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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第八話 誰の妻でもなく

朝、目を覚ました時、私はまず天井を見た。


天井の梁の影が、月の角度のせいで、いつもとは少し違うかたちに見えた——というのは、数日前のことだった。

今朝の天井は、ただ白かった。

影もなく、傾きもなく、ただ白かった。

白いだけの天井を、こんなに長く眺める朝が生涯にあるとは、思っていなかった。


私は昨夜、よく眠れなかった。


レオポルトの帰り際の目と、王太后陛下のお側付きの方の書状の整った字と、東屋の屋根の雨音と、ヴィルヘルム閣下の手帖のいちばん最初の二文字。

それらが、瞼の裏で、順番もなく、出ては消えた。

眠れない夜というのは、十年で何度もあった。けれど、夜会の段取りや招待状の文面で頭がいっぱいで眠れないのと、自分の心の整理がつかなくて眠れないのとでは、疲れ方がまったく違うのだった。

心の整理の方が、ずっと骨が折れた。


「奥様」

扉の向こうで、マルゴが声をかけた。

「お早う、マルゴ」

「お声がお嗄れでいらっしゃいます」

「眠れなかっただけ。心配しないで」

「畏まりました。今朝の紅茶は、お喉に優しいものをお入れいたします」


私は寝台の縁に、しばらく座っていた。

寝衣のたもとから、首の鍵がこぼれて揺れた。

昨日の夕方、私は一度この鍵を、引き出しの中に置いた。

そして夜、寝る前に、また首に戻した。

理由はよく分からなかった。

分からないことが続いていた。



朝食の卓で、私はナイフでパンを切った。


切れた断面が、思ったより不揃いだった。

私が切ると、いつもだいたいまっすぐになる。十年、料理人の手元を見て覚えてきた切り方だった。今朝はそれができなかった。

できなかった理由は——たぶん、利き手がほんの少し震えていたからだった。


「マルゴ」

「はい」

「これ、もう一切れお願い」

「奥様、よろしければわたくしが切らせていただきますが」

「いえ。自分でもう一度、切ってみたいの」


二切れ目は、もう少しまっすぐに切れた。

それでも、料理人の切り口とはまるで違った。

違ったが、これが自分で切ったパンの、断面の形なのだった。

私はそれをゆっくり口に運んだ。

味はよく分かる、と思った。



午前の遅い時間、廊下の窓辺の花を、私は今日も直さずに通り過ぎた。


二日続けて直さなかった。

昨日、傾いだままにした花は、今朝には新しい一輪に生け替えられていた。

公爵がお直しになったのか。あるいは、別のどなたかがお直しになったのか。

それは私の知るところではなかった。

それでよかった。


私は廊下の終わりの、小さな書斎に入った。


応接間の南向きの大きな部屋ではなく、北向きの小さな部屋だった。窓は一枚で、午後の遅い時間にだけ、淡い光が入る。

ここに書き物机が一つ置かれていた。私がここに来てから誰も使っていないらしかった机を、マルゴが私のために整えてくれていた。

机の上には、白い紙とペンとインクが、きちんと並んでいた。


私は椅子を引いて座った。

座って、しばらく白い紙を眺めた。


——何を書こうとしていたのか。


実のところ、自分でも分かっていなかった。

ただ、昨日の夜、眠れない瞼の裏で、自分の中の何かをいちど文字にしてみないと整理がつかない、と思った。それだけのことだった。


ペンを取った。

インクをつけた。

最初の一字が、なかなか出てこなかった。


私は机の上の白い紙に、ようやくこう書いた。


『私は』


それだけ書いて、ペンを止めた。

止めて、しばらくその短い、書きかけの言葉を眺めた。


『私は』のあとに続けるべき言葉が、十年、出てこなかったことに、私は今、気づいた。


私は「誰々の妻」と書くことには慣れていた。

「私はケーニッヒスベルク家の」と続けることにも慣れていた。

姑のお手紙の代筆では『私は、貴女様への感謝の念を』と、何度も書いた。

夫の演説の原稿では『私は、わが王国の』と、何百回も書いた。


——では、誰のものでもない、ただの『私は』のあとに、私は何を書きたいのだろう。


私はペンを置いた。

インクが紙に、ぽつと一滴落ちた。

落ちたインクは、紙の上で小さな丸い染みになった。

その染みを、私はしばらく見ていた。



