変節4-1 甘い風の前触れ
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
アウレリウスの金の髪を丁寧に櫛でとき、セティは一度、指で触れた。
絹糸のように柔らかく滑らかな髪の一本一本に、光が宿っているようだった。
それを、緩く編んでいく。
いつもは毛先近くまで編んで、背の中ほどに細い黒革の紐で縛る。
だが、今日は編むのは少しだけにして、首の根元のあたりで水色のリボンで留めた。
先日買った、光沢のある水色のリボン。
肌の近くにつけられた明るいその色は、白磁の肌に更に透明感を与えている。
「……。
水色は正解だった。かじりつきたい」
アウレリウスの肩がびくりと震えた。
「セティ……、その……、終わった?」
「まだです」
朝の支度。
いつものように書き物机の椅子にアウレリウスが座り、セティがその後ろに立って髪を整えている。
「え……でも、縛り終わったんだよね?」
「まだ、僕はこの首筋にかじりついていないので」
アウレリウスは慌てて席を立つ。
「……セティ」
アウレリウスのその様子に、セティは口角を上げて笑っていた。
あの日以来、セティは表情が柔らかくなり、そしてアウレリウスへの執着に近い愛情を隠さなくなった。
アウレリウスは苦く笑いながら、小さくため息をつく。
「セティ、座って。
今度は僕が髪を整えてあげる」
「はい」
肩までの黒髪を櫛で整え、アウレリウスの指が一度止まる。
また、淡々と手を動かし始めた。
「アウル……、編み込んでませんか?」
「……さぁ、どうだろう?」
くすくすと笑い声が漏れてくる。
「アウル……、編むのは嫌です」
「大丈夫。女の子っぽくはしない」
アウレリウスがセティの肩をそっと叩いた。
セティの耳元に、顔を寄せる。
「僕のセティは、今日もかわいい」
ささやき声。
ふわりと甘く舞う、彼の香り。
アウレリウスは離れ、部屋を出ていった。厩に向かうのだろう。
扉が閉まる。
窓の外では小鳥のさえずりと、わずかな水の跳ねる音。
柔らかな日差しが部屋を包み込んでいる。
セティは、編まれた自分の髪に、そっと指先で触れた。
小さく息を吐く。
「あんなのに勝てるわけないよ……」
机に出されたままの櫛を片付け、窓辺に寄った。
陽は出ているが、雲は灰色で厚い。
遮られた陽射しは柔らかいが、風に押された雲に、ときどき影を作り出している。
「……雨が降るのかな」
窓を開けた。
頬を撫でた風は、どこか生ぬるく、甘ったるい匂いがする。
肌がチリっと痛んだ。
鼓動が少しだけ、早まる。
窓を閉め、背を向けた。
「僕も……掃除しなくちゃ……」
足元に落ちた形にならない影が、
少しずつ色を濃くしていた。




