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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第七話 返せるものの話

雨が止んだ翌朝の庭は、湿った匂いをまだ含んでいた。


私は朝食のあと、しばらく窓辺に立って、その匂いを吸っていた。

湿った土の匂いというのは、どこの土地でも似ているのだろう、とふと思った。

ケーニッヒスベルクの庭の雨上がりの匂いと、ここの庭の匂いは、たぶんほとんど同じだった。

違うのは、その匂いを誰の指図も受けずに、好きなだけ吸っていられる、ということ。

そのことだけだった。


「奥様」

マルゴが控えめに扉を叩いた。

「お客様、と言ってよろしいのか、わたくしには判じかねますが」

「どなた」

「——前の旦那様でございます」


私は窓の外から視線を室内に戻した。

紅茶のカップの底に、最後の一口が残っていた。

私はそれをゆっくり飲み干した。


「お通しして」

「奥様」

「いえ。ご応接の間ではなく——玄関広間にお通ししてくださる」


マルゴはわずかに目を見開いた。

それから、心得た顔で頷いた。


応接間はお招きする方の場所だった。

玄関広間はお通りになる方の場所だった。

その違いを、十年やっていれば誰でも覚える。



私は立ち上がる前に、襟元と髪を軽く整えた。


——なぜ整えたのか、と問われれば、答えに困っただろう。

あの方の前で、自分の身なりを整える理由は、もうないはずだった。

ないはずだったが、十年の癖はそう簡単には抜けなかった。

癖というのは、心とは別の場所に住んでいるものだった。


廊下を歩きながら、私は頭の中の帳簿を開かなかった。

開いてもよかったのだが、開かなかった。

今日は何かを取引する日ではなかったから。



玄関広間の中央に、レオポルトは立っていた。


外套の肩には、霧雨の名残がまだわずかについていた。

彼は私の顔を見るなり、半歩踏み出した。

踏み出して、それから、玄関広間という場所が応接間ではないことに、ようやく気づいたらしかった。

彼の足が、二歩目で止まった。


「エレオノーラ」

「どなた様でいらっしゃいますか」


私は玄関広間の階段の、上から二段目に立ったまま答えた。

階段の二段分の高さが、ちょうど私の十年に釣り合う高さだった。


「冗談を言うな。私だ」

「お名前を伺っております」

「……レオポルト・フォン・ケーニッヒスベルクだ」


彼は自分の名を自分で口にした。

口にしてから、自分の声が玄関広間の高い天井に、思いのほか寒く響いたことに気づいたようだった。


「侯爵閣下」

私はそうお呼びした。

「本日は何かご用件で」

「迎えに来た」

「迎え、と」

「君を屋敷に連れて帰る」


私は階段の手すりに、片手を軽く置いた。

手すりの木目が指の腹に馴染んだ。

その馴染み方が、嫁いだ屋敷の手すりとはまったく違うことに、私は今、気づいた。

木目というのは、家ごとに違うものだった。


「お引き取りくださいませ」

「待ってくれ。話を聞いてくれ」

「お話なら十年、伺って参りましたわ」

「あれは——あれは間違いだった」


レオポルトは外套を片手で握ったまま、もう半歩踏み出した。

広間の中央に立つ彼の影が、磨かれた床の上に長く伸びていた。

影は彼自身よりも、ずっと立派に見えた。

立派さを「形」だけで作る癖は、影にまで出るのだな、と私は思った。



「あの女はもう追い出した」


レオポルトはようやく、本題を口にした。


「ロート男爵家のミネルヴァ嬢のことだ。あれは私の見立て違いだった。本当の伴侶ではなかった。

今となってははっきり分かる。私の伴侶は君だった。十年、私を支えてくれたのは君だった」


私は聞いていた。


聞いていたが、不思議と何も感じなかった。

怒りも、悲しみも、勝ち誇りもなかった。

ただ、彼の言葉が玄関広間の冷えた空気の中を、ぱらぱらと落ちていくのを見ていた。

落ちた言葉が、磨かれた床の上で転がって止まる。

拾わなくてもよい言葉、というものが、世の中にはある。


「侯爵閣下」

「レオポルトでいい」

「侯爵閣下。一つお伺いしてもよろしくて」

「なんだ。なんでも訊いてくれ」


私は階段の二段目から、彼を見下ろした。

見下ろした、というよりは、ただ目線を下ろした、というだけのことだった。


「貴方様は、私に何をお返しくださいますの」


レオポルトの目がわずかに泳いだ。


「……何を、とは」

「私は貴方様に十年、お渡しいたしました。

私の朝の時間と、夜の時間と、社交の差配と、各国大使の好みと、料理人の取り決めと、お屋敷の使用人の名前と、姑様のお手紙の代筆と——あと、ほかにいろいろなものをお渡し申し上げました。

