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第19話 全員で少しずつ

火刑まで、あと二日。


 アルベリクは、リュカの手を下ろした。


「子どもに払わせる救いは、二度と選ばない」


「でも、僕がいいって言った」


「十一歳のノエルも、いいと言った」


 リュカがノエルを見る。


「眠るだけだと聞かされてな」


「僕は全部聞いたよ」


「子どもが全部を理解したと言えば、大人は使っていいのか」


「じゃあ、いつならいいの」


「大人になってから、自分で決めろ」


「その前にみんなが死んだら?」


 アルベリクは答えに詰まった。


 リュカは首から銅貨を外す。


「これ、僕の一番大事なもの」


 朝食代として毎朝出し、ヴィクトルに返されてきた一枚。


「記憶じゃ足りないなら、これも使って」


 アルベリクは銅貨を受け取り、少年の首へ戻した。


「足りないのではない」


「じゃあ、どうして」


「払える者から取る仕組みを作れば、次は払えない者が責められる」


 白紙の一覧が青い光の中で揺れている。


「君の『いい』を、大人が都合よく使わないためだ」


「僕は役に立てない?」


「名前を呼んでくれ」


「誰の」


「目を覚ました全員の」


 八千人を一人で呼ぶことはできない。


 それでもリュカは胸を張った。


「分かった。僕、声が大きいから」


「知っている」


「覚えてた?」


「今、知った」


 リュカが笑う。


 支払わなくても、ここにいる理由はある。


          ◇


「最初は俺だ」


 ザフィールが中央炉へ進んだ。


 青い薔薇の帳面を、アルベリクへ預ける。


「何を払う」


「お前と飲んだ最初の盃」


「すでに私が失った記憶だ」


「だから俺が持っていた」


「二人とも失えば、帳面しか残らない」


「帳面から、また始める」


 ザフィールは黒い杯を取り出した。


 中州で使ったものだ。


「俺は敵へ何度も名乗るほど暇ではない。これで最後にしろ」


「忘れるのはあなたのほうだ」


「なら、お前が名乗れ」


 ザフィールは杯へ口をつけた。


 酒は入っていない。


 それでも、喉を焼いた熱を思い出すように目を閉じる。


「同意する。最初の盃を支払う」


 黒い糸が、こめかみから中央炉へ伸びた。


 青い花弁が一枚、帳面から落ちる。


 ザフィールの身体が揺れた。


「ザフィール」


 アルベリクが支える。


 敵将は、目の前の少年を見た。


「……第七王子」


「覚えているか」


「名はな」


 青い帳面を開く。


「ここに、酒を飲んだと書いてある」


「感情は」


「戻らん」


 ザフィールは苦く笑った。


「お前が面倒な男だということは、今の一問で分かった」


「なら十分だ」


「勝手に決めるな」


 記憶を失っても、同じ言い争いが始まった。


 黒い糸が一本、白紙の一覧へ名を書いた。


 同意者 ザフィール・ハディル。


「次は私」


 セシリアが中央炉へ手を置いた。


「何を払う」


「母上の子守歌」


 アルベリクの呼吸が止まる。


「私が失った歌か」


「ええ。顔も声も、あなたはもう持っていない。歌だけは私が覚えていた」


「別の記憶にしろ」


「選ぶのは私よ」


 白髪になったイルマから教えられた言葉だった。


 止めたい。


 けれど、姉の同意まで奪うことはできない。


「一度、聞かせてくれ」


 セシリアは頷いた。


 炉の底で、小さく歌う。


 アルベリクには懐かしさがない。


 それでも、音を外す癖があったという母の記録を思い出す。


 セシリアも、同じところで少し音を外した。


 歌い終える。


「覚えた?」


「覚えた」


「嘘ね」


「今の一度は、覚えている」


 姉は微笑んだ。


「同意する。母上の子守歌を支払う」


 白い糸と黒い糸が、姉の胸からほどける。


 中央炉へ吸い込まれた。


 セシリアの唇が震える。


「姉上」


「私、何を歌っていた?」


 歌は、二人の記憶から消えた。


 アルベリクは今聞いた旋律さえ思い出せない。


「母上の歌だ」


 事実だけを返す。


 セシリアは泣かなかった。


 一覧へ、二人目の名が書かれる。


 同意者 セシリア・ルーセル・オーレリア。


「最後は私だ」


 アルベリクが中央炉の前へ立つ。


「何を払うつもり」


 姉が聞く。


