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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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第十話 私自身の十年

国境を馬車で越えた。


向こうの国の空気というのは、何かが決定的に違う、と思っていた。十年、王都の屋敷の窓辺から、隣国の方角の空を何度か眺めたことがあった。眺めるたびにあちらの空は、こちらより少し青いような気がしていた。

実際に馬車の窓から見上げてみると、空の青さはこちらとほとんど同じだった。

違うのは、私がその空の下に自分の意志で立っている、ということ。

それだけのことが、思っていたよりずっと大きかった。


「奥様。お疲れではございませんか」

向かいの席のマルゴが、控えめに声をかけた。

「いいえ。むしろ——少し、息を深く吸えるくらい」

「それは何より」


マルゴはうっすら笑った。

笑い方が、王都の屋敷で見ていた頃より、半段若かった。


馬車はレーヴェンシュタイン公国の王都へ向かっていた。

新しい国王陛下のご即位を祝う戴冠祭の、招待客として。

私の招待状の宛名は、こうあった。


『——ヴェントラント家のエレオノーラ嬢、ならびにその同伴者』


同伴者の欄は空白だった。

私が誰の同伴者として行くか、あるいは誰を同伴者として連れていくか、書状は私の選択に任せていた。

書状の隅には、ヴィルヘルム閣下のいつもの字で、短くこう添えられていた。


『ご当日、城門にてお迎えに上がります』


それだけだった。



戴冠祭の初日。


私は城の貴賓館で、装いを改めた。

礼服は王都を発つ前に、マルゴが整えてくれていた。深い藍色の、目立たない、けれど布の質だけはきちんとしたドレスだった。

華美ではない。地味でもない。

ちょうど、今の私の姿勢に合っていた。


姿見の前に立った。

鏡の中の女は——見覚えがある、と思った。

十年前の、嫁ぐ前の、十八の春の私の顔と、どこか似ていた。

似ていたが、同じではなかった。

あの頃の私は、自分の顔をろくに見ていなかった。

今日の私は、自分の顔を見ていた。



城門に、ヴィルヘルム閣下は本当に立っていらした。


公式の礼装をお召しの彼の姿を見るのは、初めてだった。

肩章の縫い取りも、襟の細工も、一つひとつがきちんと仕事のされたものだった。

ただ、襟元の整え方だけがいつもより、ほんのわずかに雑だった。

お一人でご自分でお整えになったのだろう、と私はすぐに分かった。

従者にお任せにならなかった理由は、たぶん——今日のためのものを、誰かに見せて整えていただくのがお嫌だったから、なのだろうと思った。


「ようこそお越しくださいました」

「お招きいただき、ありがとうございます」


私たちは城門の前で、形式どおりの挨拶を交わした。

形式どおりの挨拶を交わしたあとに、お互いしばらく、何も言わなかった。


私はようやく、口を開いた。


「閣下」

「はい」

「昨日、お返事を申し上げそびれましたわ」

「お返事、と」

「明朝で構いません、といただきました、戴冠祭のお誘いの」

「……」

「お返事を、ここに申し上げますわ。はい、と」


ヴィルヘルム閣下はわずかに目を伏せた。

伏せて、それから、自分の左の腕を、ごく自然にわずかにこちらに差し出した。

踊り場のあの時と、同じ動作だった。


私はその腕に指先を置いた。

今度はためらわなかった。



中央階段は、王宮のものよりも半分ほど幅が広かった。


両側の壁に、戴冠の祝いの旗が垂れ、踊り場には楽団が、新しい国王陛下のための曲を、抑えた音量で奏でていた。

階段の下の広間には、両国の貴族が入り混じって立っていた。

わが国の王家からも、ご名代の方々がいらしていた。

末席の方には、王家の慈悲で招待の届いた、地位のない、けれど由緒ある家の方々の姿もあった。


私はヴィルヘルム閣下の腕を軽く預けたまま、階段を上り始めた。

段ごとに、ドレスの裾がわずかに揺れた。

段ごとに、見上げる視線の数が、少しずつ増えていった。


中央階段の、ちょうど中ほどの段で、私はふと視線を下へ流した。


末席のいちばん端の、柱の陰に——見覚えのある影が立っていた。


レオポルトだった。


侯爵の礼装はもう、ない。

身に着けているのは、地味な無地のよそ行きの上着だった。

袖口が、よく見るとほつれかけていた。

彼の頬はこけていた。半月前まで侯爵の食卓に座っていた頬とは、別人のようだった。

彼は片手に、薄い銀の杯を握っていた。

