下に、湖があった。
神流湖が、戻っていた。
朝の光の中で、水面が静かに広がっている。昨日まで干上がっていた湖底が、もう水の下に沈んでいる。廃屋も、校門も、乾いた亀裂も、全部。二度と姿を見せないかもしれない深さで。
紬が横に立って、同じ水面を見る。
しばらく、二人とも何も言わない。
「全部、沈んだな」
蓮がようやく言った。
「うん」
それだけだった。紬は一枚だけシャッターを切った。何を撮ったのか、蓮には見えなかった。
「帰ろう」
「うん」
二人は山の裏手へ向かって歩き始めた。
◆◆◆
祖父の家に着いたのは、昼前だ。
玄関を開けると、昨日から変わらない匂いがした。古い木と埃と、消えかけた線香の残り香。二人は長靴を脱いで廊下に上がり、泥のついた雨合羽を脱ぐ。
紬が薪ストーブに火を入れた。細い棒から薪へ、炎が少しずつ育っていく。蓮はストーブの前に座り、手のひらを炎に向ける。指先の感覚が、少しずつ戻ってくる。
「お茶、沸かすね」と紬が言う。
「ありがとう」
台所へ向かう紬の足音が廊下に遠ざかる。蓮はストーブの炎を見る。内ポケットの中に、幸三の手紙がある。
紬がお茶を持って戻ってきた。湯飲みを二つ、蓮の前に置く。薄緑色のお茶が、湯気を立てている。
「……読む?」
「読もうと思う。いてくれるか」
「なんで私が必要なの」紬は蓮の横に腰を下ろしながら言う。少し考えてから続けた。「聞いていい?」
「なんか……崩れるかもしれないから。一人の方がいいのかもしれないけど、一人は嫌だ」
紬は少し黙ってから、「わかった」とだけ言った。それ以上は何も聞かない。
蓮は内ポケットから封筒を取り出す。
白い封筒。表に蓮の名前が書いてある。幸三の字で。宛名の下に、小さく一行。
『急かすつもりはないが、来た時に開けてほしい』
来た時に。
封を切る。便箋が二枚、入っていた。
幸三の字は几帳面で、しかし手紙の文字は少し揺れている。晩年、手が震えるようになっていたのを蓮は知っている。それでも一字一字、丁寧に書いてあった。
読み始める。
『蓮へ
長い手紙になる。少し付き合ってくれ。
お前に話しておかなければならないことが一つある。わたしがダムの建設に賛成した理由だ。
ダムが来ることは止められなかった。国が決めたことで、村の誰が何を言っても変わらなかった。止められないなら、せめて村の人間が次の場所で生きていける金を持って出てほしかった。補償金を受け取るよう、村中を説得して回った。
反対派には許せなかったと思う。村を売ったと言われた。裏切り者と呼ばれた。四十年間、ずっとそう呼ばれてきた。後悔はしていない。ただ一人だけ、謝りたい人間がいる。
写真に写っていた、もう一人の男だ。反対派の代表だった男。
彼はわたしのやっていることの意味を、最初から知っていたと思う。知っていながら、村の対立を収めるために、あえてわたしを激しく罵倒し続けたのだ。彼もまた、わたしとは違う形で悪役を背負っていた。
謝る機会を、ついに作れなかった。
木箱の中には、村の人間が書いた手紙を入れた。あの頃は対立が激しくて、言いたいことを言えないまま村を出た人間がたくさんいた。そういう人たちの言葉を、誰かに受け取ってほしかった。受け取って、届けてほしかった。それをお前に頼みたい。
最後に一つだけ。
息は深く吸え。四秒、七秒、八秒。それだけでいい。お前が今どこにいても、それだけはいつでもできる。わたしはそれを信じている。
幸三』
蓮は便箋を持ったまま、動けなかった。
息は深く吸え。
子供の頃から何百回も言われた言葉。測量の話だと思っていた。仕事の話だと思っていた。しかし今読むと、そのどれでもなかったのかもしれない、と思う。
お前が今どこにいても、という一行が、目の前でぼやけた。
気づいたときには、声が出ていた。
泣くつもりはなかった。声を上げるつもりはもっとなかった。ただ、どこかで何かが決壊する。半年間、どこかに閉じ込めていたものが。
紬は何も言わなかった。
隣に座ったまま、何も言わない。ストーブの炎が揺れている。お茶の湯気が細く立っている。蓮が泣いている間、紬はただそこにいた。
それだけでよかった。
◆◆◆
しばらくして、蓮は落ち着いた。
紬が差し出したタオルで顔を拭く。何も言わずに受け取って、何も言わずに返す。
「じいさんが書いてた写真のもう一人の男、まだ誰かわからない」と蓮が言った。「会えるなら、謝りに行きたいんだけど。じいさんが謝れなかった分も含めて」
紬はお茶を一口飲んだ。ストーブの炎を見ながら、少し間を置く。
「……その人に、会えるといいね」
「心当たり、ないか。この辺で、じいさんと昔から揉めてたような人間」
「さあ」
蓮はそれ以上追わなかった。
「他の手紙も届けないといけない。じいさんが頼んでたから。宛名を調べて、一軒ずつ回る。時間がかかると思う」
「一緒に回ろう」紬は蓮を見ずに言った。
「いいのか」
「いい。私もこの村のことを記録したい。ちょうどいい」
炎が揺れる。外で風が柊の葉を鳴らしている。
「……一緒に来てくれてよかった」と蓮は言った。「今日も、今まで全部も」
紬はしばらく黙っていた。湯飲みを両手で包んだまま、炎を見ている。
「お茶、冷めてるよ」
それだけ言った。蓮は湯飲みを手に取る。じわじわと、熱さが戻ってくる。
