変節7-2 音のしない夜
夕食後、イリスはソファに大人しく座っていた。
モルガナに家事を手伝うと申し出たが、断られてしまい、やることがないのだ。
階下から、わずかに水の音やモルガナの足音が聞こえてくる。
「ここには、兄様も、父様も母様もいないのね……」
昨晩もグレイブハル城で過ごしたが、慌ただしくて、そんなことを考える余裕はなかった。
「兄様……。今、何をしてるかしら。
食事、ちゃんと、とっているかしら」
足音が近づいてくる。
モルガナが階段を上がってくる音。
扉が開く。
モルガナは、背もたれに頭を預けているイリスを見て、ふわりと笑った。
「これ、私の夜着だけど、着てくれる?」
「……はい」
「ふふ。何か仕事を任せたほうが良かったかしら」
夜着をテーブルに乗せると、彼女はイリスの隣に腰掛けた。
モルガナの後を追うようにやってきたウンブラが、彼女の膝に乗る。
「隣の空き部屋を整理したの。今日はそこで寝てね」
「はい」
白い指が、黒い毛並みを撫でるのを、イリスは見つめた。
「……はい。どうぞ」
「え?」
モルガナがウンブラを持ち上げて、イリスの膝に乗せた。ウンブラは嫌がらずにどっかりと座っている。
そっと撫でる。
「柔らかくて、あったかい」
「気持ちいいわよね」
モルガナが髪をかき上げると、またあの白檀の香りがふわりと立ち上った。
「……モルガナさんと、王様はお友達なんですか?」
「そうよ」
「王様と、守護者さんは……」
「……恋人未満って感じよねぇ」
「でも、守護者さんは王様を愛してるって言ってました」
モルガナは柔らかく笑う。
「いろいろあるのよ」
「……そうですか」
窓の外ではまだ馬車の音がしているのに、この部屋はとても静かだった。
イリスの目が細まる。
「……少し、疲れちゃった?」
「……いえ」
衣擦れの音。
イリスは、モルガナに抱き寄せられ、思わず肩を揺らした。
「やっぱり、女の子は柔らかいわね」
くすくすと笑う、モルガナの静かな声。
――温かくて、音のしない夜。
――誰にも、何も言われない夜。
――こんな夜は、いつぶりだろう。
ウンブラが膝から降りて、どこかへ歩き去る。
イリスは、モルガナを抱き返した。
「温かい……。
モルガナさんは、いい香りがします」
「……そうかしら?」
「……とても、落ち着きます」
「そう。良かった」
優しく、背を擦られる。
体が、すごく重い。
イリスは、目を閉じた。
イリスが目覚めると、部屋は真っ暗だった。
窓の外には、月。
温もりと、穏やかな香りに顔を上げると、モルガナも眠ってしまっている。
まつげが揺れる。
黒い瞳がゆっくりと開いた。
小さなあくび。
「あぁ、もう夜ね」
「ご、ごめんなさい……」
目が細められる。
「謝らなくていいわ。私も寝ちゃったもの。
あなた……、頑張りすぎちゃったのね。ゆっくりしたらいいわ」
モルガナが、イリスの前髪をそっとかき分けた。
「ふふ。寝顔がとってもかわいいの。ずっと見ていたくなったわ」
イリスがモルガナを見上げると、その黒い瞳には月が映り込んでいる。
静かな、丸い月。
「……アウレリウスなら、きっと、ちゃんとお姫様抱っこしてベッドに連れていくのでしょうけど……。
私にはそれはできないから、一緒に寝ちゃった」
「王様はそういう人なんですか?」
「王様というより、彼は“王子様”っぽいわよね」
イリスの眉が上がる。
「セティちゃん……、彼は紳士だから、必要以上に触れずに、温かいショールでもかけるんじゃないかしら」
イリスの眉が寄る。
モルガナはそれを見て小さく笑った。
「守護者さんは……私を羽交い締めにしました」
モルガナは目を見開いた後、声を立てて笑った。
「ふふ。まぁ。あなた、何をしたの?
セティちゃんが羽交い締め?
よっぽどのことをしたのね。見てみたかったわ。ふふ……あはは。
もう、おもしろいわね」
いつまでも笑っているモルガナに、イリスも、つい、笑ってしまった。
「ふふ……。おもしろいですかね?」
「とってもおもしろいわ」
二人の笑い声が、月夜の部屋に溶けていった。




