表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第九話 春の式典の階段

その朝、私は姿見の前に長く立っていた。


王宮春の式典の招待状は、三日前に届いていた。

差出人は、王太后陛下のお名前。

封蝋の脇には、私的な印ではなく、王家の公式の小印が添えられていた。

公式にお招きいただいた、ということだった。


招待状の宛名は「ヴェントラント家のご令嬢、エレオノーラ様」と書かれていた。

ケーニッヒスベルクの文字はなかった。

私はその宛名を、しばらく指でなぞっていた。

私の名が、誰のお家のものでもない、ただの私の名として王家から呼ばれたのは、嫁ぐ前の一度だけだった。


姿見に映った私は——いつもの社交界の私でも、東屋で雨を見ていた私でもなかった。

鏡の中の女が誰なのか、私自身もまだ決められていなかった。

ただ、十年の薄化粧の癖を、半分だけ抑えた。

頬の紅を、いつもよりわずかに薄く。

口紅の色を、いつもより少しだけ深く。

それだけのことで、鏡の中の女は別人のようにも自分のようにも見えた。


「奥様。お時間でございます」

扉の向こうから、マルゴの声がした。

「ええ。今、参るわ」


私は姿見に、最後にもう一度、目を合わせた。

合わせて、頷いた。

誰に頷いたのかは、自分でも分からなかった。

分からなかったが、頷くのにためらいはなかった。



王宮の春の式典は、大広間と、その奥の、二階まで吹き抜けた中央階段で開かれていた。


私は王宮の使者に案内されて、貴賓の通路から中に入った。

中央階段の踊り場に、王太后陛下の御座があった。

階段の下には、貴族の方々と各国大使が立ち並んでいた。


私が階段下の広間に足を踏み入れた瞬間、近くに立っていた数人が、扇の陰で顔を寄せ合った。

扇の動きは、四つ。

四つで、だいたい噂の輪がひと回りしたのが分かった。

「あの方が」「ええ、あの夜の」「今日はお一人で」「いいえ、あちらの隣国の——」

私はそういう囁きの帳簿を、頭の中で開かなかった。

今日は開かない、と決めていた。


人垣の隙間に、レオポルトの姿が見えた。

彼はまだ、侯爵としての礼装で立っていた。

今日の式典までは、まだ爵位は彼のものだった。

彼の隣には姑の姿はなかった。

姑が本日、お越しにならなかったのか。あるいは、お越しになることを許されなかったのか。それは、私には知れないことだった。


レオポルトは私を見つけ、わずかに踏み出しかけた。

踏み出しかけて止まった。

止まったのは彼の意志ではなく、隣に立っていた宰相閣下のお側付きの方が、彼の袖を目立たぬように軽く引いたからだった。


宰相閣下のお側付きが、元宰相補佐の袖を引く。

それが何を意味するかは、社交界に出ていれば誰でも分かる合図だった。


——もう近づくな、と。


私は視線を外した。

外して、自分の歩みを続けた。



中央階段の手前まで進んだ時、わずかに人の流れが変わった。


宮廷の儀仗官が、王太后陛下の御座の前に進み出ていた。

その手元に、白い封蝋の書状と、もう一つ——黒い封蝋の書状があった。


私は足を止めた。


廊下で書類袋を抱えてこられた外務省の方の、あの黒。

夜、書斎でヴィルヘルム閣下がお話くださった、本国からの正式な書状の封の色。

今日、この場でそれが開かれる、ということだった。


——黒は、外交上の異常事態を伝える色。


頭の中の帳簿のいちばん古い項目が、勝手に開いた。

私はそれを閉じる気にはなれなかった。

今日だけは開いていてよい、と思った。


儀仗官が声を張った。


「——レーヴェンシュタイン公国大使、アシェンバッハ公爵閣下より、貴国王家への正式書状」


会場の空気が変わった。

それまで扇の陰でひそひそと交わされていた囁きが、一斉に止まった。

止まった瞬間のしんとした空気の中で、儀仗官の声だけが響いた。


書状の内容が読み上げられた。


宰相閣下のお屋敷の昼食会における、宗教的儀礼の重大な不手際。

当該席次表を作成した者、すなわちケーニッヒスベルク侯爵レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルク。

