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【第一部完】第20話 お帰りなさい 三度目の陛下

火刑予定日の朝、空に巨大な同意者一覧が開いた。


 王都。


 国境砦。


 ナディールの川岸。


 どこから見上げても、同じ名が読める。


 空の左半分に、記憶を支払った者。


 右半分に、支払わなかった者。


 リュカの名は、拒否者の列にあった。


 自分から手を挙げたことも、大人が止めたことも記録されていない。


 ただ、払ったか、払わなかったか。


 人間を二つに分ける一覧だった。


 選択の記録が身分証へ変わるのに、一朝もかからなかった。


 一覧が開いて、まだ一刻も経っていない。


 それでも人々は、もう空を使い始めていた。


「あの人は同意者だ。先に水を」


「右側の名は、何も払っていない」


「拒否した者まで、同じ毛布を使うのか」


 疲れた善意ほど、分かりやすい順番を欲しがる。


 誰を先に治すか。


 誰へ温かい食事を渡すか。


 空の一覧は、迷わずに済む答えに見えた。


 白髪のイルマが、水差しを持つ治癒師の手を止めた。


「目の前の症状を見て。空の名前ではなく」


「ですが、この方は拒否者です」


「だから何です」


「払った人を優先するほうが公平では」


「治療は褒美ではありません」


 治癒師は戸惑いながら、拒否者の老人へ水を渡した。


 別の場所では、同意者の男が自分の毛布をリュカへかけている。


「僕、右側だよ」


「字が寒さを止めるのか」


「止めない」


「なら着てろ」


 一覧へ従わない選択も、まだ残っている。


 だが、誰も止めなければ、明日には規則になる。


 地上では、救われた八千百二十六人が朝日を浴びている。


 アンナも、アミナも、ノエルも、ミラ村の人々も生きている。


 セシリアの手首から、聖女の満期は消えた。


 誰かの寿命を黙って使う白い奇跡は、もう動かない。


 人命救助は成功した。


 だからこそ、空の一覧は勝利を否定するものではない。


 勝利を次の支配へ使える形にしたものだった。


「お帰りなさいませ、三度目の陛下」


 大司教アンブローズが、アルベリクへ深く頭を下げた。


 授印式のあとで止めた言葉を、今度は最後まで口にする。


「私は王ではない」


「一度目のあなたは、王でした」


 アンブローズは顔を上げた。


 そして、三文だけ告げた。


「一度目、君は全部を自分に集めた」


「二度目、君は全部を皆に分けた」


「どちらも、払えない者を焼いた」


 空の一覧が赤く脈打つ。


 左側の名に、過去の記録が重なった。


 配給資格 同意者のみ。


 治癒資格 同意者のみ。


 聖路使用 同意者のみ。


 右側の拒否者から、パンが、薬が、移動する権利が消えていく。


 二度目の世界で、この一覧は善意の証明として始まった。


 支払った者を優先しよう。


 皆が少しずつ負担すれば、誰か一人を犠牲にせずに済む。


 やがて、払わない者は助ける価値がないと呼ばれた。


 同意しない者へ、同意するまで何も与えない仕組みになった。


 聖火炉の焼けた壁画が、空へ重なる。


 燃える都市の中央に、黒髪の王が一人で立っている。


 一度目のアルベリク。


 すべてを自分へ集め、愛した記憶をすべて失った王。


 誰を救いたかったか分からないまま、救済だけを続けた空の王。


 どちらの世界でも、最後に炎が上がった。


 そしてアンブローズが、アルベリクを焼いた。


「私は、二度とも全員を救いたかっただけだ」


 アルベリクの声が掠れた。


「ええ」


「一人で払うのも間違い。皆で払うのも間違い。では、何を選んでも同じではないか」


 誰もすぐに答えなかった。


 生きている八千人の声が、遠くで重なる。


 泣き声。


 名前を呼ぶ声。


 再会を喜ぶ笑い声。


 セシリアが弟の前へ立った。


「同じではないわ」


「一覧は、また生まれた」


「ノエルは生きている」


「制度は失敗した」


「アンナも、アミナも、ミラ村の人たちも生きている」


「二度目も、救出には成功したのだろう」


