第九話 春の式典の階段
その朝、私は姿見の前に長く立っていた。
王宮春の式典の招待状は、三日前に届いていた。
差出人は、王太后陛下のお名前。
封蝋の脇には、私的な印ではなく、王家の公式の小印が添えられていた。
公式にお招きいただいた、ということだった。
招待状の宛名は「ヴェントラント家のご令嬢、エレオノーラ様」と書かれていた。
ケーニッヒスベルクの文字はなかった。
私はその宛名を、しばらく指でなぞっていた。
私の名が、誰のお家のものでもない、ただの私の名として王家から呼ばれたのは、嫁ぐ前の一度だけだった。
姿見に映った私は——いつもの社交界の私でも、東屋で雨を見ていた私でもなかった。
鏡の中の女が誰なのか、私自身もまだ決められていなかった。
ただ、十年の薄化粧の癖を、半分だけ抑えた。
頬の紅を、いつもよりわずかに薄く。
口紅の色を、いつもより少しだけ深く。
それだけのことで、鏡の中の女は別人のようにも自分のようにも見えた。
「奥様。お時間でございます」
扉の向こうから、マルゴの声がした。
「ええ。今、参るわ」
私は姿見に、最後にもう一度、目を合わせた。
合わせて、頷いた。
誰に頷いたのかは、自分でも分からなかった。
分からなかったが、頷くのにためらいはなかった。
◇
王宮の春の式典は、大広間と、その奥の、二階まで吹き抜けた中央階段で開かれていた。
私は王宮の使者に案内されて、貴賓の通路から中に入った。
中央階段の踊り場に、王太后陛下の御座があった。
階段の下には、貴族の方々と各国大使が立ち並んでいた。
私が階段下の広間に足を踏み入れた瞬間、近くに立っていた数人が、扇の陰で顔を寄せ合った。
扇の動きは、四つ。
四つで、だいたい噂の輪がひと回りしたのが分かった。
「あの方が」「ええ、あの夜の」「今日はお一人で」「いいえ、あちらの隣国の——」
私はそういう囁きの帳簿を、頭の中で開かなかった。
今日は開かない、と決めていた。
人垣の隙間に、レオポルトの姿が見えた。
彼はまだ、侯爵としての礼装で立っていた。
今日の式典までは、まだ爵位は彼のものだった。
彼の隣には姑の姿はなかった。
姑が本日、お越しにならなかったのか。あるいは、お越しになることを許されなかったのか。それは、私には知れないことだった。
レオポルトは私を見つけ、わずかに踏み出しかけた。
踏み出しかけて止まった。
止まったのは彼の意志ではなく、隣に立っていた宰相閣下のお側付きの方が、彼の袖を目立たぬように軽く引いたからだった。
宰相閣下のお側付きが、元宰相補佐の袖を引く。
それが何を意味するかは、社交界に出ていれば誰でも分かる合図だった。
——もう近づくな、と。
私は視線を外した。
外して、自分の歩みを続けた。
◇
中央階段の手前まで進んだ時、わずかに人の流れが変わった。
宮廷の儀仗官が、王太后陛下の御座の前に進み出ていた。
その手元に、白い封蝋の書状と、もう一つ——黒い封蝋の書状があった。
私は足を止めた。
廊下で書類袋を抱えてこられた外務省の方の、あの黒。
夜、書斎でヴィルヘルム閣下がお話くださった、本国からの正式な書状の封の色。
今日、この場でそれが開かれる、ということだった。
——黒は、外交上の異常事態を伝える色。
頭の中の帳簿のいちばん古い項目が、勝手に開いた。
私はそれを閉じる気にはなれなかった。
今日だけは開いていてよい、と思った。
儀仗官が声を張った。
「——レーヴェンシュタイン公国大使、アシェンバッハ公爵閣下より、貴国王家への正式書状」
会場の空気が変わった。
それまで扇の陰でひそひそと交わされていた囁きが、一斉に止まった。
止まった瞬間のしんとした空気の中で、儀仗官の声だけが響いた。
書状の内容が読み上げられた。
宰相閣下のお屋敷の昼食会における、宗教的儀礼の重大な不手際。
