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グレイブハル城の観測者  作者: かも ねぎ
拾遺 第五章『境界を守るもの』
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拾遺5-4 霧の日の警告


 少しだけ、その日は霧が出ていた。


 馬車が内門をくぐったとき、セティは本から顔を上げた。


「あ、見学者の人が来たね」


 受付室の小窓の前で、机に肘をつき、アウレリウスはのんびりとそう言った。


 やがて、小窓の向こうに見学者が立つ。


 アウレリウスは料金を受け取ると、丁寧に数えて金庫にしまった。

 それからセティに歩み寄り、彼の額に短くキスを落として、柔らかく笑う。


「セティ、案内に行ってくるね」


 アウレリウスが受付室を出ていく。

 セティはその背を見送った。


 扉が閉まる。


(……少し、胸騒ぎがする)


 読んでいた本を閉じる。

 一瞬だけ迷い、それから立ち上がった。


 霧の日は、光がぼんやりとしている。

 どこにも、はっきりとした影が落ちない。


 本を抱えたまま、セティは受付室を出た。


 遠くで、アウレリウスの声がする。

 笑っているようだった。


(……気のせいだったかもしれない)


 ゆっくりと階段を上る。


(気のせいなら、それでいい)


 ――アウルが、嫌な思いをしないなら。


 踊り場で立ち止まり、階段の先を見上げる。


 遠ざかる足音。

 ステンドグラスを透かした淡い光が、自分の手を染めていた。


 彼らは、淡々と見学順路を歩いているようだった。


(……僕が行かなくても、大丈夫かな)


 それでも、何かがセティを急かす。

 『行け』と言われたような気がした。


 セティは、再び階段を上がった。




 アウレリウスたちは、回廊に差し掛かったようだった。


 今までぼんやりとしか聞こえなかった声が、なぜかはっきりと届く。


「君は、芸術品のように美しいね」

「……そうかな。どうもありがとう」


 ――アウルは、たぶん困ったように笑っている。


「どうだい。私の愛人にならないか」


 セティの眉が、わずかに歪む。


「それは……ごめんね。

 お断りするよ」


 下卑た笑い声が響いた。


「まぁ、少し考えてみたまえ。

 いい生活をさせてあげるよ。こんなふうに働かなくてすむんだからね」


 ――アウルは、この城が好きだ。


 エドマンド・ヴァレイン侯爵の遺した、この城を。

 誇りに思っている。

 どうして、何も知らずに、そんなことが言えるんだろう。


 セティは足を早め、二人の後を追った。


 いったん遠のいた声が、また近づいてくる。


「今度迎えに来よう。

 城の外で会おうじゃないか」

「そんなことされても、困るよ」

「何が好きだ?

 演劇か? 楽団を呼んでもいい」

「僕は、外には出ないよ」


 夫人の部屋の入り口から、中をのぞく。

 彼らはバルコニーで話しているようだった。


 いつも朗らかなアウレリウスの表情が、少しだけ硬い。

 見学者の男が手を伸ばし、アウレリウスはそれを避けるように身を引いた。


「見学順路は、全部見たね。

 戻ろう」


 柔らかく告げて、アウレリウスは踵を返す。

 入り口に立つセティに気づくと、目元が優しく細められた。


「セティ、見学は終わったよ。玄関に戻るね」

「……はい」


 その背後からついてきた男が、セティに気づく。


「ねぇ」


 セティが声をかけると、男は面倒そうに振り返った。

 アウレリウスは、もうずっと先まで歩いている。

 こちらの声は、届かないだろう。


「触らないでね、彼に」


 男は片眉を上げる。


「私は、彼には指一本触れていない。

 ……まだな」

「僕は、警告したよ」


 感情を見せない少年の表情に、男は訝しむような視線を向けた。

 だが、それ以上何も言わず、背を向けて歩き出す。


 ほとんどの見学者は、善良だ。

 時折、アウレリウスに興味を持つ者も現れるが、たいていは二度と来ない。


 ――だが、ごく稀に、来る者はいる。


 セティは、男の背を見つめた。


(……あの人は、どっちだろう)


 はじめからそれが分かれば、城に入れないのに。


 夫人の部屋の、バルコニーへの扉が開け放たれたままだ。


 セティは部屋に入り、静かに扉を閉めた。


 外は霧。

 湖も、空も。


 何も、見えなかった。



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