握る指がわずかに震えていた。

震えていることに、彼自身は気づいていないようだった。


レオポルトは私を見上げていた。

見上げていたが、その目にはもう、私を引き戻そうとする力はなかった。

あったのは——たぶん、初めて見る、何かを見ている目だった。

自分が何を失ったのかを、生まれて初めてひとつずつ数え始めている目だった。


私は長くは、彼を見なかった。

長く見るのはもう、私の仕事ではなかった。

ただ、ごく短く、彼の方へ目礼をした。

目礼はお別れの形だった。


レオポルトの手の中で、銀の杯が——わずかに傾いだ。

中身がこぼれた。

こぼれた液体が、磨かれた床の上で丸い染みになった。

書斎で、白い紙の上に私が落としてしまった、あのインクの染みとよく似た形だった。


彼はそれを、拾うことも拭うこともできずに、ただ立ちすくんでいた。

誰も彼に手布を差し出さなかった。

近くに立っていた給仕の者が、無言で布を彼の足元の染みの上に置いた。

彼にではなく、床に、だった。

彼はその布をしばらく見ていた。

それから、ようやく、しゃがんで、自分の手で自分のこぼした液体を拭き始めた。

かつて十年、屋敷の応接間でこぼれたものを片づけたことが一度もなかった人だった。



中央階段の踊り場のすぐ手前で、ヴィルヘルム閣下は足を止めた。


止めて、私の方へ向き直った。

私の指先はまだ、彼の腕の上に置かれていた。


会場の視線が集まった。

集まった視線の中で、ヴィルヘルム閣下は、ごく自然に私の前に——片膝をついた。


楽団の音がわずかに止まった。

それから、楽団の指揮者は聡明な方らしく、すぐに音を絞った形で続けた。

音はもう、儀式の音ではなく、二人の声を邪魔しないための背景の音に変わった。


「奥様」

「はい」

「七年前から、貴方様のために生きて参りました」

「……」

「これからも、貴方様のお隣にいさせてください。

ご結婚としてでも。お友達としてでも。同僚としてでも。

形はこれから、二人でお決めください。

私がお願いしておりますのは——形ではなく、お隣にいる、ということ、それだけです」


私は口を開きかけて、止めた。

止めた、というよりも、声がすぐには出てこなかった。

出てこなかった理由は、頭の中の帳簿が初めて、答えを持っていなかったからだった。


私は十年、答えを用意してから口を開く女だった。

今日は答えが用意されていなかった。

用意されていなかったが、答えは自分の体のどこかに、もうあった。

体のどこかから、言葉にするだけだった。


「閣下」

「はい」

「私はまだ——『私は』のあとに続く言葉を、決めかねております」

「ええ」

「ですから、今すぐはご結婚、とは申し上げられませんの。

ただ、お隣に——いさせていただきたい、とお返事することだけは、できますわ」

「十分です」

「いつか続きを書ける日が来ましたら、その時に、改めてお話いたしましょう」

「ええ」

「お待たせいたしますわよ」

「……いくらでも」


会場のどこかで、ごく小さく笑い声が漏れた。

誰かの婦人だろうか。あるいは、楽団の若い演奏家の方かもしれなかった。

笑い声は、悪意のないやわらかなものだった。


ヴィルヘルム閣下は立ち上がった。

立ち上がる時、彼の手が私の指先を軽く握り直した。

握る、というほどでもない軽さだった。

けれど、握り直された、ということは、確かに感じた。


私はその手のひらの温度を、しばらく覚えていようと思った。



戴冠祭の夜会の席で、私は思いがけない方のお話を、耳にした。


末席の商人筋の婦人方が、扇の陰でこんな噂を交わしていらした。


「ロート男爵家のミネルヴァ嬢——あの方、地方のどなたかのお家に、家庭教師としてお雇われになったそうよ」

「家庭教師。あの方が」

「ええ。けれど、お雇い先のお子様が、社交界の絵物語でよく『身の程を知らない男爵令嬢が、身の丈に合わない椅子に座ろうとしたお話』を、読んでおねだりなさるとか」

「……それは」

「読み聞かせをなさるそうよ。ご本人の口から」


私は聞かなかったふりをして、通り過ぎた。

通り過ぎてから、廊下の柱の陰で、しばらく立ち止まった。

ミネルヴァ嬢のことを、私は好いてはいなかった。

けれど、彼女がこれから毎日、自分の口で自分の影を、お子様に読み聞かせていく、その時間の長さを想像すると——なんとも言えなかった。

想像する義務は、私にはない。

ない、と自分に言い聞かせて、私は廊下を歩き続けた。



別の婦人の輪では、別の話が出ていた。


「先代のケーニッヒスベルク侯爵夫人が——王都のお屋敷の窓辺で、毎日、お客様をお待ちになっていらっしゃるそうよ」

「お客様」

