変節2-1 湖へ続く道
王都オルドンのほど近く、湖のほとりに、古い城がある。
世界の理から、わずかに外れた場所。
神々の沈黙が、届かぬ距離。
城は変わらない。
湖も、森も、静けさも。
変わるのは、そこに立つ者の位置だけだ。
境界は、守られるものではなく、交わされるものとなった。
これは、世界に抗う物語ではない。
世界の中で、誰を選ぶかを問う章である。
◇
アウレリウスが鞍や鐙を手際よく取り付けるのを、セティはその後ろで、少し緊張しながら見ていた。
今日は二人で森へミントを取りに行く。
本格的な採集ではないため、アウレリウスは乗馬用ブーツを履いているが、二人とも白いシャツにジャケットを羽織っただけの軽装だった。
「セティ、おいで」
セティが馬に寄り、鐙に左足をかけると、アウレリウスが後ろから背と腰を軽く支えた。
「少し後ろに乗ってね」
「はい」
体を持ち上げて鞍に乗る。
続いてアウレリウスも鐙に足をかけ、セティの太ももの横をすり抜けるようにして前へ乗った。
手綱を握り、アウレリウスが振り返る。
「行こっか」
「……高いです」
「怖い?」
「……怖い」
「あはは。そっか。しっかり捕まって」
セティが服の裾を強く掴む。
その手に、アウレリウスは自分の手を重ねた。
「ほら、怖くないよ」
セティの手を引き、自分の腰を抱かせる。
「ね?」
「……それでも怖いです」
「あはは」
馬が歩き出す。
セティはアウレリウスの肩に頬を預けた。
「……走ってもいいかな?」
「……はい」
内門を抜けると、馬は少しずつ速度を上げる。
風が頬を打つ。
草原が波のように揺れ、
空の青がどこまでも続いている。
「……きれい」
「そうだよね。僕もこの景色が大好きなんだ」
森に入ると、馬の速度が落ちた。
枝の隙間から光が文様のように降り、ほどけてはまた形を結ぶ。
湿った土と葉の匂い。
少し視界がひらけると、そこには池があった。水草が浮き、小さな生き物が波紋をいくつも作り出している。
池をぐるりと回った先。水辺に澄んだ匂いが漂う。ミントの群生地だ。
「……ここですか?」
「そうだよ」
馬が止まり、アウレリウスが先に降りる。
彼はセティの斜め前に立ち、脇に手を入れた。セティが鐙に足をかけると、抱きとめ、そのまま強く引き寄せる。
「すごく楽しかった! セティは?」
木漏れ日が青い瞳に映り、きらきらと瞬いている。
「楽しかったです。
……すごい、キスしたい」
アウレリウスは一瞬きょとんと見て、柔らかく笑った。額に短いキスを落とす。
「……なんか違う」
眉を寄せるセティを見て、アウレリウスは声を立てて笑った。
腕を解き、何事もなかったようにショルダーバッグから試料袋を取り出した。
「ほら、ミントを集めよう」
「……はい」
再び馬に乗り、湖へ出る。
また抱きとめるように降ろすと、アウレリウスは湖の向こうへ腕を伸ばした。
「王都とグレイブハル城が見えるんだ」
「……本当ですね」
霧に包まれた王都と、グレイブハル城。
セティが感嘆の息を漏らすと、アウレリウスは小さく笑う。
馬は草を食み、二人は水辺の草原に腰を下ろした。
差し出された手に、セティが手を重ねる。
指が絡んだ。
「セティ……ありがとう」
「……何がですか?」
「いろいろ」
アウレリウスの青い瞳が細められる。
「僕のせいで、前の二人にはもう戻れないかもって……思ってたんだ」
セティはもう一方の手を、彼の頬に添える。
「アウル」
「ん?」
「……戻っては、いないです」
触れるだけの短いキス。
「……僕は踏み出したつもりです」
「……そっか。そうだよね」
セティは、淡く笑った。
「……膝が、震えます」
「あはは。初めて馬に乗ったらそうなるよね。全身筋肉痛にもなるかも」
「うわ……」
アウレリウスは笑い、甘い水の香りを含んだ風が、二人の頬を撫でていった。