両国関係への深刻な影響。

公国側の相応の対応の要請。


短い、淡々とした文面だった。

淡々としていたが、その淡々さがいちばん重かった。

怒鳴られる方がまだ軽かったかもしれない、と私は思った。


会場の視線がレオポルトに集まった。

彼の顔から、血の気が引いていくのが、人垣の隙間から見えた。

彼は何か言おうとして、口を開きかけた。

けれど、宰相閣下のお側付きが、もう一度、彼の袖を引いた。

今度は目立たぬようにではなく、はっきりと引いた。

レオポルトの口は半開きのまま止まった。



王太后陛下が御座の上で、わずかに顎を引かれた。


それが合図だった。


国王陛下のお側に控えていた宮内官が進み出て、別の書状を開いた。


「——本日の式典をもって、ケーニッヒスベルク侯爵家の侯爵位を一時取り上げ、王家直轄とする。

領地の経営に関する一切は、追って王宮監査局より指示を出す。

当主ならびに関係者は、速やかに本件の調査に応じよ」


レオポルトの膝が、ほんのわずかに折れた。

折れたが、倒れはしなかった。

彼は両手で、自分の礼装の上着の襟元を握っていた。

握ったまま、しばらく何も言えずに立ちすくんでいた。


会場の誰も、彼を助けなかった。

隣に立っていた、宰相閣下のお側付きの方も、半歩、彼から離れていた。


——ああ。


私はそっと息を吐いた。


責める気持ちはわかなかった。

勝ち誇る気持ちもわかなかった。

ただ、彼が生まれて初めて、自分の足元を自分の目で見た瞬間に立ち会っている、という感覚だけがあった。

足元を見るのに、十年と、ある朝の式典の長さが必要だったのだ。

それは長すぎたのか、それとも短すぎたのか、私には判じかねた。



王太后陛下のお声が、御座の上から響いた。


「——ヴェントラント家のエレオノーラ嬢」


私は顔を上げた。


「中央階段の踊り場までお進みなさい」


会場の視線が、今度は私に集まった。

集まった視線の中を、私は歩いた。

階段の下から踊り場まで、一段ずつ。

ドレスの裾を、片手で軽く持ち上げる癖だけは、十年で染み付いていた。

それは今日も出た。

出たけれど、それでよかった。

全部の癖を捨てる必要はないのだった。


踊り場の手前まで上がった。

王太后陛下のお顔が、目の高さに近かった。


「ケーニッヒスベルク家の十年。

そなたの差配が、わが国の社交の骨組みのひとつであったこと。

我らは知っております」


私は深く礼をした。

返す言葉は思いつかなかった。

思いつかなかったので、礼の動作だけで答えた。


「ご苦労でありました」


——ご苦労さま、と。


それは十年で誰一人、私に言わなかった言葉だった。

夫も、姑も、料理人も、家令も、誰も言わなかった。

言わなかったから、私も自分が苦労していることに気づかないふりをしてきた。


王太后陛下のお言葉に、私はもう一度、深く礼をした。

礼の途中で、目の縁がわずかに熱くなった。

熱くなったが、こぼれはしなかった。

こぼさない癖だけは、十年でいちばんよく鍛えられていた。



王太后陛下が視線を、踊り場の反対側に向けられた。


「アシェンバッハ公爵」

「はい」


ヴィルヘルム閣下が、踊り場の反対側から進み出た。

彼は私と同じ高さの段に立った。

私たちの間には、王太后陛下の御座を挟んで、二つ分の距離があった。


「両国のこれからの関係について。

本日、書状を頂戴いたしました。

返答は後日、改めて書状にて差し上げましょう」

「ありがたきお言葉でございます」

「ただし——」


王太后陛下はそこで、少し声を和らげられた。


「両国の社交の橋渡しが必要な場面が、これから増えるかもしれませぬ。

その任を、ヴェントラント家のエレオノーラ嬢にお願いしたいと考えております。

ご当人がお受けくださるならばの、お話ですが」


私は息をゆっくり吸った。


——お受けするか、しないか。


決めるのは誰でもなく、私だった。

