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夫の出世のために十年間笑顔で社交界を回した妻の、最後の夜会  作者: 九葉(くずは)


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6/10

第六話 山ぶどう酒の夜のこと

朝、目を覚ました時、私は自分がよく眠れていなかったことに気づいた。


布団を払い、身を起こす。瞼がいつもよりわずかに重い。

夢を見ていたような気がする。けれど、内容は起きた瞬間に、霧のように散ってしまった。

散ったあとに、頭の片隅に二つの文字だけが残っていた。

昨夜、瞼の裏で見続けた、あの二文字。

私は首を軽く振ってそれを払った。


「奥様。湯の支度ができております」

扉の向こうから、マルゴの声がした。

「ありがとう、マルゴ」

お礼の言葉がまた、少しだけ口に馴染んできた。

こういうことは繰り返しで覚えるものなのだ、と、私は今になって知った。


◇


朝食の卓で、マルゴが紅茶を淹れながら、声をわずかにためらった。


「奥様。今朝の噂は——少しお耳に辛うございますかと」

「構わないわ。話してくださる」


マルゴは一度、息を整えた。


「昨日の、王宮の宰相補佐の執務室のことだそうでございます」

「……」

「宰相閣下がわが国の宰相補佐の方をお呼びになり——直接、お話しになったとか」

「お話の内容は」

「『君を補佐に選んだのは、君の演説の評判ではなく、君の奥方様の差配を見越してのことだった』と。

『奥方様のいない君は、私には要らない』と」


私は紅茶のカップに手を添えた。

カップの取っ手の、ちょうど指の腹の当たる場所に、わずかな歪みがあった。

歪みの上を、親指の腹でゆっくりとなぞった。


「即日、解任だそうでございます。本日からは宰相閣下のお屋敷に、お顔を出されることもないのだとか」

「……そう」


私はそれだけ言った。


それだけしか言えなかったのではない。

それ以上、言うべき言葉が、私の中でもう見つからなかったのだ。


——あの方の演説の声が本物だったことだけは、私も知っていた。


私は紅茶をひとくち口に運んだ。

温度が少しぬるかった。マルゴがわざとぬるく淹れたのか、私が口に運ぶのが遅れたのか、自分でも分からなかった。


◇


午前のうちに、私は廊下を歩いた。


ここのところ、朝の散歩のように廊下を端から端まで、ゆっくり歩くのが習慣になり始めていた。

壁に並ぶ古い肖像画。窓辺の花。曲がり角の、絨毯のわずかなほつれ。

歩くたびに毎回、一つだけ新しいものに気づく。

今日は、廊下の途中の小さな机の上に、銀の盆が一枚置いてあるのに気づいた。

昨日までなかった。

盆の上には何も載っていなかった。


なぜここに空の盆を置くのだろう、と私はしばらく考えた。

答えは出ない。

答えが出ないことが、なんだかありがたかった。

頭の中の帳簿で、すぐに「これはこうあるべき」と裁定する癖が、ここ数日、ようやく休み始めていた。


◇


午後、雨がふいに降り出した。


予報のない春の雨だった。

庭園の薔薇の蕾が、きっとまた、ひとつ膨らむ、と私は思った。


「奥様、お庭にお出になっておられるかと思いまして、傘を」

マルゴが廊下の途中で、傘を持ったまま立ち止まっていた。

「お庭、と」

「ええ。閣下がお庭の東屋にいらっしゃいます。お一人で」


私は傘を受け取った。

受け取ってから、なぜ受け取ったのか、自分でもよく分からなかった。

ただ廊下の方ではなく、庭のほうへ足が向いた。


◇


東屋は、庭の北の隅にあった。


蔓の絡んだ柱が二本と、屋根が一枚。それだけのささやかな構えだった。

雨はその屋根を、ぱらぱらと控えめに叩いていた。


アシェンバッハ公爵は、東屋の中に立っていた。

椅子はあったが、座らずに、雨の落ちる軒先をぼんやり眺めておられた。

私が傘をたたんで東屋の中に入ると、彼は振り返り、ごく短く会釈をした。


「お邪魔してよろしゅうございますか」

「奥様こそ。雨の中を、申し訳ありません」


私は東屋の柱の一本に肩を寄せて立った。

公爵は東屋の反対側の柱に寄りかかっていた。

私たちの間には、雨の細い線がいくつも降っていた。

言葉を交わすには、その距離は少しだけ遠かった。

けれど、近づくのはなんだか、もう少し後でいい、と思った。


「……雨ですわね」

「ええ」

「春の雨は冷たくて嫌でしたの。十年前までは」

「今は」

「今は、——いえ、ちょうどよろしゅうございます」


そう言って、私は自分の言葉に少しだけ驚いた。


◇


雨の音が、東屋の屋根をゆっくりと叩いていた。

私は、自分の指先が少し冷たくなっているのを感じた。

公爵は、軒の向こうの雨の落ちる芝を見ていた。


私はためらった末に、口を開いた。


「閣下」

「はい」

「昨日、お見せくださったあの手帖の、最初のページの二文字——」


公爵は私の方へ視線を戻した。

戻したけれど、彼の目は急かさなかった。

急かされなかったので、私は続けることができた。


「もしお差し支えなければ、——いつお書きになったものなのか、伺ってもよろしいですか」


公爵はしばらく、答えなかった。


それから、雨の落ちる軒先に、もう一度目を移した。

目を移してから、ようやく口を開いた。


「……ある春の月の、ある夜会の夜のことです。

わが国の年若い外交官が、その夜、貴国の侯爵閣下のお一人を激怒させかけました」


私は息を止めた。


「侯爵閣下は、レーヴェンシュタインの北方の出身の方をお母上に持つ方で、その夜、年若い外交官はそれを知らずに、お母上の出身地の方言を軽く揶揄するような物言いをしてしまったのです。

