変節4-2 薔薇の香りの来訪者
厚い雲に空が覆われている。
午後になって、いよいよ雨が降り出しそうだった。
城内の燭台に火を灯して周っていたアウレリウスは、玄関ホールに戻ってくると、大階段の手すりに手をつき、ステンドグラスを見上げた。
「……あれ?」
創造神オルドが纏う月桂樹。
その葉の一枚に、ごくわずかな、小さな傷。
長い年月、ここに置かれたままのステンドグラスである。劣化が起こらない方が不自然かもしれない。
だが、
――妙に胸がざわつく。
その時、外から馬車の音。
アウレリウスは階段を降り、玄関ホールの燭台に火を灯すと、開け放たれたままの玄関扉を出た。
ぬるい風。
受付室の小窓から、セティも外の様子を伺っている。
馬車置き場からゆったりと歩いてきたのは、ジンジャーヘアの青年。
すらりと背が高い彼は、アウレリウスに気づくと、眉を上げ、穏やかに微笑んだ。
燃えるような、そのウェーブがかった赤い髪がふわりと揺れ、甘い香りが立つ。
アウレリウスの心臓が、一度だけ、強く脈打った。
理由のわからない動悸。
胸の奥が掴まれるような感覚。
彼はわずかに息を吐くと、何事もなかったかのように微笑んだ。
「こんにちは。見学かな?」
「えぇ、こんにちは。そうです。お城を見学させていただきたくて」
「一人六銀だよ。追加料金の十銀で、案内もできるけど、どうしようか?」
「それでは十六銀お支払いしますので、案内もお願いします。
――案内は貴方が?」
「うん。そうだよ」
「それは光栄です」
青年は小窓の前に立つと、セティに十六銀を丁寧に渡す。
「じゃあ、行こっか」
「はい。お願いします」
アウレリウスも、手にしていた手持ちの燭台をセティに預けると、二人は並んで歩き出した。
赤髪の青年は、終始穏やかだった。
立ち居振る舞いは洗練されていて、時折ジョークを交えて話す様は、まさに『都会の紳士』と言えた。
回廊に差し掛かる。
城の石壁に、雨が当たる音がした。
「雨が降ってきちゃったね」
「えぇ、王都は晴れていたのですが」
並んだ窓からは光はほとんど差さず、壁の燭台だけがゆらゆらと二人の足元を染めていた。
「薔薇のコロンをつけているの?」
「え?」
彼からは、ずっと薔薇のような甘い強い香りが漂っている。アウレリウスがついそう尋ねると、青年は、不思議そうにアウレリウスを見返した。
「……いえ、特につけていませんが?」
「え! あ、そうだったんだ。
変なこと言ってごめんね。君から薔薇みたいな香りがしていたから、そうなのかと……」
アウレリウスが気まずげに笑うと、青年は「お気になさらず」と穏やかに返す。
だが、その時、青年の水色の瞳が、一瞬だけ緑に沈んだ気がした。
「……それにしても……。
へぇ、なるほど。
貴方には、そう感じるんですね」
「え?」
青年が笑う。
穏やかな笑みのはずだ。
しかし、どこか歪んでいるように、アウレリウスには見えた。
「私には、貴方は水のような、澄んだ甘い香りがするように感じられます」
雨の音が、いやに耳につく。
「……そうなんだ」
「えぇ、受付にいたあの少年……、青年かな。微妙な年齢の彼も、そんな香りでした」
アウレリウスは前を向いたが、視線を感じて、もう一度隣を見る。
青年は、目を細めてにっこりと笑っていた。
「貴方は美しい顔貌をお持ちだ。
何でも選べたでしょうに。
……なるほど。そういう選択をなさるのですね」
「え?」
「あぁ、いえ。無粋でしたね。
私の準備が、無駄でないと良いのですが」
「何を――」
「もうすぐ、生活棟ですね。
“主人の部屋”。私は、楽しみにしていたんです。
わくわくしてしまいます」
青年は、前を向いた。
その横顔からでは、彼の瞳さえ、まともに見ることができない。
「……そうなんだ。じゃあ、“主人の部屋”に行こうか」
「えぇ、お願いします」
主人の部屋の入り口。
ほとんどの見学者が足を踏み入れたがらない部屋には、重厚な空気が沈殿していた。
遠い過去に閉じ込められてしまうかのような、そんな錯覚を覚えさせる場所。
この部屋で、過去に一人だけ楽しそうな人物がいた。
――モルは、この部屋を好きそうだった。
僕も、思い入れがあるから、好きなんだけどな。
ちらと、青年を見やる。
彼の口角は、上がっていた。
「入っても?」
「え……、うん、もちろん。どうぞ」
青年は部屋に入るなり、感嘆の声をあげた。
「素晴らしい!」
「……喜んでもらえて良かったよ」
口元に手を当て、調度品の一つ一つをじっくりと見ている。
本棚の前に立つと、彼の眉が上がった。
「本は……どちらに?」
アウレリウスは空いた棚に手を置くと、小さく笑う。
「僕の部屋に持って行っちゃったんだ。ごめんね。
少しさみしいかな」
「さぞ多くの禁書があったのでしょうね」
「え……。
いや、侯爵は――」
「あぁ、大丈夫です。分かっていますから」
青年の瞳が、また、ふと沈む。
彼は、どこか遠くを見つめた。
「おや?
……ふふ。どうせ敵いませんよ。選ばれし者には、ね」
アウレリウスは、わずかに眉を寄せた。
――なぜか、わからない。
――彼の言葉の意味も、わからない。
だが、腹の中で何かが暴れまわっているような、そんな不愉快さが、一瞬だけ生まれた気がした。
「次の部屋に、行きましょう。
ありがとうございます。やはり“主人の部屋”は見応えがありました」
「そう、良かった」
アウレリウスが柔らかく微笑むと、青年も微笑みを返す。
雨が、石壁を打つ。
それは先程より強くなっているようだった。




