其の五「約束は、二度殺された」
浦島太郎が帰ってから、竜宮城ではまだ幾日も経っていなかった。
けれど水鏡の中の地上では、すでに長い年月が流れているはずだった。
浦島を送り出した翌朝、私は水鏡の前に座った。
帰った人間のことは手放すと決めていた。
それでも、気がついたら水鏡を覗いていた。
映っていたのは、昨日彼を送り出した浜辺のままだった。地上ではまだ、ほんの数刻しか経っていないのだと分かった。
竜宮城と地上では、時間の流れ方が違う。頭では知っていた。
それでも、水鏡の中の変わらない浜辺を見ていたら、自分がいかに人間とかけ離れた場所にいるかを、改めて突きつけられた気がした。
私は水鏡から離れ、次の来訪者を迎える準備をした。
来訪者を送り出すたびに、ふと水鏡を覗いた。
最初のうちは、浜辺の景色はほとんど変わらなかった。
砂の色が少しずつ変わり、打ち寄せる波の形が変わり、やがて浜辺に建っていた小屋が消えた。
地上では、確実に時間が流れていた。
それでも、浦島の姿はまだ映らなかった。
ある夜、水鏡に浜辺に立ち尽くす浦島の姿が映った。浦島が知っている顔も、帰る場所も、何も残っていなかった。
彼は、数百年という絶望の重みに耐えかねたのだろう。
しばらく呆然と立っていた彼の手が、縋るように玉手箱に差し出される。
私は、息を止めて見つめた。
止めない。見届けるだけ。
そう決めたはずの心が、裏腹な声を上げる。
(開けないで。お願いだから……私を、これ以上独りにしないで)
白い煙が、鏡を覆った。
彼は、約束を破った。けれど、それは帝のような裏切りではなかった。
ただ、あまりに重すぎる現実から逃れるための、人間としての限界だった。
一瞬のうちに、彼の体は朽ち、砂浜に骸となって横たわった。
彼は、これまでの来訪者と同じように消えた。
私は、水鏡からそっと目を逸らした。
砕け散ったのは鏡ではなく、私の内側にわずかに残っていた、名もなき期待だった。
波の音だけが、虚しく響く。




