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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第九話 春の式典の階段

その朝、私は姿見の前に長く立っていた。


王宮春の式典の招待状は、三日前に届いていた。

差出人は、王太后陛下のお名前。

封蝋の脇には、私的な印ではなく、王家の公式の小印が添えられていた。

公式にお招きいただいた、ということだった。


招待状の宛名は「ヴェントラント家のご令嬢、エレオノーラ様」と書かれていた。

ケーニッヒスベルクの文字はなかった。

私はその宛名を、しばらく指でなぞっていた。

私の名が、誰のお家のものでもない、ただの私の名として王家から呼ばれたのは、嫁ぐ前の一度だけだった。


姿見に映った私は——いつもの社交界の私でも、東屋で雨を見ていた私でもなかった。

鏡の中の女が誰なのか、私自身もまだ決められていなかった。

ただ、十年の薄化粧の癖を、半分だけ抑えた。

頬の紅を、いつもよりわずかに薄く。

口紅の色を、いつもより少しだけ深く。

それだけのことで、鏡の中の女は別人のようにも自分のようにも見えた。


「奥様。お時間でございます」

扉の向こうから、マルゴの声がした。

「ええ。今、参るわ」


私は姿見に、最後にもう一度、目を合わせた。

合わせて、頷いた。

誰に頷いたのかは、自分でも分からなかった。

分からなかったが、頷くのにためらいはなかった。


◇


王宮の春の式典は、大広間と、その奥の、二階まで吹き抜けた中央階段で開かれていた。


私は王宮の使者に案内されて、貴賓の通路から中に入った。

中央階段の踊り場に、王太后陛下の御座があった。

階段の下には、貴族の方々と各国大使が立ち並んでいた。


私が階段下の広間に足を踏み入れた瞬間、近くに立っていた数人が、扇の陰で顔を寄せ合った。

扇の動きは、四つ。

四つで、だいたい噂の輪がひと回りしたのが分かった。

「あの方が」「ええ、あの夜の」「今日はお一人で」「いいえ、あちらの隣国の——」

私はそういう囁きの帳簿を、頭の中で開かなかった。

今日は開かない、と決めていた。


人垣の隙間に、レオポルトの姿が見えた。

彼はまだ、侯爵としての礼装で立っていた。

今日の式典までは、まだ爵位は彼のものだった。

彼の隣には姑の姿はなかった。

姑が本日、お越しにならなかったのか。あるいは、お越しになることを許されなかったのか。それは、私には知れないことだった。


レオポルトは私を見つけ、わずかに踏み出しかけた。

踏み出しかけて止まった。

止まったのは彼の意志ではなく、隣に立っていた宰相閣下のお側付きの方が、彼の袖を目立たぬように軽く引いたからだった。


宰相閣下のお側付きが、元宰相補佐の袖を引く。

それが何を意味するかは、社交界に出ていれば誰でも分かる合図だった。


——もう近づくな、と。


私は視線を外した。

外して、自分の歩みを続けた。


◇


中央階段の手前まで進んだ時、わずかに人の流れが変わった。


宮廷の儀仗官が、王太后陛下の御座の前に進み出ていた。

その手元に、白い封蝋の書状と、もう一つ——黒い封蝋の書状があった。


私は足を止めた。


廊下で書類袋を抱えてこられた外務省の方の、あの黒。

夜、書斎でヴィルヘルム閣下がお話くださった、本国からの正式な書状の封の色。

今日、この場でそれが開かれる、ということだった。


——黒は、外交上の異常事態を伝える色。


頭の中の帳簿のいちばん古い項目が、勝手に開いた。

私はそれを閉じる気にはなれなかった。

今日だけは開いていてよい、と思った。


儀仗官が声を張った。


「——レーヴェンシュタイン公国大使、アシェンバッハ公爵閣下より、貴国王家への正式書状」


会場の空気が変わった。

それまで扇の陰でひそひそと交わされていた囁きが、一斉に止まった。

止まった瞬間のしんとした空気の中で、儀仗官の声だけが響いた。


書状の内容が読み上げられた。


宰相閣下のお屋敷の昼食会における、宗教的儀礼の重大な不手際。

当該席次表を作成した者、すなわちケーニッヒスベルク侯爵レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルク。

