拾遺5-8 『境界を守るもの』最終話
その日の夜。
厚い雲の切れ間から、朧月が浮かんでいた。
アウレリウスは窓辺に立ち、それを静かに眺めている。
開け放たれた窓から、湿り気を帯びた風が吹き込んできた。
セティはいつものようにソファに背筋を伸ばして座り、本を開いている。
だが、視線はずっと同じページに留まったままだ。
――見学者の男の、怯え切った顔が、脳裏から離れない。
まるで遠くの景色を眺めているような、現実味のない感覚。
あの男を怯えさせたのは、自分だ。
――どうやって?
セティは、自分の両手のひらを見つめた。
「昔ね……」
アウレリウスの声に、はっと顔を上げる。
彼は窓の外を見たまま、金の髪がかすかに風に揺れていた。
「昔、何度か男の人に覆い被さられたことがある。
はじめは、何をしてるのかも、何がしたいのかも分からなかった。
ただ、怖いなって思った」
小さく、アウレリウスは笑った。
諦めを含んだような、どこか寂しい笑い方だった。
「あぁ……今はさすがに、目的くらいは分かるよ」
セティは、ほんの少し目を見開く。
――アウルは無垢だと思っていた。
――でも、知っていたんだ。
セティの指先が、わずかに震える。
――それなら、どうして。
――どうして、もっと強く拒まないの?
――どうして、下心のある人間にも、笑いかけるの?
横顔を見る。
青い瞳は、いつもと変わらず澄んでいた。
――人間の欲を、彼は知っている。
――それでも、人の善意を疑わない。
――疑わないように、しているのだろうか。
――何度、裏切られても。
「でも……毎回、何かに助けられる気がするんだ」
セティはそっと立ち上がり、アウレリウスに近づいた。
彼はゆっくりと振り返り、いつものように柔らかな微笑みを浮かべる。
鈍い月光をまとった青い瞳は、どんなものよりも美しい。
――この人が好きだ。
――守ってあげたい。
「忘れてください」
「……え?」
アウレリウスが、不思議そうにセティを見つめる。
「怖かった記憶なんて」
「……でも」
「アウル」
セティが手を差し出すと、アウレリウスはそれを取り、自然に指を絡めた。
「……うん」
「怖かったら、ちゃんと“助けて”って言ってください」
「……」
アウレリウスの眉が下がり、困ったような表情になる。
「アウル。“うん”って言ってください」
「……セティ?」
「僕は、アウルが怖い思いをするのが、耐えられない」
灰の瞳が、わずかに潤む。
アウレリウスは息を呑んだ。
「セティ……ごめん」
「アウルが謝ることじゃない」
アウレリウスは、少し困ったように笑った。
「……そっか。そうだね」
月が、雲に隠れる。
伏せられた睫毛を、セティは静かに見つめていた。
◇
湖畔に建つ、グレイヴハル城。
静かで、美しく、
どこか不思議なこの城は、
月と、輪を持つ星の影に佇んでいる。
創造神オルドが世界を組み、
太陽神ソラエがそれを見つめる、
その只中で。
息を潜め、
語られぬ秘密を抱いたまま。
ホムンクルスである二人は、
この城で、今日も静かに暮らしている。
誰に知られずとも、
それでも――世界は、続いていく。




