もんもんぐんぐん
毛布が肩からずり落ちそうになるたびに、若い女は震える手でそれを引き寄せた。救急車の赤い光が、濡れたアスファルトの上でぐるぐると回っている。
「大丈夫ですか。名前、言えますか」
警官の声は遠かった。女は答える代わりに、頭を抱えてうずくまった。
「意味わかんない……なんなのあいつ! 意味わかんない!」
何度も同じ言葉を繰り返す女を前に、警官は無線機を口元に近づけた。
「本部、応答願います。負傷者一名、意識あり。現場は――」
規制線の向こうでは、雨に濡れた警察車両が何台も並び、赤と青の回転灯が夜の闇をせわしなく染めていた。
館の玄関から運び出されるたび、警官たちの靴底が濡れた床を重く踏み鳴らす。
誰かが無線で指示を飛ばし、別の誰かが鑑識用のケースを抱えて駆けていく。その脇を、救急隊員が慌ただしく行き交っていた。
——
叩きつけるような雨が木々の葉を打ち、激しい風が森を揺さぶっている。
時折、空を裂くような雷鳴が轟き、その一瞬だけ、闇に沈んだ山の輪郭が白く浮かび上がった。
そんな山中に、洋館は建っていた。
黒々とした外壁は雨に濡れ、尖った屋根やいくつもの煙突が、雲に覆われた夜空へ突き出している。
風が窓を鳴らし、雨が地面を叩きつける中、玄関の扉がドンドンと強く叩かれた。
玄関に向かったのは、丸眼鏡をかけた品の良い老婆だった。彼女は覗き穴から外を確認すると、口元に穏やかな笑みを浮かべて扉を開けた。
「まあまあ、大変。どうぞ、中へお入りになって」
ずぶ濡れの男が一人、玄関先に立っていた。表情に乏しく、言葉少なだったが、老婆はそれを気にする様子もなく、彼を居間へと招き入れた。
暖炉の前には老人がソファに腰掛けており、その足元に大柄な黒い犬が侍っていた。
「こんな嵐は、めったにないことです。大変でしたでしょう」
老人が穏やかに声をかけ、男に火の前を譲る。
老人はリーキ。老婆はセボラと名乗った。
老夫婦はお喋り好きなようで、色々と話しかけてきた。男はただ黙ってゆれる炎を見つめているだけだが、それでも満足そうだった。
「パパ、またお客さん?」
そう言って現れたのは恰幅の良い男。言葉使いは幼く感じられるが、齢は30を超えているように見える。
「そうだよ、ルーク。ソアンにも伝えておいておくれ。お腹が減ったなら、ツォンに頼むといい」
「わかったー。それじゃあごゆっくり」
ルークはそういうと、居間をあとにした。
使用人のツォンが、銀のトレーに温かい飲み物を載せて現れた。
男は黙ってマグカップを受け取ると、あっという間に飲み干し、カップを突き返す。
ツォンは、片眉を僅かに動かしたが、何も言わず空になったカップを受け取った。
——
男が目を覚ました時、そこは薄暗い部屋だった。石造りの壁、高い位置に鉄格子の嵌まった小さな窓。
金属製の手錠がかけられていて、足首に固く結びつけられた縄は、わずかに遊びを持たせてあり、小刻みに歩を進めることくらいはできた。
部屋には、他に二人いた。若い女と、若い男。それぞれ同じように拘束されていた。
「目が覚めたのね……大丈夫?」若い女が小さな声で男に囁いた。
「私はベリンジェラ。ここに囚われてもう4日になるわ……」
男は何も答えず、じっと壁を見つめている。ベリンジェラは、いくら話しかけても反応がないのを見て、肩を落とした。
若い男の方は、虚ろな目でぶつぶつと何か独り言を呟き続けている。
薄暗い監禁部屋の中、ベリンジェラの胸にはもんもんとした得体の知れない恐怖がわだかまっていた。いつ自分が連れて行かれるかわからない、その不安だけが日に日に沈殿していく。
ガチャリと鍵が開く音が響くと、若い男はビクリと肩を震わせ、口をつぐみ、目を閉じた。まるでそうしていれば世界から隠れられていると信じているかのようだった。
コツ、コツ、と足音が響く。
ツォンがにこやかに「お待たせしました」と声をかけると、若い男は悲鳴を上げた。若い男を荷袋のように軽々と肩に担ぎ上げると、ツォンは部屋を出ていく。ベリンジェラは震えながら、それを見つめることしか出来なかった。扉が閉まり、施錠の音が重苦しく響いた。
若い男の泣き叫ぶ声が遠ざかっていく。暫くするとそれは絶叫に変わり、やがて静かになった。
ベリンジェラが嗚咽を漏らすのを、男はただじっと見つめていた。その静かな眼差しの奥で何かがぐんぐんと膨れ上がっていくのを、彼女はまだ知らない。
——
翌日、ツォンが食事を運んできた。毎食パンとスープだけはきちんと出るのだとベリンジェラは言っていた。
ツォンがトレイをテーブルに置いても、男は寝転がったままピクリとも動かない。
ツォンは不審に思い、近づいて肩を揺すってみる。
男は不意に寝返りを打つと、ツォンの手首を掴み、万力のような力で締め上げた。
「な——ぎゃああああ」