それをお返しいただけるのでしたら、私はお屋敷へ戻りますわ」

「……」

「お返しいただけますか」


レオポルトは答えなかった。


答えられない、というよりは、何を「返す」と言えばよいのか、彼には見えていないようだった。

彼の目の中に、私が「返してほしい」と言っているものの輪郭が、結ばれていなかった。

十年、彼は私から「もらったもの」の名前を、知らないまま暮らしていた。

名前を知らないものは、返すことができない。


「——金ならば」

ようやく、彼は口を開いた。

「いくらでも用意する」


私は口の端をほんの少しだけ上げた。

笑った、というほどではない。

ただ、十年で覚えた笑みの筋肉が勝手に作動しただけのことだった。


「お金でお返しいただけるものではございませんでしょう」

「……」

「お引き取りくださいませ」


私は階段の手すりに置いた手を離した。

離した、その動作だけで、彼は自分がもうここに居場所がないことを、たぶん肌で感じた。



レオポルトはしかし、すぐには立ち去らなかった。


彼は玄関広間の中央に立ったまま、しばらく視線を床に落としていた。

それから、声の調子を無理に低くした。


「エレオノーラ」

「はい」

「君は——あの、隣国の大使の、世話になっているそうだな」

「ええ。お世話になっております」

「噂が出始めている」


私は答えなかった。


「分かるか。両国の関係は決して温かくはない。その大使と、わが国の元侯爵夫人が私的に近しくしているなどという話が王宮に聞こえれば——」

「聞こえれば」

「君の立場が悪くなる。下手をすれば、王家からお咎めを受けることになる。

私が君を屋敷に連れ戻すのは、君の名誉を守るためでもあるのだ」


私はしばらく黙って、彼を見ていた。


——名誉。


懐かしい言葉だった。

十年間、私はその言葉のために、ほとんどのことを我慢してきた。

ケーニッヒスベルク家の名誉。侯爵家の格。社交界での体面。

それらを守るために、私は自分の朝と夜を差し出してきた。

そして今日、その「名誉」を、私を捨てた人の口から、もう一度聞かされている。


不思議な気分だった。


「侯爵閣下」

「なんだ」

「私の名誉は、もう貴方様のお屋敷とは別のところにございますわ」

「……」

「お引き取りくださいませ」


レオポルトは何か言いたげに口を開きかけた。

けれど、結局、何も言わなかった。

彼は外套の襟を、片手で軽く立て直した。

立て直しながら、その手がわずかに震えていた。

震えていることに、彼自身は気づいていないようだった。


彼は踵を返した。

玄関を出る間際に、一度だけ振り返った。

振り返った時の彼の目が——なぜか、十年前の、初めて見合いの席で、私の顔を初めて見た時の目とよく似ていた。

あの時、彼は私のことをまだ何も知らなかった。

今日も、たぶん何も知らなかった。

十年、何も知らないまま暮らしていた。


それがいちばん寒いことだった。



レオポルトが門を出たあと、私はしばらく、玄関広間の階段に座っていた。


階段の冷えが、スカートの布越しにじわりと伝わってくる。

冷たかったが、立ち上がる気にはなれなかった。

怒りで動けないのではない。

ただ、十年、立ちっぱなしでいた身体が、座ってよいのだ、ということにようやく慣れ始めただけのことだった。


「——奥様」


声がして、顔を上げた。

廊下の角に、アシェンバッハ公爵が立っていた。

彼は玄関広間に入ってこなかった。

廊下の角の、ちょうどこちらが見えるか見えないかの境目に立っていた。


「お聞きになりましたの」

「途中から、廊下を通りかかりました」

「お入りにならないのですわね」

「——奥様のお部屋ですので」


私はかすかに笑った。