当該席次表を作成した者、すなわちケーニッヒスベルク侯爵レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルク。
両国関係への深刻な影響。
公国側の相応の対応の要請。
短い、淡々とした文面だった。
淡々としていたが、その淡々さがいちばん重かった。
怒鳴られる方がまだ軽かったかもしれない、と私は思った。
会場の視線がレオポルトに集まった。
彼の顔から、血の気が引いていくのが、人垣の隙間から見えた。
彼は何か言おうとして、口を開きかけた。
けれど、宰相閣下のお側付きが、もう一度、彼の袖を引いた。
今度は目立たぬようにではなく、はっきりと引いた。
レオポルトの口は半開きのまま止まった。
◇
王太后陛下が御座の上で、わずかに顎を引かれた。
それが合図だった。
国王陛下のお側に控えていた宮内官が進み出て、別の書状を開いた。
「——本日の式典をもって、ケーニッヒスベルク侯爵家の侯爵位を一時取り上げ、王家直轄とする。
領地の経営に関する一切は、追って王宮監査局より指示を出す。
当主ならびに関係者は、速やかに本件の調査に応じよ」
レオポルトの膝が、ほんのわずかに折れた。
折れたが、倒れはしなかった。
彼は両手で、自分の礼装の上着の襟元を握っていた。
握ったまま、しばらく何も言えずに立ちすくんでいた。
会場の誰も、彼を助けなかった。
隣に立っていた、宰相閣下のお側付きの方も、半歩、彼から離れていた。
——ああ。
私はそっと息を吐いた。
責める気持ちはわかなかった。
勝ち誇る気持ちもわかなかった。
ただ、彼が生まれて初めて、自分の足元を自分の目で見た瞬間に立ち会っている、という感覚だけがあった。
足元を見るのに、十年と、ある朝の式典の長さが必要だったのだ。
それは長すぎたのか、それとも短すぎたのか、私には判じかねた。
◇
王太后陛下のお声が、御座の上から響いた。
「——ヴェントラント家のエレオノーラ嬢」
私は顔を上げた。
「中央階段の踊り場までお進みなさい」
会場の視線が、今度は私に集まった。
集まった視線の中を、私は歩いた。
階段の下から踊り場まで、一段ずつ。
ドレスの裾を、片手で軽く持ち上げる癖だけは、十年で染み付いていた。
それは今日も出た。
出たけれど、それでよかった。
全部の癖を捨てる必要はないのだった。
踊り場の手前まで上がった。
王太后陛下のお顔が、目の高さに近かった。
「ケーニッヒスベルク家の十年。
そなたの差配が、わが国の社交の骨組みのひとつであったこと。
我らは知っております」
私は深く礼をした。
返す言葉は思いつかなかった。
思いつかなかったので、礼の動作だけで答えた。
「ご苦労でありました」
——ご苦労さま、と。
それは十年で誰一人、私に言わなかった言葉だった。
夫も、姑も、料理人も、家令も、誰も言わなかった。
言わなかったから、私も自分が苦労していることに気づかないふりをしてきた。
王太后陛下のお言葉に、私はもう一度、深く礼をした。
礼の途中で、目の縁がわずかに熱くなった。
熱くなったが、こぼれはしなかった。
こぼさない癖だけは、十年でいちばんよく鍛えられていた。
◇
王太后陛下が視線を、踊り場の反対側に向けられた。
「アシェンバッハ公爵」
「はい」
ヴィルヘルム閣下が、踊り場の反対側から進み出た。
彼は私と同じ高さの段に立った。
私たちの間には、王太后陛下の御座を挟んで、二つ分の距離があった。
「両国のこれからの関係について。
本日、書状を頂戴いたしました。
返答は後日、改めて書状にて差し上げましょう」
「ありがたきお言葉でございます」
「ただし——」
王太后陛下はそこで、少し声を和らげられた。
「両国の社交の橋渡しが必要な場面が、これから増えるかもしれませぬ。
その任を、ヴェントラント家のエレオノーラ嬢にお願いしたいと考えております。
ご当人がお受けくださるならばの、お話ですが」
私は息をゆっくり吸った。
——お受けするか、しないか。
