第八話 誰の妻でもなく
朝、目を覚ました時、私はまず天井を見た。
天井の梁の影が、月の角度のせいで、いつもとは少し違うかたちに見えた——というのは、数日前のことだった。
今朝の天井は、ただ白かった。
影もなく、傾きもなく、ただ白かった。
白いだけの天井を、こんなに長く眺める朝が生涯にあるとは、思っていなかった。
私は昨夜、よく眠れなかった。
レオポルトの帰り際の目と、王太后陛下のお側付きの方の書状の整った字と、東屋の屋根の雨音と、ヴィルヘルム閣下の手帖のいちばん最初の二文字。
それらが、瞼の裏で、順番もなく、出ては消えた。
眠れない夜というのは、十年で何度もあった。けれど、夜会の段取りや招待状の文面で頭がいっぱいで眠れないのと、自分の心の整理がつかなくて眠れないのとでは、疲れ方がまったく違うのだった。
心の整理の方が、ずっと骨が折れた。
「奥様」
扉の向こうで、マルゴが声をかけた。
「お早う、マルゴ」
「お声がお嗄れでいらっしゃいます」
「眠れなかっただけ。心配しないで」
「畏まりました。今朝の紅茶は、お喉に優しいものをお入れいたします」
私は寝台の縁に、しばらく座っていた。
寝衣のたもとから、首の鍵がこぼれて揺れた。
昨日の夕方、私は一度この鍵を、引き出しの中に置いた。
そして夜、寝る前に、また首に戻した。
理由はよく分からなかった。
分からないことが続いていた。
◇
朝食の卓で、私はナイフでパンを切った。
切れた断面が、思ったより不揃いだった。
私が切ると、いつもだいたいまっすぐになる。十年、料理人の手元を見て覚えてきた切り方だった。今朝はそれができなかった。
できなかった理由は——たぶん、利き手がほんの少し震えていたからだった。
「マルゴ」
「はい」
「これ、もう一切れお願い」
「奥様、よろしければわたくしが切らせていただきますが」
「いえ。自分でもう一度、切ってみたいの」
二切れ目は、もう少しまっすぐに切れた。
それでも、料理人の切り口とはまるで違った。
違ったが、これが自分で切ったパンの、断面の形なのだった。
私はそれをゆっくり口に運んだ。
味はよく分かる、と思った。
◇
午前の遅い時間、廊下の窓辺の花を、私は今日も直さずに通り過ぎた。
二日続けて直さなかった。
昨日、傾いだままにした花は、今朝には新しい一輪に生け替えられていた。
公爵がお直しになったのか。あるいは、別のどなたかがお直しになったのか。
それは私の知るところではなかった。
それでよかった。
私は廊下の終わりの、小さな書斎に入った。
応接間の南向きの大きな部屋ではなく、北向きの小さな部屋だった。窓は一枚で、午後の遅い時間にだけ、淡い光が入る。
ここに書き物机が一つ置かれていた。私がここに来てから誰も使っていないらしかった机を、マルゴが私のために整えてくれていた。
机の上には、白い紙とペンとインクが、きちんと並んでいた。
私は椅子を引いて座った。
座って、しばらく白い紙を眺めた。
——何を書こうとしていたのか。
実のところ、自分でも分かっていなかった。
ただ、昨日の夜、眠れない瞼の裏で、自分の中の何かをいちど文字にしてみないと整理がつかない、と思った。それだけのことだった。
ペンを取った。
インクをつけた。
最初の一字が、なかなか出てこなかった。
私は机の上の白い紙に、ようやくこう書いた。
『私は』
それだけ書いて、ペンを止めた。
止めて、しばらくその短い、書きかけの言葉を眺めた。
『私は』のあとに続けるべき言葉が、十年、出てこなかったことに、私は今、気づいた。
私は「誰々の妻」と書くことには慣れていた。
「私はケーニッヒスベルク家の」と続けることにも慣れていた。
姑のお手紙の代筆では『私は、貴女様への感謝の念を』と、何度も書いた。
夫の演説の原稿では『私は、わが王国の』と、何百回も書いた。
——では、誰のものでもない、ただの『私は』のあとに、私は何を書きたいのだろう。
私はペンを置いた。
インクが紙に、ぽつと一滴落ちた。
落ちたインクは、紙の上で小さな丸い染みになった。
その染みを、私はしばらく見ていた。
◇
午後、廊下を歩いていると、玄関の方で、馬車の音と複数の靴音と、書類袋の擦れる音がした。