玄関広間は誰の部屋でもないはずだった。

けれど、あの数分間、玄関広間は私の場所だった。

それを、この方は知っていた。


公爵は廊下の角の境目に立ったまま、続けた。


「奥様」

「はい」

「もしご決断をお急ぎになる必要があるとしたら——それは私が原因ではない、ということを申し上げておきたく」

「とおっしゃいますと」

「私の側で何か、お返事をいただきたいことがあるわけではございません。

ですから、ご自分の中で十分にお時間をおかけください。

いくらでも」


「……」


「私は急ぎません」


私は階段に座ったまま、彼を見た。


——急がない、というのは、こんなにもありがたい言葉だったのか、と、初めて知った。

この十年、誰もが私に急ぐことを求めた。夫も、姑も、招待状の返事も、料理人も、夜会の席次も、全部急いでいた。

急がない、と言ってくれた人は、母の他にはもういなかった。


私はゆっくりと息を吐いた。

吐いた息が、玄関広間の冷えた空気の中で白く見えた。


「——ありがとうございます」


ようやく言えた。

言えたけれど、まだ声は少し固かった。


公爵は軽く頷いた。

頷いてから、廊下の角から姿を消した。

彼の靴音が遠ざかっていった。

靴音はいつもとまったく同じ速さだった。

何かをこちらに押しつける速さではなかった。



午後、王宮から書状が届いた。


封蝋には王家の紋章が押されていた。

ただし、封の脇には、私的な書状であることを示す小さな印が添えられていた。

公式の召喚状ではない、ということだった。

誰かが私に私的に、何かを伝えたい、ということだった。


私は書状を開いた。


『——ヴェントラント家のご令嬢へ。

近頃、王都にいくつかの噂がございます。

ご身辺にお気をつけ遊ばされますよう。

特に隣国に関わる方々との交流につきましては、ことにご配慮を願います。

いずれ近日中に、お話を伺いに人を遣わせるかもしれません。

それまでに、お心の整理をなさっておかれますよう』


差出人の名は書かれていなかった。


書かれていなかったが、私には誰の手か分かった。

王太后陛下のお側付きの女官の字だった。

私は嫁ぐ前に、王宮で何度かお話したことがある方だった。

お側付きの方が、王太后陛下のお名前で書いた書状である、ということ。

それは、王家の内側で、私についての話がすでに出始めている、ということだった。


私は書状をゆっくりと四つに畳んだ。


——お心の整理を。


王太后陛下のお言葉として、その言葉を贈っていただいたことはありがたかった。

ありがたかったが、私の心の整理は、まだ半分もついていなかった。

半分どころか、たぶん、まだ入り口に立ったばかりだった。


私は書状を引き出しにしまった。

引き出しを閉める前に、一度だけもう一度開いた。

しまった書状の上に、私は首から下げた小さな鍵を外して置いた。

置いてから、また引き出しを閉めた。


なぜ鍵をそこに置いたのか、自分でも分からなかった。

分からないままでよいことが、ここのところ増えていた。



夕方、廊下の窓辺の紫の花が、また傾いでいた。


私はそれを、いつもの癖で直そうと、手を伸ばしかけた。

伸ばしかけて、止めた。

止めて、しばらく、傾いだままの花を眺めた。


傾いだ花は、傾いだままでも咲いていた。

咲くこと自体は、角度とは関係がないのだった。

たぶん、私のこともそれと同じなのだろう。


——直すか直さないかを決めるのは、今は誰でもなく、私だ。


私はしばらく迷ってから、結局、花を直さずに廊下を通り過ぎた。

通り過ぎる時、自分の靴音が廊下によく響いた。

今までで、いちばん響いた。

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