変節8-4 霧の聖域
学院街ハートウェル区。
高い石塀に囲まれた広い敷地。
黒鉄の柵に、紋章入りの門柱がこちらを威圧するように建てられている。
〈王立王都大学〉
門兵がちらりとこちらを見た。
中へ入ると、広い前庭に伸びる灰色の石畳。
菩提樹の並木道。
重く落ちた霧。
学問の聖域は、まるで、霧に閉ざされているようだった。
足音は硬く、石塀に反響する。
人はいるのに、声は低く、遠くに聞こえる。
霧に濡れた菩提樹の大きな葉は、重そうに垂れ、滴が落ちてきた。
並木道の向こうに目をやれば、石造りの棟がぽつぽつと並ぶのが見える。
アウレリウスは足を止めた。
建物の一つ。その玄関口。
熱した鋼のように赤い髪をもつ青年が、立っている。
“カイウス・ヴァルドレイン”
アウレリウスがそちらへ足を向けると、彼は小さく頭を下げた。
「来ると分かっていましたよ。
良質な犬を放ったみたいですね」
彼は穏やかに笑っていた。
丁寧に撫でつけられた髪。
背が高く、凛とした佇まい。
人好きしそうな表情。
あの日の彼の言動を知らなければ、友人になりたいと思ったかもしれない。
「こんにちは。カイウス」
カイウスは口角を上げると、踵を返し、建物とは別方向へと歩き出した。アウレリウスはその後を、静かについて行く。
棟と棟の間の小さな中庭。
ひっそりとしていて、人は誰もいない。
カイウスは、古びて黒ずんだベンチに腰掛けた。アウレリウスも同じベンチの端に腰を下ろす。
小さな池があるが、水面が鈍く濁り、落ち葉が沈んでいた。石縁が苔むし、これまで誰も触れずにいたことがわかる。
霧に濡れた街灯のガラスだけが、鈍く光を返していた。
カイウスは空を見上げていた。
「イリスは……どうしていますか」
声は響かず、どこかくぐもって聞こえる。
「モルに……、観察者に預かってもらってる」
「……お気に召しませんでしたか」
彼はこちらを見ない。
「イリスは、君の大切な妹なんでしょう?
どうしてそんな言い方をするの……」
瞳が、わずかに緑に沈む。
「“王”を身ごもれるのです。悪い話ではないと思いますが」
「彼女がそれを、望んだことがあった?」
水色の瞳が、ちらとアウレリウスを見た。
挑発するような、哀れむような。複雑な視線。
「貴方は“完璧な存在”だ。下手な男に手を出されるよりよっぽどいいでしょう」
「イリスは、“愛する人と家族になりたい”って言ってた。
それは僕じゃない」
「イリスがそんなことを……」
カイウスは、アウレリウスの顔から、服、手先まで。まるで吟味するかのように丁寧に眺める。
「……であれば、貴方が家族になってやればいいのに。
共にいれば、愛着も湧くでしょう」
顔が背けられ、水色の瞳は濁った池を見つめた。
「……調べられたんでしょう?」
湿った風が吹いた。
池の匂いがわずかに立ち上がる。
「イリスは、体が弱かった。親でさえ、見放すほどに。
可愛い妹です。ひいき目もあるかもしれないが、彼女は器量が良い。
幸せにしてやりたい」
アウレリウスは、痛みをこらえるように、わずかに目を細めた。
「貴方は創造神オルドが選び、惚れ込んだ男だ。
貴方がイリスのそばにいてくれたなら、私はどれほど心穏かでいられたことか」
「……カイウス、君は……」
「なぜ――こうも、世はうまく回らないのだろう」
ふわりと甘ったるい香りが立ち上がる。
薔薇を潰したような甘い匂いが混じった。
風が強く吹き、遠くの葉が擦れ合う音が、響いた。