昨夜、書斎で紙の上に書いた『私は』の続きを、私はまだ書けていなかった。

書けていなかったが、続きを書く場所が今、目の前に開かれていた。


私は踊り場の、王太后陛下の御座の前で礼をしてから、ゆっくりと向きを変えた。

変えた先には、ヴィルヘルム閣下が立っていた。

彼は私を見ていた。

急かさない目で見ていた。


私は彼の方へ、半歩進んだ。

階段の段の、ちょうど半段分。

半段分の距離を、私の方から詰めた。


「閣下」

「はい」

「お腕をお貸しいただいてもよろしいでしょうか」


私の声は思ったより落ち着いていた。

落ち着いていたのは、声を押さえつけていたからではなく、押さえつける必要がもう、なかったからだった。


ヴィルヘルム閣下は——一瞬だけ目を伏せた。

伏せて、それから顔を上げた。

顔を上げた時の彼の口の端に、ほんのわずかな、かすかな動きがあった。

笑った、と呼ぶには足りない動きだった。

けれど、十年、人の表情ばかりを読んできた私には、それが何であるかが分かった。


彼は自分の左の腕を、ごく自然にわずかにこちらに差し出した。


私はその腕に、自分の指先をそっと置いた。

置いた瞬間、会場の空気がまた、わずかに動いた。

今度は、止まる空気ではなく、ふくらむ空気だった。


王太后陛下が御座の上で、わずかに頷かれた。

頷きは、御許しの形だった。



階段の下で、レオポルトが自分の足を見ていた。


彼はもう、私の方を見ていなかった。

彼の視線は、自分の磨かれた礼装の靴の先に落ちていた。

靴の先には、今朝までの侯爵としての最後の光が、まだ残っていた。

明日からは、その光はたぶん、ない。


私は彼の方を、長くは見なかった。

長く見るのは、もう私の仕事ではなかった。


代わりに、私は踊り場の上から、会場全体を見渡した。

扇の陰の囁きは、もうなかった。

誰もがただ、踊り場の二人の方を見ていた。

見ていた目の中に、敵意は思ったより少なかった。

代わりに——納得のような色が、半分以上あった。


「いずれもお知りであったのね」


私はヴィルヘルム閣下の腕の上で、ぽつりとつぶやいた。


公爵はわずかに頷いた。


「ええ。皆様、お知りでしたよ。十年、ずっと」


私は目を伏せた。

伏せた瞼の裏で、東屋の屋根の雨音が、また少しだけ聞こえた気がした。



式典が終わったあと、私は王宮の控えの間で、しばらく休ませていただいた。


マルゴが温かい湯を運んできてくれた。

湯の表面に、湯気がゆっくり立ち上っていた。

私は両手でカップを包んだ。

包んだ手のひらが、いつのまにか温かかった。


控えの間の扉が、控えめに叩かれた。

入ってきたのはヴィルヘルム閣下ではなかった。

ヴィルヘルム閣下からの伝言を持った、書記官の若い男性だった。


「奥様に、閣下よりお言伝でございます」

「どうぞ」

「『明日——もしよろしければ、隣国の戴冠祭にお招きしたく。お返事は明朝で構いません』」


書記官は伝言を述べてから、丁寧に礼をして下がった。


私は湯のカップを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。


——明朝で構いません、と。


急かさない言葉が、また私の方へ届いた。

今度は、本国の戴冠祭、という大きな場の話だった。

それでも彼は急かさなかった。


私は湯をひとくち、口に運んだ。

温度がちょうどよかった。


お返事はもう、決まっていた。

ただ、一晩、自分の中でもう一度確かめたかった。

急がない、ということを、私の方から彼にお返ししたかった。


私は首から下げた小さな鍵に、片手を軽く添えた。

添えた指の温度と鍵の温度が、もうほとんど同じだった。


窓の外で、午後の光が傾き始めていた。

傾いた光の中を、王宮の庭の鳥が低く横切っていった。

低い飛び方が——なんだか、私の今の心の高さと、ちょうど合っているような気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