変節6-1 残された少女
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
霧の日。
グレイブハル城の内門の向こうに、一台の馬車が停まった。
その馬車はそれ以上中へ入ることはなく、少女を一人降ろしただけで、向きを変えて王都の方に戻っていく。
残された少女、イリスは、その背を静かに見送っていた。
霧が馬車の音を、飲み込んでいく。
「イリス!」
城から駆けつけてきたアウレリウスに呼びかけられ、彼女は振り返った。
ウェーブがかった赤い髪が、ふわりと揺れる。
「……王様」
アウレリウスは、去っていく馬車の背を見た。
「馬車が行ってしまったけど……。
君は、どうしたの?」
水色の瞳が持ち上がる。
それはまっすぐにアウレリウスの深い青の瞳をとらえた。
「王様に、会いに来ました」
彼は、小さく息を飲む。
「……君の、お兄さんは?」
彼女が首を振る。
「一人で来ました。
兄様に……そうしろと。
戻ってくるなと、言われています」
セティも遅れてやってくると、彼はアウレリウスとイリスの顔を交互に見た。
「……どういう状況ですか?」
「イリスは、一人で来たみたい。あの青年に帰ってくるなと言われたそうだよ」
セティはわずかに眉を寄せる。
「セティ……、どうしよう。
とりあえず受付室に入ってもらおうか」
「……僕は、彼女を信用できません」
アウレリウスが彼女の背に手を添えると、イリスは彼を見上げた。
「……だけど、馬車は帰ってしまった。
王都に連れて行くにしても、どこに連れていけばいいのか分からないよ」
セティはイリスの背に触れていたアウレリウスの手を取り上げると、代わりに自分がイリスの背に触れた。
「……僕が、面倒を見ます。
アウルは近づかないで。念のため」
イリスは眉を寄せてセティを見る。
「ほら、歩いて。行くよ」
二人は受付室に向かって歩いていった。アウレリウスはため息をつき、少し離れてそれを追う。
受付室のソファにイリスを座らせると、セティは彼女とは反対側の肘掛けに腰を下ろすようにした。
「ねぇ、イリスのファミリーネームは?」
「……」
「お兄さんは何をしてる人?」
「……」
「イリスは王都に住んでるの?」
「……」
イリスは何も話そうとはしない。
セティと、それを小窓の前の机で見ていたアウレリウスは顔を見合わせた。
「お迎えは……いつ来るの?
……来るんだよね?」
「……来ません」
セティが小さく息を吐いた。
「セティ。念のため客室を用意しておくよ」
「……はい」
「ここは任せるね」
アウレリウスはすれ違いざま、セティの肩に触れる。セティが手を小さく上げれば、その手をキュッと握った。
いつもの柔らかい笑みを残して、彼は背を向けて去っていく。
扉が閉まり、セティは視線をアウレリウスからイリスに戻した。
彼女は扉をじっと見つめている。
「……仲良しなんですね」
「……そうだよ。
ねぇ、お兄さんのこと、教えてよ」
イリスははっきりと顔をそらせた。
小窓の向こうには霧。
セティはため息をついた。