決めるのは誰でもなく、私だった。
昨夜、書斎で紙の上に書いた『私は』の続きを、私はまだ書けていなかった。
書けていなかったが、続きを書く場所が今、目の前に開かれていた。
私は踊り場の、王太后陛下の御座の前で礼をしてから、ゆっくりと向きを変えた。
変えた先には、ヴィルヘルム閣下が立っていた。
彼は私を見ていた。
急かさない目で見ていた。
私は彼の方へ、半歩進んだ。
階段の段の、ちょうど半段分。
半段分の距離を、私の方から詰めた。
「閣下」
「はい」
「お腕をお貸しいただいてもよろしいでしょうか」
私の声は思ったより落ち着いていた。
落ち着いていたのは、声を押さえつけていたからではなく、押さえつける必要がもう、なかったからだった。
ヴィルヘルム閣下は——一瞬だけ目を伏せた。
伏せて、それから顔を上げた。
顔を上げた時の彼の口の端に、ほんのわずかな、かすかな動きがあった。
笑った、と呼ぶには足りない動きだった。
けれど、十年、人の表情ばかりを読んできた私には、それが何であるかが分かった。
彼は自分の左の腕を、ごく自然にわずかにこちらに差し出した。
私はその腕に、自分の指先をそっと置いた。
置いた瞬間、会場の空気がまた、わずかに動いた。
今度は、止まる空気ではなく、ふくらむ空気だった。
王太后陛下が御座の上で、わずかに頷かれた。
頷きは、御許しの形だった。
◇
階段の下で、レオポルトが自分の足を見ていた。
彼はもう、私の方を見ていなかった。
彼の視線は、自分の磨かれた礼装の靴の先に落ちていた。
靴の先には、今朝までの侯爵としての最後の光が、まだ残っていた。
明日からは、その光はたぶん、ない。
私は彼の方を、長くは見なかった。
長く見るのは、もう私の仕事ではなかった。
代わりに、私は踊り場の上から、会場全体を見渡した。
扇の陰の囁きは、もうなかった。
誰もがただ、踊り場の二人の方を見ていた。
見ていた目の中に、敵意は思ったより少なかった。
代わりに——納得のような色が、半分以上あった。
「いずれもお知りであったのね」
私はヴィルヘルム閣下の腕の上で、ぽつりとつぶやいた。
公爵はわずかに頷いた。
「ええ。皆様、お知りでしたよ。十年、ずっと」
私は目を伏せた。
伏せた瞼の裏で、東屋の屋根の雨音が、また少しだけ聞こえた気がした。
◇
式典が終わったあと、私は王宮の控えの間で、しばらく休ませていただいた。
マルゴが温かい湯を運んできてくれた。
湯の表面に、湯気がゆっくり立ち上っていた。
私は両手でカップを包んだ。
包んだ手のひらが、いつのまにか温かかった。
控えの間の扉が、控えめに叩かれた。
入ってきたのはヴィルヘルム閣下ではなかった。
ヴィルヘルム閣下からの伝言を持った、書記官の若い男性だった。
「奥様に、閣下よりお言伝でございます」
「どうぞ」
「『明日——もしよろしければ、隣国の戴冠祭にお招きしたく。お返事は明朝で構いません』」
書記官は伝言を述べてから、丁寧に礼をして下がった。
私は湯のカップを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。
——明朝で構いません、と。
急かさない言葉が、また私の方へ届いた。
今度は、本国の戴冠祭、という大きな場の話だった。
それでも彼は急かさなかった。
私は湯をひとくち、口に運んだ。
温度がちょうどよかった。
お返事はもう、決まっていた。
ただ、一晩、自分の中でもう一度確かめたかった。
急がない、ということを、私の方から彼にお返ししたかった。
私は首から下げた小さな鍵に、片手を軽く添えた。
添えた指の温度と鍵の温度が、もうほとんど同じだった。
窓の外で、午後の光が傾き始めていた。
傾いた光の中を、王宮の庭の鳥が低く横切っていった。
低い飛び方が——なんだか、私の今の心の高さと、ちょうど合っているような気がした。




