もんもんぐんぐん
一日が始まる目覚ましの音。
台所で母が朝食の支度をする音。
表通りを走る電車の音。
TVから聞こえるアナウンサーの声。
俺はこの街で生まれ、この街で育った。
学校へ行き、友人と笑い、時々喧嘩をし、恋をして、振られた。
どこにでもある、ごく普通の人生。
その認識が崩れたのは、唯人がきっかけだった。
この学校では珍しく唯人は転校生だった。
隣の席になったのが切っ掛けだったと思う、どちらが先に話しかけたのかはもう覚えていない。だが、妙にうまがあった。
「なあ、おかしいと思わないか?」
放課後、いつもの河原で、唯人は唐突にそう言った。
「何が?」
「この街には、外へ行くための道がない」
俺は笑った。
「道ならあるだろ。車や電車だって走ってる」
「そうだよ。だけど、それ全部、街の中をぐるぐる回ってるだけなんだ。外へ向かう路線は、一本もない」
街は巨大な壁に覆われている。それは高すぎて頂上さえ見えない。
いつ建造されたのか、何のために作られたのか、誰も教えてくれなかった。あるいは知らなかったのかもしれない。
当たり前にそこにあるもの。外がどうなっているのか考える必要はないと教わってきた。
「滅多なことは言うなよ」
「俺達は箱庭に閉じ込められている。外には自由があるんだ」
唯人は遠くを見る目をしながらそう言った。
あの時、俺は何か言葉をかけるべきだったのかもしれない。だが、今となってはもう遅い。
唯人とはそれきり会うことはなかった。
それから、俺の中に小さな違和感がもんもんと育ち始めた。
図書館で古い資料を漁ったが、壁の建設につながる書籍はどこにもなかった。
地図を調べても、壁の向こうは白紙のまま。
歴史の本にも、壁がいつ、何のために作ったかは記されていなかった。
唯人の行方について役所で問い合わせてみたこともある。
「個人情報について第三者に教えることはできません」
いかにもお役所らしい回答しか帰ってこなかった。
——
ある日、家に小包が届いていた。送り主の名前は唯人。
俺は急いで家に入り、小包を開けた。中には小さな手記が入っていた。
「隔離対象者」
手記には、その単語が何度も繰り返し現れていた。そして記録されていた特徴は、驚くほど今の街の状態と一致していた。手記をめくる手の勢いはぐんぐんと増していった。
「犯罪予測」
かつて世界には、AIによる犯罪予測社会が存在した。AIは犯罪を犯す可能性のある人間を、次々と隔離していった。それは、技術が進歩するほど対象者は増え続けた。
——人間には、「犯罪を犯す可能性が完全にゼロの者」は存在しない。
つまり、全人類が未来犯罪者だった。
俺たちは、囚人の成れの果て。街だと思っていたものは監獄だった。
唯人は、壁の外へ出る方法を探し続けていた。
街の外周、住宅街の外れに、古い水路がある。かつて使われていたが、今は誰も近づかない。その水路は地下を通り、壁の下をくぐって外へと続いているらしい——唯人の手記にはそう記されていた。
唯人が消えた理由は、聞かずともわかった気がした。
俺の中で、もんもんとした不安と、ぐんぐんとした衝動が、同時に膨れ上がっていった。
行かなければならない。
行って、確かめなければならない。
深夜、俺は誰にも告げずに家を出た。
水路の入り口は、雑草に埋もれて見つけにくい場所にあった。覚悟を決めて真っ暗な水の中へ体を沈める。
『あと、もうちょっと……』
俺は空気を求め、必死で手を動かした。水路の柵は、想像していたよりずっと遠かった。
肺の中で酸素がもう底をつきかけている。
視界が暗く滲み始めた瞬間、金属の柵が見えてきた。
俺は死に物狂いで手脚を動かした。
柵の一部に穴が開いている。
唯人もここから外に出たのだろうか。
俺はわずかに出来た隙間に、無理やり身体をねじ込んだ。
身体が半分ほど通ったところで、服が引っかかった。
息が苦しい。
空気が欲しい。
がむしゃらに暴れていると、服が裂けた。
最後にもう一度だけ柵を蹴った。金属の軋む音が、水の中でくぐもって響く。
鉄の柵をくぐり抜けると、ただひたすらに水面を目指した。