ツォンの言葉は、バキリという乾いた音にかき消された。右肘があらぬ方向を向いている。悲鳴が石壁に反響する。男は容赦なくツォンを殴りつけた。何度も、何度も。
若いベリンジェラは、飛び散る返り血のしぶきを浴びながら、呆然とそれを見ていた。目を逸らすこともできず、ただその場から動けずに居た。もんもんとくすぶっていた恐怖が、目の前の暴力によって一気にぐんぐんと膨れ上がり、もはや制御できない質量になっていた。
やがてツォンが動かなくなると、男は静かに立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「う、うそでしょ?! 助けてよ!」
その言葉は届くことなく、男は扉の向こうへ消えていった。
「バカヤロー! お前らどっちも人でなしだ!」
一人残されたベリンジェラの絶叫が、虚しく響いた。
——
厨房では、ルークが、まな板の上の様子を待ちきれない様子で覗き込んでいた。彼は料理をしない。ただ、獲物が切り刻まれるところを見物し、横からつまみ食いをするのが好きなだけだった。
昨日の男は実に愉快だった。ルークがそんなことを考えていると、厨房のドアが開かれる音がした。
「遅かったな」
ルークが振り返ったその先には、返り血で真っ赤に染まった服を着た男と目があった。
「ツォンは? その血はなんだ?……まさか殺したのか? この人でなし!」
ルークは包丁を掴み、震える手でそれを構えた。だが、それが振り下ろされるよりも早く。男の拳が一つ、二つと打ち込まれ、息子はあっという間に床に倒れ伏した。男はルークに馬乗りになると、拳を叩き込み続けた。
男は、ルークから離れると、大きな冷蔵庫を開けた。
中には所狭しと食材が詰め込まれている。男は、倒れた息子の傍らで、フライパンに火をかけ、静かに自分の朝食を作り始めた。
——
朝の散歩から戻った老夫婦は、玄関を入ってすぐに何かがおかしいと気づいた。老人と共に館の奥へと進むと。監禁部屋の扉が、開けっぱなしになっていた。
中には、拘束をまだ外しきれずにいる若いベリンジェラと、動かなくなったツォンの姿があった。男の姿が無いのを確認すると、リーキは厨房へ急いだ。
セボラの脳裏には、拭いきれない不安がもんもんと渦巻いていた。それでも館の中で膨れ上がっていく異変の気配だけは、もはや誰にも止められないほどぐんぐんと勢いを増していた。
「この! この!」
セボラは杖を振り上げ、ベリンジェラに打ちつけた。「お前が殺したのか!」
その時、厨房の方角から老人の悲鳴が響いた。
セボラの杖が止まる。彼女はベリンジェラを打つのをやめ、夫の名を呼びながら監禁部屋を飛び出していった。
——
厨房に駆けつけたセボラが見たのは、椅子に座るリーキと、血まみれで床に倒れた息子の姿だった。
「あんた……?」
セボラがリーキの肩に手をかけると、その体は、力なくずるりと椅子から崩れ落ちた。
「ヒィ……」
小さな悲鳴が、セボラの喉から漏れた。厨房の隅では、無表情で焼きたてのステーキを頬張る男がいた。
——
「あの子……あの子のところに」
セボラは震える足で娘の部屋へと向かった。ドアを叩く。
「なによ、いいところだったのに」
苛立った声とともにドアを開けたのは娘のソアン。つい先程まで薬をやっていたらしい。
「大変なんだよ! お前も働き——」
言い終わる前に、頭上から、男の鉄槌が振り下ろされた。乾いた音と共に頚椎が折れ、セボラはその場に崩れ落ちた。
ソアンは、セボラの亡骸を見下ろしながら、笑みを浮かべ始めた。
「え……え、やった……やってくれたの……?」
その声は、次第に歓喜に震えていった。
「あんたサイコー! この家から解放してくれてありがとう!」
満面の笑みで両手を広げ、ソアンは男に向かって駆け寄った。
「へぶっ!?」
男の拳が、迷いなくその顔面に叩き込まれた。
ソアンはもんどり打って壁に激突すると、崩れ落ち動かなくなった。
男はソアンを一瞥することもなく、嵐の去った外へと歩き出していった。
——
男が去ってからどれほど経った頃だろうか。ベリンジェラは監禁部屋の暗がりの中で、ただ息を潜めていた。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてきた。ベリンジェラの身内が出した捜索願をきっかけに、警察が洋館に踏み込んだのだった。
救出されたベリンジェラは、毛布をかけられ、救急車の中で震えていた。
「大丈夫ですか。名前、言えますか」
警官の問いに、ベリンジェラはただ頭を抱えてうずくまった。
「意味わかんない……なんなのあいつ! 意味わかんない!」
その言葉だけが、繰り返し繰り返し、嵐の去った夜に響いていた。
男の正体も、目的も、行方も――誰一人、知る者はいなかった。
ただ、あの部屋にもんもんと燻っていた恐怖だけが、彼女の中で今もぐんぐんと形を変えながら生き続けている。