気づいた時にはもう遅かった。

侯爵閣下のお顔の色が変わり始めたのが見えていました。

——その時です」


公爵の声は淡々としていた。

淡々としていたが、彼の指先が東屋の柱の縁を軽くなぞっていた。

それが彼の、ささやかな動揺の合図だった。


「同じ夜会に出ておられたお若い令嬢が、——その侯爵閣下にすれ違いざま、こうおっしゃったのです。

『あの方は、北の山ぶどうのお酒がお好きだと伺いましたわ。今夜のお酒の中に、確かございますわよ』と」


雨が東屋の屋根を叩いていた。


「侯爵閣下はその一言で、足を止められました。

お顔の色が戻り始めました。

お酒のほうへ向かわれた。

それから——あの夜会で、あの侯爵閣下は、年若い外交官のことをもうご覧になりませんでした。

ご覧にならない、ということがお赦しの形でした」


私は東屋の柱に肩を預けたまま、動けなかった。


——あの夜のことだ。


私は、二十一になった春の、社交界に出始めて間もない頃のある夜会のことを、ぼんやりと思い出していた。

ぼんやりとしか思い出せなかった。

たくさんの方々の名前と顔を、必死に覚えようとしていた夜だった。

誰かに、何かを教えて差し上げたような、おぼろげな記憶。

それが「山ぶどうのお酒」という具体に結びつくかどうか、私にはもう自信はなかった。

けれど、私がその頃、何かを言うとしたら、そのような、誰の役にも立たないような、ささやかなお酒の話を口にしたかもしれなかった。

私は、十年前の自分なら、そういうことを口にする人間だった、と、自分でも思った。


「……それは私だったとは限りませんわ」


私はようやく、それだけ言った。


公爵は、軒の雨を見続けていた。

それから、ごく静かに答えた。


「分かっております。

それでも、私はあの夜以来、その『お若い令嬢』のために動ける立場を、本国で作って参りました」


「……」


「貴方様がご結婚をなさっていることは存じておりました。

ですから、何もいたしませんでした。

ただ、いつか貴方様が何かをお失いになる日が、もし来てしまったら——その時のために、準備をいたしておりました。

それだけのことです」


雨の音がしばらく、二人の間の唯一の音になった。


私は東屋の柱に肩を預けたまま、目を伏せた。

伏せた目の先で、公爵の靴の先が、雨の跳ね返りでほんの少しだけ濡れていた。

彼は東屋の中に立っていながら、軒のいちばん端に寄っていた。

私の側に、東屋の中のいちばん乾いた場所を空けていた。


——なぜ、この方は。


なぜこの方は、覚えていてくださったのだろう。

私は、自分の言ったことすら覚えていないのに。


私の手のひらがじわり、と湿った。

握ってもいないのに、湿った。


「閣下」

「はい」

「私は——覚えておりませんの」

「存じております」

「申し訳ございません」

「いえ。覚えていらっしゃらないことを責める者は、誰もおりません。

覚えているのは、私だけでよろしいのです」


私は目を上げた。


公爵は、雨の軒先を見るのをやめていた。

彼の目は私の方を見ていた。

見ていたけれど、それはこちらに踏み込んでくる目ではなかった。

「私はここにおります」と、ただそれだけを伝える目だった。


私は口の端がわずかに震えるのを感じた。


——震えてはいけない。


そう思った。

思った瞬間、自分がなぜ、震えてはいけないと思ったのか、分からなかった。

震えてもいい場所だったかもしれないのに、十年で震えない癖がついていた。


私は震えを抑えるかわりに、ごく短く言った。


「——ありがとうございます」


それだけ言うのに、私は十年と半月かかった。


公爵は何も答えなかった。

答える代わりに、わずかに目を伏せた。

彼の手が、東屋の柱の縁をもう一度ゆっくりなぞった。


雨が少しだけ強くなった。


◇


東屋から応接間へ戻る道で、私は傘の柄を両手で握っていた。

片手で十分なはずの傘を、両手で握っていた理由は、自分でもよく分からなかった。


雨の中の芝の匂いが、思っていたより青かった。

私はその匂いをもう一度、しっかり吸った。


廊下の窓辺の花が、私が朝、何の気なしに直した角度のままで咲いていた。

紫の花だった。

名前は、私は知らなかった。

知らないままでよい花、というものが、世の中にはあるのだ、と、今日、初めて思った。


◇


その夜、私はベッドに入る前に、首から下げた小さな鍵を掌の上に載せた。


母が、嫁入りの朝に私の首にかけてくれた、古い鍵。

「お前のものを、お前のためだけにしまっておく場所を、必ず一つ持ちなさい」

母の声が、十年ぶりに耳の奥ではっきりと聞こえた気がした。


鍵を握った。

握ってから、私はふと考えた。


——その「お前のためだけの場所」を、もう一つ増やしてもよろしいでしょうか。お母様。


問いかけは、誰にも届かなかった。

届かなかったが、私はその問いを口に出した自分のことを、責めなかった。


責めなかったことが、たぶん十年で、いちばん大きな変化だった。


私は鍵をネックレスに戻し、襟元の中にしまった。

布団をかぶり、目を閉じた。

雨はもう止んでいた。


それでも、瞼の裏で、東屋の屋根の雨音だけがしばらく続いていた。

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