「いらっしゃるはずの方が、誰もいらっしゃらないんですって」

「お気の毒に」

「ご本人は、それにお気づきになっていないらしいの」


私はまた、聞かなかったふりをして通り過ぎた。


姑の窓辺の沈黙の長さを、私は第二話の朝——いえ、あの朝、想像した。

あの想像が、本当になってしまったらしかった。

姑が私にして差し上げなかったのと、同じだけのものを、姑はこれから、ずっとご自分で引き受けていくのだろう。

それは、私の差配する話ではなかった。

ただ、そのことを聞き流せる距離に、私が立てるようになったことだけが——たぶん、私の十年のお返しなのだった。



戴冠祭の二日目の朝。


私は貴賓館の小さな書斎で、机に向かっていた。

机の上には、白い紙とペンとインクが置かれていた。

王都から持ってきた——『私は』とだけ書かれたあの紙も、引き出しの中に入れていた。


新しい紙を一枚取った。

インクをつけた。


最初の一行に、私はこう書いた。


『これより、私自身の十年を始めます』


書いてから、しばらくその一行を眺めた。

インクが乾いていく音は聞こえないけれど、紙の繊維が少しずつ色を吸っていくのが、目で分かった。


——『私自身の十年』。


それが何になるのかは、まだ決めていなかった。

両国の社交の橋渡しになるのかもしれない。

ヴィルヘルム閣下のお友達のままでいるのかもしれない。

あるいは、いつか別の名で、彼の家族になるのかもしれない。

名前はまだ決めていなかった。

名前を決めない自由があるということを、私は生まれて初めて知ったところだった。


私はペンを置いた。

窓の外を見た。


戴冠祭の朝の城下町は、まだ人通りがまばらだった。

パン屋の竈の煙が一筋、空に上がっていた。

煙の根元の低いところで、誰かが火を起こしていた。

火を起こす音は、ここまでは届かなかったが、音の気配だけは、なんとなく感じられた。


——どこかの辺境の村で。


私はふと思った。

誰かがこれから、自分の手でコーヒーを淹れようとしているかもしれない、と。

何度淹れても、誰かの淹れたものと同じ味にはならないことに、初めて気づいているかもしれない、と。

気づいて、それでも淹れ続けるしかないことを、これから長い時間をかけて、覚えていくのだろう、と。

それは——たぶん、その方のこれからの十年なのだろう、と。


その方は、自分の食卓に誰かを招くこともない。

誰かに招かれることも、もうない。

朝、誰の声で起こされるでもなく、夜、誰におやすみを言うでもなく。

そういう日々を、これから長く、長くお過ごしになる。

かつて千人の前で笑顔で挨拶をしていた声は、もうご自分の名を呼んでくれる人をお持ちにならない。

それを毎朝、コーヒーの自分とは違う味の中で、思い出すのだろう。

それが——たぶん、いちばん長いざまぁの形なのだった。


私はその方のことを、長くは思わなかった。

長く思うのは、もう私の仕事ではなかった。


ただ、自分のコーヒーをこれから、自分で淹れたい、と思った。

ヴィルヘルム閣下にお淹れする日がもし来たら、その時には、二度目でいいから、上手に淹れられるようになりたいと思った。

一度目は、たぶん失敗してもよかった。

失敗のある淹れ方を、私はまだ自分に許していなかった。

許してもよい、と、今朝、初めて思った。



書斎の扉が、控えめに叩かれた。


「奥様。閣下がお庭でお待ちでございます」

マルゴの声だった。


「すぐ参ります」


私は紙を、丁寧に引き出しにしまった。

鍵を首から外そうとして——途中で止めた。

今日は外さなくてよい、と思った。

鍵は首に戻した。


立ち上がる時、椅子の脚が床を軽く擦った。

擦った音が、思っていたよりよく響いた。


廊下を歩きながら、私はふと自分の靴音を聞いた。

自分の靴音は——王宮の春の式典の朝より、また少しだけ軽くなっていた。


軽くなった分、一歩の幅が半歩長くなったような気がした。

半歩長くなった分だけ、これから向かう先の景色が、半歩分早く見えてくるのだろう。


それくらいの速さで生きていきたい、と、私は思った。

急がないけれど、止まりもしない、その速さで。


——いってらっしゃい、十年前の私。


ようやく心の中で、そう見送ることができた。


私は廊下の角を曲がった。

窓辺の紫の花が——今日も傾いだまま、咲いていた。

私はそれを直さずに通り過ぎた。


通り過ぎる時、自分の口の端が勝手に上がっているのを感じた。

たぶん、ほんとうに笑っていた。

誰かに見せるためではない、笑い方で。

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