変節3-1 指先の距離
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
「ごめんください」
「モル!」
何とはなしに玄関へ出たアウレリウスの視線の先、内門の向こうにモルガナが立っていた。
相変わらず全身真っ黒。
黒いドレスに黒い帽子。
癖のないまっすぐな黒髪に、深い黒の瞳。
アウレリウスは柔らかく微笑む。
「来そうな気がしていたんだ。
こんにちは、モル」
「こんにちは、アウレリウス。
アップルパイを持ってきたわ」
内門の錠を外し、彼女を中へと招き入れる。
黒い瞳が、アウレリウスの青い瞳をじっと見つめた。
「……あなた」
赤い唇が、意味ありげに弧を描く。
アウレリウスはパイの包みを受け取り、エスコートの為に静かに手を差し出した。
モルガナはその上に、指先を軽く乗せる。
「私、失恋したの。慰めてくれる?」
「僕で役に立つかな」
「聞いてくれるだけでいいの」
「それなら、喜んで」
二人が並んで歩き出した、そのとき。
「モルさん!」
玄関の奥からセティが駆け寄ってくる。
「あら、こんにちは。セティちゃん」
セティはモルガナの前に立つと、柔らかく微笑んだ。
「……あなたも、なのね」
モルガナの黒い瞳が、静かに細められる。
ふと、アウレリウスとセティの視線が交わる。
だがセティは、はっきりと顔を逸らした。
「僕も、モルさんとお話したいです。
だけど、アウルとは話したくない。
後日、モルさんの占いのお店に行ってもいいですか?」
「えぇ……もちろんいいけど。
それから、私のことは“モル”でいいわ」
セティは口角を上げたまま軽く頭を下げ、そのまま去っていった。
静寂が落ちる。
「セティちゃん……表情が、ずいぶん柔らかくなったわね」
モルガナが振り返る。
アウレリウスはわずかに瞳を伏せ、唇を固く結んでいた。
今にも涙がこぼれそうな顔。
モルガナは、つい、小さく笑う。
「……お話しましょう? ね」
「……うん」
白い指で、彼の目元をそっと拭ってやる。
「キッチンを教えて。私がお茶を淹れるわ」
「……ごめん」
「……仕方のない人ね」
アウレリウスはほとんど無意識に、モルガナの指の隙間に、そっと自分の指を滑り込ませた。
モルガナはそれを見て、また柔らかく笑う。
「……今日だけは許してあげるわ」
「……何を?」
「恋人つなぎを」
「恋人つなぎ?」
「指を絡めて手を繋ぐことよ」
アウレリウスは、絡めた指を見下ろした。
「……それは、そんなにいけないこと?」
「……あなたね。
そういうところだと思うわ」
ため息をつくアウレリウスの手を引いて、モルガナは城内へと足を進める。
その頭上では、青い空が、何も急かさずただ広がっていた。
風に押され、雲がゆっくりと千切れていく。




