変節3-6 ただいまの意味
その晩、アウレリウスが寝支度を整えて私室に戻ってくると、セティが以前のようにソファに姿勢正しく座り、本を読んでいた。
最近は、食事の時間も避けられているし、寝る時もセティは客室を使っている。
開城日であっても、受付室には入らず、庭園や湖の桟橋のあたりをうろうろしているようだった。
同じ空間にいること自体が、久々だと言える。
声をかけようとして、なんと言ったらいいか分からず、アウレリウスは声を飲み込んだ。
セティと反対側の肘掛けにもたれるようにして自分も座り、本を開く。
目が滑る。
唇を舐めた。
噛まれた傷は、出血は止まったがまだ疼いている。
セティとは長く一緒にいるが、彼がこれまでにアウレリウスを傷つけたことなどない。体どころか心でさえも。
“アウルなんか大っきらいだ! ”だなんて、セティが感情を高ぶらせているところだって、アウレリウスは初めて見た。
(嫌いって言われたのは、結構堪えるな……)
ため息がこぼれる。
――つまり、それほどまでに、僕はセティを傷つけたんだ。
――考えようによっては、これまでセティの感情を抑え込ませていた……とも言える。
(あれだけ強い感情があったのに、それを表に出さずに来れたなんて……)
――どちらにせよ、僕が、彼を傷つけた。
本を閉じる。
どうせ読めはしない。
隣を見た。
セティは本に視線を落とし、黒い艶のある髪が頬にかかっている。
――本当に久しぶりにちゃんと姿を見る気がする。
まばたき。
緑がかった灰の瞳に、蝋燭の橙の光がともった。
理知と情熱が混ざったような色。
胸がきつく締め付けられた。
――いつか、彼を手放さなければならない日が、来るのかな。
“モルと買い物をしていて……”
モルガナは、優しくて品もある素敵な女性だ。セティにとっては、初めての外の友人。
セティがモルガナを選ぶなら、それは喜ばしいことだ。
――そう、喜ばしいことなんだ……。
夜着の胸元を強くつかむ。
胸の奥が、ひどく冷える。
唇を噛みそうになって、歯が傷口に触れた。
――セティには、自由になって欲しい。
やっと、外に出られるのだから、これまで触れられなかった様々なものに出会ってほしい。
――ここにずっといて欲しい。
こうして、毎夜、同じソファで本を読んで、他愛もない話をして過ごす。
愛しいこの日々を、失いたくない。
相反する感情に、気がおかしくなりそうだった。
本をテーブルに置く。
立ち上がって、セティの脇にまで寄り、腰を屈めた。
「セティ……、僕は……寝るけど」
本から顔を上げ、視線が絡む。
「……いつもの確認はもう、やらないんですか?」
まるで、責めるような視線と声。
「あれは……僕たちを縛るようなものだし……。
もう、やめてもいいのかも」
セティは本をテーブルに置き、立ち上がる。
正面に立って、しっかりとアウレリウスの目を見据えてきた。
「……僕はアウルを愛しています。
僕は毎日言いたいです」
「セティ――」
「でも、僕の“愛してる”はアウルと違って、
“アウルを抱きたい”って意味です」
呼吸が止まる。
どうしても息が吸えない。
「そ……、え……?」
言葉を失う。
まっすぐすぎる言葉には、疑う余地は残されていない。
何も言えなくなったアウレリウスを見て、セティは肩を震わせた。
「ふふ……。ふふ、あはははは!
すごいびっくりしてる!」
「セ……セティ……、だって……、君がそんな言葉で……。
どこでそんな言い方……。
それに……それに……。
え?」
「こんなに動揺してるアウル見たのは初めて! あはははは!」
大笑いしているセティを、アウレリウスは力が抜けたように見つめていた。
「セティ……」
腕を伸ばして、セティをそっと抱き寄せる。
「アウル……。
噛んじゃって、ごめんなさい……」
「いいよ」
セティは顔を上げて、アウレリウスの唇の傷に指で触れる。
「痛かったですか?」
「……痛かったよ」
「ごめんなさい」
「いいんだってば」
セティも、アウレリウスを抱き返す。
「……アウル、ただいま」
「うん」
燭台の炎が、ぼっと音を立てて小さく爆ぜた。
夜の静寂が、柔らかく部屋を包み込み、
二人の影だけが、長く、横たわっていた。