◆◆◆
三日後。
神流湖は、完全に水を取り戻していた。
蓮は湖畔の道に立って、水面を見ていた。晴れた冬の朝で、空は高く青い。水面が光を弾き、遠くで鳥が一羽、低く飛んでいる。
上司への電話は、思ったより短く終わった。「もう少しだけ、ここでやることがあって」と言うと「わかった、待ってる」とだけ返ってきた。
背後で、砂利を踏む足音がした。
紬だと思った。
しかし振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ老人だった。
七十代か、八十代か。白髪で、厚い冬のコートに首まで埋もれるようにして立っている。背中が丸く、実際より小柄に見えた。手に何も持っていない。ただ立って、蓮を見ていた。
「……あなたは」
老人は答えなかった。蓮の顔を、しばらくの間じっと見ていた。それから、湖の方へ目を向ける。
蓮には、その顔に見覚えがなかった。しかし、どこかを知っている気がした。目元か。口の形か。
老人は、ポケットから何かを取り出した。
小さな写真だった。
蓮に差し出す。受け取ると、古い白黒写真だとわかった。三人の若い男が並んで立っている。真ん中の男が幸三だ。右の男には見覚えがない。そして左の男は——顔が削られていなかった。
松田写真館で見たものと、同じ構図。しかし、完全な状態の写真だ。
蓮は顔を上げた。老人は、湖を見ていた。
「あなたが」蓮は息を呑む。「この写真の……もう一人の男ですか」
老人はしばらく黙っている。
「松田が密かに焼いて、わたしに渡してくれたものだ」静かな声だった。「征之は幸三を守るために自分の顔を削ったのだろう。わたしには、そんな勇気すら無かった」
「……知ってたんですか。じいさんが、なぜ賛成したか」
「知っていた。最初から」老人は少し間を置いた。「だから余計に、罵倒し続けた自分が許せなかった。本当のことを知りながら、村の手前、反対派の代表を演じ続けた。幸三さんが悪役を引き受けてくれたから、わたしは正義の側に立てた。それが四十年間、ずっとのしかかっていた」
「じいさんも、あなたに謝りたかったと書いていました。手紙に」
老人の肩が、少しだけ動く。
「……そうか」
長い沈黙があった。湖面を渡る風が、二人の間を通り過ぎた。
「お孫さんか」老人がようやく言う。「顔が似てる。目元が特に」
「はい。蓮といいます」
「蓮さんか」老人は写真を蓮に渡したまま、もう受け取ろうとしなかった。「それは持っていてくれ。わたしにはもう、必要ない」
「名前を、教えてもらえますか」と蓮は言う。「じいさんが謝りたかった人だから、知っておきたい」
間があった。
老人は振り返らないまま、静かに答えた。
その名前を聞いた瞬間、蓮の足が止まった。
紬の、祖父の名前だった。
老人はそのまま歩き続けた。湖畔の道の先に、冬枯れの木立がある。その向こうに消えていく背中を、蓮はただ見送った。手の中に写真がある。幸三と征之の隣に立つ若き日の忠雄が、どこか遠くを見ている。
蓮は深く息を吸った。
四秒。七秒、止める。八秒で、ゆっくりと吐く。
背後から、足音がした。
「誰かいた?」と紬が言った。
振り返ると、紬がカメラを持って立っている。今来たばかりの顔をしている。
蓮は少しの間、紬の顔を見た。
「紬」
「うん」
「お前の祖父さんに会った」
紬の顔が、少し変わった。表情が消えたわけではない。しかし何かが、固まった。
「……そう」
「知ってたのか。写真の三人目が、お前の祖父さんだって」
紬はしばらく黙っていた。カメラのストラップを両手で持ったまま、湖を見た。
「写真を見たとき、似てると思った。確信はなかったけど。そのあとじいちゃんに聞いたら、否定しなかった。否定しないってことは、そういうことだと思った」
「なんで言わなかった」
「……じいちゃんが自分で会いに行くって言ってたから」紬はゆっくりと蓮の方を向いた。「蓮に直接話したいことがあるって。私が先に言ったら、じいちゃんが言いたいことを言えなくなると思って」
蓮は紬の顔を見た。紬は目を逸らさなかった。
「……なんで教えてくれなかったんだ」蓮は低い声で言った。「お前の祖父さんだって、早く言ってくれてれば、俺も違う受け取り方ができたかもしれない」
紬はすぐには答えなかった。湖を見ていた。風が水面を撫でて、波紋が広がって消えた。
「じいちゃんが、自分の口で話したかったんだと思う」紬はゆっくりと言った。「あの人は四十年間、幸三じいさんに言えなかったことを抱えてた。それを誰かの口を借りて解消するより、自分で蓮に言いたかった。私がそれを奪う権利はなかった」
蓮は返す言葉を探した。しかし見つからなかった。
「……先に知ってたなら、一言くらい」
「一言言ったら、蓮は全部知りたがる」紬は蓮の方を向いた。「そういう人でしょ」
否定できなかった。
しばらく、二人とも湖を見ていた。
冬桜が、風の中で揺れていた。白く、小さく、しかし確かに咲いている。
「行こうか」と蓮が言う。
「どこへ」
「まず、じいさんの手紙の宛名を調べる。それから一軒ずつ回る。時間がかかっても」
紬はリュックを背負い直した。返事をしなかった。ただ、先に歩き始めた。
蓮はその背中を少し見てから、続いて歩き始めた。
二人の足音が、湖畔の道に重なって続いていく。




