其の三「期待することを、やめた」
私が選んだ場所は海の底。
そこは、思っていたより広かった。
そして、沈んでいく間は暗いと思っていたけれど、底に辿り着いてみると、そこには光があった。
月の光でも、地上の火の光でもない、海の底だけにある、青白くて静かな光。
しばらくその光の中に漂っていると、海が私のために作ったのか、それとも私が無意識に望んだのか、周りに宮殿が出来上がっていた。
珊瑚の柱が立ち、貝殻の床が広がり、四方には静かな水の壁。そして、奥の一室に地上を映す水鏡がひとつ、静かに佇んでいた。
不変の竜宮城と、いつの間にか呼ばれるようになっていた。
ここなら誰も居ないと思っていた、この場所に人間が迷い込んでくるようになったのは、竜宮城ができてからしばらくしてからのことだった。
最初に来たのは、年老いた漁師だった。
嵐に流されたのか、それとも何かに引き寄せられたのか、ともかく彼は竜宮城の門の前に立っていた。
途方に暮れた顔で、きょろきょろと周りを見回していた。
私は少し迷った。
迎え入れるべきか、迷わず追い返すべきか。
ここは私が選んだ場所で、誰かと共有するつもりはなかった。
けれど老いた漁師の顔を見ていると、追い返す言葉が出てこなかった。悪意がなく、ただ迷い込んだだけの人間に何と言えば良いのかを長く考えるのも、煩わしくて、仕方なく中へ通した。
食事を出して、四季の間を見せた。
漁師は子どものように目を丸くして、あちこちを眺め回した。
その顔が、翁に少しだけ似ていた。
私はその考えを、すぐに打ち消した。
帰る日、漁師は何度も頭を下げた。
「恩人だ、一生忘れない」と言った。
私は玉手箱を持たせて、「もう一度竜宮城に来たいなら開けてはいけない」と伝えた。
漁師は不思議そうな顔をしながらも、大切そうに箱を抱えて帰っていった。
それからは、時折迷い込んでくる人間をもてなし、適当な頃合いを見ては玉手箱を渡して帰した。
ただし、開けるか、開けないか。その選択に、私は一切の干渉をしない。
人間が勝手に選び、勝手に消えていく様を、私はただ海の底から見届ける。
そう決めていたのだ。
浦島太郎が来るまでは。