ヴィルヘルム閣下が、外出から戻られたらしかった。
お一人ではなかった。
彼の後ろから、書記官らしき若い男性と、もう一人、年配の、見覚えのある——いや、お顔を見たことがあるような気がする年配の方が、続いて入ってこられた。
わが国の外務省の、お役の方だった。
私は廊下の途中で足を止めた。
止めたが、向きを変えるには少しだけ遅かった。
ヴィルヘルム閣下は私を見つけ、わずかに頷いた。
頷きの動作だけで、いくつかのことが伝わった。
「来客がございます」「お話しは後ほど」「ご心配なく」。
彼の頷きは短かったが、丁寧だった。
私は会釈を返した。
返して、廊下の先の小さな書斎へ戻った。
書斎の扉を閉めて、椅子に座った。
座ってから、ようやく自分の心臓が、いつもより少しだけ速いことに気づいた。
速かった理由は、ヴィルヘルム閣下を見たからではなかった。
彼の後ろの外務省の方の手元の、書類袋の封の色が——いつもの色とは違ったからだった。
外務省の書類袋の封蝋の色は、四つある。
日常の業務は、青。
注意を要する案件は、緑。
重要案件は、赤。
そして、外交上の異常事態を伝えるものは——黒。
今日、外務省の方が抱えてこられた書類袋の封蝋は、黒だった。
私は椅子の背に寄りかかった。
寄りかかったまま、しばらく目を閉じた。
——どなたかの席次表が原因でございましょうね。
そのことを、私は責任を負うべき立場には、もうない。
ない、けれど、頭の中の帳簿が勝手にその場面の差配を始めようとした。
私は帳簿をゆっくり閉じた。
閉じたら、肩がわずかに軽くなった。
◇
夕方、ヴィルヘルム閣下が、書斎の扉を控えめに叩いた。
「奥様。お時間を頂戴しても」
「どうぞ、閣下」
入ってこられた彼の表情は、いつもとほとんど同じだった。
ほとんど同じ。
ただ、襟元の整え方が、いつもよりほんのわずかに雑だった。
帰宅してから自室に戻る間もなく、私のところへ来てくださったのだろう、と思った。
公爵は机の向こうに腰を下ろした。
机の上の白い紙の隅の、小さなインクの染みを、彼はごく自然に見なかった。
「奥様にお伝えするべきか、迷ったことがございます」
「どうぞ」
「我が国から貴国の外務省へ、本日、正式な書状が届けられました。
先日の、宰相閣下のお屋敷での、昼食会の件に関わるものです」
「内容は」
「我が国の大使、すなわち私が、貴国宰相補佐の作成された席次表によって、宗教的な侮辱を受けた、と。
両国関係の観点から、貴国側の責任ある対応を求める、と。
そのような内容です」
私は机の縁に、両手を軽く置いた。
木の冷たさが指の腹にゆっくり染み込んだ。
「閣下」
「はい」
「その書状をお書きになったのは——閣下ご自身ではございませんわね」
「……」
「お顔のご様子で分かりますもの」
公爵はごく短く目を伏せた。
「本国の外務省の判断です。私の名は書状に署名として入っておりますが、内容を起草したのは私ではございません。
本国は、この件を外交の機会だと見ております。
貴国にいくつかの譲歩を引き出させる機会だと」
私は頷いた。
そういうことは、起こる。
国と国の間では、誰かの席次表の不手際は、必ず別の何かの取引の材料になる。
それは私が十年、夫の影で見てきた、世の道理だった。
「ご事情は分かりましたわ」
「奥様」
「はい」
「これは——本来であれば、貴方様にお伝えするべきことではございません。
本国と貴国の、これからの交渉に、貴方様を巻き込むことになるかもしれません。
それを承知のうえで申し上げております」
私は彼を見た。
彼の目は、机の向こうからまっすぐこちらを見ていた。
見ていたけれど、踏み込んではいなかった。
「閣下は、なぜお話くださいますの」
「貴方様に隠したまま、ことが進むのが——いやだ、と思いましたので」
それは、彼の口から出た言葉としては初めての、ささやかなわがままだった。
私は机の縁の自分の指を、もう一度見た。
指の下の木の冷たさが、いつのまにか指の温度と同じになっていた。
◇
しばらく、二人とも口を開かなかった。
書斎の窓の外で、夕方の鳥が一羽、低い声で鳴いた。
それから、また鳴いた。
二度目の鳴き声は、最初より少しだけ長かった。
