変節7-1 帰らなくていい日
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
貸し馬車を返した後、モルガナとイリスは霧に沈む王都を歩いていた。
モルガナは石畳をゆっくりと歩き、イリスはそれに歩調を合わせる。
「ねぇ、髪をいじられるのは嫌い?」
イリスがモルガナを見ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。自分の髪に触れると、癖のある髪は乱れてぐちゃぐちゃになり、絡まっているところもある。
「……これは、その……」
「ふふ。元気に暴れたのね」
西区の街並みは、石畳が整い、すれ違う婦人の髪は、きちんと結い上げられている。
イリスは急に自分の髪が恥ずかしくなった。
モルガナは自分が被っていた帽子をイリスの頭に乗せる。
「……あなたの色味に黒の帽子はちょっと浮くわね」
イリスは帽子を押さえる。
「私があなたの髪に触れてもいいかしら?」
「……」
「家に着いたら、櫛でといてあげるわ。ね?」
「……はい」
大通りから一本入り、またしばらく歩く。
建物の上の方から烏の鳴き声。
足音が響くほどに、静かな道。
イリスはモルガナにぴたりとくっついて歩いた。
彼女からは、ふわりと白檀のような乾いた甘い香りがする。
思わずイリスは息を止めた。
足元を黒い猫が通り過ぎていく。
「……猫」
猫が振り返る。
艶のある毛並みだが、体はそこらを歩いている野良猫より一回り大きい。
「ウンブラよ」
ウンブラの後を追いかけるようにして二人が歩くと、白い縦長の一軒家が現れる。
深い緑に塗られた木の扉。
モルガナが鍵を回して開ける。
「ここよ。どうぞ、入って」
足元を猫がすり抜け、先に室内に入って行った。モルガナはそれを気にした風もなく、イリスの背を押して中へ入るように促す。
薄暗い廊下。
深緑の壁と、深色の腰壁。
小さな絵がいくつも並べられている。
扉のすぐ近くには、小さな机。
ペン、インク壺、ノート。
占いを受けに来た客が名を記すためのものだろう。
イリスは小さく息を吐いた。
――静かで、不思議と落ち着く。
「一階は、水回りと、占いをするためのお部屋があるの。
二階に私の部屋と空き部屋が一つ。
三階もあるけど、使っていないわ」
モルガナがイリスの頭に乗っていた帽子を取ると、彼女は壁にそれを掛けた。
「とりあえず、私の部屋にいらっしゃい。髪をきれいにしてあげる」
階段を上り、扉の一つに入る。
決して広くはない。
物もたくさんある。
深い臙脂色の壁紙に、深色の木製の家具。
壁のフックには黒い帽子がいくつもかかっている。
窓には夕陽と、隣の建物。
「帽子が……黒ばかり」
「服も黒よ。私、魔女の末裔なの」
モルガナがイリスの肘を引いて、ソファに座らせた。
彼女は少女の背に立ち、毛先から丁寧に櫛をいれていく。
「きれいな色ね」
イリスは、静かに座っていた。
いつも、何かを考えていた気がするのに、頭の中に、今は何もなかった。
「夕焼け。
あなたの髪に似てるわね。この髪色は、あの赤が蜂蜜をまとった色ね。
甘くて、きれいな髪だわ」
「そんなこと……」
――言われたのは、初めて。
――本当に?
――思い出せそうで、思い出せない。
静寂が落ちる。
遠くの鐘楼の音。
――帰らなくちゃ。
「……あ、そっか。今日は帰らなくて、いいんだ」
「そうよ」
――王様も、兄様も、ここにはいない。
――何も、することがない。
「……何か、しないと」
「そうね。後でスープ作って食べましょ」
「……他には?」
「お茶を飲む」
「……それ以外で」
「着替える。あぁ、あと、ウンブラを抱く。
とても忙しいわね」
モルガナが笑っている。
イリスは窓の向こうの夕陽を見た。
それは、とても静かな夕陽だった。




