変節1-9 『立つ場所』最終話
アウレリウスは部屋に戻ると、盆をテーブルに置いた。
ハーブティーの香りがふわりと立ちのぼり、思わず口角が緩む。
ソファに腰を下ろし、脇に抱えていた本を開いた。
今日は少し風がある。窓枠が、小さくカタリと鳴った。
扉が開く。
いつも通り、夜着のボタンを上から下まできっちり留めたセティが入ってくる。
「……ハーブティーですか?」
「そう。レモンバーム」
ソファの端で肘掛けにもたれていたアウレリウスの隣に、セティはぴたりと腰を下ろし、カップを手に取った。
「爽やかな香りです」
「鎮静効果があるから、夜にいいんだ。
庭園に生えてるのを見つけた」
「……そうですか」
静かにハーブティーを飲むセティを、アウレリウスはしばらく見つめてから、本を閉じた。
「ねぇ、セティ」
「はい」
「今度、一緒に植物採集に行ってみようか。
……馬に乗って、さ」
セティがぱっと顔を上げる。
灰の瞳が、わずかに華やいだ。
「……馬? 馬車ではなく……ということですか?」
「そう。馬。
僕、乗馬ができるんだ。ずっと黙ってたけど……。
セティが興味あるなら、教えてもいいよ。やってみたい?」
首を傾げると、金の髪が燭台の灯りを柔らかく弾いた。
「……やってみたいです」
「そう。鞍を買い足さないとね」
カタリ、と音が鳴る。
セティがカップをテーブルに置いた。
「なぜ、黙っていたんですか。乗馬のこと」
アウレリウスはわずかに身を引き、視線を逸らす。
「分からないけど……。
たぶん僕は、君をこの城に閉じ込めておきたかったんだ……」
蝋燭の火が、小さくぱちりと弾けた。
セティはアウレリウスの腕を掴み、その頬にキスをする。
驚いてこちらを向いたアウレリウスの唇に、今度は軽く口づけを落とした。
呼吸が、部屋に静かに落ちた。
セティは座り直すと、満足げに口角を上げ、再びカップを手に取る。
「……セティは、なんというか……急に積極的になったよね……」
呆然とするアウレリウスをよそに、セティは小さく笑った。
「アウルが、どうも僕の気持ちを分かっていないみたいなので」
「……そっか」
アウレリウスもカップを取り、一口飲む。
ふと何かを思いつき、顔を上げた。
「……あぁ、そっか。
セティの乗馬服を仕立てよう。
深緑を基調にしてさ、銀糸の刺繍を入れて――」
「嫌です」
「……え」
アウレリウスの眉が、しょんと下がる。
「作るにしても、落ち着いたものがいいです」
「……絶対似合うのに」
セティは両手でカップを持ち、口をつけてから小さく息を吐いた。
それを見て、アウレリウスは柔らかく笑う。
「ミントの自生場所があるんだ。そこに行こう。
シロップにしても、ティーにしても美味しい。
最初は……セティは、僕の後ろに乗ってさ」
「楽しそうです」
「うん。楽しそう」
二人で、笑う。
夜が、ゆっくりと部屋を抱いていく。
まだ変わらない二人の距離を、そっと奏でるように。
◇
世界は、何も答えない。
理は正しく、
神々は沈黙し、
選ばれた血は、次を待つ。
壊れたものも、
壊れなかったものも、
等しく世界の中にある。
それでも、
誰かが何かを選んだ痕跡だけが、
静かに残る。
城は、今日も湖畔に立っている。
変わらぬ姿のまま。
ただ一つ、
立つ場所だけを、
少しずらしたまま。