午後、廊下を歩いていると、玄関の方で、馬車の音と複数の靴音と、書類袋の擦れる音がした。


ヴィルヘルム閣下が、外出から戻られたらしかった。

お一人ではなかった。

彼の後ろから、書記官らしき若い男性と、もう一人、年配の、見覚えのある——いや、お顔を見たことがあるような気がする年配の方が、続いて入ってこられた。

わが国の外務省の、お役の方だった。


私は廊下の途中で足を止めた。

止めたが、向きを変えるには少しだけ遅かった。


ヴィルヘルム閣下は私を見つけ、わずかに頷いた。

頷きの動作だけで、いくつかのことが伝わった。

「来客がございます」「お話しは後ほど」「ご心配なく」。

彼の頷きは短かったが、丁寧だった。


私は会釈を返した。

返して、廊下の先の小さな書斎へ戻った。


書斎の扉を閉めて、椅子に座った。

座ってから、ようやく自分の心臓が、いつもより少しだけ速いことに気づいた。

速かった理由は、ヴィルヘルム閣下を見たからではなかった。

彼の後ろの外務省の方の手元の、書類袋の封の色が——いつもの色とは違ったからだった。


外務省の書類袋の封蝋の色は、四つある。

日常の業務は、青。

注意を要する案件は、緑。

重要案件は、赤。

そして、外交上の異常事態を伝えるものは——黒。


今日、外務省の方が抱えてこられた書類袋の封蝋は、黒だった。


私は椅子の背に寄りかかった。

寄りかかったまま、しばらく目を閉じた。


——どなたかの席次表が原因でございましょうね。


そのことを、私は責任を負うべき立場には、もうない。

ない、けれど、頭の中の帳簿が勝手にその場面の差配を始めようとした。

私は帳簿をゆっくり閉じた。

閉じたら、肩がわずかに軽くなった。



夕方、ヴィルヘルム閣下が、書斎の扉を控えめに叩いた。


「奥様。お時間を頂戴しても」

「どうぞ、閣下」


入ってこられた彼の表情は、いつもとほとんど同じだった。

ほとんど同じ。

ただ、襟元の整え方が、いつもよりほんのわずかに雑だった。

帰宅してから自室に戻る間もなく、私のところへ来てくださったのだろう、と思った。


公爵は机の向こうに腰を下ろした。

机の上の白い紙の隅の、小さなインクの染みを、彼はごく自然に見なかった。


「奥様にお伝えするべきか、迷ったことがございます」

「どうぞ」

「我が国から貴国の外務省へ、本日、正式な書状が届けられました。

先日の、宰相閣下のお屋敷での、昼食会の件に関わるものです」

「内容は」

「我が国の大使、すなわち私が、貴国宰相補佐の作成された席次表によって、宗教的な侮辱を受けた、と。

両国関係の観点から、貴国側の責任ある対応を求める、と。

そのような内容です」


私は机の縁に、両手を軽く置いた。

木の冷たさが指の腹にゆっくり染み込んだ。


「閣下」

「はい」

「その書状をお書きになったのは——閣下ご自身ではございませんわね」

「……」

「お顔のご様子で分かりますもの」


公爵はごく短く目を伏せた。


「本国の外務省の判断です。私の名は書状に署名として入っておりますが、内容を起草したのは私ではございません。

本国は、この件を外交の機会だと見ております。

貴国にいくつかの譲歩を引き出させる機会だと」


私は頷いた。


そういうことは、起こる。

国と国の間では、誰かの席次表の不手際は、必ず別の何かの取引の材料になる。

それは私が十年、夫の影で見てきた、世の道理だった。


「ご事情は分かりましたわ」

「奥様」

「はい」

「これは——本来であれば、貴方様にお伝えするべきことではございません。

本国と貴国の、これからの交渉に、貴方様を巻き込むことになるかもしれません。

それを承知のうえで申し上げております」


私は彼を見た。


彼の目は、机の向こうからまっすぐこちらを見ていた。

見ていたけれど、踏み込んではいなかった。


「閣下は、なぜお話くださいますの」

「貴方様に隠したまま、ことが進むのが——いやだ、と思いましたので」


それは、彼の口から出た言葉としては初めての、ささやかなわがままだった。


私は机の縁の自分の指を、もう一度見た。

指の下の木の冷たさが、いつのまにか指の温度と同じになっていた。



しばらく、二人とも口を開かなかった。


書斎の窓の外で、夕方の鳥が一羽、低い声で鳴いた。

それから、また鳴いた。

二度目の鳴き声は、最初より少しだけ長かった。