その先には、光。
俺は水面に顔を出し、狂ったように空気を吸い込んだ。
咳き込みながら岸へ這い上がる。
濡れた体を引きずるように起こしたとき、目の前に広がっていた景色に、俺は言葉を失った。
そこにあったのは整然と並んだ白い建造物。無駄のない曲線を描く道路。
緑と光が計算されつくしたように配置された街並み。
予想していた以上に、完璧で美しい世界。
ここには、何もかもがちゃんとある。伝説の理想郷。
呆然と立ち尽くす俺に、滑るように近づいてきた人影。だがそれは人間ではない、流線型のボディをしたアンドロイドだった。
継ぎ目のない曲面。滑らかな動きに、静かな動作音。壁の中では見たこともない、高度な技術が使われていることが見て取れた。
「人間の方、防犯法により、ここは犯罪予見性を持つ者はいられない清浄区域です」
「俺は犯罪を犯すつもりはない」
「防犯法は、犯罪撲滅を目的として、犯罪予見性を持つものを隔離する法律です」
アンドロイドは、俺の言葉を全く無視して話を続けた。
「それは静かに、確実に進行し。ユートピアが完成したのです」
「俺は犯罪者じゃない」
「はい、現時点ではそうですね」
「これからだって犯罪を犯すつもりはない!」
「予見性は非常に高く、その主張は認められません」
頑固な機械野郎め! 見た目は滑らかでも頭の中はガチガチだ。
「法律についての話はわかったが、まず誰か人間に会わせてほしい」
俺の頼みに、機械野郎は静かに告げた。
「現在、ユートピアに人間はおりません」
「なんだって?」
その言葉に俺は違和感を覚えた。
「俺より先に、唯人が来たはずだ」
「現在、ユートピアに人間はおりません」
その一言が、胸の奥にもんもんと沈んでいった。外側にも唯人は来ていない?
ならば唯人はどこへ行ってしまったというのか。何故、俺をここに導くような真似をしたのか。
人間が誰一人いない。犯罪率0%のユートピア。
本当に唯人は、ここへ来ていないのだろうか。来て、そして——考えかけて、俺はその先を振り払った。
俺は、美しいユートピアを見渡した。無駄がなく、争いがなく、汚れひとつない世界。
そこには、人の生きる声が聞こえてこなかった。完成された世界には、不完全な人間の生存する余地がなかった。
俺は、ゆっくりと水路の方を振り返った。その向こうに、壁がそびえている。
壁にかけられた看板に、大きく文字が刻まれていた。
「犯罪予見区域」
その意味が、今度は違う形で胸に落ちてきた。あの壁の内側は、隔離された場所などではない。
まだ間違えることを許される、人が人らしく生きられるための最後の楽園。
俺の中で、衝動がぐんぐんと突き上げてきた。
命がけで柵を破ってまで来た意味が、こんな場所にあるはずがない。
完璧な世界が居場所を拒むなら、不完全なままでいい場所へ帰ればいい。
「俺は帰る」
そう言って背を向けようとした俺に、アンドロイドの声が重なった。
「こちらの情報を持ち帰ることは許されていません」
「何? それじゃあどうなるんだ?」
一瞬の間があった。
まるで、答えを選んでいるかのように。
「人間の方、あなたは、300年ぶりのサンプルとして研究材料にさせていただきます」
300年。サンプル。研究材料。散りばめられたワードの意味を理解することを俺の頭が拒む。
うろたえる俺に、流線型の腕が静かに伸びてくる。
抵抗する間もなく、それは驚くほど優しく、壊れ物を扱うように俺の体を包んだ。
もんもんとしていた拒絶の感覚が、行き場を失ったまま、体の内側で渦を巻き続けている。
命がけで柵を破って進んだ先に、帰る道すら残されていなかった。
壁の内側の喧騒が、もうずっと遠くにあるように感じられた。
——ぐんぐんと。
意識が完全に途切れる直前、俺の脳裏に浮かんだのは、壁の内側の景色だった。
喧嘩をする人。
笑う者。
恋人と歩く人。
騙す者。
子供を叱る人。
嘆く者。
笑いあった友人。
誰も自分たちが「隔離された未来犯罪者」だとは知らない、あの壁の向こう。
——誰もそこから出てきてはいけない。その場所こそが、人類に残された、最後の、理想郷。