「火刑の記憶」


 周囲が静まった。


「それを失えば、なぜ戻ったか分からなくなる」


「記録がある」


「炎の中で、私を救おうと思ったことも消える」


「今の私は、姉上を炉から出したい」


 信頼した過去はない。


 焼かれた恐怖も、これから失う。


 それでも今日、姉を選んだ。


「同意する。前の人生の火刑を支払う」


 黒い炎が、アルベリクの全身を包んだ。


 炎の中に、二つの火刑柱が見える。


 銀髪が燃える。


 金の鎧。


 青い薔薇。


 ――今度こそ。


 願いごと、黒い炉へ落ちる。


 炎が消えた。


「アルベリク」


 セシリアが目の前にいる。


「なぜ泣いているの」


 頬が濡れていた。


「分からない」


 火刑台を思い出そうとする。


 赤い色しか浮かばない。


 誰が焼かれ、誰が花を置いたのか、知識としてしか残っていない。


 一覧へ三人目の名が刻まれた。


 同意者 アルベリク・ルーセル・オーレリア。


          ◇


 三本の黒い糸が、中央炉を走った。


 足りない。


 固定供物の名は、まだ七十七人残っている。


「俺の初任給の日を使え」


 ヴィクトルが手を上げた。


「私の叙任式を」


 ヨハネスが続く。


「故郷で最初に治した傷を」


 イルマが白髪を揺らす。


 砦兵。


 聖騎士。


 ナディール騎士。


 名も知らない王都市民。


 大人たちが一人ずつ、何を払うか口にした。


 同意のたびに、細い黒糸が生まれる。


 アルベリクは命令しない。


 払わない者の顔も見た。


 責める者はいなかった。


「私は払わない」


 エドマンドが言った。


 視線が集まる。


「弟を器にしたことも、十五年黙ったことも、忘れたくない」


 兄は王太子の肩章を外した。


 王印をヨハネスへ預け、署名済みの紙を広げる。


「王位放棄書だ。記憶は払わない。この罪を忘れない」


 アルベリクは頷いた。


「払わない人も、ここにいていい」


「王位を捨てれば、償いになるとは思っていない」


「それは魔法の代金ではない」


「分かっている」


「なら、荷馬車を動かせ」


「命令するな」


「頼んでいる」


「引き受ける」


 エドマンドは支払者一覧に名を置かず、救出路へ走った。


 同意しない者も、子どもも、同じ作戦の中にいる。


 それでも黒い糸は増え続けた。


 最後の固定供物から、名が消える。


 中央炉が大きく脈打った。


「逆流を始める!」


 セシリアが青い複写を裏返す。


 三つの輸送路が、白から黒へ染まった。


 壁が開く。


 八千百二十六人の身体が、ゆっくり前へ押し出された。


「名前を呼べ!」


 アルベリクが叫ぶ。


 リュカが最初の手を握る。


「アンナ!」


 ヴィクトルの妹が目を開けた。


「兄さん……老けたね」


「三年待ったんだ。老けもする」


 アミナが咳き込み、ザフィールの鎧を叩く。


「うるさい」


「まだ何も言っていない」


「顔がうるさい」


「口笛は」


「下手なまま」


 兄妹が笑う。


 ミラ村の四十一人を、イルマが一人ずつ抱き起こす。


 ノエルは自分の足で出口へ歩いた。


 王都側の水路で、マグダレナが待っている。


「帰れた?」


「今から帰る」


「私のせいで」


「それはあとで話す。すごく長く」


 二人は同じ毛布に包まれた。


 金環騎士の船。


 聖騎士の聖路。


 王家の馬車。


 敵味方の出口から、人が次々に運び出される。


 夜が明け、日が沈み、もう一度空が白み始めた。


 火刑予定日の朝が来る直前。


 最後の一人が炉から出た。


 八千百二十六人。


 全員、生存。


 青い炉が、静かに消えた。


 歓声が地下から地上へ広がる。


 その中で、白紙だった帳簿がひとりでに開いた。


 頁の中央へ線が引かれる。


 左に、同意者。


 右に、拒否者。


 ザフィール、セシリア、アルベリク。黒糸を出した大人たちが左へ並ぶ。


 エドマンドの名が、右へ浮かぶ。


 支払いを止められたリュカまで、拒否者として右へ書かれた。


「違う」


 アルベリクが頁を閉じようとする。


 閉じない。


 セシリアの顔から、救出の喜びが消えた。


「この一覧を、明日誰が持つの?」





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