両国関係への深刻な影響。

公国側の相応の対応の要請。


短い、淡々とした文面だった。

淡々としていたが、その淡々さがいちばん重かった。

怒鳴られる方がまだ軽かったかもしれない、と私は思った。


会場の視線がレオポルトに集まった。

彼の顔から、血の気が引いていくのが、人垣の隙間から見えた。

彼は何か言おうとして、口を開きかけた。

けれど、宰相閣下のお側付きが、もう一度、彼の袖を引いた。

今度は目立たぬようにではなく、はっきりと引いた。

レオポルトの口は半開きのまま止まった。


◇


王太后陛下が御座の上で、わずかに顎を引かれた。


それが合図だった。


国王陛下のお側に控えていた宮内官が進み出て、別の書状を開いた。


「——本日の式典をもって、ケーニッヒスベルク侯爵家の侯爵位を一時取り上げ、王家直轄とする。

領地の経営に関する一切は、追って王宮監査局より指示を出す。

当主ならびに関係者は、速やかに本件の調査に応じよ」


レオポルトの膝が、ほんのわずかに折れた。

折れたが、倒れはしなかった。

彼は両手で、自分の礼装の上着の襟元を握っていた。

握ったまま、しばらく何も言えずに立ちすくんでいた。


会場の誰も、彼を助けなかった。

隣に立っていた、宰相閣下のお側付きの方も、半歩、彼から離れていた。


——ああ。


私はそっと息を吐いた。


責める気持ちはわかなかった。

勝ち誇る気持ちもわかなかった。

ただ、彼が生まれて初めて、自分の足元を自分の目で見た瞬間に立ち会っている、という感覚だけがあった。

足元を見るのに、十年と、ある朝の式典の長さが必要だったのだ。

それは長すぎたのか、それとも短すぎたのか、私には判じかねた。


◇


王太后陛下のお声が、御座の上から響いた。


「——ヴェントラント家のエレオノーラ嬢」


私は顔を上げた。


「中央階段の踊り場までお進みなさい」


会場の視線が、今度は私に集まった。

集まった視線の中を、私は歩いた。

階段の下から踊り場まで、一段ずつ。

ドレスの裾を、片手で軽く持ち上げる癖だけは、十年で染み付いていた。

それは今日も出た。

出たけれど、それでよかった。

全部の癖を捨てる必要はないのだった。


踊り場の手前まで上がった。

王太后陛下のお顔が、目の高さに近かった。


「ケーニッヒスベルク家の十年。

そなたの差配が、わが国の社交の骨組みのひとつであったこと。

我らは知っております」


私は深く礼をした。

返す言葉は思いつかなかった。

思いつかなかったので、礼の動作だけで答えた。


「ご苦労でありました」


——ご苦労さま、と。


それは十年で誰一人、私に言わなかった言葉だった。

夫も、姑も、料理人も、家令も、誰も言わなかった。

言わなかったから、私も自分が苦労していることに気づかないふりをしてきた。


王太后陛下のお言葉に、私はもう一度、深く礼をした。

礼の途中で、目の縁がわずかに熱くなった。

熱くなったが、こぼれはしなかった。

こぼさない癖だけは、十年でいちばんよく鍛えられていた。


◇


王太后陛下が視線を、踊り場の反対側に向けられた。


「アシェンバッハ公爵」

「はい」


ヴィルヘルム閣下が、踊り場の反対側から進み出た。

彼は私と同じ高さの段に立った。

私たちの間には、王太后陛下の御座を挟んで、二つ分の距離があった。


「両国のこれからの関係について。

本日、書状を頂戴いたしました。

返答は後日、改めて書状にて差し上げましょう」

「ありがたきお言葉でございます」

「ただし——」


王太后陛下はそこで、少し声を和らげられた。


「両国の社交の橋渡しが必要な場面が、これから増えるかもしれませぬ。

その任を、ヴェントラント家のエレオノーラ嬢にお願いしたいと考えております。

ご当人がお受けくださるならばの、お話ですが」


私は息をゆっくり吸った。


——お受けするか、しないか。


決めるのは誰でもなく、私だった。

昨夜、書斎で紙の上に書いた『私は』の続きを、私はまだ書けていなかった。