「だから今回の命が無意味になるの?」


 姉は空の一覧を指した。


「人を救ったことと、その後に作った仕組みが間違ったことは、分けて考えて」


「勝ったふりをしろと?」


「失敗したふりをして、救えた人まで見捨てないで」


 アルベリクは八千人を見る。


 自分が火刑を忘れても、彼らの呼吸は消えない。


 ザフィールが最初の盃を失っても、アミナは兄の隣にいる。


 セシリアが子守歌を失っても、ノエルとマグダレナは同じ毛布にいる。


 支払った記憶は戻らない。


 救った命も、なかったことにはならない。


「人命救助は成功した」


 アルベリクは、自分へ言い聞かせるように口にした。


「一覧は、ここから止める」


「三度目は、何が違う?」


 大司教が問う。


 アルベリクは空の右側を見る。


 エドマンドがいる。


 王位を捨て、記憶を払わず、最後まで馬車を動かした。


 リュカがいる。


 支払いを止められ、それでも八千人の名を呼んだ。


 記憶を出さなかった兵士も、拒否者の列から担架を運んだ。


「払わなかった人が、まだここにいる」


 空の記録には、二度目にも拒否者がいたとある。


「一覧の外へ追い出した」


 アンブローズは否定しなかった。


「今回は追い出さない」


 アルベリクは黒い聖痕を開く。


「同意した人も、しなかった人も、誰かの所有物にさせない」


「一覧を残せば、次の救出で役立ちます」


「次に誰かが、配給の条件へ使う」


「記録を消せば、支払った人の選択も消えます」


「選択は、一覧が所有するものではない」


 ヨハネスが空を見上げた。


「証拠は必要です。教会が再び、供物など存在しなかったと言わないために」


「中央の一覧を残す必要はない」


 アルベリクはザフィールの青い帳面を指した。


「本人が残したい記憶は、本人か、託された者が持つ」


「改竄されれば?」


「一冊へ集めれば、その一冊を持つ者が支配する」


 エドマンドが王印を持ち上げる。


「王家、教会、敵国、救出された人々。四か所へ写しを置く」


「拒否者の名は?」


「記録しない」


「拒否した事実も歴史では」


「名を残さず、拒否があったことだけを残す」


 リュカが首の銅貨を握った。


「僕が払わなかったこと、忘れられる?」


「君が話したければ、自分で話せる」


「話したくなかったら?」


「誰にも書かせない」


「じゃあ、今は書かない」


 リュカは空の自分の名へ舌を出した。


 一覧を燃やすのは、過去を消すためではない。


 誰か一人が全員の同意と拒否を所有する形を壊すためだ。


 ザフィールが青い帳面を掲げた。


「記憶は人が残す。空に命令される必要はない」


 セシリアが青い複写へ火をつける。


「私が運んだ名は、私が一人ずつ返す」


 エドマンドは王印を地面へ置いた。


「拒否した罪を、王家の記録から消すな。だが罰にも使うな」


 アルベリクは空へ左手を向けた。


 王冠はない。


 王位を継ぐとも言っていない。


 それでも、これを最初の命令にした。


「一覧を、誰にも所有させない」


 黒い炎が空へ走った。


 同意者の名へ火がつく。


 拒否者の名へも、同じ火がつく。


 左右を分けていた線が、真ん中から焼け落ちる。


 空を覆う一覧が、巨大な灰になった。


 名は地上へ落ちない。


 支払った者を称える道具にも、払わなかった者を罰する道具にもさせない。


 灰の向こうから、白い頁が一枚だけ現れた。


 債務者も、返済者もない。


 債権者の欄だけが残っている。


 空白だった横線へ、黒い文字がにじみ始めた。


「アルベリク」


 セシリアが呼んだ。


 弟は姉を見る。


 姉だと分かる。


 何度救おうとしたかは、帳面で知っている。


 なぜ救いたかったか、その温度はもうない。


「私が消えたら、泣いてくれる?」


 アルベリクの灰色の瞳から、理由のない涙が落ちた。


 帳簿に一行が浮かんだ。


 債権者 未登録の人間。


 鐘が鳴った。


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