私はようやく口を開いた。


「閣下。私、お話してもよろしいですか」

「どうぞ」

「私は——もう誰の妻にもなりたくございませんの」


公爵は私を見た。

見たが、何も言わなかった。

言わずに聞いていた。


「夫の妻として、十年過ごしました。

夫の妻、というのは、夫のためだけにある名前ではなく、ケーニッヒスベルク家の、姑様の、家令の、料理人の、夜会の、招待状の——その全部のための名前でもございました。

私はその名前を十年、生きました。

それが悪かった、とは思いませんわ。

ただ、もう——その名前を新しく作り直して、誰かのお家のために生きるのは、たぶん私にはできません」


私は息をひとつ吐いた。


「ですから——閣下のご親切はありがたく、頂戴しております。本当にありがたく。

ただ、もし閣下が私のことを、いずれなんらかの形でお側に、とお考えでいらっしゃるとしたら——」

「奥様」

公爵は私の言葉を、ごく静かに遮った。

「申し上げてもよろしいですか」

「はい」

「私は貴方様に、誰かの妻になっていただきたいわけではございません」

「……」

「誰の妻でもなく、貴方様ご自身として生きていてくださることが、私の願いです。

その隣に、私がいさせていただけるかどうかは——その、ずっと後のお話です。

今はただ、貴方様が貴方様のままでいてくださること。

それで十分です」


私はしばらく、何も言えなかった。


机の上の白い紙が、視界の隅で揺れた。

揺れたのではなく、たぶん、私の目の方が揺れていた。


——『私は』のあとに続ける言葉を、私はまだ知らない。

知らないままでよい、と、この方はおっしゃっている。

誰かの妻、誰かの娘、誰かの家の名を、続けなくてもよい、と。

ただ、私のままでいてよい、と。


私は机の縁の指をゆっくり握った。

握った指の爪の付け根が白くなった。


「……閣下」

「はい」

「もう少しだけ、お時間を頂戴してもよろしいですか」

「いくらでも」


「いくらでも」と、彼はもう一度言った。

昨日とまったく同じ調子だった。

急がない、というのはこんなにもありがたい言葉だったのか、と、私は昨日思った。

今日も同じことを思った。

昨日と今日、同じことを思える、ということが、たぶん信頼のはじまりなのだろう。



夜、私は書斎に戻った。


机の上の白い紙の、書きかけのままの『私は』の上に、もう一度ペンを近づけた。

近づけたが、まだ続きは書けなかった。

書けなかったが、私はその紙を丸めて捨てたりはしなかった。


代わりに、紙の右上の隅に、小さく日付を書いた。

日付の横に、もう一つ、小さく文字を書き足した。


「E.」


ヴィルヘルム閣下の手帖の、最初のページの二文字のうちの、片方だった。

私は自分の名の頭文字を、自分の手で書いた。

書いてから、長い間その短い印を眺めた。


姓の側は書かなかった。

書く必要が、まだなかったからだった。

今の私の姓が何であるべきかを、私はまだ決めていなかった。

決まっていないうちに頭文字を書くのは、嫌だった。


——よろしいかしら、お母様。

私は心の中で母に問うた。

「お前のためだけにしまっておく場所」を、もう一つ増やしてもよろしいかしら。


母は答えなかった。

答えなかったが、私はその問いを口にした自分のことを、もう責めなかった。


私は紙を、書き物机のいちばん上の引き出しに丁寧にしまった。


引き出しを閉める時、廊下の方で雨の音が、またはじまっていた。

今夜の雨は、昨夜より少しだけ軽かった。

その軽さがなんとなく、自分の今夜の心持ちに似ているような気がした。



寝台に入る前に、私はもう一度、首の鍵を掌に載せた。


鍵を握った。

握ってから、長く握っていた。

鍵の縁が掌に、薄く跡をつけた。


その跡を、人差し指でなぞった。


——薬指の指輪の跡は、まだ消えていない。

けれど、掌のこの鍵の跡は、一晩寝ているうちに、たぶん消える。


消える跡と、消えない跡。

その二つを両方、私は自分の身につけていた。


そして、明日の朝、消える方の跡をもう一度つけ直すか、つけないかを決めるのは、今は誰でもなく、私だった。


私は鍵を首に戻した。

布団に入った。

雨音が窓辺で続いていた。


しばらくして、私は十年で二度目の深い眠りに落ちた。

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