書けていなかったが、続きを書く場所が今、目の前に開かれていた。


私は踊り場の、王太后陛下の御座の前で礼をしてから、ゆっくりと向きを変えた。

変えた先には、ヴィルヘルム閣下が立っていた。

彼は私を見ていた。

急かさない目で見ていた。


私は彼の方へ、半歩進んだ。

階段の段の、ちょうど半段分。

半段分の距離を、私の方から詰めた。


「閣下」

「はい」

「お腕をお貸しいただいてもよろしいでしょうか」


私の声は思ったより落ち着いていた。

落ち着いていたのは、声を押さえつけていたからではなく、押さえつける必要がもう、なかったからだった。


ヴィルヘルム閣下は——一瞬だけ目を伏せた。

伏せて、それから顔を上げた。

顔を上げた時の彼の口の端に、ほんのわずかな、かすかな動きがあった。

笑った、と呼ぶには足りない動きだった。

けれど、十年、人の表情ばかりを読んできた私には、それが何であるかが分かった。


彼は自分の左の腕を、ごく自然にわずかにこちらに差し出した。


私はその腕に、自分の指先をそっと置いた。

置いた瞬間、会場の空気がまた、わずかに動いた。

今度は、止まる空気ではなく、ふくらむ空気だった。


王太后陛下が御座の上で、わずかに頷かれた。

頷きは、御許しの形だった。


◇


階段の下で、レオポルトが自分の足を見ていた。


彼はもう、私の方を見ていなかった。

彼の視線は、自分の磨かれた礼装の靴の先に落ちていた。

靴の先には、今朝までの侯爵としての最後の光が、まだ残っていた。

明日からは、その光はたぶん、ない。


私は彼の方を、長くは見なかった。

長く見るのは、もう私の仕事ではなかった。


代わりに、私は踊り場の上から、会場全体を見渡した。

扇の陰の囁きは、もうなかった。

誰もがただ、踊り場の二人の方を見ていた。

見ていた目の中に、敵意は思ったより少なかった。

代わりに——納得のような色が、半分以上あった。


「いずれもお知りであったのね」


私はヴィルヘルム閣下の腕の上で、ぽつりとつぶやいた。


公爵はわずかに頷いた。


「ええ。皆様、お知りでしたよ。十年、ずっと」


私は目を伏せた。

伏せた瞼の裏で、東屋の屋根の雨音が、また少しだけ聞こえた気がした。


◇


式典が終わったあと、私は王宮の控えの間で、しばらく休ませていただいた。


マルゴが温かい湯を運んできてくれた。

湯の表面に、湯気がゆっくり立ち上っていた。

私は両手でカップを包んだ。

包んだ手のひらが、いつのまにか温かかった。


控えの間の扉が、控えめに叩かれた。

入ってきたのはヴィルヘルム閣下ではなかった。

ヴィルヘルム閣下からの伝言を持った、書記官の若い男性だった。


「奥様に、閣下よりお言伝でございます」

「どうぞ」

「『明日——もしよろしければ、隣国の戴冠祭にお招きしたく。お返事は明朝で構いません』」


書記官は伝言を述べてから、丁寧に礼をして下がった。


私は湯のカップを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。


——明朝で構いません、と。


急かさない言葉が、また私の方へ届いた。

今度は、本国の戴冠祭、という大きな場の話だった。

それでも彼は急かさなかった。


私は湯をひとくち、口に運んだ。

温度がちょうどよかった。


お返事はもう、決まっていた。

ただ、一晩、自分の中でもう一度確かめたかった。

急がない、ということを、私の方から彼にお返ししたかった。


私は首から下げた小さな鍵に、片手を軽く添えた。

添えた指の温度と鍵の温度が、もうほとんど同じだった。


窓の外で、午後の光が傾き始めていた。

傾いた光の中を、王宮の庭の鳥が低く横切っていった。

低い飛び方が——なんだか、私の今の心の高さと、ちょうど合っているような気がした。

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