私はようやく口を開いた。
「閣下。私、お話してもよろしいですか」
「どうぞ」
「私は——もう誰の妻にもなりたくございませんの」
公爵は私を見た。
見たが、何も言わなかった。
言わずに聞いていた。
「夫の妻として、十年過ごしました。
夫の妻、というのは、夫のためだけにある名前ではなく、ケーニッヒスベルク家の、姑様の、家令の、料理人の、夜会の、招待状の——その全部のための名前でもございました。
私はその名前を十年、生きました。
それが悪かった、とは思いませんわ。
ただ、もう——その名前を新しく作り直して、誰かのお家のために生きるのは、たぶん私にはできません」
私は息をひとつ吐いた。
「ですから——閣下のご親切はありがたく、頂戴しております。本当にありがたく。
ただ、もし閣下が私のことを、いずれなんらかの形でお側に、とお考えでいらっしゃるとしたら——」
「奥様」
公爵は私の言葉を、ごく静かに遮った。
「申し上げてもよろしいですか」
「はい」
「私は貴方様に、誰かの妻になっていただきたいわけではございません」
「……」
「誰の妻でもなく、貴方様ご自身として生きていてくださることが、私の願いです。
その隣に、私がいさせていただけるかどうかは——その、ずっと後のお話です。
今はただ、貴方様が貴方様のままでいてくださること。
それで十分です」
私はしばらく、何も言えなかった。
机の上の白い紙が、視界の隅で揺れた。
揺れたのではなく、たぶん、私の目の方が揺れていた。
——『私は』のあとに続ける言葉を、私はまだ知らない。
知らないままでよい、と、この方はおっしゃっている。
誰かの妻、誰かの娘、誰かの家の名を、続けなくてもよい、と。
ただ、私のままでいてよい、と。
私は机の縁の指をゆっくり握った。
握った指の爪の付け根が白くなった。
「……閣下」
「はい」
「もう少しだけ、お時間を頂戴してもよろしいですか」
「いくらでも」
「いくらでも」と、彼はもう一度言った。
昨日とまったく同じ調子だった。
急がない、というのはこんなにもありがたい言葉だったのか、と、私は昨日思った。
今日も同じことを思った。
昨日と今日、同じことを思える、ということが、たぶん信頼のはじまりなのだろう。
◇
夜、私は書斎に戻った。
机の上の白い紙の、書きかけのままの『私は』の上に、もう一度ペンを近づけた。
近づけたが、まだ続きは書けなかった。
書けなかったが、私はその紙を丸めて捨てたりはしなかった。
代わりに、紙の右上の隅に、小さく日付を書いた。
日付の横に、もう一つ、小さく文字を書き足した。
「E.」
ヴィルヘルム閣下の手帖の、最初のページの二文字のうちの、片方だった。
私は自分の名の頭文字を、自分の手で書いた。
書いてから、長い間その短い印を眺めた。
姓の側は書かなかった。
書く必要が、まだなかったからだった。
今の私の姓が何であるべきかを、私はまだ決めていなかった。
決まっていないうちに頭文字を書くのは、嫌だった。
——よろしいかしら、お母様。
私は心の中で母に問うた。
「お前のためだけにしまっておく場所」を、もう一つ増やしてもよろしいかしら。
母は答えなかった。
答えなかったが、私はその問いを口にした自分のことを、もう責めなかった。
私は紙を、書き物机のいちばん上の引き出しに丁寧にしまった。
引き出しを閉める時、廊下の方で雨の音が、またはじまっていた。
今夜の雨は、昨夜より少しだけ軽かった。
その軽さがなんとなく、自分の今夜の心持ちに似ているような気がした。
◇
寝台に入る前に、私はもう一度、首の鍵を掌に載せた。
鍵を握った。
握ってから、長く握っていた。
鍵の縁が掌に、薄く跡をつけた。
その跡を、人差し指でなぞった。
——薬指の指輪の跡は、まだ消えていない。
けれど、掌のこの鍵の跡は、一晩寝ているうちに、たぶん消える。
消える跡と、消えない跡。
その二つを両方、私は自分の身につけていた。
そして、明日の朝、消える方の跡をもう一度つけ直すか、つけないかを決めるのは、今は誰でもなく、私だった。
私は鍵を首に戻した。
布団に入った。
雨音が窓辺で続いていた。
しばらくして、私は十年で二度目の深い眠りに落ちた。




